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絶句。あの奥只見が…泊まって応援を

 夏コミお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
 来場者として、そして出展者として多くの方々にまた出会え、新刊は本・小冊子ともに好評。既刊も完売1種類・残部僅少3種類となりました。
 ですが、あえて御礼をそこそこにして、落ち着いたところで書きたかったことを。

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 会津盆地から新潟県境へと向かう、只見線沿いの只見川流域。
 只見川の水鏡に映る森と山、夏野菜に豪雪、掛け流しの湯が湧く一軒宿、そして非冷房車・タブレット閉塞の只見線…それだけがある場所。
 お昼は会津宮下や会津川口の駅近くの大衆食堂へ。なぜかラーメンやソースカツ丼が名物で、絶品。食堂や宿の方々は旅行者にまめに声をかけてくれ、いい意味の「町自慢」もたくさん聞けます。
 はじめは「疲れたからボンヤリするため」だけに目指した場所ですが、それを果たしつつ、出歩いて景色や食べ物や人情にも触れること2年あまり。読まれた方はご存じのとおり、昨夏・この夏には小説にも使わせていただきました。
(2010年8月から10月にかけての記事もご覧下さい)

↓左:会津川口到着間際に。川口の町と駅は本当に川のそば。 右:1月の早戸駅。早戸温泉へは徒いて10分。
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↓川岸の温泉宿。風呂は只見川、客室は左手の渓流に面する。夕食には当地の川の魚貝や山菜・根菜が。
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↓左:会津宮下駅近くの食堂で名物の「焼きそばラーメン」 右:スキー場じゃない自然の雪原。会津桧原駅付近で。
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 この夏も7月の24日から27日にかけて、会津宮下駅より至近の温泉宿(上写真)を根城に当地でのんびり。
 原発事故の風評被害で旅行客の入れ込みがやや落ち込んでいるようでしたが、浜通りは百数十キロ先で、もちろん何事もなし。
 ただ今回はえらく天気が変わりやすくて、午後や夜中にザーッと降ることが多いなあ、とは思っていたのですが…。

 …そのわずか三日後・7月30日に、「新潟・福島豪雨」。
 「新潟・福島」の福島、そして「水力発電地帯の被災で電力需給がピンチ」の水力発電地帯はこのあたりのことです。
 只見川の増水にダムの緊急放水が加わって氾濫、川岸の形は変わり、いくつもの村が津波の被災地のようになってしまいました。
 詳しくは以下のブログを、7/29あたりまでご覧下さい。

金山町観光センター「OASIS」ブログ
 会津川口駅を擁する町。ブログの主は駅構内にある町の観光センター。
 8/9の記事にある町民氏の記録は必見。比較のため被災前の写真も多数掲載され、事の重大さがよく分かる。

三島町観光協会ブログ
 会津宮下駅付近を中心にした、拙作『エッちゃん』『福島・会津、スケッチ日和』に登場する町。
 上記・金山町民氏の記録にも「栄光ホテル」として登場する「栄光舘」が、私が拠点にし、作品にも書いてきた温泉宿。

 …絶句。
 ついこの前もに見て触れて、ずっとあると思っていた緑の山河や穏やかな山村が…。
 今は、ただただ復旧を祈ります、としか書けません。
 こんな時こそ行ってお金を落として復旧支援、といきたいのですが、この前ようやく時間を作って行ったばかりで、私にはその暇がありません。

 現時点でなお休業中の各種施設や交通機関は、復旧に時間がかかるものが多いようです。
 が、もちろん営業している温泉宿などもあり、三島町については旅行での滞在も十分可能な様子。川沿いの眺めは変わり果て、只見線も会津宮下までになってしまっていますが、自然に囲まれた場所でのんびりしたい方は、ぜひ当地へ。
=営業している宿で、おすすめのもの=
 会津宮下駅から町営バスで早戸温泉へ。「つるの湯」(湯治場タイプの宿泊施設あり)「竹のや旅館」

 一方、金山町についても営業中の温泉宿はあり、8/16より会津宮下~会津川口の代行バスが開通していますが、今はまだ復旧作業のボランティアを要している状態のようです。
 ボランティアに関心のある方は金山町役場へ。ボランティアでも宿泊先は各自で取る必要がありますが、それ向けに特別料金を設定している宿もあるとのこと。
=営業している宿で、おすすめのもの=
 会津川口から路線バス・乗合タクシーで南へ…玉梨温泉・「恵比寿屋旅館」。同じく西の川沿い・湯倉温泉の「鶴亀荘」


 気が向いた方はぜひ「泊まって応援」を。
 私も必ず、また行きます。

只見線往還記~『エッちゃん』の世界・4

【前回の続き】

★4.会津若松の街…若松駅と鶴ヶ城と白虎隊以外

 前にも書いたけれど、会津若松駅は街の中心ではなく、北の街外れにある。
 まあ、地方都市の代表駅はたいてい街の外れだが、この街の場合は、より中心部に近いJRの駅が別にある。
 私が途中下車した、七日町がそれだ。会津若松の市街地の西端。中心街の「神明通り」が徒歩圏に収まり、鶴ヶ城こと若松城趾へも、大都市近郊の感覚でだが歩いて行ける。

 若松駅を出てここに着く列車は、只見線方面・会津鉄道方面を合わせて一日25本。時間によるが、郡山から来る磐越西線との接続は悪くなく、市内を周遊するバスも七日町に立ち寄る。けれども、わざわざ待って乗り換えて一駅だけの乗車になるし、その前に観光向けの案内が若松駅起点になっているので、結局、旅行客の多くは若松駅に降り立つ。
 ただ、この七日町駅には、わざわざ見に行かないまでも、一度立ち寄る価値はあると思う。
 
 駅ができた昭和初期を意識したらしい、大正浪漫調の駅舎。
 もちろん近年にそれらしく作った建物だけれど、内外装とも、サッシに化粧板を貼るなどしてレトロ調に仕立てているんじゃなしに、木で作るべき部分は本当に木で作ってある。かたや、中の通路は黒っぽい石畳で、壁の木部は地色の焦げ茶一色。本物の戦前建築の駅舎では、床にはコンクリートを流し、壁や柱はむしろ明るい色に塗ることが多いけれど、これはこれでいい。
 見た目に落ち着きがあって、夏は涼しげな、雪景色の中では暖かそうな居ずまいだ。
 ホーム1面・線路1本きりの無人駅だが、「駅カフェ」という喫茶店兼土産物屋が駅舎に同居している。店構え(左写真の左側)を見て分かるとおり、駅舎の雰囲気をぶち壊しにするものでは決してなく、焦げ茶色ベースの店内に机椅子がゆったりと並ぶ。土産も箱入り・包装つきの「銘菓」が山積みということはなく、工芸品や、土地で食べられているらしい飴菓子の小袋などがおとなしく置かれている。

 さて、もう一両にもっと大勢乗っていたのか、車内で見た以上に高校生の下車は多く、平日とはいえ夏休み中の昼前なのに、つごう一クラス分ほどの高校生たちが駅を出ていった(ただし出迎えの友達も何人か入っている)。駅舎裏手の駐輪場から自転車を出してくる子もいる。
 駅の徒歩圏に県立・私立1校ずつ、東へ少し行った場所に県立2校、(西若松駅の方が近くなるが)南東の若松城趾の裏手に県立2校…と、市内の高校の大半が七日町とほぼ同じ緯度か、それより南に位置する。うち徒歩圏の県立高校が『エッちゃん』の通学先なのだが、他の各校も古くからの学校で、そういった高校の集まり方を見ても、七日町が市街に近いことが分かる。ただし磐越西線沿いの方が只見線・会津鉄道沿線よりも人口が多く、したがって若松駅からバスや自転車という流れの方が多いはずだから、むしろ「この程度の数で済んでいる」のだろう。

 以下、市内めぐりに出かけるが、地域のバス会社「会津乗合自動車」の路線図が本稿の地図がわりなるので、こちらにリンクを貼る。またバスは後述のように、市街部を歩くだけの場合でも存外使いでがある。



 高校生たちを見送ってから、私も駅前の通りを東へ。神明通りまで、まっすぐにバス停2つ分ほど歩く。

 七日町駅を出てすぐの景色。ビルこそないけれど両側にびっしり建物が並び、商店も混じる。写真中央のような年季の入った木造家屋や板塀が、ちょこちょこ見つけられる。写真の建物は現役を退いて観光向けなった商家跡だが、現役のこういう建築も多く、ところどころで交差する細い通りを覗くと、見る機会はさらに増える。

 カメラは進行方向と逆だが、だいぶ中心街に近づいたところ。このあたりから神明通りのすぐ手前にかけて、洋風の古い建築も現れる。手前も奥も現役の洋服店で、手前の方は屋号も「白木屋」となんだかレトロ。
 この間を歩くのが面倒だという向きには、「ハイカラさん」という市内循環バスが日中30分ごとにある(上述の路線図を参照)。
 ただ、このバスは反時計回りに走っていて、白木屋前→七日町という移動はできるものの、その逆はできない。でも路線図にあるとおり、七日町を出てからこの通りのすぐ南側を東へ走るので、近くで下車して北上すればよい。
 ちなみにこの路線図は、近接する路線・バス停同士の位置関係については、非常に正確である。


 さらに東へ向かうと、ほどなく神明通りにぶつかる。
 『エッちゃん』に書いたとおり、デパートや各種飲食店、書店にレンタルCD店、洋服屋、映画館、ゲームセンターなどが集まる市内随一の繁華街だ。大都市発のチェーン店も多く見かけ、ツタヤでCDを物色し、プロントでコーヒーを飲み、某理髪チェーンの店で髪を切って…と、私が東京でしている消費行動と全く同じことができてしまう。
 この南北の通りは幹線国道でもあり、そのせいか車道は広く、車通りも多い。その両側に高い建物が並ぶので、余計に大きな都市を思わせる。
 左右の細い道に入ると、居酒屋やカラオケ店、ボウリング場なども見えた。事務所用のビルやビジネスホテルといった仕事向けの施設も、すぐ西隣の通りに存在する。
 もっとも、そんな眺めは300メートルも続かず、その先は南北とも空き地がチラホラ見える住宅地なのだが、それでも、たとえば瀬戸内海沿いなどと比べると、人口約10万の都市の中心街としては大きく見える。

 しかし、いまや地方都市の中心街では当たり前に近い話だが、ここも人通りが今ひとつ頼りない。あくまでも「瞬間」だが、下のような淋しい写真も撮れてしまった。

 初めて来たのは平日で、そのせいかと思ったものの、その次に行った祝日も大差がない。夏休みの日中について言うと、むしろ昼頃に高校生が通る分だけ、平日の方がやや多めだった。
「……………」
 初回と二回目、この人通りのなさを見てから只見線に乗った。もちろん只見川沿いの村々には、それよりはるかに誰もおらず何もない。それを目で確かめ、やがて『エッちゃん』を書き始めたのだが、
「いくら田舎から来た子だからって、『エッちゃん』がこれを見て、ここでの暮らしに驚くだろうか…?」
神明通りの交通量を思い出すたび、感覚的な引っかかりを覚えていた。
 でも、いったん書き終えたこの夏、初めて泊まりがけで村の何もなさを味わって戻り、ふらりと通りの喫茶店に入ってアイスコーヒーを頼んだ瞬間、
「ふらりとアイスコーヒーが飲める!」
そのことに感激し、同時に引っかかりがスッと消え失せた。笑うなかれ、宮下の森の中にあった喫茶店(前回参照)どころか、同じ十万都市でも喫茶店やスタンドコーヒーにありつけない街だって本当にある。会津若松は都会だ、大都会だ。
 それを抜きにしても、「シャッター通り」と呼ぶにはあまりに多くの店が開いているし、人通りも絶無になることはない。もう少し遅い時間、たとえば夕方のこの通りを見たことはないから、私が見た以上に実は潤っていることを期待。

 ちなみにアイスコーヒーを頼んだ喫茶店は、この、土蔵に手を加えて作った店。神明通りから西側にヒョイと入った一角の、薄暗いのを逆手に取ったシックな店内。頼んだところでランチセットがあるのを見て、昼食にする。建物は土蔵でもメニューは普通の喫茶店と変わらないが、玉子を落とした丼入りのハヤシライスがうまかった。
 もちろん、こんな風に手を加えられていない土蔵も、七日町からこの付近までの街中をウロウロすると見られる。古い建築は「ハイカラさん」の大町二之町~田中稲荷神社前の沿道に多く、一日乗車券(後述)を買って、めぼしい眺めを見つけ次第降りるとよさそうだ。

 さて、中心街から若松駅までは、徒歩も不可能じゃないけれど少々距離があり、見るべき物もない。
 前述のバス路線図は七日町と同じような距離に書いてあるが、実は相当に違う。
 が、その路線図を見ると、各地からの若松駅行きの路線が「神明通り」で束になっていて、このため繁華街の中ほどにあるバス停にいると、10分とおかずに若松駅行きが来る。
 これが、なかなかに使える。たとえば、後で書くように、若松城趾から中心部までの道にも見るべき町並みがあるのだけれど、若松駅までは歩けない。でも神明通りまでなら徒歩圏だし、買い物や一休みの選択肢は駅前より増える。
 一般の路線バスと「ハイカラさん」共通の一日乗車券は700円。路線バスの初乗り(170円)だけなら5回、「ハイカラさん」(200円)なら4回乗れば元が取れる。発売場所など詳細はこちら




 冬。夜通し雪が降った朝、東山温泉の宿から。
 名前のとおり、会津若松市の東にある山裾。冬に来た時はそこに泊まり、市内と只見線の会津坂下までを訪ねていた。
 奥座敷と呼ばれる温泉街…そう言うとぜいたくに聞こえるが、「楽天トラベル」などの宿泊予約サイトを使うと、朝食つき6,000円ぐらいから、夕食をつけても9,000円程度からで、そこそこの旅館に泊まれる。
 若松駅も市街地も、バスじゃないと行けない距離。ただ、温泉街の入口に「会津武家屋敷」という観光名所があり、そこの観光案内所で前述の一日乗車券を売っている。また、私が泊まった宿や他のいくつかの旅館でも売っており、いずれにしろ東山温泉を出るところから有効に一日乗車券を使える。

 前日までに市街西側と会津坂下までの只見線を見終えていた私は、市街の東端に回り、そこから西へ、つまり中心街へ向かってみることにした。途中で南下すれば、若松城趾にも寄れる。
 路線バスで若松駅まで出て、クランク状に南東へ進むバスに乗り継ぎ、「徒の町」というバス停で降り、これと思った通りを西に。
 振り返ると、右の写真のように山が近い。街の西側は開けていて会津坂下まで平地だったが、東側を見ると盆地にいること、そして内陸の地方都市にいることが意識される。ただし前を向く分には、道の両側に雪が盛り上がるとはいえ、東京近郊でも見るような住宅地。地図によれば、この道はまっすぐ中心街の南端まで続く。

 住宅地を7、8分歩き、左手に高校を見て、それを過ぎると、ちょっと雰囲気が変わってくる。

 両側に板塀や石垣が増え、古いお屋敷や、お屋敷とまでは言えなくとも由緒ありげな木造家屋が点在する。忘れた頃に人か車が通るだけの道。冬支度をした松の枝から、雪が落ちる音。そういえば、塀越しに枝を伸ばして道を囲む木々が増えてきた。

 もう少し歩いて、これまた大きな家だなあ…と思ったら、料亭。さらに歩みを進めていくと、同じような割烹料理店が見え、その先は小料理屋などが中心の古めかしい飲み屋街。地図によると市役所が近く、となると会津地方を管轄する官庁も遠くないことが想像できる。「公費で官官接待」という一昔前の話題が思い出されたが、地方都市では、ある程度の役人や校長クラスの教員になると、自腹でする宴会もそれなりの場所で開かないと地域社会から批判されるとかで、質素に済ませればいいものでもないらしい。ちなみに普通の飲み屋街は、別の東西方向の通りにある。
 このあたりで左へ、つまり南へ曲がると、若松城趾方面。

 鶴ヶ城。このサイズでは見えづらいと思うが、雪化粧も加わって、なるほど美しい。

 ただ、周囲の町並みや木々が美しさを引き立てていることを、忘れたくない。
 少なくとも私は、レンガ塀と水路と街路樹に挟まれた歩道の方に目を惹かれる。城跡には入らなかったけれども、透明な水が流れる水路や雪に包まれた街路樹に見とれながら、城の向かいまで行って戻ってきた。

 東西の通りに戻ってまた歩き、やがて市役所の前に。

 写真がヘタで申し訳ないのだが、「こういう建物が仕事場だったらなあ…」と思うぐらい、見事に私好みな戦前の洋風建築。なぜ平日だった前回に寄らなかったのか後悔するも、現役なのはうれしい。
 十万都市の市役所にしては小さく見えるが、この角度から見えにくい位置に正面の倍ほどの奥行きがある。それでも手狭そうだけれど、周囲に分庁舎めいたものはなく、基本的にこの建物一つで本庁の機能をまかなっているらしい。
 同じ通りにある電力会社の営業所をはじめ、この先にも古い洋風建築が散見される。そういえば低い建物にも商店が混じり始め、何より人通りが増えてきた。神明通りは、もうすぐ先だった。

 その神明通りに入る本当に目の前で、「蒲生氏郷公墓墳之地」とある路地【右写真】を右手に見つける。奥の高い建物は神明通りに面したビルで、要はメインストリートのすぐ裏手だ。
「墓ってことは、寺があるんだよな…でも、まさかこんな繁華街に…」
 くぐるように歩いていくと、ぽっかりと、雪に染まった寺の境内があった。すぐ西隣にビルの谷間があり、さかんな車通りが見えているけれど、なぜか音は届かず、別世界。逆を振り返ると一角に盛り土、その上に灯籠みたいな墓石がある。
 会津若松の大名家というと戊辰戦争のあの家が思い浮かぶが、ここへ商工業を持ち込んで街にし、会津若松と命名したのは、その前にいたこの人だった。滋賀県日野、三重県松阪市に続く、この人の最後の「商業都市創出プロジェクト」。だとすると山の上の荘厳な寺院よりも、中心街のすぐ隣の方が墓所にはふさわしいかもしれない。
 この寺には他にも何かと由緒があるらしいものの、そのことは省く。ただ、「すぐそばにメインストリートのにぎわいを見ながら、ここは静かな寺の境内」というギャップがちょっと面白い。



 以上、夏の旅・冬の旅を混ぜてとりとめなく書いてきたが、東京への帰りは毎回、会津若松17:12発の「あいづライナー」。
 昼過ぎ以降、極端に遅くならなければ何時でも構わないので、「じゃあ乗り心地のいい列車で」(第1回参照)という基準で毎度この列車になる。
 若松駅にはその1時間半から2時間ほど前に着いて、駅の食事処でとても早い夕食。これも毎度同じ。
 これは、おいしい当地の郷土料理が手軽に食べられるからだ。
 
 おつまみ向けの二品。単品で頼んでも400円前後、これらが必ず入るセットメニューもあり、それならもっと割安になる。
 左は棒鱈の甘露煮。棒鱈は鱈の身を細く切って氷点下で干し、包丁で簡単に切れないぐらいカチカチにしたもので、北海道産だが主に関西で食べられる。大阪以外で棒鱈を見たのは初めてだけれど、よく考えたら保存食だから、内陸部で郷土料理になっていても不思議はない。歯ごたえがあっておいしいが、もちろん水で戻して煮ているから適度にである。
 右は、ニシンの山椒漬け。只見の山奥に続き、ここでも山椒。食事が進みそうな甘酸っぱさで、見た目よりも食べでがある。そういえば、ニシンも関西でよく出てくる食べ物。
 …それらを肴に二杯ばかり飲んで、蕎麦屋さんということなので、食事はお蕎麦にする。
 お蕎麦は冷たいのにして、一緒に温かいものを一品。

 こづゆ。京料理の輸入っぽいが、醤油だしの中に、大小の里芋、椎茸、にんじん、白滝、お麩…と、とにかく一杯入った温かい料理。お椀がやや小さいものの、食べでは十分。本来はお祝いの席で出る料理らしく、となると、こんなに手軽に食べられる店は他にはないかもしれない。

 適度なほろ酔いとともに会津若松を出て、夕暮れ(冬はすでに夜だが)の磐越西線を東へ。
 うっすらと眠気がある一方で、アッと言うような車窓もなければ、地形にかかわらず走り方に変化もない。
 でも、なぜか眠れたことは一度もない。中途半端な眠気は気分が悪く、一眠りしてスッキリしたいのだが、通過駅の木造駅舎に目が向いたり、停車駅で行き違いがあるかないかを気にしていたりする。木造駅舎も単線も、私にはまだ非日常だからだろうか。座席も東京の通勤電車とは違う。
 18:11に郡山。連絡改札を挟んで階段を二回上がり、18:34発の「つばさ126号」に。複線になったし駅も現代的になったけれど、まだ眠れない。駅の間は広々とした田畑だったり、その中を川が流れていたりしていて、これも東京にはないからか。そういえば新幹線の速さも只見線の遅さと同じぐらい非日常だし、リクライニングシートもそうだ。
 大宮の間近になり、ゆっくりになった列車が大都市圏を感じさせる街と駅へ近づく。
 と、ようやく眠気が強まってくる。
 でも、もう寝ちゃいけない。東京駅まで20分あまり。乗り過ごすことはないが、寝入りばなを叩き起こされるのは後味が悪いし、あわてて降りると忘れ物をする…でも、ああ、どうしようもなく眠い…座席が非日常?知らない…。
 19:56、東京到着。毎回無事に起きて下車できているが、眠る寸前みたいな状態で足を進めねばならず、さらに混んだ通勤電車に乗らなければならないのは非常に苦痛だ。
 旅のご感想をどうぞ、とここで聞かれたら答えはこうだ。
「ああ、最悪…」
 さんざん楽しんでおきながら、なんという身勝手で短絡的な総括。
 蕎麦屋で飲まなければいい話だが、次に行った時に、そうするつもりは全くない。
 そして、このあと眠って目を覚ますと、またすぐにでも会津・只見の土地と鉄路…「『エッちゃん』の世界」をめぐりに行きたくなっている。

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【おわり】

只見線往還記~『エッちゃん』の世界・3

【前回の続き】

★3.宮下の駅と町・後編

 さて、町内めぐりの途中でも書いたが、私は只見川を橋の上からではなく、「横から」見たかった。
 そして川は町のすぐ北側を流れているから、町内を北へ進めばすぐ、あの広いゆったりとした流れを小高い位置から望めるはずだった。
 でも、結局どこから北へ向かっても、森か丘が立ちはだかってしまう…日帰りで立ち寄った初回は、そのまま若松へ戻ってしまった。



 二度目のこの夏は宿を取り、夕方に宮下へ着いた。
 駅前からの道を、突き当たりで左折すると町の中。だが宿は、まだ行ったことのない右手の方にある。
 ひっそりした通りを東へ進み、三叉路を通り越すとすぐ、聞いていたとおりに左斜めに細道が出ていた。
 そこへ入るや道の両側が、木立に囲まれた墓地に。一瞬ゾッとするが、よく見ると家ごとの墓に寄り添うようにして、かなり小ぶりの苔むした墓石がひしめいている。一人の戒名だけが刻まれ、側面に「文久」「安政」といった年号。言葉どおりの「先祖代々の墓」ということなのだろうか。
 やがて車一台分ほどの舗装道路に合流して、曲がりながら下り坂になる。と、その先に…

 木々に混じって、木の葉とは別の緑色が見えた。小走りに坂道を下る私。

 只見川だった。ゆったりしたエメラルドグリーンの流れを、横から静かに見下ろす眺め(写真は翌朝の撮影)。
「これが見たかったんだ…ただ、もう少し広がりがほしいかな…」

 ここまで、少し早歩き気味な私の足で駅から8分ぐらい。
 道はそこで鋭角のカーブになっていて、それを曲がるとすぐ、下に細長い二階屋が見える。
 これが今日明日とお世話になる「栄光舘」という宿だ(写真上部の建物…翌日に川の向こう側から)。

 南からの支流が只見川へ合流するところにある、一軒きりの温泉宿。右手に見える坂が下りてきた道で、宿で行き止まりになっている。
 外観、それに客室は旅館というより民宿のそれだけれど、共用トイレの個室は新しめの洋式に変わっている。そしてこちらにあるとおり、廊下や浴室はなかなか小ぎれいで、渡り廊下なのも涼しくて気分がいい。冬は寒かろうが、何十メートルもあるわけじゃないし、風呂上がりならいい気持ちだろう。
 その風呂は、掛け流しだという温泉。だいぶ熱いが、言われたとおりに脚だけを1分、腰まで1分浸かってから体を沈めると、染み入るようないい湯になった。そして二方向に連なる広い窓からは、只見川。開けて、網戸越しに風を感じることもできる。宿や立ち寄り湯は他にも若干あるものの、川を向いた窓があり、かつ開けられるのはここだけのようだ。

 夕食は、当地や付近の産らしい根菜や肉、山菜。この日は「土用の丑ですから」ということで真ん中にはウナギが鎮座しているが、もう一日は川魚だった。かと思うと刺身の小鉢がチョコンと出てきたり巨大な海老フライが横にデンと居座っていたりして、とにかく満足。
 この温泉と食事、そして一軒宿の静けさがあるなら、9,600円は高くない。

 さて、その食事場所は広間で、隣の客との間に古めかしい木の衝立が一つ。初日は私を入れて4組の客があったが、私の一番遠くに座る老夫婦1組の他は、みな一人客。
「只見線のお写真ですか?」
 飲み物を持ってきた宿の女性が、「ご旅行ですか?」ではなく、いきなりこう聞いてきた。
「…ええ、まあ」
 町の中をウロウロするためだ、とは言いづらく適当に答えたが、でも駅だとかも撮るんだから全くウソでもないよな…と思いつつ私は言葉を継ぐ。
「でも、乗ってもいいもんですねー。緑がきれいで、窓が開いて涼しいですし」
「はぁい。でも遠いでしょう」
「ええ。でもいろいろ珍しくて、あっという間でした。けどたしかに、会津若松から一時間半ですもんねー。それに本数もないし…」
…と言った瞬間、書き終えたばかりの『エッちゃん』の設定にフッと不安がよぎった。詳しく書くのはよすが、もし、その不便に耐えて若松でもどこへでも日々通学するのが普通だったら、話が根底から成立しなくなる作品なのだ…あくまでも念のために、私は尋ねる。
「…これだとやっぱり、たとえば若松の高校へ行く子は、みんな下宿になっちゃいますよね?」
「いぃえ、通う子もいますよ」
 えぇ?!
「一番の汽車(筆者注:宮下5:57発)に乗って、体力が続く限り…っていう感じですかねぇ…」
 やばい…どうしよう、来月の新刊なのに…
「でもクラブもできないし、それに雪で止まりますから、やっぱりほとんどの子は…坂下の学校なら町のバスで送るんですけど…」
 …よかった。その程度なら何とかごまかせる(笑)。ホッとさせてもらった上に、話の続きで雪の時期のことをいくつか聞くこともできた。
 ともあれ温泉宿なのと同時に、ここは撮り鉄・乗り鉄の宿でもあるらしい。加えて河川や道路の工事関係での出張客もあるようで、一人客でも普通に迎え入れてくれる。
 三つ向こうの老夫婦も、宿の人との話を耳に挟むに、ご主人に鉄道趣味の気がある様子。私も今回は町がメインとはいえ、その趣味がなければこの土地を知ることもなかった。残る一人客2人はその席で会話は聞けなかったものの、うちお一人とは風呂場でその種の会話が成立し、もうお一方も翌朝それらしき装備で出かけるのを拝見した。
「撮り鉄の宿」
 などと書くと、騒がしく群がって一般の旅行客に「邪魔だ!」と叫ぶような手合いの巣窟みたいに思われてしまいそうだが、そのタイプの趣味者の多くは、コンビニがなく、携帯電話の電波も怪しいような場所で夜を越せない方々なのでご安心を。
 それで思い出したけれど、私の携帯電話はこの宿どころか、宮下の駅も町もすべて圏外。他社の携帯電話でも「場所によっては通じない」程度のことはあるかもしれない。



 翌日の昼までが、前回書いた町めぐりの二回目だった。
 その時に出てきた西の町外れの橋の他に、宿の近くにも、川を渡る橋がある。地図によると、渡った向こうで突き当たる道が少しの間、川のごく近くを走っていた。もしかすると、そこからも川を横から見下ろせるかもしれない…。

 昼に駅の撮影をした後、さっそく行ってみる。
 「メイン通り」を東へ向かい、昨夜はスルーした三叉路を左折する。道はすぐ右に折れ、少し下ると宮下大橋という橋のたもと。
 だが、ここの向こう岸も、橋が出ている部分以外は木に覆われている。向こう岸から川が見えるか微妙だ。
 そして「大橋」と言うだけあって、こちらも(私としては)なかなかに高い。
 でもせっかく来たし、徒歩で探索できる場所はもう他にないので、躊躇しつつ渡ってみる。
「うわ…怖い…」
 たいていの道と同じく、ここでも歩道は端っこだ。車が通る様子とセンターラインがないのを幸い、真ん中を早足で歩いていく。

 しかし渡り終えて川下の方(東)へ曲がるや、繁る木の葉に切れ目を見つけた。

 そしてほどなく、この展望。山の間をゆったりと下る川。水に映る、山の緑と空の青…それを、高さを恐れることなく、鉄橋を渡る間だけという時間制限もなく、じっと見ていられる。

 正面を向くと、わが宿が。二階屋がこの大きさになることで川幅を想像されたい。

 さらに先へ進むと眺めは隠れてしまったが、ひょんなことから、川へ向かって下りていく獣道みたいな道を発見。足下と、腰まである両側の草に注意しつつ降りていくと、朽ちかけた小さな桟橋とボート、そして間近によく澄んだ川の水面。
 
 左写真が川下側。左奥に見える橋は、前々回に列車が渡る写真を載せた只見川第二橋梁(その写真もこの時に撮影)。
 右写真が川上側で、赤い橋が宮下大橋…高いかどうかは各位の判断を待つ(笑)。
 …もしかすると宮下周辺にないだけで、他の場所にはいくらでも楽に降りられる岸があるのかもしれないが、「只見川の岸辺」からの写真というのは、ちょっと珍しいと思う。

 さて、橋を渡ったことで、もう一つ発見が。
 岸へ降りる場所に行く途中で、左手に建物が見えてきた。それも一軒じゃなく、かつ住まいとも工場とも違うような感じ…。
 
 いまここカフェ…そちらを見るとたしかに、テラスのある喫茶店らしき店が。なかなかおしゃれで、まわりの景色にも合っている。
「そういえば、喉も渇いたな」
 そう思って近寄ってみると…
『営業日 木・金・土・日』
 ちなみにこの日は、それ以外の3日間。どうりで人気がないわけだ。まあ、この道沿いに15分以上いて車も人も全く見なかったから、ここじゃ毎日営業は無理か…。
「ただ、日を限ってるってことは、木、金はさておき、土日は観光客がそれなりに通るのかも」
 …あまりその可能性は高くなさそうだが、町の人々のためにそう信じたい。
 ちなみに「いまここカフェ」の看板の奥に見えるのは、木工品の販売や制作体験のための施設だが、やはり今日は閉まっていた。

 さらにその奥には「ふるさと荘」という、いわゆる公共の宿(写真左手)。そしてその先の赤い屋根(右手奥)が、町でやっているらしい日帰り温泉+食堂。この2つは、この日も営業していた。
「宿はさておき、日帰り温泉や食堂を、こんな誰も来ない場所で週前半の平日に…」
 実はそう思って日帰り温泉に入り、そこで建物の脇から道が出ているのを見つけたのだが、意外にもカウンターに湯上がりの客がいて、中のおばちゃんと話していた。周囲に人家はないが、ここはクルマ社会。料金表を見ると町民料金と一般料金がある。銭湯みたいな機能も持ち、それもあって存在できているらしい。案の定、食堂の方に人気や食べ物の匂いはなく、名物の「地鶏ラーメン」が唯一のメニューになっていた。
 お金を払い、おばちゃんに尋ねられるまま立ち話をしてから、階段を降りて浴室へ。日帰り温泉といっても露天風呂もサウナも打たせ湯もなく、窓も開かない屋内の風呂に入るだけだけれど、かわりにここも掛け流しだそうで、例の方法で熱いお湯に入る。公共の宿の風呂も似たような感じらしい。

 前に「いくらなんでも何もない」と評したが、実は川の反対側にちょっとした「観光施設ゾーン」が作られているのを見つけた。
 ただしもちろん、それらの流行らない施設たちは、この「何もない」という評価に何らの影響も及ぼさない。でももちろん、同時に書いた「数日ボンヤリするのにちょうどいい町」という評価も、私の中で変わることはない。



 その晩も泊まって、翌日が帰る日。
 9:14発の上りで、若松へ戻る旅程。7時半から食事をし、サッと一風呂浴びて、8時半過ぎに宿に別れを告げる。意外なことに朝食は7時半が一番早い時間で、その前の7:33の上りや7:35の下りに乗りたい時は、前もって言う必要があるようだ。
 駅まで10分ほどだから、もう少し遅く出てもいいのだが、この列車は下りと行き違いをするため、発車の20分近く前に駅に着く。そのあたりから駅の様子を眺めていたかった。7時台のそれとともに一日2回きりの、貴重な行き違いシーンだ。

 登校時間帯から外れているにもかかわらず、駅には案外な人数がいた。といっても10人もいないが、昨日の昼よりはずっと多い。ちなみに今待っている9:14発の次が、昨日見た13時ちょうどの列車になる。
 私服の高校生らしきお兄ちゃん1人を除けば年齢は高めで、この土地の人たちのようだが、大きめの荷物を持った旅行客らしき人も混じる。すでに改札の柵は開けられ、一部の人はホームに出ていた。

 9時少し前に上り列車が入線。到着を見守る駅員氏は昨日と同一人物なのだが、昨日の昼間と違って、手にタブレットキャリアがない。下り列車が会津坂下方面から当駅へ向かっているから、「当駅~会津坂下」のタブレットはまだ渡せないのだ。
 一方、「会津川口~当駅」のタブレットを持ってきた運転士も、それを駅員に渡しながら、今朝はホームに降りてきた。

 当駅までのタブレットを受け取った駅員(左)と談笑しながら、降りた運転士(右)も駅舎に向かってくる。そして二人とも事務室の中へ。朝に東を向いた、非冷房車の運転席…15分以上も止まったままなら、一休みもありだろう。もしかすると、勤務割りに「休憩時間」として正式に組み込まれているのかもしれない。
 駅にはタブレットの仕事があるので、有人駅でも車掌が下車時の改札をする。その車掌も、降車客1人の改札を済ませると事務室へ。
 窓ガラスの内側で駅員が、閉塞機のボタンで会津川口駅と合図を交換してから、受話器を取って話している。当駅行き違いの場合、回収したタブレットは閉塞機に収めず、かわりに「そのまま反対列車に持たせる」という連絡をする。交替要員(駅員は基本的に朝交替の24時間勤務)なのだろう、赤帯の制帽をかぶった駅員がもう一人いて、列車が着く前から窓口の応対をしたり改札の柵を守ったりしていた…職員の方も、この時間は少しにぎやかだ。
 駅にいた客は、全員上り列車に乗り込んだ。こちらも一連の動きを眺めた後、一度乗って座席に荷物を置くも、すぐにホームに戻り、木道の構内踏切を渡って下りホームへ。

 下りホームは野ざらしだが、レトロ好きにはたまらない感じの待合室が一つ。
 木道を渡ってきた駅員が下りホームの一番前に立ち、会津坂下方向を見守る。
 やがて坂下側の森に下り列車の顔が現れ、ゆるゆるとホームに入り、上り列車と並んだ。カランカランカランカラン…旧式の鈍いアイドリング音が交錯する。
 
 駅員は、今度は手にタブレットキャリアを持っていた…先ほど回収した会津川口~当駅のタブレット。坂下~当駅のタブレットを受け取ってから、それを差し出す。その手前に、車内を駆けてきた車掌が飛び出てきて下車客の改札。
 タブレットを交換し終えた駅員は、やや急ぎ気味に木道へ引き返す。私もそそくさと上りホームへ。
 駅員が戻った事務室に、会津坂下からの応答を伝える「カァン、カァン、カァン」というベルの音。合図と「下り到着、タブレットは上り列車に持たせる」旨の連絡を済ませ、また下りホームへと向かう駅員。その姿を目に入れてから、私は上り列車に乗り込んだ。
 向かって右手の隣で、下り列車がエンジンをうならせて発車していく。ややあって今度は左手のホーム上を、駅員が列車の先頭へと急いでいった。手にはさっき下り列車から受け取った、会津坂下までのタブレット。そしてほどなく笛が鳴り、床下からエンジン音が響き出し、じりっ、と前へ進む感覚。さようなら会津宮下駅、宮下の町…開いた窓と鈍い加速が、私の知らない「汽車時代の旅」を想像させる…。

 向かって左手のわが席は北西を向いていて、風はいよいよ涼しい。

 第二橋梁で只見川を渡り、第一橋梁で只見川を越え、それ以外は森の中か小さな駅…という車窓が、行きと順序を逆にしただけで続いていく。
 ただ、行きに全く乗り降りがなかった区間の途中、会津桧原で制服姿の高校生が二人ほど乗ってきた。車内を見ると、ボックス1つにつき1人ぐらいの車内には、年配の客や私服の若い世代に混じって、制服姿がちらほら見える。
「休み中の部活動や補習も、普通は朝からで、でなければ午後から半日だろう」
自分の仕事場や今までの旅の車中からそう思ってきたのだが、この中途半端な登校時間はいったい…考え込もうとしたところで気がついた。次の上りは四時間近く後で、これが午後からの登校に間に合う最後の列車なのだった。
 山を越え、会津柳津で温泉帰りの客と高校生が10人近く乗ってくるも、まだ森が多い。川の見えない狭い段丘上を少し走ってから、また鬱蒼とした木々とトンネルの中へ。

 …そんな中を乗ること、35分あまり。
 アップダウンをしていた線路が下り一辺倒になり、木々の向こうにチラッ、チラッと明かりが見え、だんだんその間隔が短くなってくる…

「帰ってきた!都会に帰ってきた!」
 どう見ても都会じゃないのだけれど、一面の平地を見た瞬間、思わず心でそう叫んでしまった。ただ、やがて坂下の町が近づいてきて、久しぶりの警報機が鳴る踏切を経て家並みに入り、スピードが落ち始めた。小学校のプールサイドに、列車に手を振る子どもが二人。開いた窓から思わず振り返し、歓声を受ける。
 
 会津坂下の構内に入ると、乗客の何割かが席を立ったが、一方で、ホームには20人はいるだろうという人数が集まっていた。
 それも若い顔が多く、私服と若松市内の高校の制服姿とが入り混じっている。当駅9:55発。遊びに出る私服組にはちょうどいい時間だとして、少なからぬ午後登校組が、若松へ毎時1~2本のバスが出ているこの町でも、やはり只見線を使う。

 坂下を出ると大きく向きが変わり、それまで北向きだった車窓が日射しを受け始めた。しかも一面の田園だから、日を遮る物も現れない。
 でも、私は眼を細めて座り続ける。まぶしくても窓からの風はやはり涼しかったし、それに坂下で客が増え、どのボックスにも先客がいて移動がためらわれた。もちろん行く末を考えれば、その程度の混雑はむしろ好ましい。
 行きとは逆に、南向きから徐々に左カーブして北向きになると、家並みが近づいて西若松。
 終点・会津若松まであと2駅。ここで高校生が若干降りるが、それ以上に次の七日町の手前で、男女の制服姿が終点を待たずに席を立つ。
 そして私も、ここで途中下車。

【つづく】

只見線往還記~『エッちゃん』の世界・2

【前回の続き】

★2.宮下の駅と町・前編


 会津宮下駅構内を、小出側の踏切から。
 行き違いの二本の線路に加え、側線が右手奥の車庫みたいな建物まで伸びている。中には除雪車が収まっていて、いかにも豪雪地帯らしい。
 それはさておき、周囲には森がそびえ、駅を出て行く線路はカーブしながらその森に吸い込まれていく…架線がない線路を見るまでもなく、いかにも相当なローカル線の駅といった眺め。そして現に、ここを通る列車は一日に上下各6本だけ。
 …と来れば無人駅か、せいぜい土地のお年寄りや主婦が日中だけ出札をしている駅だ。いまや日本全国、それがお約束なのだが…。
 
 でも待合室に入ると、飾りっ気も何もないものの掃除が行き届いている【左写真】。
 その一角にある、レトロなスタイルの出札窓口【右写真】には現役の気配。都会の有人駅と同じような端末機が、電源を入れた状態でガラスの向こうに鎮座している。
 そしてその前には、さっきまで誰かが座っていた。
 やがて外のホームに、小出方面から上り列車が着く音。
 
 JRの制服を着た初老の駅員が、列車を出迎えながら前へと歩く。運転台の横に着くと、運転士が差し出す「タブレット」という輪っかを受け取り、引き換えに手に持った別のタブレットを運転士に渡す【左写真】…この交換作業ゆえに当駅では、手旗を持ち、制服制帽に身を固めた駅員が列車を出迎え、そして見送る【右写真】という景色が今も見られるのだ。
 それは前回の会津坂下駅も同じだが、ここは川の上流の森の中。本格的な有人駅であるのが、一層不思議に思える。


 ちなみに「タブレット」だが、正確には、輪っかの中に入れられた金属製の円盤のことを指し、輪っか自体は「タブレットキャリア」という。
 円盤には○や△などの印が刻まれ、それらの形が「会津川口(一つ手前の行き違い駅)~宮下間に入ってよい」・「宮下~会津坂下(次の行き違い駅)間に入ってよい」といった意味を示している。
 タブレットは駅事務室の張り出し部分【上写真・屋根の下の窓】にある「閉塞機」【右写真】から取り出す。取り出すのは「タブレット閉塞」という信号方式のためで、その概要は下記リンクを参照されたい。
 「タブレット閉塞」の概念図
 明治末期に始まり、永らくポピュラーな信号システムだったけれども、もちろん今、こんなことをしている区間はほとんどない(なお閉塞機の写真は許諾を得て撮影)。
 さて、今の上り列車の場合、ここ宮下駅では、
①あらかじめ一つ先の会津坂下駅と合図の交換(閉塞機のボタンを押して信号を送る)+電話連絡をして、このあと当駅~坂下間に列車を通すことを確認。閉塞機から「宮下~会津坂下」のタブレットを取り出しておく(取り出すのにも合図交換がいる)。
②そして列車が着くと、それを渡す。かわりに、列車が手前の会津川口駅から持ってきた「会津川口~宮下」のタブレットを回収し、閉塞機に収める。
③発車後、会津坂下駅と合図交換をし、「列車が出たよ」という電話連絡。
…という仕事をしなければならない。
 具体的には、駅員は運転士との交換作業の後、回収したタブレットを持ち帰って閉塞機に収め、閉塞機のボタンで会津川口駅と「列車が着いたよ」「了解」という合図を交換する。そして出発信号機を青にし、再びホームに出て発車の指図…という作業をする必要があり、それらを行う2~3分の間、列車は行き違いもないのに止まって待っている。当駅で行き違う場合は、お互いが持ってきたタブレットを相手に届ける+両隣の駅へ合図+連絡という作業になり、さらに停車時間が延びる…。
 何事も自動制御でスピーディになっていく時代だが、手仕事が作るゆったりとした時間の流れが、ここには残っていた。
 この他、「手前の駅が『列車を出したい』と要求してくる」「手前の駅から列車が出た」「一つ先の駅に着いた」という時にも合図交換や連絡があり、相手の駅からの合図を伝える「チィン、チィン!」「カァン、カァン!」というベルが事務室の外まで聞こえる。つまり列車が1本通るたび、断続的にとはいえ一時間以上作業があり続けるわけで、ひなびた雰囲気の割には、駅員が気を抜ける時間は少ない。


 先ほどの窓口を守るのも、この駅員。指定券こそ出せないものの、日本中のJR全駅への乗車券を売っている。そして通学時間帯以外の列車でも乗車ゼロということはなく、その人たちは窓口で切符を買う。
 とはいえ、日中で列車1本あたり2~3人、一番多かった朝九時過ぎの上り・下りでも合わせて10人ほどだ。別に高校生が坂下・川口の双方と行き来するが、後で書くように最大に見積もっても全部で30人程度だし、彼女・彼らは定期券を買う日以外に窓口に用はない。
 …この夏。今ここに載せている文章や写真のために、その窓口で入場券を求めた。
「すみません、入場券を1枚下さい」
「はいはい。えーっと………大人、でよろしいですか?」
 小皺の寄った優しそうな目を見開き、駅員氏は意外なことを聞く。
「え?………大人、ですが」
 三十代後半の身に意外なことを聞かれ、こちらも口調が戸惑いがちに。
「ハイ、本日の入場券、大人1枚。ありがとうございました」
 無事に大人の入場券を購入。そのままホームへ行こうとするが、改札がわりの柵が閉まっている…と、今の駅員氏が何かの用事でホームに出てきて、私と目が合うや「あ、そうか!」といった風に目を丸くした。
「ああ、あなたが使われるんでしたか!じゃあ大人だ!…すみませんねえ」
 柵を開けながら、先方は照れくさそうに笑う。
「ええ、大人です(笑)」
 やはり笑って応じる私…聞けば入場券は、車で来て記念に買っていく人がほとんどとのこと。言われてみると、たしかに列車で来て駅を撮るなら下車のついでに済ませてしまえるし、逆に当地に滞在でもしない限り、下車・乗車以外であらためて駅に入る時間もないだろう。
 ただ、下車のついでであっても、しばらくホームにとどまるなら、その間駅員は柵を開け、構内に人がいることを気に留めていなければいけない。少しだが売上にも貢献できることだし、たとえ切符があっても、その分のお金ぐらいは別に払ってもいい。

 どちらにしろ、駅を見る限り旅先として滞在する人は少なそうだ。どんな町なのか…以下、この夏に町で泊まった際の道のりや時間を使って、町内をたどってみる。
 なお、こちらの「三島町観光協会」のWEBサイトもあわせてご覧を。




 朝九時すぎに上下列車の行き違いがあり、それを見に行った後、駅舎の出口から外を望む。
 最初に来た時は驚いた。役場の所在地だから、いわゆる「駅前通り」が、ごく小さいながらもあると思っていたのだが………。
 ただ、左手の画面外にパンメーカーの看板を出した雑貨屋がある。しかし贈答品や野菜が目立ち、他に清涼飲料水とアイスクリームのケースが見えるものの、肝心のパンがあったかどうか記憶が定かでない。
 また右手には野菜を売る「棚」があり、平日の午前中には町で採れた野菜が並べられ、お婆さんが座っている(背後に建つ農協が主催しているらしい)。気をつけて見てみたのは夏だったが、ナスやカボチャをはじめ、季節の野菜がひととおり並んでいた。そのまま食べられそうな物はトマトとキュウリぐらいで、おいしそうだったけれど、食べ頃のものは九時前の時点で売り切れ。「八時ぐらいまでには来てくれねぇと…」とのこと。
 町域の各地へ向けて町営バスが3路線、それぞれ一日5本ぐらいずつ駅前から出ている。うち2路線は只見川沿いに向かうので、鉄橋撮影に使えるかもしれない。
 ちなみに画面中央の細長い構造物は、コンクリートで嵩上げされた電話ボックス。ここが豪雪地帯であることを、静かに物語っている。その時期にも来てみたいが、只見線の運休が続いて帰れなくなる可能性がちょっと怖い。

 正面の細い道を進むが、赤提灯がなければ見過ごすようなお好み焼き屋が1軒ある他は、民家と空き地。地形図では、町並みは線路のすぐ近くなのだが、実際には駅から離れているのだろうか…その細道は数十メートルで終わり、東西の道に突き当たる。突き当たりの向こうに、なぜか木に隠れるようにして小さな信用金庫。右に駐在所、消防署の出張所と続くが、いずれも見落としそうな規模だった。

 突き当たりを左へ曲がって、西へ歩く。
 商店街などでは決してないけれど、ただの集落にしては店の看板が目立つ。しかし人通りは少なく、車が何台も写っているがこれは偶然で、実際は忘れた頃に一台、二台と通るぐらいだ。まあ、歩くうちにだんだん中心らしくなっていくのだろう…。

 …が、実はこれが「町の中心」だった。こんな感じの通りが200メートルほど続いて、その先は田んぼと民家だけになってしまう。
★通りを歩いて見つけたもの…デイリーストア、クリーニング屋(2)、美容院(2)、古いお屋敷を使った居酒屋、民芸品店、雑貨屋、洋服屋、郵便局、旅館、工務店、薬屋、食堂、医院、酒屋
 デイリーストアを除き、もちろん大手チェーンなどではなく個人商店だ(デイリーストアもフランチャイズだが、規模や品揃えという意味で)。
★予想に反してなかったもの…本屋、電器屋、携帯電話を扱う店、学習塾、パチンコ屋、食品スーパー、土産物屋
 最初は「まさか役場のある集落で…表通りにないだけだ」と思ったが、次の訪問で他の場所を探してもなかった。要するに、この通りにあるものが宮下の町の小売・サービス業のほぼ全部で、ここにないものは町のどこにもない。
「ここでも国道沿いの大型店に客を取られて、中心部が衰退してるのか…」
 一瞬そうも考えたけれど、これまで見てきた沿線の山深さと人口の希薄さを見るに、国道沿いに大型店があること自体が想像しにくい。念のため宿で聞いてみても、そんなものは坂下まで行かないとない、という。
 つまり、元からこれが「町のすべて」なのだった。
 ちなみに本屋がないのは『エッちゃん』を書く上で困るのだが、しらばっくれることにした(笑)。

 
 とはいえ、緑も豊かで、古い建物がよく残された「町の中心」である。さらには静かで、蝉の声や風が木の葉をなでる音が聞こえる…そんな中で、品揃えや値段を問わなければ生活に最低限必要な物は揃う。個人的にはスタンドコーヒーや総菜屋がないのが辛いけれど、それは大都市部で遅くまで働き、何でも買って済ませる生活に慣れてしまっているからだ。
 人が買い物をする現場には数えるほどしか出くわせなかったが、見た限り、そこには何らかの会話があった。客は必ずしも高齢者ではなく、そしていちいち車でやってくる。ロードサイドの大型店が周囲になく、町域の買い物客がすべてここへ来ていることの証明かもしれない。



 …いちいち眺めたり撮ったりしながら歩いたので、通りを見終えると十時を回っていた。
 左手に役場を見て、食堂と酒屋を過ぎると、町の中心は終わり。さらに西へ進むと民家だけになるが、家並みはみるみる希薄になり、小学校のグラウンドを過ぎると田園地帯に。人も車も通らなくなる。
 やがてその中に、アイスクリームと飲み物を売る店がポツリと見えた。
「なんでこんな場所に…」
 不思議だったが、それよりも喉が渇いていたので、ジュースを買う。商売になるのか聞きたかったものの、まさかダイレクトにそうは聞けず、適当な回り道も思いつかなかったので、よした。
 飲みながら南を向くと、通りから枝分かれした道の先に踏切、その奥に高架の道路が少しだけ見える。
「このへんに高速道路なんか、あるはずが…」
 そのまま直進しても何もなさそうだし、踏切もあるので行ってみる。途中、両側を民家に囲まれるが、すぐに尽きる。

 踏切から見た只見線。宮下駅から小出方向に伸びている線路(手前が小出側)だが、草ぼうぼうだ。そして急な登り勾配。あえぐように登ってくる列車を見てみたかったが、次の下り列車は四時間以上先だった。譲って上り列車を待ってもあと三時間はある。

 その先の、森から飛び出ている高架道路は、会津若松から続いている只見川沿いの国道。もとは「街の中心」の通りが国道だったらしいが、相当前に付け替えられたようだ。
 一般道路なので、向こうへ回り込むと普通に入口があり、入ると歩道もある。片側一車線ながら広めで、ひさびさに見るセンターラインが新鮮。でも車は一分間に一台通ればいい方で、何分も来ない時も普通にある。只見線もそうだが、沿線にはこの程度の町しかなく、大きな街同士を結んでいるわけでもないからだ。

 ただ、高架なので町を一望できる。町は「これがほぼ全景」と言っていいほどの大きさだ。右の白い建物が小学校で、どこの田舎町でも役場と学校はきれいだけれど、もちろん大きくはない。
 道沿いの雑草にタデが混じっていて、山椒の匂いが鼻をくすぐる。そういえば宿の食事にも山椒の和え物が必ず出ていた。

 国道を東へ進むと駅の方に戻れそうだが、ここから東は木に遮られて町が見下ろせない(町からも、ここに国道が走っているのは見えない)。
 だから、さらに西へ歩いて眺めを楽しむ。でも道はすぐ下り坂になり、同時に北向きにカーブを描いて、さっきまで歩いていた通りの続きに近づく。そして通りの続きと地上で交差する。
 交差点に面して、二方向を森に囲まれた中学校。グラウンドの向こうに立派な三階建ての側面が見えたが、正面に回ると長さはさほどでもなく、昇降口も職員玄関みたいな幅しかない。
 下駄箱らしき棚は、40人分ぐらい。ピッタリということはないから生徒は30人程度で、町から坂下や川口へ通う高校生も同様の数ということになろうか。通学と言えば国道に面して、かつての寄宿舎らしき廃屋があった。



 さて、国道は交差点の少し先で長い橋になっている。町の北側を流れる只見川で、たもとまで行ってみると例の広い流れが見えた。橋を進めば間違いなく、数十メートル真下にその川面が展開する。
「……………」
 鉄橋からの車窓に感動しておいて何だが、私は高いところが怖い(笑)。鉄橋の場合は車体に守られているし、足がすくむのに関係なく列車が進んでくれるから何とかなったのだが…。
 というわけで、私は真上からじゃなく、横方向の少し離れた位置から川を見下ろしたかった。
 が、ここでも橋のたもと以外の川岸は、びっしりと森に囲まれている。
「橋の上以外からも、只見川の流れを見たい」
 それは只見線の乗車中にも期待していたことで、でも只見川流域に入ってからここまで、そういう車窓はついになかった。国道に上がったのもそれが理由の一つだったが、やはり川を囲む森しか見えないのだ。

 
 田んぼと森の間を東に歩いて、町へ戻る。あと三十分ほどで正午だった。
 役場は通りから一歩奥まっていて、その角にある食堂で、名物だという親子丼を食べる。ネギのかわりに、アクをよく抜いたゴボウ。ダシが少し濃かったが、鶏肉に弾力があって「食った!」という感じがした。なぜか食堂や酒場だけは町に4つもあり、それぞれに地産の品で名物料理を作っている。
 角のこちら側では、石の桶に清水が湧き出している。野菜を洗うためのようだが柄杓も置いてあり、冷たくてうまい。
 通りから民家の間を南に抜けて、線路際へ。線路の向こうが一面の森のせいか、家しかないのに蝉の声が聞こえる。軒の影が涼しい。

 町一番の神社・三島神社…参道に踏切があるというのは、日本でもここだけのような気がする。
 無人だが、よく手入れされている。静岡の三島大社を勧請してきた、ということになっていて、三島町という(自治体としての)町名の由来だそうだ。この近辺でもやはり、ところどころで清水の流れる音がする。
 そのまま線路沿いに駅へ戻る。十二時半に駅へ着き、一時の上り列車を見ようと入場券を買った。それが冒頭のエピソードで、これにて町内一周完了だ。



 …前にも書いたように土産物屋はなく、博物館や資料館、各種の体験施設といったものもない。
 もちろん土産になるものはあるし、展示すべき歴史や体験すべき産業などもあるのだけれど、それを来た人に楽しく、分かりやすく見せる仕掛けがないことになる。
 要するに、一般的な「泊まって観光」というイメージでたどると、この町には何もない。たとえば自分の勤務先の生徒を連れていったとして、楽しんでもらえる自信は絶無だ。
 町をはるかに離れれば、家族連れでキャンプをするような施設や、そういった向きが立ち寄るドライブインなどがあるようだ。けれどもそこへは、只見線利用では行けない。

 ただ、体や心が本当に疲れた時に、この近辺に宿を取って何日かぼんやりとし、日に一度、食事や買い物をしにちょっと町へ出る…そんな過ごし方の「町」としてはちょうどいい。泊まったのは一度で二泊だけだったが、そう思った。いつかぜひ時間を取って、今度は三泊はしたい。
 そう言うからには、ぼんやりするのにピッタリの宿もある。それも、なんと駅の徒歩圏だ。次回の冒頭で紹介する。

 あとは、只見線の乗車・撮影目的の旅行ならば、ここは最高の拠点だろう。
 坂下や柳津では鉄橋が連続するゾーンから遠すぎるし、かといって、ここより奥は進むにつれて駅のそばが淋しくなり、補給基地として心もとない。宿が駅近くにある場所も沿線には少ないし、それにここなら、最寄駅でタブレット交換も見られる。

【つづく】

只見線往還記~『エッちゃん』の世界・1の2

【前回の続き】

★1b.只見線の開けた窓から


 さて、いよいよ只見線である。
 前回の最後に載せた写真でも窓が開いていたが、非冷房車だ。分かってはいても、初めて見た時は久しぶりすぎて不思議にすら思えた。
 会津若松駅から離れていく方が下りで、終点の新潟県・小出までは135.2キロ。
 なおこの先も複数回旅行しているが、前回に続き、この夏の往路での時刻を主な地点に添える。会津若松17:01発。『エッちゃん』が作中で乗っていた列車でもある。



 南西に進んで七日町、南下して西若松…ここまでは会津若松の市街地と言ってよい。七日町については後日、若松市内と一緒に紹介する。
 都電や阪堺電車のような速度で、2駅・約3キロを6分かけて走る。両側は住宅地だが家と線路とは離れ、間に草地が見えていたりするが、七日町のすぐ先の踏切付近にだけ、左手に大都市部の下町かと錯覚しそうな景色がある。エンジン音さえしなければ、いよいよ路面電車だ。
 ここは会津盆地の真ん中。そして扇風機も止まっているが、夕方のせいか、そんなスピードでも走っている限りは涼しく、停車中も暑くはない。
 17:01発は通学の帰りにあたるが、それに乗ったのはいずれも土日か夏休み中だったので、乗車率は若松発車時で座席の半分弱、西若松で座席の6~7割程度。

【西若松 17:07着・17:17発】
 会津若松~西若松には会津鉄道線のディーゼルカーも乗り入れていて、市街地の終わり・西若松駅で両者が分岐する。
 只見線はここから南西に向きを変える一方、会津鉄道線はそのまま南下して、大内郷や湯野上温泉、尾瀬などの観光地を含んだ一帯へ向かう。沿線人口も只見線沿いよりいくらか多く、加えて終点では、最終的に東武線とつながる私鉄に接続。つまり浅草や北千住から「スペーシア」に乗って(もちろん乗り換えを挟むが)上記の観光地や会津若松へ行ける。
 本数も会津鉄道の方が多く(下り会津若松発で会津鉄道17本vs只見線7本)、観光向けの快速なども走るから、むしろ只見線が会津鉄道に乗り入れているような感じだ。唯一、駅構内の線路が”只見線上下2線+枝分かれする会津鉄道1線”という造りになっていて、それが辛うじて只見線の方が「本線」であることを示している。
 会津若松17:01発に乗ると、西若松で上り列車と交換しているところへ会津鉄道の若松行きが入ってきて、乗り場が3線とも埋まる。でも3線はもちろん、2線が同時に塞がるのも一日のうちその数分間だけだ。「逆『点と線』」というところだろうか。


 さて西若松を出ると、列車はそれまでよりスピードを上げていく。といっても最高で時速60キロ程度だと思うけれど、ともあれ涼しさが増す。
 あらためて天井を眺めてみる。やはり楕円形の屋根をそのままトレースしているだけで、冷房装置らしきものは見当たらない。
 そして開いた窓からじかに景色を見ることや、レールの継ぎ目の音を直接聞くことはとても新鮮で、なおかつ懐かしい気持ちになる。

 会津坂下まで、途中に5駅を挟んで約30分。沿線はひたすら【左写真】のような田園風景。雪の時期には一面の雪野原になる【右写真】。
 もっとも、駅が近づくと、集落やそれを囲む林の中に入る。この間の駅のほとんどは町や村の中心か、かつてそうだった場所で、もとは行き違いや貨物扱いのために2本以上の線路を持っていた。が、片面ホーム一つだけにされたのはまだしも、駅舎も簡単なものに改築されて「昔っぽさ」は少ない。
 一駅だけ、写真の風景そのままの中にホームが一本、という駅がある。「根岸」という、なんだか東京に通えそうな名前の駅だが、ここはもとからホーム一本きりだったようで、かえって昔っぽさが残る。
「こんな眺めの中で、しばらくボンヤリしたい…」
という方はぜひ途中下車を。ただ、ここに限らず途中下車すると次の列車は4時間後だったりする(北に2キロほど歩き、隣の新鶴駅付近まで行けば飲食料品が手に入る)。

 その根岸~新鶴を除いて、駅と駅の間は3~4キロに伸びる。ところどころで、進行方向に向かって右カーブ。会津高田を少し過ぎたあたりで、ついに日の向きが逆に…つまり南向きだった列車が北へ向かって走るようになる。
 「googleマップ」などで見ると分かるが、実はこの先の会津坂下は若松の北西にあり、線路はその間を「し」の字に大回りしている。ここまで大回りする地形上の必要も見あたらず、建設当時(坂下まで1926年開業)の人文地理的な事情も分からない。ただ、最初から小出までの長距離路線として計画されたわけではないようなので、この付近の輸送需要に応えることが建設目的の一つだったのかもしれない。坂下~若松についても、当時ならこの程度の回り道をしたって最速かつ最強の交通手段だっただろう。
 ただ現在、この大回り区間にある会津高田などでの乗降はあまり多くない。逆に、若松市内からまっすぐ会津坂下へ向かうバスが毎時1~2本あるにもかかわらず、市内から只見線に乗った高校生の多くが坂下まで乗り、そこで降りていく。バスの車内風景も見てみないと何とも言えないが、やはり通学定期は列車の方が安いのだろうか。



【会津坂下 17:45着・17:49発】
 会津若松から約40分(途中の交換待ちがない場合)。北向きだった列車が、徐行同然の速度でしか曲がれない左カーブで一気に西南西を向くと、久しぶりに線路が2本ある会津坂下駅【上写真】。
 左の写真でホームに林立するのぼり旗は「春日八郎の出身地」を宣伝するもの。ここまでやると他に名物が何もないように思えてしまうのだが…町域には平安期からの寺社などがあるものの、駅からは遠い。駅からだと町役場の近くに、会津戦争の女性戦士・中野竹子の墓所を収めた法界寺という寺がある。古い町並みの奥まった場所にある小さな寺だが、積雪期の夕方に寄ったら、しばらくボンヤリたたずんでしまった。
 そして、沿線では久々の大きな町。駅前で飲食料品の調達はできるし、郵便局のそばにはコンビニ、町の中心に向かっていくと食堂やスーパーもある。馬刺が町の名物だとか。

 さて、話は駅に戻る。
 若松の高校への行き帰りの他、町自体にも高校が二つあり、学期中の平日朝夕の列車到着前には、ホームは端から端まで高校生たちに占拠される。でもそれを除くと、乗車は一列車あたり10人足らずから、多くて20人台。その列車もわずかに上り7本、下り6本だ。
 なのに駅員が、それもJRの正社員が常駐していて、ホームで列車を迎える【下写真】。「タブレット閉塞」という信号方式のためだ。
 タブレット閉塞については解説するWEBサイトがいくらでも出てくるので、それに譲るが、とにかく手旗を持った駅員さんがホームに出て列車を待ち、そして見送るという風景が、ここでは列車のたびに必ず見られる。いまや有人駅の多い都市部でもあまり見るものじゃなく、ましてや田舎の、木造駅舎にディーゼルカーという景色の中では本当に希少だ。
 そして、列車の到着前後と休憩時間以外は、待合室で窓口が営業する。隣の駅までの切符も窓口で買えるというか、券売機がないのでそうなる。特急券でも長距離の乗車券でもない切符を窓口で買う機会も、あるようで実は少ない。
 西会津から只見までの、列車の行き違い可能な駅は全部そうなっている(ただし窓口については西会津にはない)。ただ行き違い駅といっても本数が本数だから、実際に行き違うのは、ここ坂下でも朝と昼過ぎの2回だけ。

 なお、会津坂下で乗客、特に高校生がだいぶ入れ替わる。とはいえ乗ったままの客も無視はできず、平日夕方の下りは当駅乗車の高校生を加えて大混雑になるが、休日や休み中は座席半分程度の乗車率で発車する。



 会津坂下の先で盆地は尽き、一転、林の中をアップダウンするようになる。だいぶ入ったところの、誰が住んでいるのかという景色の中に片面ホームの塔寺駅。それを出ると初めてトンネルも現れ、うち一つはちょっと長く、その先で眺めが開けると会津坂本。短く書いたけれど、駅から駅までの間はさらに伸びている。
 会津若松から1時間。山を越えて、只見川沿いの谷に入ったのだが、次の会津柳津の手前までは、進行方向に向かって右手の眺めが開けている。ごく近くを只見川が沿っていて、それを囲む杉林のおかげで川筋も分かるものの、崖を挟んでだいぶ低い位置を流れているので水面は見えない。
【会津柳津 18:09着・発】
 やがて木々の間に入り、会津柳津。駅は林の中だが、少し離れた場所にある町は役場の所在地。東西数キロにおよぶ、河岸段丘上の広い平地に家々が集う。
 温泉も湧くせいか、高校生以外の下車客が必ずいる。高校生も若松市内から乗っていた子はもちろん、坂下乗車組もここでゴッソリ降りていく。休日・夏休み中は、夕方でも一両あたり10人乗っているかいないかという車内になり、以降増えることはない。
 ここまで二、三駅ごとに町や村の中心近くを経てきたが、それもここまで。並行する路線バスも柳津で尽きる。そのせいか、特に夕方の列車だと、木々の間から町並みが見えるにもかかわらず、淋しい気分になる。
 そして、なおも只見川の川面は見えない。


 柳津の町を見送ると、木々は窓の間近まで迫ってきて、そして途切れなくなる。もはや只見川の所在自体も確かめようがない。
 つまり写真のような眺めが、ずうっと続く。森は深く、まとまった明かりは線路と木々との間に射し込む細い日射しだけ。列車はエンジンをふかして坂を登ったり、ブレーキをきしませて下りたりを繰り返すが、なぜか下りでもスピードが出ない。たとえば柳津と次の駅との間で、3.6キロに約7分を要している。
 …こう書くと退屈そうだが、開けた窓から直に見ているので緑は鮮やかだし、蝉の声や下草が風にざわつく音が時々通り過ぎるので、案外飽きない。そして入ってくる風はいよいよ気持ちよく、そしていい匂いがする。もっともそれは夏場の話だけれど、秋は秋で、杉ばかりじゃなく落葉樹や蔓草も混じる森なので紅葉が美しい。雪が降れば降ったで、雪国以外の人間にとっては非日常の眺めだろう。

 次の郷戸駅も林の中。只見川の本流沿いに取り付く平地がなくなるため、ここから支流沿いの回り道を登る…といっても、やはり川は見えない。
 その次の滝谷では片側の木々が切れて人家が見えるものの、線路に迫る上り斜面に家が数軒へばりついているだけなので、開けたという感じはしない。家々は雪の深い山間部で時々見る、急勾配の大屋根を載せた古い建築。段々に切り開かれた田畑がそれを囲む…近くまで会津宮下からの町営バスが来ているので、只見線と組み合わせて、その景色を短時間だけ楽しむことも可能かもしれない。
 その先で支流を渡るために森が切れるが、渓流なので橋は短く、景色も鬱蒼としているので、やはり開けた気分はしない。ただ数十メートル下の流れは美しく、そして高さにはギョッとする。
 それが終わるとまた森で、続いてすぐトンネル。
 ここまでで一番長い、といっても600メートル程度だが、途中から速度を上げるも抜けるのに1分近くかかる。柳津からこの先の会津宮下までは1941年の開通で、そのせいか断面が狭く、開けた窓の外ギリギリに壁が迫る。でも、その壁面のコンクリートは平滑で錆もひび割れも見えず、現代に造られるそれと遜色がない。
 ちょっとした勾配や長大トンネルを避けて回り道をするのも戦前ならではだが、決して技術が低いばかりだったわけでも、やっつけ仕事で鉄路が敷かれていたわけでもないと知る。

 トンネルを抜けると久々に、短いながらパアッと景色が開ける。森が、やや見下ろし気味の位置にある。
 すぐまた木々の中に入ってしまうのだが、長めの下りになっていて、列車のスピードが速い。実際は時速50キロ程度だと思うが、それすら久々の速度なので軽快な気分がする。

 この先では駅の前後だけ、上の写真のように眺めが開けてくれる。つまり速度が落ちて森が切れると、それが「まもなく次の駅」という合図だ。
 会津桧原着。列車は支流沿いから只見川の段丘上に戻ってきているが、やはり乗り降りはない。
 すぐに発車すると、また森の中。 

 ただしここも杉林の連続ではないので、森の表情は刻々と変わる。もちろん窓からは、さまざまな自然の音たちが。会津若松を出てから1時間20分あまりが過ぎていた。
 
 と、トンネルになり、それをくぐり終えた列車が急に速度を上げ始め、前方の木立の向こうに水面が…。

 只見川第一橋梁。只見川の谷に入って30分近く、ようやく初めてその水面を見る。
 まるで下流のように広く、そのくせ深い山々に囲まれる豊かな流れ…その景色自体も鮮やかだけれど、これだけの距離にわたって眺めが開けたのは久しぶりで、それにも感激だ。
 柵も何もなしにいきなり数十メートル下の水面。さすがに乗り出す気は起きないが、ガラス越しじゃなしに直接見られる、というのもすばらしい。
 ちなみに、この鉄橋をゆく列車を見下ろし気味に撮った写真は、「只見線」で画像検索すればいくらでも出てくる。鉄道趣味の世界で第一橋梁は、この先に多数ある只見線の鉄橋の中でも随一の、そして国内有数の名被写体だ。
 橋の終わりで速度が元通りに下がり、またトンネルをくぐって森の中へと戻り、少し走ると、森が切れて会津西方。乗客に動きはない。森が切れてはいるが、桧原も西方も、窓から見える人家は数えるほどだ。
 その駅を出ると、また深い木々の間へ。しばらくゆるゆると走っていた列車が、また速度を上げていく。小さく鳴らした警笛がやけに反響する。

 第一橋梁から4分ほどで、ふたたび只見川の上へ。只見川第二橋梁だ。撮影地としては第一橋梁よりマイナーだが、上流が夕陽の差す方を向いているので、夕方の車内から見る川面がとても美しい。夏場の若松17:01発だけの特典だ。
 この付近から1時間ほどの間に、只見線は線路の適地を求めて都合8回も只見川を渡る。

 第二橋梁を地上から。実は柵がないどころか、車体が微妙にはみ出し気味にすら見える。
 とはいえ戦前の、それも物が不足していた時期の建設路線。その時期にこんな立派な鉄橋を、当時も一ローカル線でしかなかったこの区間に惜しげもなく架けていたとは…。

 今度は鉄橋の先にアップダウンがなく、列車は軽快な速度を保ったまま木々の間に入っていく。
 少しすると、そのスピードのまま眺めが開け、草原や田んぼの向こうに杉林のてっぺんだけが見え続ける。その向こうは只見川だ…会津柳津の手前以来、しばらくぶりに広がる平らな地面。そして、まっすぐに川と並行を続ける線路。
 ようやく列車の速度が落ち始めた。短く林を抜け、渓流を渡り、そして、これまた久々にまとまった数の人家が現れた…夕暮れ時の列車だと、ホッという息が思わず漏れる。空いた車内で高校生と大人が数人、パラパラと立ち上がる。

【会津宮下 18:32着・18:34発】
 川沿いの町、会津宮下。会津若松から1時間30分あまり。
 そして会津坂下から約45分ぶりの、列車の行き違いができる駅。

【つづく】

只見線往還記~『エッちゃん』の世界・1の1

ファイル 19-1.jpg
 昨年から今夏にかけて只見川沿い、つまり只見線沿いの山奥へ何度か出かけ、新刊の表題作『エッちゃん』を思いつきました。
 向こうしばらく、只見線・会津宮下とそこまでの旅程、そして最寄りの「街」である会津若松市内で見た風景を、何回かに分けてご紹介します。

 ちなみに"只見線"や"会津若松"というとお約束的に出てくるショット=鉄橋を渡る列車や鶴ヶ城・飯盛山の写真は出てきません。物足りない鉄男や歴女の皆様は「只見線」「会津若松 名所」などで画像検索をして、合わせてご覧下さい。
 それと今回は、写真・文章を最後まで準備済です。連載と言いつつ冬まで間が開いたり途絶したりというのは、今度こそいたしません(苦笑)。

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★1a.東京から只見線乗車まで

 以下、何回かの現地行きを総合して記事を書くが、主要な箇所に、この夏に行った際の着発時刻を添える。



【東北新幹線「つばさ115号」 東京12:08発】
 東京都区内在住の私は、東京駅に行き、そこから東北新幹線の客になる。
 早めに着いて、折り返しの車内整備を眺めながらホームの喫煙所で一服。
 会津方面への乗換駅・郡山へは毎時3本程度の便があるが、結果的に毎度、「Maxやまびこ」に山形方面の「つばさ」が併結された列車を選び、「つばさ」の方の席を取っている。

 他の新幹線車両に比べて「つばさ」は車体幅が狭く、ドアの下に転落防止のステップが出ている【上写真】。高さも低く、併結された 「Max」と一緒に見ると大人と子どもみたいで、窮屈な予感がする。
 でも車内【下写真左】には閉塞感などなく、座席【下写真右】もゆったりしていて、要は普通の特急列車の1列4人掛けだ。というより在来線に直通するから「普通の特急列車」になるしかないのだけれど、それにしても広げたテーブルとの間にゆとりがある。

 対して「Maxやまびこ」の背が高いのは二階建てだからで、車内に入ると、まず客室の天井が低い。客室とデッキの間の階段を含め、身長が高めの方は注意を要しそうなほど。
 一番困るのは座席だ。席数を稼ぐために前後の間隔が狭められ、背もたれを倒す余地も小さい。1列5人掛けなのは新幹線では普通だけれど、なぜか他の新幹線車両より席の横幅も窮屈な感じがする。
 そして車窓。新幹線で一階席に座ると本当に防音壁しか見えなくなってしまうのだが、二階席はグリーン席の分だけ普通席が少なくなっていて、「普通車指定席の二階(できれば3人掛けの真ん中以外)」という予約が案外難しい。
 もちろん「つばさ」以外にも二階建てじゃない列車はあり、それを取ればいいのだが、ランダムに「Max」だったり普通の車両だったりするので、なかなか旅行の計画に合わない。

 …本当は新幹線なんかじゃなく、昔ながらの特急や急行で旅立ちたいけれど、ないものは仕方がないし、あったとしても時間がない。だから、せめて在来線の特急列車に一番近いスタイルの車両で…「つばさ」を選ぶ本当のところは、そんな気分もある。
 実は、この「Max」+「つばさ」に乗ると郡山で会津若松方面との接続時間が最小になるのだが、それは後で気がついた。何時間も待つんじゃない限り、接続よりも旅情や快適さが大事。
 ちなみに、「えきねっと」の会員になると、座席表から空席を選んで指定席特急券の予約ができる。



 
【郡山着13:31 磐越西線快速3235M 13:47発】
 「つばさ」に乗ると1時間15分程度で郡山に着き、15~25分の接続で磐越西線・会津若松行きに乗り換えられる。
 15分の接続でも、新幹線ホームの喫煙所で一服して十分間に合う程度の距離。
 約1時間ごとに、快速か各駅停車のどちらかが会津若松へと走るが、2両編成が基本。座れるかどうかはその時によるものの、休日や休み期間の昼~夕方を外せば、少なくとも終点まで立ちっぱなしは避けられる模様。あとは当然だが平日の通学時間帯は混む。
 車内【左写真】はやや変則的なボックスシート。ただし快速の中に「あいづライナー」という列車【右写真】が3往復含まれていて、 こちらの座席は列車の外観どおり、特急と同じ。また6両編成で指定席(510円・もちろん全国の「みどりの窓口」で発売)もあるから、必ず座りたい向きにはおすすめ。

 郡山から会津若松まで、日中なら、普通でも快速でも1時間10分前後。
 地図上では途中に猪苗代湖に沿うような区間があるが、車窓から湖面はほとんど見えない。磐梯山が見えるはずだけれど、あいにく私の旅程ではいつも北側の遠くが霞んでいた。座席からの車窓よりも、左写真の人々のように立って前面展望を楽しんだ方がいいかもしれない。
 猪苗代あたりまでは高原風の開けた見晴らしが多く、その中を列車は、時々わずかに登り勾配を感じさせつつ高度を上げていく。それを見ながらボンヤリと日本地図を思うと、太平洋側・日本海側の分水嶺はずっと西、会津若松から新潟へ向かう山中にでもありそうだが、日本海に注ぐ阿賀野川は猪苗代湖から発していて、そのことだけで言うと会津若松はもう日本海側だ。
 だから猪苗代を過ぎたあたりから一転、分かりやすい下り勾配とカーブの連続になって、そのまま会津盆地に至る。今の電車は平地と変わらぬ走りを見せるけれど、SL+客車時代の運転は慎重を極めたという。ブレーキの過熱で止まれなくなった時に備え、勾配の途中にある磐梯町から長さ数キロの非常用線路が枝分かれしていた。
 そんな路線が、昭和はじめの上越線開通まで、東京~新潟を結ぶ主要ルートの一つだったのだ。




【会津若松着14:55 只見線発車まで散策と買い出し】
 ここだけ冬場の写真で申し訳ないが、会津若松駅は、立派なターミナル駅。
 『エッちゃん』には「五番線まである…」とだけ書いたが、ホームは昔ながらに長く、間にホームのない線路を挟んでいたり、周囲に車両基地や留置線があったりして、単に乗り場が五つあるというイメージよりずっと広い。構内のどこかで常に車両が動く、ないし動く準備をする姿がある。

 写真のとおり駅舎も大きく、コンビニタイプの売店や土産物屋、食堂に立ち食いソバ屋、みどりの窓口、観光案内所、キャッシュコーナー…と、ひとしきり揃っていて便利だ。それでいて改札口はもちろん自動改札機ではなく、なおかつ常時駅員が立っていて、同時に懐かしい匂いがする。懐かしいといえば駅舎の隣にドムドムバーガーがあり、コーヒーがおかわり自由だった(笑)。
 駅前広場も、写真に写っている範囲も十分広いが、写している私の背後に、さらにバスターミナルが広がっている。
 人口約10万人の街の代表駅、観光地の玄関口という要素もあるけれど、事実上4方向から路線が合流し、乗り換えの需要や鉄道業務が集積しているのも駅の規模に関係しているだろう。
 ただ街の中心部からは外れていて、駅の外の空は高い。とはいえ中心部にある若松城趾などへも結局ここからバスになるけれど、この街外れの駅が本当に最寄りなのは白虎隊の飯盛山と、「会津若松の奥座敷」と呼ばれる東山温泉ぐらいだ。


【只見線429D 会津若松17:01発】
 会津若松の市内については後の回に譲り、ここから只見線のディーゼルカーに乗る。
 会津宮下、会津川口、只見…といった只見川上流の村々まで、1時間強~2時間45分。
 若松発の只見線は一日7本しかなく、只見川沿いまで入る列車となると6本に減る。
 うち、5:59、7:37発の2本は若松に前泊するしかない(それも悪くないが)。かたや19:40、21:40発ではもちろん全線真っ暗闇。駅の徒歩圏に宿があるような場所は少なく、あっても個人経営レベルの小さな旅館だから、夜の10時11時なんて到着時間は嫌がられるだろう。
 沿線の村々へ、東京から常識的な時間帯に日着しようと思うと、13:08発・17:01発の両者しかない。
◆東京09:00→郡山10:22/10:46→会津若松11:52/13:08(会津宮下着14:36・会津川口着15:22)
◆東京13:08→郡山14:31/14:45→会津若松15:58/17:01(会津宮下着18:32・会津川口着19:01)
 こんな感じになるだろうか。ただ私は毎回、若松市内に寄り道したり前泊の上で途中下車したりするので、このプランで動いたことはないけれども。

【つづく】

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