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「……………」
「……………」
 飴色の薄明かりの中で、二人は斜めに向き合ったまま黙ってしまった。新次は結局どう言葉を継いでいいのか分からず、そしてそれは相手も同じみたいだった………やがて、シュシュシュシュシュシュシュシュ…ガタッゴトッ…という音が遠くから届き始め、少しずつ大きくなってきたかと思うと、外の闇を重い轟音とともに機関車が通過した。続いて、ガタン!ガタン!ガタン!…という、貨車特有の小刻みでやたらに響く通過音が幾度も幾度も続き、煙の匂いが薄く待合室に流れ込んでくる………。
 長い貨物列車が通過し終えて静寂が戻っても、なお二人はそのままだった。ただ、煙の匂いが入ってきた時に少女が顔をゆがめ、ハンカチで鼻のあたりを覆ったが、それ以外は、そのまま時間が流れた。
 通過列車が去って何分も経ってから、少女がようやく、ハンカチを持つ色白の手を顔から離した。それが合図だったかの様に、新次は少女の横に腰を下ろし、彼女の方を向いた。
「………麓に、何か急ぎの用事があるんか?」
 新次は彼女の頬の赤みを見つめながら、とりあえず尋ねる。
「あの………」
 少女は泣きべそみたいな表情のまま、小さく唇だけを動かしてそう言って、そして口を小さく開けたまま言葉を途切れさせた。目の色だけが、何か思案をするような雰囲気に変わっている。
「あの………勝手な理由だって決めつけないで、ちゃんと聞いて下さいね」
 だいぶ間があってから、少女が思い切った風に口を開いた。
「わかった」
「……今夜、本家で親戚の集まりがあって………その、どうしても今日中に……私が行かなきゃならないんです………」
 新次は、思いついたままに質問をする。
「法事?………それとも、お通夜?」
 口に出してから、彼は自分の愚問に気付いた。たしかに親戚一同が集まると言えば法事が定番だが、こんな夜中にやるものではない。夜中にやるとすれば通夜だが、それならば「親戚の集まり」などと言わず「通夜」と言うだろう。それにお別れは翌朝、告別式に出ればかなえられる。
「いえ………会議、っていうか……とにかく、おじいちゃん家に伯父や伯母がみんな集まって、その………大事な決め事を、するんです」
「ふうん………けど、そんな大事な用やったら、もっと早く出て来たら…」
「…妹や弟たちが、夜になっても外遊びをしたがるものですから……ダメ、って言い聞かせてたら、こんな時間になっちゃって…」
 妹や弟たちが…というところで、少女の目つきに一瞬だけ、ふっと不安の色が走った。しかし新次はそれには気づかず、
「親族会議に出るべきは彼女の父親なり母親なりだろうに…親は何をやってるんだ」
という疑問を頭に湧かせていた。
「…君の、お父さんや、お母さんは?」
「もう、行ってます」
 そう言って少女は、きゅっ、と口を結んだ。彼女の表情から泣き出しそうな色が消え、さっきよりもさらに思い詰めたような顔になっている。小柄な、幼な顔の娘のそういう表情を見て「何とかしてあげたい」と感じるのは、何も新次に限ったことじゃないだろう。
 しかし親が、それも両方とも参加しているのなら、彼女が何をそんなに急いで駆けつけるのか。
「なら、なんで…」
 君まで行くのか、と言いかけて、新次はあわてて口をつぐんだ。気持ちに釣られて、見ず知らずの他人に立ち入ったことを聞き続けている自分に気づいたからだ。
 何気なくポケットから出した懐中時計も、休憩の終わりが近いことを示している。
 薄暗い待合室は、ふたたび静かになった。
 うつむいていた少女が、そっと少しだけ顔を上げた。その刹那の目つきが
「聞いてくれないの?」
と訴えているようにも見えたが、新次はなかば無理に気のせいだということにして、顔を正面に戻した。
 少女がとても切迫した気持ちでいるのは、よく伝わってくる。そして、困り果てたような、思い詰めたような彼女を見て、できれば何とかしてやりたいと思う新次がいる。しかし一方で、聞いたところで彼に何ができるわけでもなく、こうして話を聞いてやれる時間もほどなく終わってしまう。
 新次はタバコに火をつけ、大きく息を吸った。続いて吐き出された煙が飴色の空間に消えていく。少女は、元通りに色白の顔を下に向けた。
 冷たい風が、ふうっ、と一吹きだけ、待合室に入ってきた。



   V

「私をどこに嫁がせようか、っていう、話し合いなんです」
 少女が突然、思い切ったような大声で言った。
 うつむいたままの涙目。でも、張りのあるしっかりした声。卵形の輪郭に涙を光らせ、しかし眉と目とを険しくして、口をぎゅっと結んでいる。
「………君、いくつなんや?」
 少女はどう見ても、せいぜい十五、六にしか見えない。驚いて思わず尋ねた新次に、少女が答える。
「十七です………再来年、高校を出たらすぐにでも、っていう話なんです」
新次の反応を確かめようともせず、少女が続ける。
「うちはみんな、女は十六、七で、おじいちゃんたちの決めた人と…っていう、そういう習慣で………父も母も、それが当たり前だと思ってて………」
 今から四十年以上前の田舎のことだから、たとえば由緒ある商家だとか、かつて武家だったような家だとかに限れば、そういう習慣はまだ一部で続いていた。そして、この時代の田舎の娘で高校に進んでいるのを見れば、少女がその一員であってもおかしくはない………だが、そういう階層ではない新次には、なんとも時代がかった驚くべき話だった。
「もう、相手までほとんど決まってる…って話を、両親の話を、立ち聞きしたんです」
「………相手は、君の知っている人?」
「聞くのも、初めてです…」
そういう話がいまだに現実にある、というのを、新次はなおも受け止めかねていた。が、少女の頬の赤みに涙がつたうのを見ながら、彼はしだいに、理不尽さと腹立たしさを覚え始めている。
「それで、君は……」
 新次が質問を重ねようとすると、少女が半分ぐらい新次の方を向いた。
 涙を流し続ける二重のくりっとした目が、くっきりと見開かれている。
「十七、八でお嫁に行くなんて、私、嫌です!………それも、どんな顔だかも分からない人と……」
 そこで声が、さらに大きくなる。
「だから、本家の会議に割って入って……ダメかもしれないけど、とにかく『私はぜったい嫌』って言って、ぶちこわしにするんです!」
 か弱そうな少女の姿を見る限り、彼女がやろうとしていることは、正直言って無理がある。
 しかし新次は、もっともだ、とだけ思った。
「親戚の集まりをぶちこわして、それで話は終わるんか?」
「いえ………でも、私一人で逃げ出したって生きていけないし……それに、ただ話をなしにできればいいんじゃなくて、両親や、伯父さんや伯母さんたち…みんなにちゃんと、分かってほしいから………だから私には、そうするしか……」
「……………」
 一人で町へ降りて親族会議に乗り込もう、という強さもさることながら、親たちに分かってもらった上で取りやめにしたい、という優しさが新次の心を打った。その優しさがさらに少女を、いじらしく、かわいらしい存在にした。
「なら……………そうするしか、ない」
 そう口には出さなかったが、新次はそこで、大きくうなずいた。
 少女はまた下を向いたが、前髪ごしに見えるその顔には、分かってもらえたことへの安堵があった。
 その表情のまま、少女はゆっくりと口を開く。
「私には、夢が、あるんです………」
「………夢?」
「ええ。って言っても、あの…こんな仕事がしたいとか、そういうことは、まだ、漠然としてるんですけど………上の学校に進んで、働いて……それから、まだ誰だか分からないけど……自分が、好きだ、って思った人と、恋愛して、結婚して……………やだ、何言ってるんだろ私ったら………」
 恥ずかしそうにさらに目を伏せ、少女は毛糸の襟巻に口のあたりをうずめる。
「いや……………」
 …おかしくなんかないよ、と新次は言いたかったが、そこまで言葉にならなかった。
 恥じらいながら目を伏せた少女の仕草が、ぎゅっ、と新次の心を捕えていた。生暖かい動悸に彼は襲われ、そのせいで喉がつかえてしまった。
 短い沈黙が訪れ、待合室はまた静まり返った。
 だが、新次はどぎまぎしていて、その胸中はぜんぜん静まり返っていない。
「君を麓の町に下ろして、何とかその夢を、かなえてあげたい………そして僕も、車掌の試験に受かるか何かして町へ出て、そしたら、もう一度君と会って、願わくば……………しかしどうしよう。あの助役にうんと言わせるなんて、僕には………」
 一部に身勝手なくだりを含んだ思案を、新次はぐるぐると頭の中で回していた。電灯に集まる虫が笠に当たって音を立てているが、彼には聞こえていない………。
 そこで少女が突然、がばっ、と顔を上げて新次の両腕にしがみついてきた。
「だからお願い!汽車に…汽車に乗せて!!」
 一転、乗せてくれなきゃ喰い殺す!と言わんばかりの形相が、新次の目の前を覆っていた。獲物に飛びつく獣のような、ぜいぜいという息が白く吐き出されている。
「!」
 突然の恐怖に、思わず新次は体を固くした。
 色白の手から伝わってくる少女の体温は、異様なまでに温かい。すがるような、それでいて獲物に舌なめずりするような眼差しが、間近から新次を見つめてくる…。
「…本当はまだ、この駅から麓へ降りる汽車があるんでしょう?」
 傍目には、頬の赤い田舎娘が、桃色の小さな唇から弱々しく言葉を発しているだけ。
 なのに新次は恐怖と、そして惹きつけられていく思いとに挟まれ、胸が破裂しそうになっている。けなげでかわいらしい彼女を好きになったはずなのに、蛙をにらむ蛇みたいな目つきは彼を醒めさせるどころか、彼女を愛おしむ気持ちをさらに強めていく。
「………ああ、ある」
 カラカラに渇いた喉で、新次はうめくように答えた。
「じゃあ、乗せてください。お願いです!…駅員さんも、勇気を出してください!」
 そこへ少女が、たたみかけるように願う。今度は、元通りの澄んだか弱い声と祈るような口調。そしてそれはそれでまた、新次の胸の高まりにさらに輪をかけていく………。
 下り列車があることを認めてしまったので、「どうしようもない」とはもう言えない。
 しかし、もはや新次の頭からは、「どうしようもない」という言葉は消え去っていた。
 どうにかしてやろう、という決意だけがあった。
「これで引いたら、俺は助役と一緒になって規則を振り回しとるのと同じや…俺は、あんなヤツとちゃう」

 新次は長椅子から立って、ホームの方を指差した。
「……線路を渡って、下りのホームの、一番前の方に立っててや…分かるか?」
「は、はい!ありがとうございます!」
 少女は目を丸く見開くと、何事もなかったかのようにピョコンと立ち上がり、歩き出した新次の後についた。新次は事務室へ行くため左へ折れ、少女はまっすぐ進んで線路を渡る木道へ。
「ホントに、ありがとうございます!ご恩は一生、忘れませんから!!」
 甘く澄んだ声に新次が振り返ると、少女は深く一礼して、下りホームへ小走りに駆けていった。
 十五夜の月が下りホームへの木道を青白く照らし、少女の足下に、丸っこい影ができていた。



「助役」
 駅長事務室に戻った新次は、衝立ごしに、机で書き物をしている助役に声をかけた。赤と橙の帯を巻いた制帽を一瞬ビクッとさせてから、助役が新次の方を見た。
「おお……あの、やっぱり起きとるんか?」
「当たり前です」
 新次はずんずんと助役の席の前へ進み、無言でそこに立った。そして彼のいぶかしそうな表情を確かめてから、
「今日の事は、ご心配なく」
とおもむろに言った。
 助役は少しの間あんぐりと口を開けた後、ほぅ、と息を漏らし、
「……あ、いやいや、ワシらにもそのな…立場ちゅうか、まあ色々あんねん……ホンマすまんかったな、堪忍してくれるか…」
と、新次と机の上とに交互に目をやりながら、ニヤニヤ笑ってもみあげの辺りをしきりに掻いた。本人はうまく取り繕っているつもりなのだろうが、保身が叶って一安心というのが丸出しだった。
「何が色々や……お前一人の点数稼ぎやないか」
新次は呆れてしまったが、黙って後ろを向き、机から二、三歩遠ざかった。
「とこで助役…」
 しばらく助役に背を向けた後、新次は向き直って神妙な顔をして見せた。
「何や?」
「…駅に急病人がいますので、最終の下りに乗せて下さい」
「急病人…?」
助役の顔が、不機嫌な色になった。
 もともと停車する列車、それも旅客列車に乗せるのだから何の問題もないし、おおらかだったこの頃には普通にあり得た。しかしこの助役は、日頃から特別な取り扱いをとにかく嫌がった。そのくせあんなことを持ちかけたりするのだが、要は自分のマイナスになりかねないことを避けたいのだ………新次が旅客列車の存在を知りながら「どうしようもない」と思ったのはこのことで、果たしてそうだった。でも、新次は線路際で梃子の操作、ホームに出るのは助役、という役回りなので、どのみちこの男を落とすしかなかった。
「あそこにいます」
 新次は部屋の正面、赤い閉塞機が並んだ向こうにある窓を指した。
 助役が「えぇ?」という顔をして机から身を乗り出す。
 窓は線路の方を向いていて、ちょうど下りホームの一番前が見える。屋根の下の薄闇で、コートの胸に両手を当てた少女が、列車がやって来るはずの方角をじっと見つめている。
「何が急病人や。ホームに立ってるやないか」
「急病人か何かということにして、やってもらえませんか。町に親類がいて、そこに急用があるのは確かなんです。お願いします!」
新次は下手に、しかし勇気をふるって毅然と言った。だが相手は彼から目をそらして、
「そんなことで、いちいちできるかい」
吐き捨てるように予想通りの答えをした。新次はその顔を覗き込み、思い切って声を強める。
「なぜですか!」
 大声に助役は肩をビクッと動かし、そらした目を白黒させて言葉を探し始めた。気弱なはずの部下が食い下がってきたのに驚き、怒る前に動揺してしまったらしい。
「な………、そ、そりゃ、安全やがな……規則を遵守するんが、安全の鉄則やろ!」
「そうですね!でも安全と言えば、さっき私は規則違反をしました!あなたに言われるまま!」
「………!」
 目を見開いて、相手は言葉を失った。
「言われるまま所定の業務を当直助役にまかせて休憩してしまいました!…反省のために、一部始終を管理局に申告しようと思います」
 驚愕の表情のまま、何も言えない助役。休憩を持ちかけたのは彼自身だ…いや、彼自身は休憩どころか、朝まで寝ていてよいとまで新次に言っていたのだ。
「そ、そ………そんなことワシは、言うた覚えは………」
 くびれた下顎をガクガクさせながら、助役がようやくそれだけ言い返してきた。
「そうおっしゃられたら水掛け論ですが、私には、麓に味方がいます。あなたはお嫌いなようですが」
「うう………」
「最終的に事実が認められなくても、そこそこの騒ぎにはなるでしょうね。私は別に構いませんけど」
 新次は構わなくても、彼なりに野心があるらしい助役は困るようだった。気弱でくみしやすい部下だとばかり彼が思ってきた新次は、今、目の前でくわっと目を見開いて仁王のような顔をしている。
「……………………」
 沈黙の後、彼は噴き出た額の汗をぬぐって、斜めを見ながら口を開いた。
「…負けたわ。そういうことにしたる………けど今回だけやで。変な融通きかすとロクな事にならんで」
 その時、衝立の向こうで閉塞機が「ボンボン」という鈍いベルを鳴らした。先ほどと音色が違う。今度は峠の向こうの駅からの「下り列車をそちらへ出してよいか」という合図だ。
「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」
 新次は直立して敬礼を送ると、事務室を出てポイント小屋へ急いだ。助役もあたふたと閉塞機の前へ。
「ふぅ〜っ………やれば、できるもんやな」
 ポイントの梃子を握りながら、一世一代の演技を終えた新次は大きな白い息を吐いた。

 それから十分ほどで、シュッ、シュッ、シュッ…というゆっくりしたドラフト音を従えながら、下り列車が入線してきた。
「……がんばれ………」
 新次はドキドキしながら、二本の線路の向こう、下りホームに立つ少女を見つめていた。短い屋根が月明かりの陰を作っていたが、色白の愛くるしい顔は、彼にはハッキリと見て取れた。と、不意に少女がこちらを見て、笑顔で小さく会釈する。新次の鼓動が、どくん、と大きくなったその瞬間、やってきた機関車の黒い車体とその床下から漏れる白い蒸気とに、彼の見ていたものは遮られた。


   (つづく)


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