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 発車を待つ空いた客車の中は、スチームがよく利いていた。それだけでなく、白熱灯に板張りの床という現在では見ることのできない車内風景が、家で炬燵に入っている様な、ほっ、という暖かさを演出している。
 だが、それとは裏腹に、誰もいないボックスの一角にちょこんと座った少女は、通路に首を出して前後をキョロキョロ見回したり、窓ガラスの曇りを拭いてホームをじいっと見つめたりと、落ち着きがない。
 いや、はじめは車内の空気に従って席でふにゃっとしていたのだが、行き違いのための停車が、二分、三分と過ぎていくにつれ、次第に落ち着きがなくなった。少女は丸っこい目を伏せて、不安でいっぱいという顔をしている。それは、これから自分がすることの成否を案じるというよりも、家を出る時に火の始末をしてきたかどうかを案じるような、そんな表情だった。
「……………」
 やがて、少女はスクッと立ち上がるや、足早に通路を歩き始めた。油引きの木の床がゴトゴトと大きく鳴り、まばらな乗客たちが次々に顔を上げる。構わず彼女は歩き続け、客室の引き戸を開けてデッキを通り、ぎぃ、と扉を引きながらステップを降りた。
 ツンとした寒気の中に、かすかな煙の匂い。ホームに出た少女は進行方向を見る。乗っていた客車の前方に、真っ黒い炭水車、続いて同じ色の機関車がいて、シュー……というかすかな音とともに白い蒸気を床下からたなびかせていた。あわてて逆側を向くと、月明かりの下に何両もの客車が連なっているのが見える。でもそれだけで、ホームには誰もいない。実は一瞬前まで助役がいたのだが、上り通過列車の監視に備えて線路の逆側へと渡ってしまっていた。
「………誰か、いないの?」
 少女は、駅員か誰か、とにかく鉄道の係員に何か聞きたい様子だった。
「あ!」
 ばさっ、と襟巻をなびかせて、彼女は扉の中へ駆け戻る。車内を後ろへ進めば車掌がいるが、その方向には目もくれずに反対側の扉へ取りついた。ガラス窓を拳で連打してから、少女は必死な顔を歯がゆそうにゆがめる。次いで客室へ戻るや空いたボックス席へ飛び込み、ガタガタと窓を引き上げて身を乗り出した。
「あのー!駅員さーん!」
 上り通過列車のための作業を終えかけていた新次は、少女の大きな声を聞いた。
「駅員さん!」
 せかす様な二度目の呼び声に彼が顔を上げると、線路の向こう、客車の窓から、顔を紅潮させた少女が身を乗り出している。
「どうしたー?」
「あのー!どうしてこの列車…ずうっと止まってるんですか?!」
「上り列車と行き違いやねん、もうちょっとの辛抱やで」
 新次が答えるや、少女はかっと目を見開いて、顔を引きつらせた。
「行き違い?……上りってことは……峠を、越える汽車?!」
「そうや!」
 新次は少し様子が変だと思いつつも、元気づけてやろうと大声で返事をした。
「この列車が………峠のトンネルを通る、最後の列車じゃ………」
「おお、よう知っとるなあ!けど今日から時間が変わって、これの後に上りの貨物が一本増えたんや」
「……………」
 答えを聞く少女は目を見開いたまま呆然としていたが、突然、ガタン!と窓を下ろすや、最後尾へ向けて車内を駆け出した。
「?!」
 ただならぬ様子に新次は身を乗り出しかけたが、そこで横からグッと肩を捕まれた。
「おい、列車!」
 上りホームに戻ってきていた助役が、「どうした?!」という顔で新次を引き留めていた。シュシュシュシュシュシュ………助役が言うとおり、麓側の闇に前照灯が見え、走行音が近づいてきている。まだ距離があり、線路を渡るには十分時間がありそうに見えたが、プロの世界ではもはや横断禁止だ。
「……………」
 新次は所在なさげに、下り列車の後ろの方へ目をやった。ほどなく、ポゥ、と汽笛が聞こえて、前照灯の光が新次の視界をぼんやりと照らし始めたが、列車の通過を見守るのは助役にまかせて、彼はそのまま構内の峠側を見つめていた。
「あっ?!」
 と、止まっている下り列車の最後尾から、サッ、と黒い影が線路へ降り立った。影は、ぴょん、ぴょん、ぴょん…と、月明かりに照らされた線路上を斜めに移動していく。遠すぎて形は見えないが、少なくとも人ではなく、そして、ひどく丸っこい感じがした。
「おっ」
 隣の助役が身構えた。線路に誰かいるのなら列車を止めなければならない。だが助役がその合図を出す間もなく、影は素早く線路を渡り切ってススキの中へと消えた。
「動物か…人を騒がせよって」
 助役は吐き捨てるようにつぶやくと、迫りくる機関車の方を急いで振り向き、片手のカンテラを大きく掲げて「支障なし」の合図をした。新次は機関車の轟音を黙殺したまま、なおも峠側を見つめて立ちつくしている。爆音の中に、機関士がタブレットを引ったくるカシャンという音。続いて黒い巨体が新次の真横を通り過ぎ、風と蒸気とを立ちつくす彼に浴びせかけた。

「人やぁー!…後ろから、客が線路に降りよったぁー!!」
 貨物列車が過ぎ去り、たまりかねたように新次が線路を渡ろうとすると、手旗とカンテラを振り乱しながら車掌が駆けつけてきた。
「人?!………もしかして………」
 やがて新次の前まで来た車掌は、息を切らしながら新次の予感どおりの話をした。
「さっき頼まれた女の子や!どん詰まりの扉をいきなり開けて、飛び降りたと思たらもう線路脇におったわ………まあ、そこそこ間はあったし、上りもそのまま走ってったから大丈夫やろけどな…」
「……………?!」
 タイミングは、新次が見た光景とぴったり符合する。ただし新次が見たのは、ぴょんぴょんという動きといい丸っこい形といい、少なくとも人間じゃなかった。だから助役も列車を止めなかったのだ。
「あれは、動物や………このへんで、あれぐらいの動物いうたら………」
 車掌と二人で峠側の線路を確認しにいく途中、新次は、いつか朝の下りに乗る老爺から聞かされた話を、思い出すでもなく繰り返していた。
『…あの、峠越えのトンネルのあたりな…月の明るい晩にな、町の用事が遅うなって夜中にあのへん通るとな、汽車はもう終わってしもうてるのに、シュッシュッ、ポッポッいう汽車の音が、えろう小そうやけどな、聞こえるねん………子狸が線路で汽車の真似して遊んどる、って、ワシが小さい頃に父ちゃんたちが言うてたけど、ホンマなんやなぁ………』
 上空の丸い月は、さっき新次が最初に見つけた時よりも、やけに明るく感じられた。



 翌朝、勤務が明けた新次は、官舎のある麓の町へ降りずに、駅前の砂利道をたどって山を登っていた。
「暑いなぁ…」
 高い青空と、道の両側でそよぐ黄金色のススキが、晩秋のすがすがしさを演出している。そして、実際に気温もそう高くはない。だが、新次は制服に革靴という姿で登りの砂利道を一時間近く歩き続けていたから、涼しいどころか額に汗をにじませていたのだ。

 昨夜は、あれから大騒ぎだった。
 新次は、線路に降り立ったものが人ではないことも、そしてそれが無事に線路を渡り切ったことも見ていた。だが車掌が「人が線路に降りて、安否が確認できない」と言っている以上、それ相応の作業がある。
 車掌と手分けして峠側の線路を見て回ったけれど、もちろん人の形跡などなかった。しかし、列車を止めて車体をあらため、事故の形跡がないのを確認できるまで、何もなかったということにはならない決まりだ。今であれば無線を介して列車を止めることができるが、当時はまだ列車無線がなく、ひとたび列車が駅を出てしまうと、自分から止まらない限り次の駅で止めるしかない。だから事の処理は、上り列車を峠の向こうの駅で止めるまで終わらないのだった。
 無事が確かめられるまでの間、いや、それ以降も勤務が明けるまでずっと、
「だから言うたやろ!…お前のせいで、こっちまでえらい目や…ああ、ワシゃどうなってしまうんや…」
助役は右往左往しながら、新次に嫌味を言い続けた。彼にとっては人間の安否よりも、騒ぎになってしまったことが関心のすべてだった。点検のせいで上り列車が遅れたのはもちろん、駅に止まっていた下り列車にも遅れが出た。程度と情状によるが、職員のせいで列車が一分でも遅れると、何らかの処分が下る建前だ。
 まだおおらかな時代だったし、麓の駅の人たちが労使揃って動いてくれたせいもあって、結果として新次にも助役にも処分のようなことはなかった。ただそれは後日のことで、この日は、翌朝に勤務が明けるまで気まずいことこの上なかった。

 さて。山道を歩いている新次の話。
 昨日思い出した老爺の狸の話が、あれからずっと彼の頭の中で回っていた。
「………そんな訳が、あるか」
 新次は今でも、思い出すだけで苦しくなるほどあの少女に恋い焦がれていたし、どう振り返っても彼女がいたのは事実だった。ましてや、狸が人を化かすなどという話は信じていない。
 百歩譲って彼女が狸だったとして、駅にいた彼女と、峠の子狸の汽車ごっこがどう結びつくのか。
 でも、少女が下り列車から、そして駅からいなくなったのは事実だ。車掌があんなウソをつく理由はないし、あれから車内も探したけれど少女の姿はなく、そして駅で待機していた助役も列車から降りてくる人間なんて見ていない。列車から出ていったのは、走り去る丸っこい影だけ…そして老爺の『子狸が汽車の真似して…』という一人語りがぐるぐると頭を回り続ける…。
 そうして一睡もできないまま翌朝の勤務につくうちに、新次は、老爺の話に出てくる峠越えのトンネルへ行ってみたくなったのだった。
「あ…」
 両側にしばらく続いていた常緑樹の林が切れて、黄金色のススキ野原が広がった。
「この原っぱは、列車から見たことがあるような気がする…」
 故郷は峠の向こうなので、帰省のたびに新次も汽車で峠を越している。果たして右手を見ると、なだらかな起伏を描くススキ野原の中に「蠅叩き」と呼ばれる鉄道特有の電柱が並んでいた。電柱に支えられて通信用の細い線が数本宙を走り、その下だけススキが筋状に途切れている。その細い筋を目でたどっていくと、少し先で崖に突き当たり、そこにトンネルが口を開けていた。
「これか………峠のトンネル」
 煉瓦造りの坑口を見ながら足を進めていくと、すぐ先で、線路の方へ向かう細い道が枝分かれしていた。新次はススキの間に続くその細道を、迷わず選ぶ。やがて警報機も標識もなく、線路に木道が渡してあるだけの踏切に至る。
 踏切の左手が、すぐトンネルの坑口だ。何気なしにそちらを向くや、彼はそこに立ちすくんだ。
「……………」
 線路の両脇はススキではなく、茶色くなった蔓草が繁っている。踏切のたもとにその蔓草が刈り取られた一角があって、そこに真新しい土饅頭が盛り上がっていた。土は、ついさっき固められたという感じに湿り気を帯びている。線香と徳利が手向けられ、線香はいい匂いの煙をたなびかせていた。
 新次はしばらくの間、煤けたトンネルの坑口と目の前の土饅頭とを交互に見合わせながら、そこに立ちつくしていた。ざわっ、と音を立てて、周囲のススキ野原がきらきらと風にそよぐ。
「子狸、や………」
 老爺の『子狸が、汽車の真似を…』という話が、新次の頭の中で、にわかに目の前の土饅頭と符合した。心のおもむくまま、彼はそこにひざまずき、目を閉じて静かに手を合わせる。
「そうか…ダイヤが変わって終列車が伸びたなんて、お前さんらには分からんよなあ………気の毒したな」
ついさっきまで狸の汽車ごっこなど信じていなかったのに、新次はいつの間にかそう呼びかけながら、目の端に涙すら浮かべている。
「ん?」
 やがて新次が目を開けると、視界の上の方で、ススキの中から狸が一匹、茶色い顔をのぞかせていた。
 子狸というほど小さくははないが、駅のそばで時々見かける大人の狸よりは小さく、顔立ちもどちらかというと、まだ子狸に近かった。新次が顔を上げて目と目が合うと、狸はあわてて首を引っ込め、ガサガサッ、と薄の中へ逃げ去った。
『…妹や弟たちが、夜になっても外遊びをしたがるものですから…』
 その狸に、新次はふっ、と、昨夜の少女の言葉を思い出した。
 狸の目はどこか物悲しげで、そして、あの少女のくりっとした丸い目に似ている。と、彼は思った。


     (完)


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