丸い月



   T

「十七、八でお嫁に行くなんて、私、嫌です……………私には、夢が、あるんです……………だからお願いします!………まだ、この駅から麓へ降りる汽車があるんでしょう?」
 彼を見上げてそう言った少女の、二重のくりっとした丸い目。頬に赤みを残した色白の顔。そして三つ編みの長い黒髪…それだけは今もはっきりと彼の脳裏に焼き付いていて、一度思い出すと、昔話じゃないかと思いながらもしばらく回想を続けてしまうという………。



 ある温暖な海辺の町に、六十代もなかばを過ぎたSという伯父がいる。
 伯父は中年まで鉄道に勤めた後、小さな商売を始めて小さく成功を収めたが、それを五、六年前にさっさと息子へ譲ってしまい、今は故郷でもあるその田舎町で隠居の身だ。晴れれば畑仕事や釣りに出かけ、雨が降れば書物を読んだり俳句をひねったりという生活を、妻と二人で送っている。
 これから書く話は、そのS伯父の昔語りである。伯父が二十歳前後の頃だというから、この物語の舞台は今から四十年以上前、つまり新幹線が開業するかしないかで、まだ蒸気機関車が各地で走っていた大昔、ということになる。
 もっともこの伯父、山の天気や魚の生態、それに外国での見聞などをまことしやかに語って聞き手を引き込んでは、いつの間にかしょうもない作り話に移り変わっている、という手の込んだ冗談を平気で仕掛けてくる食えない年寄りだから、どこまで本当かは分からないが………。
 なお、S伯父、と書いていては雰囲気が出ないので、以下、伯父については本名の「新次」でもって記す。



   U

 新次は、その故郷の町から北東に数十キロ離れた、山あいの小さな駅で信号掛として働いていた。
 駅、といっても、その主な役目は乗客を扱うよりも、峠を越える、あるいは越えてきた列車を待たせて、反対方向の列車と行き違いをさせることだった。現に、数少ない駅員はみな新次と同じ信号掛で、その上司である駅長や助役も信号扱いしかしない。つまり乗客からすれば無人駅と同じで、どんな田舎駅でも出札や改札の駅員が普通にいた時代としては異例だけれど、人里離れた山中だからそれで不都合はなかった。
 一日に何本もの列車が峠を通り過ぎるが、この駅に止まる旅客列車は上下三本ずつだけ。実は他にも普通列車が数本止まっているのだが、行き違い待ちのための停車で、市販の時刻表を開いてみても通過の
「レ」印があるだけだった。
 もちろん乗客だって、一日を通しても数えるほどしかいない。駅から離れた場所に点在する集落から歩いてきて、用向きや買い物で麓の町へ出る農家のおっちゃんやおばちゃん。あとは、当時の田舎ではまだ少なかった、高校へ通う少年少女がちらりほらり。駅前には商店どころか人家すらなく、砂利道を挟んで森があるだけだ。その砂利道を通り過ぎる人や車も絶無で、汽笛や汽車の通過音以外で音といえば、木々のさざめきと虫の声だけだった。
「こーっちにある、あの、峠越えのトンネルのあたりな…月の明るい晩にな、町の用事が遅うなって夜中にあのへん通るとな、汽車はもう終わってしもうてるのに、シュッシュッ、ポッポッいう汽車の音が、えろう小そうやけどな、聞こえるねん………子狸が線路で汽車の真似して遊んどる、って、ワシが小さい頃に父ちゃんたちが言うてたけど、ホンマなんやなぁ………」
 朝の下り列車を待つ耳の遠い老爺が、ススキに囲まれた上り方向を指しつつ一方的に新次へ語りかけてくる。
「おっちゃん、今は昔と違うて、夜中まで汽車が通るんでっせ」
 そう教えたいのをこらえて新次は適当に相槌を打つのだが、夜、その日最後の列車を見送って、しいんとなった闇を見つめていると、朝の老爺の話が妙に真に迫ってきて、来るはずのない蒸気機関車の走行音が今にも聞こえて来そうな気がしてくる………駅のそばで狐や狸を時々見ているせいもあるが、とにかく、それほどに寂しい場所だった。



 暦の上では秋にあたる、ある晩の九時台。
 新次は相番の助役と入れ替わりで食事休憩に入っていた。遅めの夕食が熱い汁物だったせいで、食べ終えると少し体が火照った。それで新次は、駅長事務室の重い引き戸をガラガラと開けて右へ折れ、斜面を上がって真っ暗な上りホームに出た。
「うう、寒っ」
 山の秋は短く、駅の向かいにある紅葉はとっくに散って枯れ枝をさらしている。星空は冬のように澄みわたり、新次の吐く息は白い。小一時間前に列車を見送った時も寒かったが、それからさらに気温が下がっていて、今すぐにでも霜が降りてきそうに思えた。事実、あと半月もしないうちに、事務室の脇に霜柱が立つようになる。
 でも今の彼には、その冷気が心地よかった。
「ふぁー……ぁ」
 とりあえずホームの先端に向かって歩きながら、新次は、気持ちよさそうに伸びをした。風が冷たいのではなく、空気自体がツンと冷えていることが、眠気を帯びた彼の頭をすっきりとさせる。鈴虫の季節はとっくに終わり、そして風もないから、小さな電球がポツリと灯るだけのホームに響くのは、コツコツという新次の乾いた足音だけだ。
 彼はしばらく歩いてから、足を止め、ホームの柵に寄りかかると、制服のポケットからタバコを取り出し、くわえて火をつける。そして、深く一服吸い込んでから、
「はぁ…」
というため息を煙とともに漏らし、だらりと下を向いた。

 列車の通過や行き違いは終日、おおむね一時間前後に一度ほどある。夜間には何時間も開くときがあるし、それを抜いても計算上は待っている時間の方が長いのだが、列車を通す時にする十分から二十分間ぐらいの作業は、何年やっても緊張する。
 今でこそ日本中の鉄道信号はほぼ自動化され、行き違いのために係員がいる駅なんて絶滅寸前だが、この時代はまだ多くの区間で、行き違い駅のポイントや信号を、人間が前後の駅とやりとりしながら切り替えていた。助役が前後の駅と連絡しながら「閉塞」という手続きを取り、その助役の指示で新次がポイントと信号を切り替える。彼らが手順を誤れば、簡単に事故が起こってしまう。
 加えてこの日はダイヤ改正の初日で、新次はいつにもまして疲れを感じていた。当時、経済成長に従って増える貨物輸送はまだ鉄道が主役を担っていて、この路線も貨物列車を中心に何本か列車が増えた。当然、新次の駅でも、これまで通過するだけだった列車が行き違いをするようになったり、到着の順序が前と変わったりしていて、そのことが朝から彼の神経を徐々に消耗させていた。もちろん、新しいダイヤは前もって周知されていたし、必要な訓練も受けてはいたが、やはり本番というのは違う。
「…面倒な日に、当たってもうたよなぁ…」
 加えて改正初日ということだからか、鉄道管理局の担当者が「視察」と称してやって来た。お上から視察先に選ばれればどんな管理職でも緊張するだろうけれど、この春から新次と相番になった助役は、強い者に弱いばかりで主体性がなく、この駅の信号掛ばかりか両隣の駅員たちからも「ヒラメ」とあだ名される中年男。朝の点呼からえらく興奮していて、普段は申し訳程度にしかやらない指差確認でも、
「タブレットよぉし!」
「上り出発、進行ぉ!」
耳障りなダミ声を張り上げ、バネ仕掛けみたいな大仰に動作をやる。自らそうするばかりか、
「声が小さぁい!基本動作をおろそかにするなぁ!」
日頃から正しい動作をしている新次を、ホームから大声で怒鳴りつけるのだ。麓の駅長に連れられて視察がやってきたのは夕方の一時間足らずなのだが、それまで一日これが続いた……決して悪人ではないし、新次もまだ若輩で性格も穏やかだったから部下らしく彼に接してきたが、さすがに今日は内心穏やかじゃない。事務室を出たのも、半分は、卑屈に笑って何か言いたげだった助役にそれとなく背を向けるためだった。今と違い、上司相手に少々もめたって不利益はないのだが、新次の性分としてそれが精一杯の意思表示だった。

「……まあ、今日はあらかた終わったし。あとちょっとや」
 この後、あまり列車が来ない三時間ほどを過ごしたら、仮眠に入れる。あとは翌朝、上下四本ずつの列車を見送ったら交替だ。新次はタバコを足でもみ消しながら、何かを振り払うかの様に勢いよく顔を上げた。
 ホームのほとんどには屋根がない。その時、彼は初めて、十五夜の丸い月がぽっかりと空に浮かんでいるのに気づいた。新次は上空の月とホームの地面とを交互に見ながら、事務室に戻るべく歩き出す。真っ暗だと思っていたホームは、満月に気がついた後であらためて見ると、月光を受けてほのかに青白かった。
 上りホームを降りる斜面まで戻って来た時、事務室の中から
「リンリン」
とベルが鳴って静寂を破った。閉塞機という機械が、麓の駅からの「そちらへ列車を出してよいか」という合図を伝える音だ。こちらからは助役が合図を打ち返したり、逆側の隣の駅と合図を交換したりして、やってくる列車の通行を確保する。そうやって一度「通行OK」の状態を作ると、列車がその区間を通過し終えるまで次のOKが出せない機構になっていて、それが列車の衝突を防いでいるのだが、ともあれこのベルの音は、列車がこの駅へ近づくことを意味している。
「さあ、仕事や…」
 足はくたびれているし、切り替えたはずの気持ちもまだ重かったが、
「上りの通過だけや、楽勝楽勝」
軽く自分を励まして事務室を目指した。通過だけなら信号掛の仕事は、ポイントの向きと信号を合わせて列車の通過を見送るだけだ。
 入口まで来ると扉がガラガラと開き、タブレットキャリアという革製の輪っかを肩に掛けた助役の姿。
「おぉ………もっと、ゆっくりしとってええのに」
 新次の戻りはむしろ遅刻気味なのだが、助役は大柄な体を縮こめて彼の顔をうかがい、あいまいに笑う。
「あのな、昼間はな……何や、そのぉ……一日ご苦労さんやったな」
 出たよ。何言ってやがる…卑屈で歯切れの悪い物言いに新次はうんざりしだが、口には出せない。
「はあ………それよりあの、列車が」
「あ!そう、それなんやけどなぁ……お疲れやろから、後はワシがやるで。今日はこのまま仮眠に入ってええから、な」
「えぇ?」
 それで昼間のざまを許せ、ということらしい。新次個人にも気まずさを感じているようだが、それよりも、麓の駅に組合活動の闘士がいて、何かあると、一人ずつバラバラに勤務する信号掛にかわってこの駅にも押しかけにくる。国鉄の労働運動が職場を仕切るような勢いになるのはまだ先のことだが、その闘士は仕事でも職場の信頼が厚く、麓の駅長でもむげに扱えなかった。ましてヒラメと呼ばれるこの助役にすれば…ということで、要は麓の駅に言いつけないでくれというメッセージらしい。
「いえ、そんな…結構ですよ」
「そんなこと言わんと…な、大丈夫や。これの次の行き違いが済んだら、あとは全部通過だけやし」
誰に言うつもりも新次にはなかったが、問題はそんなことじゃない。ただの通過であれ何であれ、この時間の作業は二人でする決まりだ。しかも助役みずから言うとおり、この後には今日最後の行き違いもあった。下りが通過するだけだった時間に上りの貨物列車が新設され、今日から下り列車が止まって行き違うダイヤになったのだが、ただの通過に比べて手順はぐっと増える。まあ、こんな助役でもベテランだから、たぶん何事もないだろう。しかし万一事故が起きたら…新次まで巻き添えにされては、たまらない。
「それが今朝、人に何度も大声で『安全綱領』言わせたヤツの台詞か?」
 でもその一方、くたくたなのは事実で、仮眠はさておき、この時間にいくらかでも休めるのは魅力ではあった。そして必死にすがってくる助役は顔面蒼白で、このまま作業につかせたら逆に何かやらかしかねない。
「…ほな、この次の列車の前まで休ませてもらいます。それで、十分ですから」
「そ、そんなでええんか?ならええけど…けどそのぉ、無理せんでな。いつでも言うてや…」
 卑屈な困り笑いをしながら助役は背を向け、事務室のさらに向こうにあるポイント小屋へ小走りに駆けた。小屋といっても屋根だけで、助役が倒すポイントの梃子が新次からもよく見える。指差確認は普段の雑なやり方に戻っていたが、梃子の向きはすべて正しく、上りの出発信号は腕木の根元に青い灯火を見せた。戻ってくると、助役はまた卑屈な笑みを見せてから新次を通り越して上りホームへ行き、そこに立つ柱の突端にタブレットキャリアを差し込む。キャリアの中には「ここから一つ先まで通行可」ということを示す金属板が入っていて、通過列車の機関士は「前の駅からここまで」の通行証を落としていくのと引き換えに、こいつを引ったくっていく。
「これで大丈夫や………ったく、どっちが助役か分からへん」
 作業が終わるのを見届けると、新次は事務室のすぐ手前にある待合室の扉を開けた。休憩をもらったところで外に喫茶店があるような場所じゃないし、事務室に戻ったら助役の隣に座っているしかない。待合室はもちろん旅客用のスペースだが、駅に止まる数本の列車が来る時以外は誰も来なかった。それでいて長椅子も灰皿もあり、ストーブの残り火でまだ温かかいはずだ…。



「あの」
 甘ったるい、それでいてどこかツンと透き通った声がした。
 うつむき加減で待合室に入ってきた新次は、びっくりして顔を上げた。
 裸電球に照らされ、鈍い飴色をなす木の壁。その壁に沿った長椅子の一番ホーム寄りの端に、紺色のコートを羽織った十五、六ぐらいの少女がちょこんと座り、救いを求めるような眼差しで新次を見ていた。長く外を歩いてきたらしく、寒さで頬が真っ赤になっている。
「ああ、ええと………」
 列車に乗るためか、あるいは誰かを待っていて、それで列車の有無が聞きたいのだろう、ということが、新次には即座に理解できた。しかし麓の町へ行く下りも、麓から帰ってくる上りも、この駅で客扱いをする列車はすべて終わってしまっている。すがってくるような少女の眼差しを見ると、それを言うのは少しためらわれたが、ウソを言っても仕方がない。
「今日の汽車は、もう全部終わっ…」
「終わっちゃいましたよね………やっぱり」
 新次が答え終わる前に、少女が言葉を重ねてきた。
 言葉を重ねながら、くりっとした丸い目をすぼめて下を向く。
 列車の時刻を知っている…少女は普段からこの駅を使っているらしい。そういえばコートはいかにも高校指定のものという感じだし、裾の下からは、ひだの多い黒スカートが膝下まで伸びている。そして白い靴下に黒い革靴…そういう目で眺めると、少女の丸い目は、何度か見たことがないでもない気が新次にはした。
 とりあえず、彼は尋ねる。
「…下りに、乗るつもりだったんか?それとも…」
「下りです。麓へ行かなきゃならなくて」
 少女の答えは素速かったが、答え終えるや、耐えかねたように表情が弱々しくなる。
「どうしよう………」
 うつむいた少女の小さな口から、つぶやきとも訴えともつかぬ言葉が、ぽつり、と出た。さっきまでストーブがついていたから外よりは暖かいはずだが、それでも彼女の言葉は白い息になる。毛糸の襟巻きを細い指でいじりながら、彼女は泣きべそみたいな顔をした。
 とはいえ、ただ弱々しいだけじゃなく、その顔にはけなげさというか、思い詰めたような悲壮さが混じっている。そんな彼女の表情がとてもいじらしく思えて、新次は、
「何があるのか知らないけど、何とかしてやりたいな…」
と考え始めた。
「けどなあ………」
 しかし、終わってしまったものは終わってしまっている。
 いや、前に書いたとおり、下りがあと一本だけ行き違いのために停まる。しかも旅客列車なのだが、運転上の都合で止まるだけで通過扱いだから、客の乗降はできない。なんだか気の毒そうだから乗せてやりたいけれど、管理職である助役がここにいる限り、彼がウンと言わなければ無理だ。強い者に弱く、面倒を避けることしか頭にないあの助役が、そういう特別扱いを認めるだろうか…気弱な新次に彼と真顔で向き合い、説き伏せてそれをさせる度胸はなかった。車掌に頼んで勝手に乗せてしまおうにも、列車がいる間、新次はポイント小屋にいなければならないし、かたや助役はホームで目を光らせている。
 だが…。
 さりとて少女の思い詰めた様子を見ていると、むげに「家へ帰れ」とは言いづらい。また、そんなことを言ったら彼女は、麓へ向けて砂利道を歩き出しかねないように見えた………町まで、線路の距離で約七キロ。道は遠回りをしているから、もう少し長くなる。その道には灯りもなければこの時間に車が通ったこともなく、両側の深い森は人を襲う鳥獣のすみかだ。加えて道中には、道から外れるとガードレールもなしにいきなり谷底、という場所がいくつもあって、いつか昼間に先輩の軽トラックで通った時にも、恐い思いをしたことがある。いわんや闇夜の中をや、だ。


   (つづく)


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