『紙一重のわがまま【Complete】』作品サンプル3

サンプル2より続く)




 翌週のある日。容赦のない夏陽の下で、期末テストが始まっている。
 放課後、といってもまだ昼前だが、ともあれ綾美と葉月は、今日も階段の頂上にある薄闇に座っていた。今は二人とも、目を閉じて足を投げ出して、ただ涼しさに身をゆだねている。
 少し前まで、今日行われた国語、それから簿記と英語のテストについて感想が交わされていた。
 綾美の英語はさんざんだった。ノートの一部を唯香理に渡そうが渡すまいが、ノート自体をろくに見直さないから大差はなかった。簿記に至っては、できないというより大半は意味が分からなかった。簿記というのは、一学期ぐらいまでにやった内容を基礎としてずっと使うから、この時期の内容が分からないというのは英語ができない以上にまずい。しかも年度末に検定試験があって、その合格が進級の要件になっている。
 とはいえ英語も簿記も、葉月みたいな優等生にとっても相当にいやらしい内容だったようで、テストの話題は愚痴や教師の陰口だけになった。だから、綾美は叱られずに済んだ。
 その後、しばらく沈黙が続いた。
 今日の綾美は髪をツインテールに結んでいて、片方の結び髪が葉月の肩にかかっている。

 綾美が小声で、沈黙を破った。
「あのな、自分のお母さんに彼氏がおるって………葉月だったら、どう思う?」
 綾美は二重瞼をうっとりと閉じたまま、どうでもいい話のようにゆるゆると言った。ただ、声には針みたいな鋭さがこもっていて、そして言い終えると、急に目を開けて大粒の瞳を葉月に向けた。
「え?」
 綾美の瞳に、葉月は思わずたじろいだ。そして十秒以上経ってから、ようやく聞き返した。
「………綾美の、お母さん?」
「うん」
「急に?」
「ううん。もう、その男の人が家に来るようになってから、半年ぐらいになるんかな。今は、再婚とか考えとるかも………でも葉月に聞いても、しょうがないか。ゴメンね」
 葉月は「聞いてもしょうがない」という言葉に腹を立てたりせず、しょうがないことを謙虚に理解した。
 綾美の家に父親がいないことは、かねて知っている。が、葉月には今も、父と母の両方がいた。それでも母親が他に恋人を持つことは理屈上はあり得るけれど、それだと、綾美が直面する状況とは問題が違ってしまう。結局、綾美の置かれた状況については、うわべの想像しかできない。
 綾美は元どおりに目を閉じて、顔を上に向けた。葉月は眼鏡越しに綾美の顔を眺めたまま、所在なげに自分の長い髪を触り始める。
 一分ばかり沈黙が続いた後、葉月が、おそるおそる尋ねた。
「……相手の男が、その………嫌な感じの人なん?」
「ううん。優しいよ。お金もあって、家も助かっとるし」
 綾美は目をつぶったまま、けろりと答えた。そして少し間を置いてから、言葉を継いだ。
「でも、それが嫌。完璧すぎてて気持ち悪い。なんでそんな人が私のお母さんなんかに…って感じ」
「え?」
 葉月が、意外そうな顔をする。
「それに…お母さんがね、そういう男に合わせてニコニコしとるのも、なんか変な感じで嫌」
「変な、感じ………?」
 葉月は申し訳なさそうに、綾美の横顔から目を離した………綾美の胸の内を想像しようにも、結局、置かれた状況が違いすぎる。「相手の男が」と大人っぽい言葉遣いをした葉月だけれど、実は男女交際どころか異性を好きになったことすらない。綾美の母親の気持ちを考えようにも、手掛かりがまるでなかった。
 とりあえず葉月は、入学式の時に会った、綾美の母親を思い起こしてみる…。
「……最初、『綾美、叔母さんがおるんだ』って思った。今年で四十って綾美が言っとったけど、それでも家のお母さんより八つ下で、おまけに三十二、三にしか見えんかったっけ。色白なのと、口や顎が小さくてかわいいのとが、綾美は似たんだね。目は一重で綾美より細いけど、でも、綾美よりスラッと背が高くて、黒っぽいスーツとタイトスカートがよく似合っとったなあ……あんなに若くてきれいな女の人なら、彼氏の一人ぐらい………だけど、そのくせ綾美を『これっ!』って言ってはたいたりとか、『バカ娘がお世話になってます』って私にお辞儀する姿とかって、何ていうか、お母さんそのものなんだよねー……そうなると綾美にしてみたら、やっぱり彼氏なんて変な感じかも………」
 回想から思案へと移っていくうちに、葉月なりに、綾美の言う「変な感じ」の中身が分かったような気がしてきた。けれども「たしかに変だよね」と答えて済ませるのは綾美の母親に悪い気もしたので、
「変な感じなのは分かるけど、綾美のお母さんだって女なんだから」
そんな風にまとめたくなった。しかし、それはそれで、綾美に対して軽口にあたる気がする。
 結局、葉月は黙りこくって、かわりに綾美の頭を軽くつついて次の言葉を促した。
「…お母さんもあの男も、ホントにお互いを、愛しとるんかな…」
 しかし綾美がボソッと言った言葉は、なおさら葉月を困惑させるだけだった。



 学校帰りの境線。一両きりのディーゼルカーが、今日も畑を見つつ半島を北上する。
「んーっ………」
 葉月が降りて独り占めになったボックス席で、綾美が両手を上げて伸びをした。斜め後ろから日が射してきていて、彼女の気持ちよさそうな顔をシルエットにする。
「あーっ、今日も終わった!」
 一人きりになると、綾美の中に解放感がこみ上げてきて、いつも思わず伸びをしてしまう。これが一本前の列車だと、大勢の高校生に混じってホームで並んだ挙げ句、伸びどころか座ることすらできない。混雑を避けるのも、放課後に葉月と一緒に過ごす理由の一つだった。
「さて、私も降りるか…」
 惰行していた列車がゆるゆると速度を落とし始め、やがて和田浜の駅に止まった。屋根もない、一本きりの線路に貼り付く小さなホーム。車体の床下から陽炎が立ち上り、その向こうに、ペンキの剥げ落ちた小さい待合室が見える。日に焼けた中学生の男子が二人、弾けるように前ドアから飛び出した。少し遅れて綾美の夏服姿が、ゆっくりとホームへ降り立つ。
「…暑っ」
 冷房との温度差にひるみながら、綾美はトボトボと待合室を目指した。列車が、重たいエンジン音と石油臭い排煙を撒き散らしながら彼女の横をかすめていく。駆け足で降りていった中学生は、もう見えない。駅の横にある大きな樹から、けたたましい蝉の声。春から数えて何十回と通り抜けてきた無人の待合室を、今日も綾美はくぐり抜けた。
 そしてまず、広い畑の真ん中を、まっすぐな一本道で突っ切らなくてはならない。
 トウモロコシやトマトの茎などで青々と覆われた部分と、ネギがびっしりと生え揃った場所、そして秋以降の耕作を待つ更地。名産というだけあって、ネギ畑はここに限らず列車の窓からやたらに見えるのだが、とにかく照りつける太陽を防ぐものは何もない。
「なんでここまで、影がないのかな…」
 顔をしかめた綾美が、猫背でトボトボ歩いていく。この豊かな風景自体は綾美も好きで、落書きの背景にもたびたび登場させてきたのだが…。
 その不本意な日光浴を続けながら五分ほど歩くと、バスが通る道に突き当たる。右折してその道へ。広くもなく狭くもない道の両側には、ネギ畑を挟みつつ民家や商店が並ぶ。しかし建物はあっても向きが悪くて、日中は影が短い。やがてその道を左折して、木造家屋に囲まれた狭い道に入ると、そこでようやく、まとまった日陰が得られるのだった。
 今日も綾美は、影に沿ってその細い道を歩く。ほどなく、唯香理の家の前へ差しかかる。周囲の家々よりも高い、濃い色の板塀をめぐらせた大きな家。二度目に彼女と会ってから、七日ほどが過ぎていた。
「すぐにでも、また会いたい」
 綾美はそう思っているが、家を訪ねれば唯香理の母親がどんな顔をするか不安だ。
 唯香理に直接電話しようにも、電話番号が分からない。唯香理の電話機に赤外線の機能がなかったので、彼女に綾美が自分の番号を教えていたのだが、唯香理はかけ直すのを忘れているらしくて、そのままになっていた。
 最初に唯香理と会った時間帯に表へ出てみたことも何度かあったが、彼女の家からは誰も出てこない。
 綾美は振り返って、そびえ立つその家を見上げた。普通の二階屋よりもずいぶん背が高く、屋根の上には小窓のついた塔屋が突き出ている。三階と言った方がいいような広い屋根裏部屋もあったのを思い出しながら、綾美は二階の唯香理の部屋のあたりへ目を移す。長く伸びた屋根が二階の壁をほとんど覆っていて、窓が見えない。そのせいか、物音が聞こえそうな予感すらしなかった。
 結局何をするでもなく、ふう、と小さく溜息をつくと、綾美は向き直って歩き始めた。

「ん?」
 やがて遠目に自宅の門が見えてきたが、家のそばの路上に人の姿があるのを綾美は認めた。
 昼間は人通り自体が珍しいのだが、その人間は立ち止まって、キョロキョロしながら綾美の家を塀越しに覗き込んでいる。
「…誰?」
 近づくにつれ、その人物がずんぐりしていて、背は自分よりも少し高い程度なこと、厚手の青いシャツを羽織るように着て、はだけたその下はTシャツであること、年格好は四十歳ぐらいで、目がギョロッとしていて、そして男だということが順に分かった。性別が一番最後になったのは、天然パーマらしい髪がもじゃもじゃに伸びていて、女か男かにわかに決めかねたからだ。
「……まさか、変質者?!」
 綾美の足が、思わず止まった。そう思って見てみると、男の風体は怪しいことこの上ない。胸に動悸が走り、背筋に気持ちの悪い汗がにじんでくる。
「大声を、出してやる」
 そう綾美は決心した。が、緊張で喉がカラカラに乾いていて、大声が出せそうにない。
 それでも、振り絞れば叫ぶぐらいできたはずだが………なぜか綾美は、それを自分の意思でやめた。
 男は彼女の家を覗き込みつつ、首を左右に振って周囲を警戒し続けている。だが、首の振り方がまるで何かの踊りみたいに大仰で、しかもそれを車のワイパーのように頻繁に繰り返していた。
「アハハッ…あれじゃあ、かえって目立つがぁ」
 動きの面白さに、綾美は思わず笑ってしまったのだった。しかも、そこまで用心しているくせに、男は十メートル近くまで迫った綾美の姿に気づかない。それも滑稽で、もう怪しいというより漫画の世界だった。
 加えて、その男の顔………中年男なのに、目だけが真ん丸で少年みたいにあどけなく、かつオドオドしているのが、この距離から見ても伝わりすぎるぐらい伝わってくる。まるで、叱られそうな子どもが家に親がいるかどうか確かめているみたいな、そんな瞳…。
「ふふっ…かわいい」
 動悸も喉の渇きも忘れ、綾美は何気ない風を装って歩き出した。とはいえ念のため、手には道端にあった石を握っている。一つ手前の家の縁側が開け放たれ、いつでも飛び込めそうなのも確かめていた。
 そして男の後ろに回り込んで二メートルほどの距離を置くと、綾美は笑いながら男の背中に呼びかけた。
「ねぇ、何してるんですかぁ?」
「わぁっ!」
 男が大仰にビクッとして、首を綾美の方へ急回転させた。二重瞼の大きな眼窩から、黒眼がちの両目が飛び出さんばかりに剥かれている。そのまま噴き出た汗を拭おうともせず、男は震えた口をパクパクと動かした。
「あっ……いやそのこれは、あのその………」
 言いながら彼は、鳥の巣のような頭をバリバリと掻き始める。声は必要以上に大きいが、あわてるばかりで中身のある言葉が出てこない。
「私の家に、ご用ですか?」
「え?!………き、君の………家なの?!」
「はい」
「そ、そうかそうか!そりゃ失礼……」
 男は頭も下げずに綾美の顔を眺めたまま、片手でくせっ毛の頭を掻き続けた。よれよれの袖から出たもう片方の手が、ズボンの太腿をしきりに拭っている…
 こういう、いわゆるオタク系な感じの男が概して小心なのを、彼女は過去の経験を通じて知っていた。
 身なりや行動は変だけど、変質者とはちょっと違う…綾美は、いよいよそう確信した。
 そう信じ切ると綾美は一歩踏み出し、背中をわざと縮こめて、自分より少し背が高いだけの男をあえて下から見上げる。おのずと彼女の丸い目は上目遣いになり、そのまま、つとめて弱々しい声を出す。
「あのぉ…私の家の前で、何を、なさってたんでしょう…?」
 見上げる仕草と上目遣い、そして自分が持つ幼い容貌やあどけない声音が、どうやら、この手のオタク男の好みらしい…容貌が幼いのを認めるのは悔しかったが、綾美はそういうことも知っていた。

 脇道にそれるが、綾美がなぜ「こういう男が概して小心」だと知っていたり、自分の容貌が「この手の男の好み」だと知っていたりするのか、少し書いておく。
 綾美は中学生の時に図書室の係をしていたが、そこで、彼女が今向き合っている男のような、むさ苦しくて挙動が大仰で声が大きくて早口な男子たちが彼女を取り巻いた。
 彼らはたとえば、大量の作業を抱えた綾美が書架の前で「どうしよう…」という風に顔を曇らせるや、競ってやってきて、奪うように作業を分担してくれた。
 もちろん最初は、綾美は訳が分からない。
 でも、そうしてみんなで作業をしていると、やがて彼らの誰かがチラチラと綾美を見てくる。眼差しには好意の色がありありと宿っていたが、綾美が見上げて目が合うや、彼らはあわてて視線をずらす。でも、斜め下を向いた彼らの顔は、とても分かりやすく緩んでいた。さしあたりはそれで満足といった感じで、しかも綾美の目の前でそうする以上、どうやらその思いが綾美にバレていないと信じているらしい。
 彼らの多くは、漫画やロボットアニメに凝っていた。女子の図書係はもちろん綾美の他にもいて、かつ彼女たちの多くも漫画の読み描きを趣味にしているというのに、なぜか男子たちは好意を寄せる様子がなく、逆に門外漢の綾美が漫画本やアニメ雑誌をめくったりすると、競って知識を授けようとしてくる…。
 …そんなことが半年も続き、人が入れ替わっても続くとなれば、綾美も気づかないわけにはいかない。
 気弱でうじうじした彼らは、決して綾美の好みじゃない。でも、かわいいとは思えたし、そして何より、そこまで気弱である以上は、面と向かって奉仕の見返りを求められる気遣いはなかった。
「じゃあ、思いっきり甘えちゃおうっと」
 それで綾美は安心して彼らの好意を利用し、大いに楽をしながら、長く図書係を務めて教師の賞賛を得たのだった………ひ弱で繊細な少女に見えて、実はこういう大胆で図太い一面も綾美の中には潜んでいる。
 それは彼女の汚い部分にも見える。けれども、今向き合っているこの男を外見だけで変質者扱いせず、近づいて人柄を見てみようとした彼女のおおらかさも、その図太さの賜物だ。そして、からかいたいという気持ちは、相手を頭ごなしに嫌悪していない証拠でもある。

 さて、綾美がからかい始めた、目の前の男。
 綾美に見上げられると、果たしてオドオドと動いていた男の大きな黒目が、ぴたりと止まった。
「私の顔をチラチラ見ながら、それを気づかれないように、作り笑いでヘタな話をしてくる」
 過去の経験から綾美はそう予想し、そのとおりになるのを楽しみにしていた。
 しかし、男の瞳はチラチラと綾美の容姿をうかがうどころか、彼女の真正面で止まったまま微動だにしなかった。ヘタな話で取り繕うどころか、二重の大きな目を見開いたまま一言もしゃべらない。人に覗きを見咎められた衝撃が大きすぎて、好みの女の子どころではないのか…。
「あの、どうしたんですかぁ?」
 …なんかちょっと違う、という感想を抱きつつ、綾美はなおも澄んだ瞳を男に向け、そしてこころもち首を傾けた。ツインテールにゆわいた髪が、ふわりと動く。
 だが、男は綾美の仕草とは無関係に、
「あっ」
と声を出し、しょっていたリュックを前に回して、ほじくり出すようにスケッチブックを一冊取り出した。
「ちょ、ちょっとその、絵の材料を漁ってて…」
 震える手で、男はページをめくってみせる。海や松林、この道沿いの家の並び、綾美の家のそばにある神社…鉛筆書きのスケッチが何枚も見えた。海からここまで、スケッチしながら歩いてきたのが分かる。
「……………」
 めくられていくスケッチは、どれも上手で、そしてとても美しくて、綾美は思わず息を呑んだ。
「つまり、その…絵的にこの家が気になっただけで…決してあの、怪しいことしてたんじゃ、ないんだ…」
 男の落ち着かない言動は相変わらずだったが、どうやらウソではなさそうだ。
 しかし、自分の家を覗き込む行為が愉快じゃないことに変わりはない。
 そしてそれ以上に、男が思惑どおりにならないのが面白くなくて、綾美は不機嫌な真顔になった。
「でも、人の家を覗くのはやめてください!」
「…はあ、すみません」
 そして綾美は「あちらへどうぞ」というジェスチャーをして、男にどこかへ行くように促した。しかし通じないのか、男は頭を掻きながら彼女の顔をうかがっている。
「早くどこかへ行って!通報しますよ!」
 それで男はようやく一歩下がり、ペコリと頭を下げると、綾美がやってきた方へ早足で歩いていった。
 綾美は男が去るやダッシュで門の中へ駆け込み、鞄を胸に抱えてその場へしゃがみ込んだ。
「一体、何やってんだ私………」
 心臓が飛び出しそうなぐらいの動悸に阻まれつつ、途切れ途切れに声に出して綾美はつぶやく。
「…あんなことして、もし変質者だったら、どうするのよ…」
 絵が上手だからといって変質者じゃないという保証は、よく考えたら特にない。もっと言えば、あの絵があの男の作品だという保証もなかった。男の作だとしても以前に描いたものかもしれず、どちらにしろスケッチという理由はカムフラージュとして最適だった。
 それと、もう一つ。
「私………何であんなこと、できたんだろ………?」
 見ず知らずの、それもはるかに年上の男をからかおうとしていた自分に、綾美は後から驚いてもいた。
 時に大胆になれるとはいえ、綾美自身にその自覚はまだない。ひ弱で繊細な部分の方が、やはり彼女の中では圧倒的に優勢だった。

 少し落ち着くと、男が引き返して来ないか綾美は不安になった。立って、門柱の陰から道をうかがう。
 ずっと先の方に、男の後ろ姿があった。綾美は目がいい方だけど、それでも青いシャツともじゃもじゃの髪が何とか確認できるだけだった。男はそれぐらい遠くにいたし、加えて陽炎がその姿をゆがめている。
 と、男が横を向き、どこかの家の塀に手を当て、すぐに離した。
「………!」
 あそこは、唯香理の家だ…その家独特の板塀の濃い色を、辛うじて綾美の目は読み取った。その長い板塀は途中から母屋の壁に変わり、通りに面して玄関がある。男は唯香理の家の呼び鈴を押したらしい。
 さほど間を置かずに、男はあっさりと塀の内側へ入っていった。
「………唯香理の、家の人?!」
 唯香理の家の関係者が、もしかしたらスケッチを装って、私の家をうかがいに出てきていた…。
 …あの家で男というと、まず唯香理の父親だった。でも綾美はその人を見て知っていた。全くの別人だ。
 もう一人…唯香理の母親は後妻で、唯香理には腹違いの兄がいると綾美は聞いていた。唯香理の二回りほど年上で、普段は外国にいるという話だった。
「…だから兄貴っていうよりは叔父さんって感じだけど、すっごく物識りで話がめっちゃ面白いし、それに優しいんだ…仕事?うーん、それが謎なんだよねー。建物のデザインしとるって聞いたかと思うと、次に帰ってきたら舞台芸術家になっとったり…でも、なんかあこがれちゃうんだよなぁ。やっぱ兄妹なんだね…」
 昔、その人の土産の時計を見せながら唯香理がしてくれた話を、綾美は思い浮かべる。
「あんなオタクみたいなのが、唯香理の『あこがれ』のわけが…」
 綾美の直感としては、ハズレだった。でも、見せられたスケッチは只者じゃなく上手で、それだけ見れば実はプロの芸術家だとしても不思議じゃない気もする。唯香理の二回り上という歳にも、符合していた。
「あとは、あの目…」
 くっきりとした、大きな二重瞼の目。大粒の、男の子みたいな瞳。唯香理がそういう目の持ち主だった。そっくりではないけれど、唯香理の他にああいう目の人を綾美は知らない。
 いや、唯香理の家にもう一人いた。
「…唯香理のお父さんも、唯香理の目だった」
 荒尾家の当主である唯香理の父親…鐵三郎というその人も、同じ目をしていた。家業の都合で東京に出ていることが多かったものの、それでも小学校までの綾美は年中家に行っていたから、何度となく会っている。
 白髪の多い、和服を着た大柄なおじさん。唯香理の母親は、綾美を露骨に嫌がり出す前も笑顔をあまり見せない人だったけれど、対照的に鐵三郎は、いつでも綾美を歓迎してくれていた。家にいれば、綾美が上がって唯香理の部屋に着くまでの間に、
「おぉおぉ、綾美ちゃん、いらっしゃい。大きくなったなあ…元気にしとったかい?」
その人は必ず姿を見せ、満面の笑みで迎えてくれる。最初、唯香理に似たその目がギョロリとした感じに見えて怖かったが、その目が口と一緒に笑ってこちらを向くや、うれしさが暖かく伝わってきて、いつも綾美は幸せな気分になった。聞かれるままに会話を少し交わして、それが終わると、節くれ立った大きな手で頭を撫ででくれる。その手の感触とともに、鐵三郎の二重の丸い目は印象深く綾美の記憶に残っていた。
「…だったらなおさら、お兄さんも唯香理の目を持ってたって、おかしくはない、けど……」
 けれども、綾美はそう結論することに合点がいかない。
「あの、小汚い格好…」
 それと、落ち着きのない変な挙動。それがどうしても、唯香理の家とは結びつかない。あれが唯香理や、優しくて品のある鐵三郎と、血のつながりを持つ人間だろうか。あれが、「お屋敷」と呼ばれて、少し前まで女中さんを置いていた旧家の一員だろうか。どうしても、その違和感の方を綾美は採りたくなる。あんなことをする肉親が唯香理にいてほしくない、という願望ももちろんあった。
 兄ではないにしても、なにがしかの親戚。そう仮定しても、同じことが引っかかってくる。
「…じゃあ、ただのお客さんか」
そう思えば話は片付くかに見えたが、でもそうだとすると、唯香理の家が…もしかすると唯香理自身が、変質者かもしれない人間をわざわざ出入りさせていることになる。それも、さっきの光景を見る限り、実にあっさりと家に迎え入れられていた。肉親なら「困ったヤツだが追い出すわけにも行かず…」という状況もあり得るだろうが、なじみの客だとすると、唯香理の家は一体何を考えているのか…。
「…もし万一あれが変質者だったら、唯香理が、変質者をかくまってることになるじゃん」
 気がつくと綾美は駆け出していて、やがて立ち止まって唯香理の家を見上げていた。
「……………」
 その大きな家は相変わらず静かで、何も聞こえず、人がいるのかどうかも怪しいぐらいだった。
 荒尾鐵三郎、と見事な書体で書かれた、大きな陶製の表札。この家の主であるその人の眼差しや手の感触が、綾美の頭によみがえる。
塀の向こうに立つ樟が、乾いたアスファルトにくっきりと影を落としていた。
 待ってみても誰かが出てくる気配はなく、音は、遠くで鳴く蝉の声だけ…。
「痛っ」
 汗が目の中に落ちてきて、綾美は我に返った。額ばかりか、胸元や背中までが気持ち悪いぐらい汗じみていることに、そこで初めて気がついた。
「これじゃ、こっちが変質者だ。それにあの男や、あと唯香理のお母さんに出てこられても困るし」
 綾美は踵を返し、肩を落としてトボトボと引き返す。
「…あの男、結局、この家の何者なのかな。中で一体、誰と何話しとるんだろ…?」
 さすがに変質者という説は、綾美もやがて捨てることができた。でも、ただの来客ではなく、やはり唯香理と血縁のある誰かなんじゃ…という予感が綾美の頭に長くまとわりついた。どうだったとしても自分には何の関係もないことなのに、なぜか彼女はそれがひどく気になり、いつまでも尾を引いた。



「綾美。桃、食べるでしょ?」
 夜、綾美が風呂上がりの格好のまま居間の座卓で肘を突いていると、隣の台所から聡美がお盆を持ってやってきた。テレビが綾美に向けて番組を流しているが、綾美の見たかった番組はもう終わっている。
「うん」
 テレビの方を見るともなしに見たまま、綾美が返事をする。それと同時に、カチャリ、とお盆が置かれて、斜め前に聡美が座った。急須から白っぽい湯呑み茶碗へお茶が注がれ、いい匂いが綾美の鼻まで届く。
「はい」
「ありがと」
 湯呑みと、それから桃を盛った小鉢が綾美の前に置かれる。
「頬杖をつかないの!おじさんみたいでしょう」
 聡美がたまりかねたように言ってきた。言うだけのことはあって、聡美の背筋はピンと伸び、白いサマーセーターを着た細身の上体が綾美より一段高いところにある。
「……………」
 綾美は黙って座卓から肘を離し、上体を伸ばした。
 すると聡美が今度は座卓からリモコンを取り上げ、「見てないわね」と言いながらテレビを消す。
「見とる!」
 綾美はそう答えたかったが、逆らわなかった。もし言うと、「見てないじゃない」とか「いつまで見てるの。宿題や復習はちゃんとやったの?」とか、この数ヶ月ほどの聡美はうるさいのだ。
 だが、同じその人が去年の今頃には、両肘を突いて背中を曲げ、綾美と一緒になって見るともなしにダラダラとテレビを眺めていたのだ。しかもキャミソール一枚で足をあぐらに組んで、たまに綾美の方が恥ずかしくなるぐらいだった。髪や肌も苦労相応にくたびれて、今よりも年上に見えたことを綾美は覚えている。
 変わったといえば、いつの頃からか、聡美の言葉遣いは標準語になっている。よその土地から転勤してきたという中村に、つられてそうなったのか。
 テレビが消えて静かになってみると、ジィー………という地虫の鳴き声がやけに目立った。網戸から涼しい風が入ってきて、りん、と風鈴が鳴る。
 聡美が、小さいフォークで一切れの桃をさらに半分に切って、小さく開けただけの唇へ静かに運ぶ。
 綾美も、桃を一切れ食べた。水気が思ったより多くておいしかったが、汁が口の端に少し漏れた。彼女は風呂上がりから巻いていた頭のタオルを取って、口元を拭いた。
「綾美」
 短く、聡美の声がした。何か怒られることしたかな?と思いながら、綾美は顔を母親に向けた。
 でも聡美の切れ長の目は、むしろ上機嫌だという風に細められていた。
「…ここと、ここって、もう夏休みよね?」
 聡美が卓上のカレンダーを手に取り、細長い指でなぞった。夏休みの最初の日曜と月曜だった。
「うん」
「用事、なんにもないでしょ?」
 そう聞いた聡美が、綾美に顔を近づける。目が少し見開かれ、黒い瞳に小さな輝きがあった。
「…うん。ないけど」
「よかったー!」
 お盆を胸に抱きながら聡美が続ける。
「三朝温泉って、分かる?……倉吉の方なんだけど」
「…名前は、聞いたことある」
「そこへ泊まりがけで、私たちと中村さんとで、旅行するの……どう?」
「え………」
 綾美は瞳だけで驚いて、それから表情をひそかに曇らせた。
「あ、もちろん部屋は、彼は別よ……旅行自体は、構わないでしょ?」
「……………」
 唐突だとは、綾美は思わなかった。
「そう遠くないうちに、しかるべき舞台でもって、大事な話…再婚するとか、そういう話を聞かされる」
 むしろ綾美は、そうなるだろうと早くから予想していた。そして、つい二月ほど前までは、むしろそれを心待ちにするような気分ですらいたのだが………。

「初めまして。よろしく」
 …中村が初めて家へ来て、うっとりするようないい声で挨拶をしてきたのは、半年近く前のことだった。
「本当に、お友達?」
「ふふっ………分かるでしょ?」
 聡美から本当の間柄を聞かされても、嫌も何も、そうなのかとしか綾美は思えなかった。
「お母さんは、ずっと私や、おじいちゃん、おばあちゃんのために頑張ってきたけぇ………お母さんがいいと思う人なら、私も好きになれると思う」
 綾美がそう答えたのは、決してお追従じゃない。そしてまもなく、綾美はそのとおりの気持ちになれた。
 何ヶ月かが過ぎ、最近は中村は当たり前のようにやってくるし、聡美もそれをごく自然に、でもいそいそと心づくしをして迎える。綾美も次第になじんできて、たとえば勉強を聞くようになったのも自分から始めたことだった。病院で放射線技師をする中村は綾美でも名前を知っている一流大学の出身だそうで、何を聞いてもすぐに答えてくれる。簿記だけは守備範囲外だったが、綾美はそれをマイナスだとは感じなかった。
「なんか、ドラマに出てくる普通の家みたいな感じ…」
 両親が揃っている、ということを綾美は特に望んではいなかったが、いざそれに近くなってみると頼もしく、そしてうれしかった。
 たとえば、食事がよくなったのが綾美の目にも分かる。
「このお魚が、鯵。そう、綾美がお刺身で食べるのが好きなお魚。でも寒い時期は、お刺身にするより…」
 単に食材がよくなっただけではなく、聡美があれこれと料理に凝ったり、旬の魚や果物を買ってきては、いちいち綾美に教えたりするようになった。果物なんて以前は「置いてあるから食べな」だったし、桃やサクランボみたいな季節が短い物は見ること自体があまりなかったのだ。他にも、玄関に花や観葉植物が置かれたり、外食や買い物に出て一日過ごすようになったりと、いろんな意味で生活が豊かになった。
 しかしこの二月ほどの間に、綾美の気持ちに最初とは逆の変化が起こっていた。
 中村が何かを隠しているように思え、スマートな姿や振る舞いが、何だかいやらしく見え始めた。
「この男は本当にお母さんを愛してて、そして大事にするんだろうか?………まだ私に見えてない、とっても嫌なことがこの男には隠れとる。そんな気がする」
 彼がやがて自分の母親の夫や、それに自分の父親になるなんて、考えたくなくなった。おのずと、それをいそいそと迎える聡美に対しても、
「変に盛り上がっちゃって……バカみたい」
と感じるようになってきた。
「………なんか、お母さんと中村の生活に、私も付き合わされとる気がする」
 品が備わり、ゆとりが出てきた生活までが、綾美にはそらぞらしくて落ち着かないものになった。
 標準語であれこれ注意をしてくるようになった母親が、うるさく思えて仕方がない。その母親が、いずれ牙を剥いて自分に襲いかかってくる…変だと思いつつも、そんな不気味な予感すら綾美はしている。
「なんで、今頃になって…」
 理不尽な感情なのは綾美も分かっている。理性では今でも、いいことづくめな話だと思っているのだ。
「いつの間に、私はそうなっちゃったんだろ?」
 振り返るうちに、ふと、ノートに描き続けている海辺の絵のことが頭に浮かんだ。
「…久しぶりに海を見た日には、お母さんや中村のことを、まだそんな風に思ってなかった気がする。じゃあ、落書きの海辺に女の子を入れた頃には、私はどう思ってたっけ………」

 ともあれ結局、綾美は三朝行きを了解した。
「よかった!ありがと!」
 綾美の顔を見つめていた聡美が、無邪気に破顔した。それからあわてて顔をあらためて、
「ちょっと急で、混乱させちゃったね…ごめんなさいね」
と、表情が冴えない綾美を気遣った。
「ううん、大丈夫」
「そう、ありがと。楽しい旅行にするからね!」
 聡美は、河原に湯が湧くその土地の様子や、独身時代に仲のいい子たちとそこへ遊びに行った思い出などを話し始めた。色白の頬がほんのり上気していて、綾美と同じ年頃の少女みたいな雰囲気すら漂う。
「……………」
 もともと聡美は若作りだったけれど、それがこの半年ほどで、綾美から見ても余計に若く、そしてきれいになった。綾美にとってそれは、ついこの間まで自慢したいほど素敵なことだった………しかし今は、たとえば、こうして自分の同級生みたいにはしゃぐ彼女を見ると、不潔な感じすら覚えるのだった。
「ふうん…」
 聡美が話すのを、綾美はさも興味ありげな顔で聞いていた。でも内心では、「用事がないかどうか返事する前に、どんな用事なのか聞けばよかった」と後悔していた。もちろん、いやらしいと思っている男と一緒の、しかもその男を父親だと認めるような「家族旅行」なんて今の綾美はゴメンだった。
 でも、先に用件を聞いたところで、その「家族旅行」を断れるような用事は綾美になかったし、作り話をして我を張り通すには、綾美は親に対していい子でありすぎた。
 外の闇で、地虫がまだ鳴いている。聡美にいい顔を見せるのに疲れた綾美は、桃を一切れ口に運んだ。
 種の近くだったのか、少し酸っぱかった。


サンプル4へ続く




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