『紙一重のわがまま【Complete】』作品サンプル4
(サンプル3より続く)
V 久しぶりのお泊まり
土曜の夕暮れ。
Tシャツにデニムのスカートという格好で、綾美が勉強机に座っている。
夕食は済んでいたけれど、まだオレンジ色の夕日が地上を薄く照らしていた。一年で最も日が長い時期とはいえ、それにしても山陰の日没は遅い。
外では静かに木の葉がさざめき、窓から涼しい風が入ってくる。椅子に座った綾美は、組んだ手を膝の間に差し込み、猫背になって目を閉じていた。食後の眠気をやり過ごしているのだが、やり過ごしたからといって特に予定はない。
「せっかく明日は学校ないのに、さっさと寝ちゃうのもなあ……」
ただそれだけだった。とはいえ、次の日に学校があっても彼女は結構遅くまで起きている。
夕食の前に広げたノートが、そのまま机の上にあった。
両方のページに落書きがあって、図柄は今日ももちろん、海と砂浜と、そしてそこに立つ少女。
試験明けの授業でも、彼女は気が向くままにその少女を描き続けていた。
さらに最近は、単に頭に浮かぶ像を追うだけでなしに、少女が背負う感情を真剣に考え始めている。そして、それは怒りや悲しみではなくて、どうやら、何か大きな決意というか決断というかをしているらしい、ということが見えてきていた。しかし、にもかかわらず………むしろ前以上に少女のポーズや表情に満足が行かなくなっていて、綾美のイライラは募るばかりだった。
ムキになった綾美は昼前に起きるやノートを開いて少女を描き始め、夕食前までずっと描いたり消したりしていた。でも眠気がよっぽどひどいのか、今は目を閉じたまま見向きもしない。
「……………」
日はだいぶ傾いて、部屋の東側にある勉強机にまで西日が届いていた。紙にできた皺や散らばった消しゴムのカスが、静かに影を作っている。
休日に、落書きの内容を詰めるために机に向かい続ける。
…そんなことは、今までは決してしなかった。授業の暇つぶしに、描くのが楽しみで描いてきたのだから、なくて当たり前だった。
ブルブルブルブル!ブルブルブルブル!
机の隅に放ってあった携帯電話が、激しく震えた。
綾美はあわてて電話機を取ると、番号も見ずに火照った耳へ押し当てた。
「綾美!明日、遊び行こ!」
いきなり、少年みたいに無邪気な声が飛び込んできた。
「ゆ………唯香理?」
………待っていた、唯香理からの電話。
「うん、僕。でさ、明日なんだけど、どう?遊び行ける?…あ、お金はいらんけぇ心配せんでいいよ」
「ううん、お金いるんなら自分で出せるけぇ、大丈夫。この携帯もお小遣いで払っとるんよ」
「うわ金持ち!援交?」
「な、何言っとるん!唯香理のバカ!」
「ハハハ、ゴメンゴメン」
冗談を謝ってから、唯香理がもう一回、明日の都合を聞いてきた。
「うん、別になんにもないから平気だけど………でも唯香理、ずいぶん急だね」
「だって、綾美がぜんぜん電話くれんけぇ」
「唯香理が今まで電話くれんかったけぇ、かけられんかったの!」
「え?……ああ、そうだった!ゴメンゴメン」
やっぱり、唯香理は素で忘れていたようだった。
「で、明日だけどさ…こないだもらった絵、あれをすごい気に入ってくれた人がおるけぇ、その人を綾美に会わせたげたいんだ。だけぇ、明日は絶対来てほしいんだけど…」
「え!………だ、誰かに見せたの?!」
「うん、きれいだったけぇ!」
「…………………」
なんて恥ずかしいことを………綾美は思わず怒鳴りたい気分だったけど、あまりにも唯香理の口調が平然としているので、絶句するしかなかった。
それで綾美が黙っていると、唯香理が話題を元に戻してくる。
「だから明日、ちょっと朝早いけど、七時半にウチへ来て!一緒に行こ!」
「…そ、そんな時間に出かけて、どこ行って何するんよ?」
「ふふっ…それはお楽しみ。けど、米子駅の方へ行くだけだし、綾美もきっと面白いと思うよ」
「えーっと………」
綾美はなんだか、不安になってきた。空いた手の人差し指が、所在なげに膝を掻く。
急で、しかも妙にもったいぶった話なのもそうだが、この前…家の前にいた変な男を唯香理の家が迎え入れていた、あの不安が綾美によみがえる。
「な……なんか、危ないこと……じゃないの?」
「違う違う。だったら夜に誘うって」
「…駅の方に行くって、そこから…大阪とか、どっか遠くへ行っちゃったりしない?」
「ハハハハ!何言っとるん!駅のそばのビッグシップっていう市民ホール、あそこへ行くだけ!」
「うーん………」
まだ、この前の変な男のことが引っかかる。でも屈託のない唯香理の口調に、ウソはなさそうだった。
それに何よりも、唯香理と会って一緒に時間を過ごせるのは、やっぱり楽しみだった。
「………わかった。明日の朝な」
「決まり。じゃあ待っとるけぇ、よろしくなぁ」
それで、電話は終わった。
電話をしまってから、綾美は机に頬杖をついた。橙色の西日が、考え込む綾美の横顔を染めている。
「……………」
危ないことに誘っているのではない、というのは伝わってきた。
でも、活発なのは相変わらずだとして、唯香理は、昨日の今日でいきなり遠出に誘ってくるような不作法をする人間じゃなかった。その変化に対する違和感と不安とが、水に垂らした絵の具みたいに綾美の中に広がる。
「唯香理、どうしたんだろ…」
先週、久しぶりに再会した時の唯香理を、綾美は思い出す。金属の装飾品をぎらつかせた真っ黒な衣装、絵をじいっと眺める眼差し、『僕』っていう一人称………成長とは違う変化が、やっぱり気になる。
そして、こないだ自分の家を覗いていた男を、唯香理の家が迎え入れた一件………。
「すぐにでも唯香理に、聞いてみたい」
あの日、そう思いはしたのだが、会えもしなければ電話番号も分からなかったから聞きようがなかった。
「唯香理が、何かおかしなこと隠しとるなんて、思えんけど…」
胸騒ぎにせかされるように、綾美はいったんしまった携帯電話を取り出した。着信履歴を呼んで発信ボタンを押して、ごくん、と唾を飲んでから電話機を耳に当てる。
「…あの変な人のことを聞いて、唯香理の答えが少しでも変だったら、遊びに行くのもよそう」
果たして、電話で疑問は晴れなかった。
電話したら単刀直入に変な人のことを聞けばよかったのだが、何だか気が引けた。そこで綾美はひとまず
「なあ、明日、マジで一体何しに行くん?」という話から始めた。それが、いけないと言えばいけなかった。
「用心深いなあ………分かったよ。先に教えてあげるけぇ、綾美、今から家においでよ!」
「えぇ?!」
「話すより見せる方が簡単だけぇ。大丈夫だって!今日はお母さんおらんけぇ!…じゃ、待っとるよ!」
電話はそれで切られ、かけ直しても出ない。
「……………」
不安は残ったものの、話す唯香理は相変わらず真夏の太陽みたいで、後ろ暗さはかけらも見えない。
そして、懐かしい唯香理の家…そこにおいでと彼女が言う。しかも、綾美が来るのを嫌がる母親が、今ならいないというのだ。
「唯香理の家に、ちょっと行ってくるねー」
綾美は玄関まで行ってから家の中に呼びかけ、門を飛び出して道を歩いて、大きな家の呼び鈴を押す。
「おお………」
引き戸が開くと、唯香理の父親…鐵三郎の顔が現れた。
中二の頃に表で会って以来だから、およそ二年ぶりだった。久しぶりに見るその白髪まじりの大男は、くっきりした二重の目を見開いて絶句するや、
「綾美ちゃんか!おぉおぉ、久しぶり!…すっかりきれいなお嬢ちゃんになって……」
顔をくしゃくしゃにして笑い、大きな温かい手で綾美の頭のてっぺんを撫でてきた。
「こ、こんばんは…ごぶさたしてます」
綾美がまごつきながら、でもこみ上げる懐かしさのままに笑顔で挨拶すると、その人はいそいそと両手で彼女の手を取って玄関の中へ招き入れる。
「さあさあ、上がって上がって…おーい、唯香理!早く来なさい!綾美ちゃんだぞー!」
「もういるって。お父さん、綾美もう高校生だけぇ、手なんか握ったらセクハラだよ」
上がり框で、唯香理が苦笑いして腕を組んでいた。服装はこないだと違って、タンクトップに半ズボン。それが綾美に昔を思い出させ、安心させた。
「おっと、こりゃ失礼……そうだ、もうすぐ晩ご飯だけぇ、綾美ちゃん食べていかんか?」
鐵三郎が、夕食を勧めてきた。そういえば料理のいい匂いがするし、それに彼は着物に襷を掛け、大柄な体に白い前掛けを巻きつけていた。でも、綾美は夕食を済ませている。
「いえあの、大丈夫です」
「おお、食べてってくれるか!そりゃよかった。慣れんことしとるけぇ、たくさん作りすぎてな…」
勘違いする鐵三郎の後ろで、唯香理が明るく叫ぶ。
「あ、そうだ!ついでに泊まってけば?…お父さん、綾美に泊まってもらっていいでしょ?」
「そりゃあいい。なにしろ久しぶりじゃけぇ。綾美ちゃん、ゆっくりしていってな」
…半分は断るタイミングを失ったせいで、でももう半分は綾美自身もうれしくて、結局、彼女は唯香理の家へ泊まって、明日一緒に出かけることになった。
綾美は家に帰って、そのことを聡美におそるおそる告げる。聡美は不機嫌そうに顔を曇らせたが、昔のこととはいえ「お泊まり」は初めてじゃなかったから、どうにか承諾を得て戻ってくることができた。
もうすぐと言っていた割に夕食まで長かったけど、並んだごちそうを見て綾美は納得した。唯香理の父親が張り切って、急いで品数を増やしたらしい。食事は夕食を済ませていた綾美にもおいしく、その席も楽しかった。
「いやぁ、ついこの前まで東京と行ったり来たりだったけぇ、なかなか表で水撒きできんでなぁ…たまに撒いても綾美ちゃんが通らんけぇ、もう会えんかと思っとったわ…ハッハッハ」
「そんな…でも私もおじさんに会えて、とってもうれしいです!」
うれしそうな鐵三郎を見ていると、綾美までうれしくなってくる。
「綾美にはああだけど、普段は、よその人の前でもあんまり笑わんけぇ、お客さんから怖がられとるんだよ。まあ、私にも甘いけど…でも怒ったらめっちゃ怖い。黙って前に座られるだけで思わず謝っちゃう」
昔、唯香理がそう教えてくれたその人は、綾美から見る限りは気さくで暖かくて、このいかめしい屋敷の主だとはどうしても思えなかった。
「…えっとさ、こないだの火曜にな…学校から帰ってきたら、家の前に変な人がおってな…」
食後に唯香理の部屋でしばらく雑談をしてから、綾美はようやく聞きたかったことを切り出した。
唯香理は相槌を打ちながら綾美の回想に耳を傾けていたが、男がスケッチブックを見せたあたりまで話を聞くと、急にニコッと笑って手を叩いた。
「ああ!それ、僕の学校の先生!」
唯香理の表情や口調は明るく、そしてどこか誇らしげで、とにかく嘘を言っている様子はない。
「………先生?!」
「うん。学校に『作画研究部』っていう部活があってさ、私、そこに入っとるんだ。そこの顧問の先生」
「…さくが?」
「うん」
唯香理が宙に指文字を書きながら、字を説明する。
「絵の、部活?」
「そう」
綾美は、こないだ唯香理が自分の落書きをじいっと眺めて、褒めてくれたのを思い出した。
「どっちかというと『イラスト』って言って、漫画みたいなヤツな。で、あの先生は尼チャンっていう社会の先生で、部活の顧問な」
「…あまちゃん?」
「苗字が、尼子、っていうから…そっかあ、よりによって綾美の家を…ふふっ、アハッ、アハハハハ!」
まだ顔に疑いの色を残す綾美をよそに、唯香理はこらえかねたように大笑いを始めた。よほどおかしいらしくて、黒いタンクトップ越しに腹筋の震えが見える。
「笑い事じゃないが!」
「…ごめんごめん。でも、たしかに変わっとるけど変質者じゃないけぇ」
「だけど、家を覗いて…私が怪しんだら大あわてで…」
「スケッチは、尼チャンの癖みたいなもんかな………みんなと表を歩いとっても、急に止まって、よその家でも何でも描き始めるけぇ、僕らが『見るだけにした方がいい』って尼チャンに言ったんだけど…そっか。なんにもしないでジーッと見とるだけじゃ、それはそれで余計おかしいよなぁ…」
そう言いながら、唯香理は下を向いてまた笑い出した。
綾美はまだあの一件に不愉快な感想を残していたものの、一方で、唯香理の笑いも少し理解できた。たしかに綾美自身も、男のおかしすぎる素振りに、あの時は怖がるどころか吹き出していたのだ。
「けど……私の家みたいな、あんなボロ屋を?」
綾美が、なおも質問する。表情に笑いを残しながら、唯香理が顔を上げた。
「綾美ん家もそうだけど、このへんって、昔からの家が多いだろ…尼チャン、古い日本家屋が好きなんだって。こないだ家へ来たのも、私がこの家のこと話したら、家の中を描かせてくれって言われて…」
「…唯香理ん家は昔の旅館みたいだから分かるけど…でもウチなんかスケッチしたって…」
「僕ん家は旅館かよ!………そうだ」
唯香理がサッと立ち上がって勉強机の方へ歩き出した。スラリとしていながら女らしい曲線を持つ後ろ姿は、同性の綾美が見ても美しい。でも、まがまがしい鎖や革ベルトが相変わらず首や腕を飾っていた。
戻ってきた唯香理は、コピー用紙を束ねた冊子を開き、後ろの方のページを広げて綾美に渡した。
「これ、ウチの部活で出した本なんだけど、このイラスト、どう?」
「………!」
モノクロのその絵を見てすぐに、唯香理の家の玄関だというのが分かった。
上がり框に、夏物のワンピースを着た若い女が腰掛けている。それを斜め後ろから見た図だ。
よく磨かれた床が、水面のように女の細身を映している。連子をはめた引き戸が少し開いていて、その先に、夏日で真っ白な外の景色。
壁に掛かった日本画、下駄箱の上の生け花、上がり框の片隅に置かれた衝立…いろんなものが精密に、そして鮮やかに描かれているけれど、それでいて一番引き立っているのは、決して中央とは言えない位置に座るその女だった。巻き上げた黒髪。端だけ見える切れ長の目が悩ましい。膝に手を置き、揃えた膝下を少しだけ崩して表を見ている。
外のまぶしさを、ただ、ぼんやりと眺めているだけ…女のそんな気分までが綾美には伝わってきた。
「すごいでしょ。これが、あの先生の絵」
「へぇー………」
唯香理に言われるまでもなく、すごい、美しい、と綾美は思い、そのまま目が離せなくなっていた。
「しかも、ペンで仕上げてこんなきれいだし…それも、描くのめっちゃ早いんだよ」
言われてみると、線はすべて漫画みたいに、万年筆のような濃さでくっきりと描かれている。それが画面の鮮やかさを強めているけれど、スケッチや水彩画と違って、どこか一つでも線の太さや強さを間違えたら台無しになるはずだ…綾美はそう直感して、そこにもこの絵のすごさを認めた。
「どう?……まだ、変質者だと思う?」
つぶらな瞳で絵を見続ける綾美に、唯香理が聞いた。綾美は視線を落としたまま、かすかに首を振った。
「………この絵は、そんな人じゃ描けない、かも」
「でしょ。前の顧問の先生は部会にも来んかったけど、その先生が産休に入って、先月、代わりに来たのが尼チャンなんだ。絵が上手なのもすごいけど、部会に来てくれるし、それに僕たちと一緒になって絵を描いてくれる…代わりだけぇ、一年ぐらいしかおれんっていうんだけど、ずっといてほしい先生だよ」
そこで不意に綾美の手の力が抜けて、冊子のページがパラッとめくれた。
一転して真っ黒いページが、綾美の目に飛び込んできた。
「その絵は見るなっ!」
唯香理があわてて冊子を奪いにかかる。でも唯香理が掴んだせいでページが固定されて、かえってそのページに刷られたイラストがしっかりと見えた。
雑に塗りつぶした黒をバックに、派手な顔立ちの女が裸体を晒している図。体のあちこちに包帯や鎖がからみつき、頭から血を滴らせたその女は、恍惚の眼差しで鎖を弄んでいた。そこかしこにデッサンの狂いが目立ち、上手とは言えない。でも、妖艶な笑み、血の滴り、エロチックな乳房や腰の曲線、鈍く光る鎖…それぞれを描く力強い描線が、奇っ怪という以外の何かを強烈に伝えてくる。
そして取り乱す唯香理を見れば、誰が描き手なのかは綾美にも分かった。
「これを、唯香理が………」
「は、恥ずかしいが!」
唯香理は冊子を奪って胸に抱くと、二重瞼の奥から綾美を一瞬だけ見上げて、すぐにうつむいた。
「ご、ごめんな…けど、変な気持ちで描いた絵じゃないけぇ、説明してから見せたくて…」
気まずそうな、そして申し訳なさそうな唯香理の茶色い瞳が、足下の畳を向く。
「……………」
綾美はわざと、卑猥なものを見たという感じに顔をしかめた。
「唯香理、キモい…普段、こんなこと考えとるんだ…」
「ご、誤解だよ!話を聞いてよ!」
唯香理がたまりかねて、泣きそうな声を出す………と、そこで綾美は一転、
「ウソだよー!……唯香理、とっても上手だよ。びっくりしちゃった!」
カラリと明るく言って、あとは声を上げて笑った。
「唯香理がこないだ勝手にノート見たのの、お返し!」
「なあんだ、やられた!」
唯香理も、元どおりに明るく笑った。
「…でも、マジで嫌じゃなかった?」
「うん。最初はギョッとしたけど、でも、ただ怖いだけじゃくて、すっごく迫力あった。見てギョッとできる絵が描けるって、すごいって思うし………けど、唯香理が絵を描くなんて知らんかった。昔から?」
「ううん。最近。はじめは綾美と同じで、ノートへ落書きしてて………あ」
と、そこで唯香理が言葉を切って、身を乗り出してきた。
「…でさ、明日、一緒に出かける先ってのはな…」
駅前のホールで「同人誌即売会」というイベントが明日あって、そこに行くんだと唯香理は言った。
漫画やイラストを描く人が自分の作品集を並べて、読むのが好きな人を相手に売るイベントだそうだ。唯香理は作画研究部の部員として、今見た本をそこへ売りに行くのだという。
「絵を描いとる人なら楽しめると思うけぇ、綾美もそこへ連れてきたいんだ。さっき電話で話した『綾美の絵を気に入った人』にも会わせたいし」
「…私が、そこへ行くん?」
たしかに、絵は描いている。でも漫画だともイラストだとも思っていないし、発表するつもりもない。
おまけに小さい頃はさておき、今の綾美は漫画の本にあまり関心はない。ましてや素人の漫画やイラストなんかに興味が湧きそうになかった。
それに綾美には、漫画っぽいイラストを描く人たちの集まりにあんまりいいイメージがない。
中学の時に、教室の隅に固まって、そういう絵を描いて楽しんでる女の子たちがどの学年にもいた。絵を描いて楽しむなら入りたいと思って綾美は近づいたものの、その輪の中へ入ると、綾美が知らない、アニメか何かのキャラクターらしき絵の批評をしきりに求められる。しかし上手とか下手とかの前に、それらはしばしば描きかけだったりした。
「こんな状態で、なんで人に見せられるんだろう…」
そう思ったけど、雰囲気を壊しちゃ悪いと思って綾美は適当に褒めた。実は絵の上手下手ではなく、お気に入りのアニメやゲームのキャラクターを描いて見せ合うこと自体が彼女たちの楽しみだったのだが、それらをよく知らない綾美には楽しみようがなかった。
綾美が描くオリジナルの絵は一応見てもらえるものの、「そんなに絵が上手なら○○も描こうよ!」と、何かのキャラクターを描くように必ず言われる。
でも、百歩譲って漫画やアニメのキャラクターを描こうとしても、おしゃべりに誘われて集中できない。要は絵を描くのが好きな子の集まりというよりは、描いた絵を見せ合うことで好きな作品の世界を共有したい子たちの集まりだったわけで、綾美には気疲れと、時間を無駄にしたという思いだけが残った。
売る方も、そして買いにくる方もそういう種類の人間か、あるいは同じく中学の時にいた、ロボットアニメの雑誌ばかり読んでいる図書室の男子たちみたいな手合いじゃないのか…綾美はそんな想像をした。
「…あんまり、行きたくない」
という言葉が、綾美の喉元まで出てきた。
でもその刹那、ふと唯香理が抱えた冊子に目が行った。
「けど、唯香理も、そのイベントへ行く……」
その唯香理は、嫌な人間だろうか。
絵柄自体は怖くて気味が悪いはずなのに、唯香理のイラストからは、魅入られてしまうような迫力だけが伝わってきた。
「…昔、唯香理が、いじめっ子の男子を喧嘩でやっつけちゃった時も…喧嘩する唯香理は怖かったけど、力強くて、すっごく頼もしかったっけ…」
絵の力強さが、綾美の中で、唯香理が昔から持っていた強さや快活さと重なった。
「服装や趣味が変わっただけで、やっぱり唯香理は、唯香理なんだ…」
さらに唯香理は、自分の作品を見せびらかしてくるどころか、綾美を気遣って見せるのをためらった。
「…自分の絵を見せたい気持ちよりも、私の気持ちを大事にしてくれた」
描きかけの絵の評価をせがんできた中学時代の子たちとは、正反対だ。
「尼子っていう先生も、正直まだ変な人でしかないけど…」
唯香理がこんなに尊敬して、信頼している人なのも事実だった。そしてその絵に、自分は思わず魅入られてしまった。絵から見えてくるのは、決して半端な人間じゃなかった。
…そう思うと綾美は、その先生や唯香理の仲間、さらに会場に来る他の売り手たちにも期待を覚えた。
「もし、自分よりも、もっとすごい人に会えれば、ひょっとして何か…」
落書きの砂浜に立つあの少女を、一体どう描いたらいいのか。ズバリ答えが見つからないまでも、ヒントぐらいは待っているかもしれない…。
「…分かった。一緒に行く。唯香理、よろしくね」
綾美は唯香理を信じて、とにかく行ってみることにした。
「よっしゃ!決まり!」
唯香理がニコッと、気持ちのいい笑顔を見せた。綾美は彼女をあれこれ疑ったことが恥ずかしくなった。
香がほんのりと匂う居間で、綾美は唯香理とテレビを見ていた。
「お風呂が沸いとるから、入っておいで」
後ろから、鐵三郎が優しく声を掛けてくる。
「あ、すみません。ありがとうございます!」
綾美はあわてて振り向いて、声を弾ませて礼を言う。うなずく相手が綾美を見る目は、どこまでも優しげだった。綾美は一瞬、まだ見たことのない父親に見つめられているような錯覚を感じた。
その錯覚が消えていくのと入れ替わりに、綾美は唯香理の方を向く。
「唯香理。一緒にお風呂入るの、久しぶりだね」
屈託のない声で綾美は言った。この家に泊まるといつも一緒に入っていたし、浴室も湯船も大人三人ぐらいが一緒に入れそうな広さだった。
「…ごめん。綾美だけ、先に入ってきてくれる?」
視線をわずかにそらしながら、唯香理が意外な返事をよこす。
「え?なんで?」
「えーっと………」
そこまで言った唯香理は、うつむき加減になって言葉を詰まらせる。
「…あ、生理?」
「うん、まあ……ゴメンね」
綾美が思いついて出した助け船に、ちょっと間を置いてから唯香理は答えた。
「謝らなくてもいいって!じゃあ、先に入るね」
明るく言ってから、綾美は着替えを取っていそいそと浴室に行った。檜と御影石で作られた広い浴室と湯船…ここの家の風呂自体も綾美は昔から好きで、それもちょっと楽しみだった。
「…生理なら生理って言ってくれれば…なんであんなに恥ずかしがるんだろ?」
湯船につかりながら、綾美は唯香理の恥ずかしがり方をちょっと不審に思った。でも深く考えはせずに、ほんのりと漂う檜の香りを引き続き楽しんだ。
入れ違いにシャワーを浴びに行った唯香理を待つうちに、綾美は急に眠気を覚えた。
出てきた唯香理に眠いと言うと、彼女も眠いという。
「学校が夜だって言うけぇ、もっと夜更かしかと思った」
自分の宵っ張りを棚に上げて綾美が言うと、唯香理は洗い髪を拭きながら、こともなげに答える。
「だって、朝からバイトしとるもん」
「バイト?」
「うん。昼過ぎまでだけど、トラックの助手席に乗って、荷物を積んだり降ろしたりしとるんだ。遠かったけぇ声掛けられんかったけど、米子駅でお弁当運んどって、綾美が電車待っとるんを見たことあるよ!」
その話を聞いた綾美は、それとなく唯香理の体型に注意してみる。運動部にいたせいもあるだろうけど、昔よりもさらに格好よく引き締まった気がして、綾美には唯香理がとても大人っぽく見えた。必要がなくなったとはいえ、バイト探しすらしなかった自分が急に恥ずかしくなった。
部屋に上がって少しおしゃべりしてから、「そろそろ寝ようか」という話になった。
「一緒の部屋でいい?他の部屋も、あるけど…」
唯香理が、綾美の顔色をうかがうみたいな口調で言ってくる。
「えぇ?一緒の部屋でいいよ。ていうかいっつも一緒だったじゃん。どうしたの急に?」
「…そっか。ほら、久しぶりだけぇ、狭くなったかなと思って」
でも八畳の和室は、二人で寝るには十分な広さがあった。それに久しぶりだといっても、前に泊まったのは小学六年生の時。二人とも今と同じ大きさに成長していて、唯香理の背が少し伸びたぐらいだった。
並んで布団を敷いて、横になる。部屋の蛍光灯が消えて、この大きな家は真っ暗になった。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
すぐに綾美も唯香理もそう言った。まだ十時半過ぎだけど、二人とも意識がとろけそうだった。
「……………」
ところが、いざ横になってみるとなぜか目が冴えて、綾美は眠ることができなかった。
仕方なしに闇を見上げていると、隣で衣擦れの音がした。
「…唯香理」
「ん?」
答えるその声はハッキリと澄んでいた。唯香理も寝つけないらしい。
「なあ唯香理………なんだか、懐かしいなぁ」
「うん」
「子どもの時……私がこの家へよく遊びに来てた頃、唯香理さあ、私のこと『妹のかわりにする』って言って、かわいがってくれたね」
「ああ………綾美も、『いいよ、妹になる』って言っとったっけ」
「今でも私…唯香理の妹に、なりたいな…」
少し、考えるような間を置いてから、それへ唯香理が答える。
「…いいけど、ふふっ、僕のお父さんやお母さんの相手は結構大変だよ」
なるほど。唯香理の母親は、少なくとも綾美にとっては鬼門だ。
それに父親の方も、あの顔が笑っていないのを想像したり、門の立派な表札に刻まれた鐵三郎といういかめしい名前を思い出したりすると、たしかに唯香理の言うとおり、普段は厳格で怖そうな感じがする。
でも、やっぱり綾美にとっては、現実に見てきた鐵三郎がすべてだった。自分を見るやうれしそうに見開かれる両目、続いて見せるくしゃくしゃの笑顔、頭をなでてくれる手の感触…綾美はそんな唯香理の父親に接するたびに、ごく淡くだが、
「唯香理がお姉ちゃんで…唯香理のお父さんが私のお父さんだったらなぁ…」
という夢想を抱いてきた。今も綾美はその夢想をほのかに抱きながら、優しく彼女を見つめてきた二重の大きな目を回想している…。
「!」
そこで綾美は、人知れずハッとなった。
「もしかして、あの人は本当に私の…」
その人や唯香理ほどくっきりしてはいないものの、自分の両目も二重瞼で丸くて、よく人からうらやましがられる。同じ目をしたその人が、娘の幼なじみというだけの自分を、あんなに優しく、愛おしむように接してくるのはなんでだろうか?そしてその人は仕事で、自分が生まれた東京にちょくちょく通っていたという…
「…でも、そうだとすると………」
その人と、この家でお女中をしていた自分の母親との間に、道ならぬ男女の関係があったことになる。
「そんなのは嫌………っていうか、そんなわけないじゃん!」
綾美は笑って、そのドキドキする空想をあっさりと振り払った。
もちろん唯香理は綾美のそんな空想なんて知らないから、平然と会話の続きをしてくる。
「妹じゃなくても、綾美。これからも家に遊びに来てな」
「え、いいん?」
振り向くと、闇に慣れてきた綾美の目に、仰向けのまま話す唯香理が映った。
「いいに決まっとるだろ………なんで?」
「あのな。唯香理の、お母さんがな…私が遊びに来るの、嫌がってたけぇ…」
「ああ……」
唯香理はそう言ってから急に黙り、手足を小さく動かす気配をさせてから、言葉を続けた。
「………お母さんは、入院しとる。しばらく、かかりそうだけぇ」
意外な答えに、綾美はハッとなった。後妻に入ってきて、唯香理と、もう一人の早くに亡くなった双子の妹とを生んだというその人は、たしかに、きりぎりすみたいに痩せていて常に蒼白かったが…。
「…入院?」
「うん。体もそうだけど、心がおかしくなっちゃったんだ。僕が、だいぶ疲れさせちゃったからかな」
唯香理の口調には笑みが混じっているものの、笑い飛ばすような明るさはなかった。悪いことを聞いた気がして、綾美は黙っていた。
「お母さんは、うるさくて嫌なヤツだった。入院してからも、会えば嫌なことばっかり言うけど…」
天井を見ながらつぶやいた唯香理が、そこで言葉を途切れさせた。
十秒、二十秒。
何かを決意したような眼差しが、綾美の方を向いた。
「綾美。実は僕…」
★サンプルはここまでです。
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