『紙一重のわがまま【Complete】』作品サンプル2

サンプル1より続く)




「葉月、また明日ー」
「うん。綾美、ちゃんと家で勉強してね」
「分かっとる!」
 葉月が降りる、列車の行き違いができる少しだけ大きな駅。ドアの前で綾美に手を振った葉月が、ステップを降りて列車から出る。ほどなくドアが閉まって、床下のエンジン音が大きくなる。列車がゆっくりと動き出し、ホームを歩く葉月に追いつき、追い抜く。綾美はその葉月ともう一度、手と表情でさよならを交わす。
 駅を出るとすぐ、両側にネギやサツマイモの畑が広がり始めた。遠くに、海の手前にある松並木。一両しかない列車はエンジンをふかすのをやめ、平べったい半島の大地をガタゴトと惰行していく。
 二人は中学以来の親友だが、中学は一駅離れた葉月の家のそばにあって、綾美は自転車通学だった。
 葉月が降りた駅で大勢が下車したせいで、乗客は一つのボックス席に一人ずつぐらいになった。そして次の和田浜で綾美も降りた。屋根もない片面ホームに降り立ったのは、彼女一人だった。
「暑いよぉー…」
 トウモロコシや芋やトマト、それにネギが植わる畑の間をとぼとぼ歩いて、突き当たったバス通りを右へ。
 と、小型のバイクが追い抜きざま、綾美の行く手を塞ぐように急停車した。
「え?」
 二重の目を見開いて驚く綾美をよそに、エンジン音が止まり、バイクの上から黒いフルフェイスのヘルメットがこちらを振り向く。ヘルメットの下のスラリとした背中、それに黒い半袖の上着に見覚えがある………。
「唯香理ー!」
 昨日の今日なのに、思わず駆け寄る綾美。唯香理はスタンドを立ててバイクを降りると、ヘルメットの風防を上げ、いたずらっぽく笑う両目を綾美に見せた。風防がキラリと日差しを反射して、綾美の目をくらませる。
 綾美は、バイクに乗る同級生というものを初めて見た。
「……唯香理の?」
「うん。中古だけどホラ、原付じゃないぞ!」
 唯香理は得意げに後輪の泥よけを指差し、ピンク色のナンバープレートを綾美に見せた。綾美は意味が分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。
「…免許、持っとるん?」
「あるに決まっとるだろ!…そうだ、綾美ん家まで送ってやるけぇ、乗りなよ!」
「えぇ?!………い、いいよ……家、すぐそばだし」
 しかし、結局後ろに乗せられた。
「も、もっとゆっくり走って!」
「これ以上遅くしたらコケるって!そんな引っ張るなって!」
 予備の半キャップのヘルメットは、綾美にとっては用をなさないほどサイズが大きかった。綾美の頭は目元までスッポリ覆われ、もともとの見た目とあわせて小さい子みたいに見える。
 左に曲がって古い木造家屋に囲まれた道へ入ると、綾美の家までは五百メートルもなかった。バイク本来の走りならアッという間だけれど、綾美が怖がるのでローギアのままトロトロと走ってゆく。が、そのスピードすら綾美は怖くて、唯香理の上着の襟をギュッと掴んで離せなかった。
「あっ!」
 バサッ、と音がして、地面に何かが落ちた。唯香理も気づいたらしく、バイクが止まる。
 肩に掛けた鞄を綾美が見ると、外付けのポケットに突っ込んでおいたノートがない。すぐ後ろの干からびたアスファルトの上に、それが落ちて広がっていた。
「私の、ノート」
 綾美がそう言うより先に、サイドスタンドを立てる音がした。唯香理がステップを足場にして立つや器用に真横へ飛び降り、後ろへ駆けてノートを拾う。
 拾って、開いていたページを何気なしに見るや、唯香理はその紙面をじいっと見つめ出した。
「……………」
 ヘルメットをかぶったままページをめくり、さらに中身を見続ける唯香理。
「ちょっと、見ちゃやだ!見ないで!」
 降りるのも怖いのか、座席にまたがったまま綾美が叫ぶ。落書きだらけなのと、全教科を一冊で済ませているのとがバレてしまう。しかし唯香理は綾美の声に構わず、無言でノートに目を落としている。
「もう!」
 綾美が転げそうになりながらバイクを降りたのと、唯香理がゆっくり戻ってきたのとが同時だった。
 戻ってきた唯香理がエンジンを切る。しいん、という音がしそうなぐらい空気が静まった。唯香理はノートを取り上げようとする綾美の手をかわして、なおもノートを見つめ続けた。ノートを見る二重の両目が、美しいものを眺めるように細まっている。やがて、唯香理の声がした。
「すごい………」
 開かれているのは、さっき葉月に英文を書き込まれた、海と少女と入道雲の絵。
「そこの、海でしょ?マジできれい……」
 唯香理は海の方角を指しながら、うっとりするような口調でゆっくりと言った。
 アミダかぶりの半キャップの下で、綾美は恥ずかしいのも忘れて、黒眼がちの目をキョトンとさせる。
「唯香理って………絵に見とれるような子、だったっけ?」
 木に登ったり泳いだり、中学も剣道部で…そんな唯香理しか、綾美は知らない。たしかに自分の絵を褒めてくることもあったけれど、感動までは見せなかった。だから今の唯香理はあまりにも意外で、綾美は戸惑った。
 けれども唯香理の澄んだ瞳は昔そのままで、それが綾美の気持ちをとても素直にする。
「…うん。あそこの海だよ」
 綾美は昔のように、少し甘え気味にそう答えた。ただ、そんなに真正面から褒められると、照れくさい。
「でも、タダの落書きだし…」
「ううん。落書きでも…きれいなもんは、きれい」
 そこで唯香理はヘルメットを脱いで、もう一度静かに笑った。ようやくノートが綾美の手に戻る。
「けど綾美。それマジで落書きなん?」
「え?」
「ほら、水彩画に仕上げるとか……あと、イラストとか、漫画とか!」
「えぇ?!ないない!」
「けど、いくつも描いとるけぇ」
「それは、いくつも描きたかったから…」
 唯香理の言うとおり、件の落書きより前のページにも、同じ絵柄がいくつも描かれていた。
 真横から砂浜をアップで描いていたり、斜めから俯瞰気味にしてあったりと、アングルは違うけれど場所はすべて同じ。そして必ず、海を向いた少女が一人で砂浜に立っている。
「この子、何しとるん?」
「……何、って?」
「いやさ、なんか、物語っていうか……たとえば、誰かが死んじゃったとか失恋したとか……この子、何を抱えとるんかな、って」
「えー、別にそんなのないない!唯香理、考えすぎ!」
「………そっか」
 もちろん綾美の言い分は事実で、その絵に限らず、彼女の落書きには物語など何もない。
「女の子が一人、悲しいような怒ったような顔をして、海を見つめながら立ちつくしている」
 綾美の意識にあるのはそれだけで、女の子がどこの誰だか考えてもいないし、その顔が表す感情の正体も彼女は知らない。とにかく、そういう状態の女の子が頭の中に住み着いていて、それが綾美の気をどうしようもなく惹いて、だからそれを絵に描き表そうとしている。しかし、いくら描いても描いても、頭に住み着くその彼女を再現できないのだった。
 ただ、綾美の中の彼女が意識できない場所では、女の子が抱く感情の正体と、それを形作る物語とが静かに準備されつつあるのだが…それはまだまだ先の話だ。

「なあ。久しぶりに、海を見に行こうよ」
 そのあと、唯香理がそう言い出した。綾美も海を見たかったから、二つ返事で応じる。ただし二人乗りは勘弁してもらって、綾美はバイクを押す唯香理を手伝いながら、松並木と松林の先にある浜辺を目指した。
 唯香理と一緒に海へ行くのは、小学生時代の最後の頃に行って以来、三年ぶりだった。
 …六つか七つぐらいまでは、暑い時期になると、どこの家でも親がよく子どもを海辺に連れていった。
 やがて子どもたちだけで、そして綾美は唯香理と二人だけで海辺へ遊びに行くようになる。弓なりにずっと続く砂浜も、その先にそびえる大山も、透き通った瑠璃色の海も、子ども心に美しかった。
「唯香理、あの島まで泳いだことある?」
「無理だって!…それに、あれ島じゃないよ。どっかでこっちの陸地とつながっとるんで」
 大山とは別の方角の沖には、島根半島の東端が盛り上がっている。大山と比べると近くに見えるので、綾美は唯香理に教わるまで泳いで行けると思っていた。
 だが、水遊びに用がなくなり、唯香理が寄り道を誘うこともなくなると、いつしか綾美は海を忘れた。松並木と松林に守られて波の音も潮風も届かないし、商店も駅も海とは逆側だった。
 それが、この春の連休の、ある晴れた日。何気なしに、ふらりと出かけた。
「うわ……………」
 綾美は、自分でもバカみたいだと思うほど、久々の眺めに胸を熱くした。砂浜の白さ、そして海の瑠璃色があまりに鮮やかで、目が痛くて涙が出た。そして右手の遠くにスラリと、しかし力強く、大山が裾を広げて黒々と盛り上がっている………。
 その後の綾美は、空がきれいに晴れると、好きな男の子にそれとなく近づくような気持ちで、いそいそと松の並木をくぐり、道を渡り、深々とした松林を抜けて浜辺に出た。そしてスカートが汚れるのも構わず砂浜に座り、ぼんやりと海や空を見続けるのだった。
 でも、この土地は、一日中晴れるという天気をなかなか与えてくれない。それも、学校が終わる昼過ぎからが特に雲が出やすい。さらに六月に入ると梅雨がやってきて、湿っぽい雨が先日まで続いていた。
 よく晴れた海が見られないという鬱屈が、落書きに没頭する綾美をして、砂浜を描かしめた。
 そしてその浜辺に、いまだに綾美が描けない少女が、いつしか立つようになっていた。

「あの落書き、あげる」
 砂浜で膝を抱えていた綾美が、そう言って唯香理を見上げた。
「え?」
 唯香理の上げた小さな声が、波の音にかき消された。唯香理を見上げる綾美の前髪を、夕凪で弱まり始めた潮風がくすぐっている。
 唯香理が答えに迷っているうちに、綾美は鞄からノートを取り出して、そのページを切り離し始めた。
「はい。もらうんが嫌だったら、預かっとって」
「………僕で、いいの?」
「ん?…唯香理、『僕』なんて言ってたっけ?」
 聞き慣れない一人称が気になって、綾美は会話を中断してそのことを聞いた。唯香理はちょっと黙ってから、心配そうな顔で聞き返してくる。
「やっぱり…変?」
「ううん。なんか似合う」
 綾美が感じたままをポンと言うと、唯香理は笑顔になった。
「よかった。うれしいな」
 二重の大きな目を細めた唯香理に、あらためて綾美は落書きの紙片を突き出す。
「ほら、これ。そんなに気に入ってくれるんだったら、唯香理に預けるけぇ」
「なんで」
「もっと、きれいに描いてみたくなった。でも持っとったら、満足しちゃうけぇ。また必要になるかもしれんけど……その時は、近所だし、すぐに会えるよね?」
 綾美は出まかせの説明をした。何でもいいから預けておくことで、また唯香理に会えるようにしておきたい…ぼんやりと綾美はそんなことを考えている。
「うん、会える。必要だったら、いつでも僕ん家においで」
 綾美の真顔を見つめながら、唯香理は絵を受け取った。そして少し眺めてから、背中にしょった革の鞄を降ろして開き、中にあったクリアファイルに丁寧に収めた。
 それを見届けると綾美は、海を向き直って小さく息を吐いた。
 昔、泳いで行けると思っていた島根半島の上の空に、筋雲が出ている。その雲と、右手にそびえる大山とが、夕方の太陽を受けて橙色になっていた。
 鞄の口を閉め終えた唯香理が、綾美の真横に並ぶ。
「なあ唯香理………今まで会いに行けなくて、ごめんね」
「いいよ。僕だって綾美に、会いに行かんかったけぇ」
 そういうやりとりがあって、それから二人は、元どおりに黙って海を眺めた。



     U 綾美の家、唯香理の家

 唯香理のオートバイを見送ってから、綾美は自分の家に入るために門の方を振り向いた。
 表札はすっかり色あせて、「吉川」という綾美の姓は、今では顔を近づけないと読めなかった。門柱の内側は、土に半分埋もれた砂利。すぐに木造の二階屋へと突き当たる。いまだに雨戸の戸袋までが木製で、壁を組む板には腐食やひび割れが見える。右手にトタン葺きの納屋があるけれど、久しく下りたままらしきシャッターが錆びつき始めていた。
 前に書いたが、綾美には父親がいない。母親と二人きりで、彼女はここに住んでいる。
 ここは、母親が生まれ育った家だ。少し前までは綾美の祖母も生きていて、一緒に住んでいた。
「…敏美伯母さんも、あんたのお母さんも、荒尾の『お屋敷』から、ぜひって言われてのう…あのお屋敷で、お女中さんしとったんじゃ。綾美もきれいな子じゃけぇ、あとはお行儀をようして、お屋敷から声が掛かるような女の子にならんといけんぞ」
 荒尾のお屋敷というのは唯香理の家のことで、祖母が真顔でこんな話を何度もしてきたのは、綾美が小学六年生の頃だ。その頃から祖母には認知症の症状が出始めていたのだが、
「もう。お母さんたら、何言っとるんよ!」 そうやって祖母をたしなめる母親に聞くと、結婚する前に、花嫁修業を兼ねて唯香理の家へ働きに行っていたのは事実だという。でも母親はそれ以上は何も教えてくれず、そればかりか前に書いたように唯香理の家の話題を避け、口にしても良くは言わない。
「きっと、あのおばさんに意地悪されたんだ。おばあちゃんは、そのこと忘れちゃってるんだ」
 中学に進んで、唯香理の母親に露骨に嫌な顔をされるようになってから、綾美はそう見当をつけた。

 その、唯香理の家がある方をもう一度チラリと見てから、綾美は門柱をくぐって砂利の上を歩き、鍵を使って玄関の引き戸を開けた。日陰のひんやりとした空気が三和土を包んでいる。上がり框の脇にベゴニアの鉢を置いた窓があるものの、明るいのは窓際だけで、あとは玄関も廊下も薄暗い。
「あれ?」
 …魚を、甘辛く煮付けている匂い。
 綾美は、意外だという顔で目を見開き、真っ直ぐな廊下の先を見た。ただ一人の家族である聡美…綾美の母親は、普段なら、この時間はまだ仕事に出ているはずだった。
「ただいまぁ」
 子どもっぽい綾美の声が、うわずって余計に高くなる。
「おかえりー」
 一呼吸あって、聡美の、綾美に似た若い声が奥から返ってきた。綾美はそれを聞きながら足だけで靴を脱ぎ、上がって廊下を進む。くすんだ壁と、鈍く光る焦茶色の床板はすぐに尽きて、暖簾に突き当たる。
 そこから台所を覗くと、聡美のスラリとした後ろ姿があった。こちらに背中を向けて料理をしている。
 この人は、実はお母さんじゃなくて、年の離れたお姉さんなんじゃないのか…話をせずにただ母親を見つめていると、綾美は時々そんな錯覚に襲われそうになる。今年で四十という実際の歳も綾美の母親にしては若いのだが、体の線も白髪一つない豊かな髪も、それよりさらに若く見えた。
「……お仕事は?」
「午後からお休みもらって、お買い物」
 包丁のリズムに合わせて、巻き上げた黒髪が揺れる。口調が、こころもち楽しそうだ。聡美の明るさに綾美はある予感を覚えて、それを口に出そうと思ったが、向こうから先に彼女を振り向いて打ち明けてきた。
「今日、中村さんが来るわよ」
 振り向いた顔の造作は、綾美から見ても美人の部類に入る。綾美と違って一重瞼で、目も細いけれど、切れ長なせいかむしろ上品な雰囲気を顔に作っていて、綾美は似なかったのを恨めしく思っていた。
 中村というのは四十過ぎぐらいの男で、この半年ほどの間、たまに家へ来る。聡美が契約社員として事務員をしている病院の検査技師で、「お友達」ということになっている。なっている、というのは、本当は彼氏で、再婚も考えている仲だというのを綾美は知っているし、聡美自身も強いてその間柄を隠そうとはしないからだ。
「泊まるん?」
「ううん。けど、遅くまでいてくれるから、綾美、数学でも見てもらったら?」
「………うん」
 その返事で母親とのやりとりを終えて、綾美は狭い階段を二階へと上がった。
 少し前までは、聡美の横にとどまって料理のメニューを楽しそうに聞いたり、あるいは彼女たちの仲をからかったりしたものだが、最近の綾美は黙って二階に上がっていく。
 自分の部屋の戸を開ける。閉め切られていた部屋は蒸し暑い。綾美は窓に駆け寄ってガラス戸を開け放つと、鞄を投げ出し、剥ぎ取るように制服のボタンを外して、ごろん、と畳の上へ寝転がった。
「……なんだか、なあ」
 綾美は不機嫌そうに口を曲げて、天井の板を見つめた。不機嫌なのは暑さのせいではない。その証拠に、冷え始めた外気が部屋を涼しくした後も、彼女はムッとした顔のまま寝転がっていた。
「……………」

 夜になった。
 綾美が勉強机に数学のプリントを広げていて、さっき話に出てきた中村という男が、スラリとした背の高い体を折り曲げてそれを覗き込んでいる。
「…いいかい、yは、xが1の時に1、xが3の時には9になる、っていうんだよね」
 バリトンのいい声を綾美に聞かせてから、中村はプリントに刷られた問題文の脇へ、サラサラと座標軸を書いてみせた。
 まず、x軸の1から縦棒を伸ばす。走り書きに見えて、縦棒の先端はきっちりy軸の1の高さを指した。
「これが『xが1の時にyが1』っていう位置だね。さて……1に、何をかけると1になる?」
「1」
「そう」
 中村は縦棒の横に「1×1=1」と書く。
 続いてx軸の3から、y軸の9の高さまでの縦棒を中村は引いて、その先端を鉛筆であらためて指す。
「ここが『xが3の時にyが9』の位置だ。じゃあ、3に何をかけると9かな?」
「3」
 正確にy軸の9まで伸びた棒線の横に「3×3=9」。
「それじゃあ、間にある2のところには、どんな掛け算が入ると思う?」
 その言葉とともに鉛筆の先が、前に作った二つの式を交互に何度も指す。
「えーと……あ、2×2で、4!」
「そう。そうだよ」
 今度はまず、綾美の答えた「2×2=4」が両者の中間に書き込まれた。中村は静かに目を細めてから、さっきの「3×3=9」と隣の縦棒を交互に指し、掛け算の答えとyの値が同じだと示唆しながら問う。
「だから、x=2の時にyは?」
「あ……4だ」
 中村はx軸の2から、きっちりy軸の4の高さまで縦棒を伸ばした。
「そう。これが答え…掛け算の答えと同じだね」
 綾美が解答欄を埋める。中村が笑う。かつては、それに合わせて綾美も笑っていた。
 そのあと中村は三つの点を曲線で結んで、べき乗の概念と、今のがy=xの二乗という式であることなどを説明した。分かりやすくて、何を聞き返す必要もなかった。
「これで、大丈夫かな?」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあ頑張って………あ、お母さんがお茶を入れてたから、そろそろおいで」
「はい」
 綾美の勉強姿をそっと一瞥してから、中村は部屋を出て行った。
 …中村は、綾美が降りてきて呼ぶと、二階へ上がってきて数学や理科、それに英語を教えてくれる。こんな教師が他にいるかというほど分かりやすくて、それでいてしつこくない。
 母親と三人で、居間でテレビを見ながら過ごしていても、変になれなれしくもなければ、「よその人が家にいる」という違和感も最近までは感じたことがなかった。場が間延びしてくると、綾美も母親も一緒に笑えるような、面白い体験談を聞かせてくれる。香水をつけているわけでもないのに、勉強を教えてもらっていると、香を焚き込めたようないい匂いがほんのり漂ってきた。
 あとは、中村が家計を助けてくれていることも綾美は知っている。正直な話、それはありがたかった。
「高校へ上がったら、自分の小遣いはアルバイトをして賄う」
 家は経済的に苦しかったので、前からそういう約束だった。綾美もそれが当然だと思っていた。
 が、いざ進学してみると、友達付き合いで恥ずかしい思いをしない額の金を、母親が毎月くれるのだ。
「お仕事の時間を、前より増やしてもらえたの」
 母親はそう説明したが、たまに何時間か帰りが遅くなるぐらいで、それほど増えたとは思えない。むしろ中村が家に通うようになったのと時期的に符合していて、それと関連づける方が自然だった。綾美は綾美で実際には職探しすらしていなかったから、それ以上は何も聞かずに、黙って小遣いをもらっている。
 後で書くように、綾美は「父親がほしい」と思ったことは一度もなかったけれど、でも、
「もし万一こんな父親だったら、いてもいいかも」
という人間像を持つことはあった。
「カッコよくてウザくなくて、勉強ができて、優しくて怒らなくて、お小遣いをくれて………」
 いてもいいかも、という高飛車な思考の産物なので、綾美に都合のいいことばかり列挙された無理難題になるのは当然だったが、しかし中村という男は、その綾美の無理難題を見事に備えていた。
 それもあって、綾美はついこの前まで、彼がほどなく自分の父親になることを自然に受け入れていたし、母親のことも祝福していたのだが………。
「あーっ、やだやだ!」
 …だが今は、中村が降りていくや綾美はブスッと顔をしかめ、プリントを乱暴に片付けてしまった。しかも、実は彼女は直前まで落書きにふけっていて、中村を呼んでやるために勉強してみせただけだった。
「私のお母さんをあんたが『お母さん』って呼ぶな!バカ!」
 もちろん、中村が来るようになった当初の綾美は、そんな態度じゃなかった。つい二月ほど前、春の連休を終えた頃には、彼の励ましに応えて、短時間とはいえ毎日復習をする綾美がいたのだ。もっとも、その時期も授業では落書きばかりしていたから、成果のほどは知れていたが…。
 一体、何があったのだろうか。
「お母さんも、バカだ」
 しかめっ面のまま綾美はそうつぶやき、たいして汗じみてもいない額を、大仰に手の甲で拭った。さっきまで落書きをしていたので、プリントをどけた下にはノートがあった。何気なく広げると、夕方に破いて唯香理に渡したところが開いた。
「あ。あのページ、英語の問題も書いてあったんだっけ…」
 綾美は今頃それに気づいて、思わず口に出した。でもその口調は緩慢で、危機感からは程遠かった。



 その晩、綾美は夢を見た。
 薄暗い廊下の片側に、カーテンを引いた二段ベッドが並ぶ。タタントトンタタン、タタントトンタタン…レールを踏む車輪の音が、軽く、速い周期で繰り返されている。どうやら、夜行列車の中らしい。
 綾美は後ろから誰かに抱きかかえられ、宙に浮くようにして狭い廊下を進んでいた。抱く者の足音に合わせて空間が激しく揺れる。廊下はひどく薄暗く、それだけでも不安がこみ上げるのに、なぜかカーテンを引いたベッドの列はいくら進んでも尽きない。反対側は窓だったが、そちらも全部カーテンが下りていた。
 ようやく扉に突き当たると、綾美を抱く手がそれを開けて、ひんやりとした空間に出た。ゴー………という音が大きく聞こえる。クリーム色の壁の一角に「くずもの入れ」という標記。デッキへ出たのだった。
「ほら、もう泣かないの」
 母親…聡美の声がした。そう言われると目が熱い。そして目の周囲がヒリヒリしていて、自分の涙がしみる。
 自分が泣いていると分かると、綾美は急に心細くなった。客室のベッドが棺桶の列に思え、そして今いるデッキも何だか恐ろしくて、そばにある引き戸の磨りガラスの先に、幽霊が潜んでいるような気がしてきた。
「お姉ちゃん、って言われてたのに……おかしいでしゅねえ」
 額のあたりに聡美の声が響く。いつの間にか綾美は抱っこされていた。体を包む手が彼女の背中を優しくさする。なのに綾美は怖くて怖くて仕方がない。顎がガクガク震えて涙が止まらなかった。
「怖くないよ。ね、泣かないの……泣いちゃ、ダメ……」
 聡美の声はそう言いながらも、だんだん涙声が混じり、小さくなっていく。迫り来る恐怖の中で、頼るべき自分の母親がそのまま消えてしまう予感。怖い。悲しい。苦しくて胸が張り裂けそうだ。
 耐えかねて綾美は、ついに大声で泣き叫んだ………。

 …そこで、綾美は目を覚ました。
「夢……………」
 涙がつたった感触が、頬に残っていた。

 綾美が物心ついた頃にはもう、親といえば聡美しかいなかった。だから彼女は、父親を知らない。
「お母さんはね、東京でお父さんと結婚して、そこで綾美が生まれたの。仕事熱心で、私や綾美のこと放ったらかしにする時もあったけど、でもとっても優しくて、いいお父さんだったんよ」
 昔からそう聞かされてきたものの、綾美に東京の記憶はない。ただ、朝に米子の駅で母親と寝台列車から降りたという記憶が残っていて、後で思えばそれが、たぶん東京からの引っ越しだった。道中の記憶はないけれど、今の、薄暗い車内で恐怖に泣き叫ぶ夢をごくたまに見ることがあった。
「お父さんも、こっちの人でね、高校の時から付き合っとって、お父さんが東京に出ても続いとったんだけど…いつまでもハッキリせん人だったけえ、それで私、たまりかねて、帰省から東京に戻ったお父さんを追っかけて家へ押しかけたんよ。仕事も放り出して…ふふっ、怖い女なあ。でもな、押しかけた時にはもう綾美がおなかにおったなんて、さすがに私も思わんかったけど…」
 綾美が中学に上がった頃、彼女が年頃になったのを見越したように、聡美がそんな内幕を話して聞かせた。
 でも、それ以上のこと…特に父親の人となりについては、やっぱり前以上には教えてくれない。
 その父親は、綾美が三つの時に家が火事になって、それで亡くなったという。それが父親や、そして綾美の東京時代の写真がないことの説明も兼ねていた。幼い頃の綾美はそれを疑わず、父親のものだという位牌をけなげに拝んできた。
 だが、この何年かの綾美は年ごとに、その説明に疑問を深めていた。
「なんか、おかしいな」
 最初に感じた疑問は、死んだという結末に対してだった。周囲の母子家庭の子がみな死別ではなく離婚だったせいで、綾美は素朴に「死ぬなんて、あるんかなあ」と思ったのだ。でも十歳ぐらいの時に綾美がそう口にしたら、聡美と、まだ元気だった祖母とが一緒になって「この罰当たり!」と、珍しく顔を真っ赤にして彼女を叱った。その剣幕は当座は綾美を納得させたが、時間が経つと逆に疑惑を深める材料になった。
「なあ。お父さんの実家って、どこだったん?」
 聡美が「押しかけ結婚」の話を聞かせた頃に、綾美はそう聞いてみた。が、そういう結婚をしたせいで向こうの実家と折り合いが悪くなり、訪ねるどころか墓参りもさせてもらえないのだと聞かされた。それ以上いくら聞いても、町の名前すら教えてもらえない。
「お願いだから、今は勘弁して…もう少し時間が経ったら、ちゃんと教られるから」
答えに窮した聡美は涙声で強くそう言って、話を打ち切りにした。
 そのことが、もっと大きな疑惑を綾美の中に呼び起こした。
 死別のことだけじゃなく、話のすべてが、つまり母親が語る「お父さん」自体が虚構かもしれない…綾美は時々、そう考えるようになった。
「ぜんぜん別な人がお父さんなのを隠すために…でも、なんでそんなことを?…もしかして、私が知ってる誰かが実はお父さんってこと?!嫌だ、そんなの!」
 必死に綾美はそれを打ち消し、別の考え方をしてみる。
「ううん。お母さんが話してる『お父さん』はホントにいて、でも私の本当の、血のつながりのあるお父さんは別の人、ってことかも…」
 が、だとすると自分の母親が不倫めいた行為を働いたことになるのに気づいて、綾美はあわてて赤面する。
「やだ!私ったら何考えて………でも………お母さんの話は、やっぱり何か変だ………」

 いずれにせよ、母親のもとにいて「父親は生きてどこかにいる」と思い込んでいれば、子どもは普通
「父親は自分を捨てた」と考えて父親を憎む。母子家庭のせいで大変な思いをしたなら、なおのことだ。
 綾美が小学四年生の時に、祖父が入院した。最初、祖母がその看病にあたったが、その祖母もほどなく倒れてしまう。聡美は姉と二回り近く離れた末娘だったので、祖父も祖母も結構な歳だった。
 聡美の姉、つまり綾美の伯母はすでに亡くなっていたから、結局、聡美が仕事をやめて、内職や短時間のパートをしながら看病をすることになった。もともと暮らしは豊かではなかったが、その頃から綾美は、月に数百円の小遣い以外は何がほしいと言っても一切お金をもらえなくなった。
「持っとらんの私だけがぁ!」
「家は家なの!」
 娘はまだ家の経済状況が理解できず、母親はそれを娘に言うことができず、親子で泣きながら喧嘩をした。田舎の世間は狭く、それを気にして生活保護を受けないという家は珍しくない。
 五年生になってから、時々、学校から郵便が来ることに綾美は気づいた。ある時、封を切られたその郵便が居間の机に置かれていて、こっそり中身を見てみると、給食費や積立金を催促する手紙だった。
「……………」
 聡美のよそ行きが昔からずっと同じ色のスーツ一着であることに、そこで初めて綾美は思い至った。
 それからの綾美は、何かをねだって親と喧嘩したりしなくなった。そして学校では、家庭の状況がバレていないか、と人の視線や態度にビクビクするようになる。家でも学校でも、綾美は言いたいことを我慢するおとなしい子になった。お金を使いそうな外出の誘いも目ざとく避けた。おのずと付き合いは狭く、少なくなる。小学校時代を通じて親友とまで言えたのは、唯香理ただ一人。中学では何かの拍子に一切を打ち明けられた葉月だけだったが、その葉月すら、家に呼べるようになったのは最近のことだ。
 あとは、授業中に絵を描くことが、何もかもを忘れさせてくれる「友達」だった。絵は一人で描けるし、鉛筆とノートがある限り金は一切かからない。
「思いついたことを描いてくんが、面白くてしょうがないんよ。どうして、って…そうなんだけぇ仕方がないって。けどな、絵は紙と鉛筆あったらいくらでも描けるし、それに、誰にも気を遣わんでもいいけぇ…」
 だいぶ前に、綾美は葉月に聞かれてそう答えたことがある。葉月という親友を得て、何もかもを忘れる必要がなくなっても、綾美の「今度はこんな絵を描きたい!」という気持ちは尽きることを知らなかった。綾美の絵はノートの上で日々向上していき、一方で他人に対してはますます臆病になった。
 祖父と祖母は、綾美が中一と中二の時に相次いで亡くなった。家の経済状態はいくらか落ち着いたが、母親の仕事はパートや契約社員のままだった。だから高校も、確実に受かりそうな県立高校で費用が安く済むところという選び方しかできず、それに当てはまるのが今の高校だった。進むのは同じ学校でも、「会計の勉強がしたくて選んだ」という葉月とは事情が全然違っていた。
 …だが、綾美は普段、それらを「父親が自分を捨てたせいだ」と感じることはなかった。
 父親がいないせいで辛い目にいくら遭っても、まだ見ぬ父親を責める気持ちは起こらない。「かわりの父親がほしい」という感情も湧かなかった。最近まで中村を父親候補として受け入れていたのは、あくまでも、それが綾美にとって心地のいい人間だったからだ。

 でも、一つだけ例外があった。
「自分にこんな思いをさせる父親が憎い。めちゃくちゃになるまで殴ってやりたい」
 そんな思いをかき立てる機会が、ただ一つだけ綾美にはあった。それが彼女が今見た、あの夢だ。
 幼い頃の、夜行列車の怖い夢…現に見た時だけではなくて、その夢をひとたび思い出すや、学校だろうと道の途中だろうと、今そこで起きていることのように綾美に迫ってくる。気絶しそうなぐらいの恐怖と悲しみが目の前に迫り、自分を苦しめ、そしてその後で、父親に対する怒りが噴き上げてくるのだった。
「…あの怖い夜は、お父さんが私たちを捨てなければ来なかった!」
 そして、それに引き出されるようにして、何とも思わなかったはずの貧しい生活やみじめな思い出たちも、芋づる式に次から次へと「お父さんのせいだ!」という怒りに変わっていく…。
 …今も綾美は唇を震わせながら、こみ上げてくる激しい怒りに耐えていた。布団の中の両手は固く拳を握り、つり上がった両目が宙をにらみつけている。一度は止まった涙がまた流れているが、それを拭くことすら彼女は忘れていた。
 でも、その夢を見たのはずいぶん久しぶりだった。
 少なくとも、中村が現れ、綾美がそれを素直に受け入れられていた間には、その夢を見ることも思い出すことも、綾美には一切なかったのだが…。


サンプル3へ続く




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