『紙一重のわがまま【Complete】』作品サンプル1




      プロローグ

 二〇〇六年、夏。この年は、いつもよりだいぶ早く梅雨が明けた。

「…暑いなぁ」
 綾美は人の肩にもたれていた頭を起こして、左手にある鉄の扉を見上げた。
 暑い、と口では言っているけれど、二重瞼の丸い目はとても気持ちよさそうにトロンとしていた。鉄の扉には小窓があって、異様なまでに鮮やかな空の青色を四角く切り取って綾美に見せている。
「うん、暑いなぁ」
 隣に座っていた葉月が、綾美のつぶやきに同意した。同意はしたが、葉月も暑いという表情はしていない。眼鏡の下の細い目をさらに細めて、眠り猫みたいな顔を作っている。
 そのうちに綾美が元どおりに葉月の肩にもたれて、そのまま二人は静かになった。
 放課後。階段を登り詰めたところにある屋上の塔屋で、二人はぴたりと寄り添って、壁を背にして床に座っていた。窓といえば扉の小窓だけだし、蛍光灯は一つを残して切れていたから、薄暗い。そして空気は井戸水みたいにひんやりとしている。外で梅雨明けの夏空が広がり、強い日差しがさんさんと降り注いでるなんてウソみたいだった。
 遠くから、はしゃいだ話し声や運動部の掛け声が届いてきている。はしゃぐ声は黄色く、運動部の声も普通の学校のそれより一オクターブ高い。この土地でも、商業科がある高校には女の子の姿が目立つ。

 しばらくしてから、今度は葉月が先に声を出した。
「来週から、テストだな」
「…うん」
 綾美は目を閉じたまま、少し遅れて返事を返す。
「綾美、今日の簿記の授業、ちゃんとノート取った?」
「…………………………」
「こらっ」
 葉月は小さい子を叱るみたいな口調で言って、綾美の結び髪を軽く引っ張る。目を開けた綾美は、渋々という感じの顔で鞄を引き寄せると、だいぶ使い込んだ一冊のノートを取り出した。ノートが綾美の白い手から、葉月のさらに白い、しかし母親のようなふくらみを持った手に渡る。
 膝の上でノートを広げるや、地味で大人びた造りをした葉月の顔が、ぎゅっ、と曇った。
「もぉー、ノートは科目ごとに分けなきゃいけん言ったがぁ」
「だって、めんどくさいけぇ…」
 綾美はけだるそうな口ぶりで答えを返すと、また葉月に寄りかかって、あどけなさの残るつぶらな瞳を天井に向けた。葉月が口をとがらせて言葉を続ける。
「それに、また落書きばっかしとるー…これじゃ中学ん時と変わらんがぁ!」
「えー、変わったよ」
「どこが?」
「ほら、そこ。問題は写してあるでしょ?」
「解いて答え書かんと意味ないが!」
「けど問題写してきたけぇ、葉月に教えてもらいやすい」
「あんなぁ………」
 お互いが持つ外見のせいもあるが、二人のやりとりはクラスメートの語らいと言うよりは、中学校の新米教師と出来の悪い生徒みたいだった。
 ただ、この「先生」はだいぶ綾美に甘い。
「…この次こんなだったら、もう教えてやらんよ」
 そうぼやきながら葉月はポケットからペンを取り出し、前へ垂れようとする長い髪をサッと一掻きすると、綾美が写した問題文の下へ答えを書き込み始めた。
「いい?ここはな……」
「うんうん…」
 がらんどうの塔屋の中に、勉強を教える声が響く。
 この春に同じ中学から入学してきて間もなく、二人はこの場所を見つけた。それ以来、綾美にとっては、ここで葉月に甘えて過ごす時間が、高校生活における数少ない癒しになっていた。



 米子というこの土地は、中国地方の日本海側、鳥取県の西の端っこにある。『ゲゲゲの鬼太郎』で有名になった境港、そして県境を挟んだ安来や松江、出雲市とともに山陰地方随一の都市圏をなす町だが、市街地は米子駅の北側の一角だけで、あとは平べったい大地にネギ畑や野菜の畑が広がっている。
 暑さ寒さは、極端に厳しくはない。でも天気が変わりやすくて、一日中晴れている日は少なかった。たとえ晴れていても、みるみるうちに曇が湧いてきて雨や雪に見舞われる…というのが当たり前の土地だ。
 ただ例外的に、春の連休ぐらいから梅雨入りまでと、梅雨明けからお盆までの間は晴れた空が続く。

「あ〜、暑いよぉ〜」
 その晴れた空の下を、綾美の後ろ姿がだらだらと歩いていた。
 少し小柄なせいか、中学生ぐらいに見える。垂れた結び髪が、弱った犬のしっぽみたいだった。
 あれから綾美は学校を出て、米子駅から境線に乗った。和田浜という自宅の最寄り駅で降りると、両側に畑が広がる細い道を突き当たりまで歩く。さっきその突き当たりを右に曲がって、別の道に入ったところだ。
 道には片側一車線ぐらいの幅があって、ぼちぼち車通りがあり、バス路線でもある。道に貼り付くようにして個人商店や民家が並ぶものの、並び方には隙間が多く、そこから背後にあるネギ畑が見えた。
 空が広く、前方の見通しもいい。ただ陽炎が立ちのぼっていて、景色をぐにゃぐにゃに曲げている。
 そのうちに綾美の後ろ姿が、くるり、と左へ折れた。
 折れた先は路地みたいな細い道だったが、それまでとは一転、建て込んだ家が隙間なく道を囲んでいる。塀こそありふれたブロック塀だが、静かな道の両側に木造の日本家屋が続く。一瞬、どこかの小京都の町並みみたいにも見えるけれど、でも塀越しに納屋が見えたりするせいで、農村地帯の一角だということが分かる。
「ふへぇ、やっと帰ってきたー…」
 綾美にとってこの眺めは、家の近くまで来た、ということの象徴だった。そして綾美は、このあたりの眺めが好きだった。彼女が描く「落書き」の背景にもこの道はよく登場する。
 遠くから、少し気の早い蝉の声が聞こえる。
 木造家屋に囲まれたその道はまっすぐなのだが、途中に一度だけ緩い曲線がある。それを過ぎると空が少し広がり、道の向こうに、深緑の松並木が見えてきた。細長い松の木は家々の屋根より数倍も高く、隙間なくそびえ立って壁みたいになっている。
 その壁の向こうは、海だった。今この瞬間も、瑠璃色の水面が次々と波を繰り出し、誰もいない真っ白な砂浜を洗い続けているはずだった。
 そして今日、梅雨が明けた。くっきりした青空の下で、海はキラキラと光っているだろう。
「海に、行こうかな……」
 綾美の家は、この道の途中にある。家から海辺までは二百メートルぐらい。そびえ立つ高い松並木の間をくぐり、国道を渡って、渡った先にある鬱蒼とした松林を抜けると、そこが砂浜だった。ここは日本海と中海とを隔てる半島で、海辺はその東海岸だ。弓ヶ浜というその名のとおり、弓なりに弧を描いた白い砂浜がずうっと続いて、緑の松林と一緒に日本海を包み込んでいる。
 晴れた日の弓ヶ浜も、綾美のお気に入りの風景だった。
「……よし。行こう」
 綾美はそう決めた。夏服の胸の小さなふくらみの下で、彼女の心臓が高鳴り始めている…。
「綾美ー!綾美ってば!」
 いきなり、彼女を呼ぶ声がした。張りのある、小学生の男の子みたいな声音だった。
「…え?」
 綾美が振り返ると、長い板塀をめぐらせた大きな日本家屋があった。
 平屋建てが並ぶ中に建つ、中二階や屋根裏部屋らしき窓まで備えた立派な二階屋。板塀もひときわ高く、逆光で黒くなっているせいか家は綾美に威圧感すら感じさせる。近所のお年寄りや亡くなった祖母がこの家を「お屋敷」と呼ぶのを綾美は昔から聞いてきたが、その言葉どおり、このあたりでは飛び抜けて立派な、そして歴史のありそうな家だ。
 その「お屋敷」を囲む板塀の一角に、木戸が作られている。
 今、その戸が珍しく開けられていて、そこに黒っぽい人間が立っていた。
「綾美、おかえりー」
 綾美と同年代らしいが、スラリとしていて、背は綾美よりも十五センチは高い。
 半袖の黒い上着と、同じく真っ黒なズボン。足下も黒のごつごつした革靴。黒い中折れ帽の下の髪はバッサリと短く、肌の色も日焼けしたように濃い。上着の下に見えるTシャツだけが白かったが、その胸元には鎖みたいなゴツいネックレスがからみつき、彫刻を施した銀の十字架をぶら下げている…。
 それらだけを見ればまるで男だったが、胸や腰まわりは女性らしい曲線を描いていて、顔も、下顎が小さくまとまった女性的な輪郭をしている。綾美のそれよりくっきりした二重瞼の目がとても麗しい。濃い肌の色も、浅黒いというよりは健康的な小麦色だった。
「……………唯香理?」
 ちょっと間を置いてから、綾美はつぶやいた。
 すぐに、ほとばしるようにして大きな声を張り上げる。
「唯香理!唯香理じゃん!マジ?!」
「ふふっ、マジに決まっとるって。綾美、おひさ!」
 唯香理と呼ばれた少女はうれしそうな声で答えて、パチッとした大きい目を細めた。目鼻立ちがハッキリとした、情熱的な顔立ち。小学生の頃、男子に「焦げパン」とはやし立てられていた小麦色の肌が、今はむしろ顔によく似合っている。
「うん!……おひさ!」
 綾美は結び髪を揺らして唯香理に駆け寄る。たちまち二人の距離は五十センチほどになった。綾美の目の高さに、唯香理のスラリとした首がある。
「唯香理………えーと、あのさ………元気?」
「うん、元気!」
 唯香理というこの少女は綾美の幼なじみで、そして小学校までの同級生だった。
 一年と数ヶ月ぶりの再会。綾美も驚いているが、唯香理も目を丸くして綾美の姿を見つめている。
「綾美………その制服、かわいいなあー」
「…えー、そうかな?」
 唯香理に上から下までしげしげと見回されて、綾美は何だか恥ずかしい。
「ってか綾美、高校行けたんだー」
「高校ぐらい、行けるが!」
「ふふ、冗談冗談」

 ………引っ込み思案だった綾美は、保育園児の頃からいつも唯香理にくっついていた。かたや唯香理は男子と喧嘩して相手を泣かせてしまうような女の子で、よく泣かされがちな綾美を毎回かばっていた。
「なあ綾美。天国に行っちゃったけど、ホントは私には双子の妹がおったんだって。だけぇ私、かわりに綾美を妹にするね!」
「うん、綾美、唯香理の妹になる!」
 いつか約束したその言葉どおりに、唯香理は綾美を妹のように大事にした。学校が辛いとか、好きな異性ができたとか、綾美が悩むたびに、唯香理は自分の家へ連れていって遅くまで、時には泊まらせて話を聞いた。綾美の方でも、たとえば彼女の小遣いはなきに等しい額だったのに、唯香理の誕生日には少ない貯金を全部はたいて選りすぐりの品をプレゼントした。
 ただ、毎日会って姉妹みたいに過ごせたのは、小学校までだった。
 唯香理が松江という街にある私立の中高一貫校に進まされたので、中学は別々になった。
「なあ唯香理……ウチら、ずっと…ずうっと、友達だよ……」
「綾美、そんな泣くな!学校が…学校が違くなるだけで…す、すぐ近所だけぇ!」
 よく学校帰りに寄り道した近所の浜辺で、二人は変わらぬ友情を誓った。
でも、お互いが違う世界を持つようになったことは、やっぱり二人の距離を遠くした。列車の乗車時間だけで一時間かかる街まで通学する唯香理は、さらに剣道部に入ったり塾へ通い出したりして、平日も休日も暗くなるまで帰らない。綾美の方も葉月と出会い、彼女と過ごす時間が長くなった。それでも最初のうちは、たまに会えば昔のように、そのまま唯香理の部屋へ行って話し込んだものだったが、やがて顔を合わせても短い時間、立ち話をするだけになっていく。話題もただのおしゃべりになった。
 ただし、こうした変化には唯香理の家…というより、唯香理の母親の態度も関係していた。
 勉強時間が減るということなのだろうか、唯香理の母親は彼女を中学へ上げた頃から、唯香理が綾美を連れてくるのを露骨に嫌がり始めていた。痩せたその女の人が自分に向ける、針で刺すような眼差しを綾美は今もくっきりと覚えている。
「『うちはまわりの家とは違う』なんてお母さん言うけぇ……いまどき何様だって綾美も思わん?!」
 そんな愚痴を、綾美はいつか唯香理から聞いた。荒尾という姓を持つ唯香理の家は、このあたり一帯の地主だった旧家。そして今も結構な資産家だというのは、少なくとも大人たちの間では周知の事実だった。
 唯香理は気にするなと言ってくれるものの、綾美は唯香理の母親に嫌がられるのが気まずくて、彼女の家に行くのを避けた。まだ携帯電話を持たされていなかったので、綾美が唯香理に会えるのは偶然出くわす時だけになる。だから、遠くの街に行って遅くまで帰らない唯香理とは、だんだん会わなくなっていった。
 ………でも、唯香理がそれからずっと遠くの学校に通い続けていたかというと、そうではなかった。
 それは綾美も知っていた。
「唯香理、学校に行かんで家に引きこもっとるんだって」
 中三になったばかりの頃、同級生からそういう話を聞いた。綾美は唯香理が心配になったけれど、でも彼女の家にはやっぱり行きづらかった。
 仕方がないので、綾美は自分の母親にそれとなく聞いてみた。
「お母さん……最近、唯香理のお母さんに会った?」
「な、何よ急に?」
 綾美の母親という割に若作りなその人は、横顔のまま形のいい眉をひそめた。綾美は急いで、本当に聞きたいことを付け加える。
「あのな、唯香理が最近、学校に行っとらんって話を聞いたけぇ…お母さん何か聞いとらんかな、って」
「ふぅん。さあねえ…」
 母親の眉間の皺は少し和らいだが、返事には気持ちがこもっていない。綾美の母親の方も、唯香理の家のことを良く思っていないらしい。
「唯香理ちゃんのお母さんでしょ。会わんこともないけど…ほら、あの人、昔から無愛想な人だったけぇ」
 唯香理の家や、唯香理の親のことを母親があまり良く言わないのは、昔からのことだった。小学生の頃、綾美が唯香理の家に行くばかりで唯香理を自分の家に招かなかったのは、そんな母親に遠慮していたせいもある。もっとも綾美の母親は唯香理まで悪く言うことはなかったけれど、この時は母親の投げやりな返事の中に、「いい気味だ」というニュアンスがこもっているような気が綾美にはした。
「お母さん。私、お家に行ってみようかなって、思っとるんだけど…」
「よしなさいよ!」
 母親は叫ぶように言ってから、とりなすみたいに、でもやっぱり気持ちのこもらない声で付け加える。
「…お手紙でも書いたら?誰か、他のお友達の手紙も入れて、その子の名前で」
「……………」
 父親がいない綾美は、一人きりで懸命に自分を育ててくれた母親を尊敬してきた。母親もそれを恩に着せたりはせず、綾美にはいつも優しかった。なのにその母親が、なぜか唯香理の家のことについてだけは不機嫌そうに答えを避けたり、悪く言ったりする。それが綾美には淋しかった。後で書くとおり、綾美はその理由をおぼろげに推測できていたのだけれど、それを置いても、唯香理が大変なことになっているのを冷淡に扱われるのは悲しかった。
 でも結局、綾美は唯香理の家を訪ねられなければ、適当な友達を見つけて手紙を出すこともできなかった。引きこもっているというのは本当のようで、表でばったり出くわすという偶然も起こらない。
 そうして、そのままずるずると一年以上、綾美は唯香理に会わなかったのだ。

「…ふふふ」
「な、何よ急に」
「だって綾美が先に、急に笑ってきたけぇ」
「それは、だって………ふふっ………あははっ」
「あはははっ」
 二人は無邪気に再会を喜び合っていたが、一方で綾美は「唯香理があれからどうしたのか、今はどうしているのか」ということを知りたくて、それを切り出すタイミングをうかがってもいた。
「…えっと、唯香理は、あのさぁ…」
 やがて機会を見つけた綾美は、唯香理に向かって、途切れ途切れにその質問を発した。今まで訪ねもしなかった後ろめたさや、もし聞いたらまずい事だったらどうしよう…という気持ちが、彼女の歯切れを悪くしている。
「あぁ、心配かけたよね、ゴメンな。けど、もう大丈夫!ちゃあんと高校に行けたけぇ!」
 でも唯香理は屈託なしにそう答えて、綾美の肩を軽く叩いてきた。
「高校、って………」
 唯香理が行っていた松江の学校にしては、帰りが早すぎる。それに、その格好は………綾美はあどけない眼差しを疑問に曇らせて、唯香理のくっきりした二重瞼を見上げる。
「…学校に、戻れたん?」
「まさか、あんなとこ。県立。東高の定時制。で、もうすぐ学校行く時間!」
「ふーん、そうなんだー…」
 定時制高校なら夕方からだし、制服がないことは綾美も知っている。
「……………」
 唯香理が元気なのは、綾美にもよく分かった。ハキハキとした口調も男の子みたいな話し方もすっかり元どおりで、噂を聞いていなければ、何事もなかったのと同じだった。
 ただ、定時制に行った友達というのは初めてで、未知のものに対する違和感は当然あった。
 そして綾美の中には、まだ、別の気になることがある。
 たとえば、ギョッとするような真っ黒の上下。なんだか、すごく異様な感じがする。
「昔の唯香理とは、違う」
 小学校時代の唯香理がこの季節にしていた、Tシャツに半ズボンという姿…それも普通の女の子とは違っていたが、でも真夏の太陽みたいな明るい雰囲気があって、唯香理の性格からすれば納得ができた。
 けれども、今のこの格好は…
「なんだか……悪魔の使者、みたい」
 綾美の知っている唯香理とは、相容れなかった。胸の上でギラギラ光るまがまがしい十字架や、腕に巻き付く革のベルト…そういったアクセサリーも、以前の彼女の趣味とはかけ離れている。
「変わったんは、服装だけなのかな……」
 一瞬、綾美の胸にそんな不安がよぎった。
「綾美、どうしたん?」
「う、ううん、なんでもないよ」
 それから二人は、そこに立ったまま昔話に花を咲かせた。日差しはまだまだ強かったけれど、唯香理の家の大きな樟が、乾いたアスファルトに涼しげな影を落としている。
 お互いの近況も話題になったが、唯香理の方からどんどん質問をしてくるので、綾美は唯香理の近況をほどんど聞けなかった。唯香理が今まで何をしてたのか、なんでそんな格好なのかを綾美は聞きたかったけれど、「聞いちゃまずい事だったらどうしよう」という気後れも手伝って、結局、何も聞けなかった。
 そして綾美は、海を見に行こうとしていたのも忘れてしまった。



     T 落書き

 次の日も、晴れた。
 風が止んでしまった午後の教室で、英語の授業が進んでいる。
 黒板がカツカツと鳴っては、高めの女性の声で解説が響く。解説の合間には質問が繰り出され、女の子の声がそれに答えたり、分かりませんと言ってきたりする。
 音といえばそれだけで、教室は静まり返っている。
 ただ、それは生徒たちの集中を意味しない。机に伏せっている者、机の下でこっそり携帯電話をいじくる者、襟を目一杯くつろげて、そこに下敷きで風を入れながら放心している者………おしゃべりをしていないというだけで、女子生徒ばかりの一年三組は今日もおおいに緩んでいた。わずかに、まもなく質問を当てられる列にいる四、五人だけがノートへ向かい、渋々といった顔で問題を解いている。
 …いや。当たる順番と関係のない列にも、しきりにペンを動かす姿があった。
 一番廊下寄りの列の、前の方。
 綾美だった。
 彼女は授業が始まってからずっと、くっつかんばかりにノートに顔を近づけ、しきりにペンを動かしていた。時折、手の動きが大きくなり、そのたびに結び髪が左右に揺れる。見開き気味の二重瞼の両目。つぶらな瞳は真剣そのもので、精神の集中をよく表していた。
 ただ、瞳に中には真剣さと同時に、
「楽しくて仕方がない」 という華やいだ輝きが同居している。口元も心なしか、楽しそうに緩んでいた。
 英語が、よほど好きなのだろうか?…ここで、彼女のノートに目を転じてみたい。
 黒板にいくつも書かれた和文英訳の問題が、片側のページの途中まで、一行おきに写されている。
 けれども綾美が持つ鉛筆の先は、そこにはない。
 ではどこで彼女の筆先が動いているかというと、それはページの下半分、問題を写し終えた余白だった。
 そこには、広々とした海があった。手前には、やはり鉛筆描きの砂浜が広がっている。綾美は今、その海の上空に隆々とした入道雲を描き加えているところだ。
「うん、いい感じ!」
 授業は今、試験範囲のまとめをやっている。落書きにふけって「いい感じ」どころじゃないのだが、それはそれとして、彼女の筆使いは見事だった。
 落書きの中の海や砂浜の広がりは、一目でそれと分かる豊かな質感を備えている。舞台は、彼女の家の近所の海辺。松の木の陰から波打ち際を遠景とともに見通す構図のようで、右手の隅に松の幹が見える。幹のこちら側にはきちんと影がつけられ、海との遠近感にも狂いがない。
 そして、描くスピードが実に速かった。ついさっき手を着け始めた入道雲も、複雑な輪郭を一筆ですいすい描き続けて、すでに完成させている。書き直す必要がほとんど生じないらしく、机には消しゴムのカスが全く見あたらない…。
…そこまで上手なのも、無理はなかった。
 綾美は中一の頃からずっと、週に三十時間ほどある授業時間の大半を落書きに費やし続けてきたからだ。
 はじめは無意味な図形などの誰でもするような落書きだったけれど、やがて思いついた人や景色を絵にすることを覚え始めた。綾美自身の気持ちも、最初はただの暇つぶしだったのが、いつしか、野球が大好きな少年が我を忘れて練習に励むような、そんな熱心さに変わっていた。
 どこかの道や草原や海辺、あるいは教室や駅のホームといった景色。時折、そこで架空の人物たちが躍動し、あるいは色々なポーズでたたずむ。空を飛ぶ鳥、壁の時計やアンティークな調度品、人物たちの髪や衣装につけられたアクセサリー…そういった小道具類も怠りなく描き入れる。教科ごとに分けていない一冊きりのノートはいつも、そんな絵で大部分が埋まっていた。
 ただ、精密ではあるが、写実的な絵画のように、人物のシワや唇の形まで描くといった風ではない。漫画やアニメの匂いがする絵柄で、絵というより「イラスト」と呼んだ方が正しそうだ。
 とにかく綾美は、それを三年あまりの間、授業中にずっと描き続けてきた。
 とはいえ中学時代はまだ、たまに教師に見つかってはお説教を食らい、その後しばらくは控えめにすることができていた。しかし高校では、教師は授業の妨げになることや特に目障りなことでなければ、あまり注意を払わない。騒いだりメールを打ったりすると怒られるが、絵なら、教師が机を回ってくるのをうまくやり過ごすだけでよかった。
 だからこの数ヶ月は、一日六時間、まさに描き放題。彼女が好きな美術の時間ですら、課題の絵はさっさと済ませて落書きに力を注ぐ。教科書に載っている名画を見るのは好きだったが、それを見ていても、たとえば『湖畔』を写し取って女性にあくびと伸びをさせたり、『最後の晩餐』の面々をオリジナルのキャラクターに置き換えたりしていた。
「これじゃ、ヤバい」
 言われるまでもなく、彼女自身も時々そうは思う。だから問題だけは写し取って、勉強するべく家でノートを広げる。でも、やっぱり気がつくと絵を描いていて、ノートはさらに勉強以外の書き込みで埋まっていくのだった。そして「ヤバい」と思ったことすら忘れてしまう。
 …ただし、それほど一生懸命に描く絵も、本人にすれば「ただの落書き」でしかなかった。
 どんなに上手に描けても、後でそれを見直すでもなければ、別の紙に起こしてイラストに仕上げるわけでもない。そしてノートが一冊終われば、惜しげもなく一緒に捨ててしまう。
「絵を描くの楽しい!もっとずっと描いてたい!」
 つまり、描くこと自体が楽しいのだった。
 描いた作品への執着は全くなくて、人に見せるなんて考えたこともなかった。

「うーん………なんか、ちょっと………」
 授業の時間が、半分をだいぶ過ぎた。落書きを始めてからで言うと、二十分ほどが経っていた。
 やはり綾美はせっせと筆を動かしていたが、二重の丸っこい両目から、先ほどの楽しげな感じが失せている。
「あーっ、うまく描けなくて嫌になってきた。でも、ここまで描いてきてやめるなんて…!」
 そんな感じの、険しくて必死な感じの目つき。さっきまで出番のなかった消しゴムが頻繁に使われる。
 やがて綾美は初めて筆を止め、落書きを眺めた。机には消しゴムのカスが大量に散らばり、紙面のところどころが波打っている。
 松の木陰から眺めた、一面の海と遠くまで続く砂浜。空には入道雲が盛り上がり、そして弧を描く砂浜の果てに、裾の広い山が見える………景色は、とっくに出来上がっていた。そこまでは、いい。
 砂浜の上、波打ち際に人物が一人立っている。これが綾美の課題だった。
 腰や肩のラインからして、それは少女であるらしい。逆光のシルエットを薄くつけるために、少女は寝かせた鉛筆で斜めに塗られている。しかし塗りが濃すぎて、下に描かれた服装や髪型、それに腕の形がつぶれてしまっていた。ごまかすために塗りつぶしたようにも見えるし、そして半分はそのとおりだった。
 ただ一カ所、少女の横顔だけは塗られていない。だが、そこにある目鼻は何度も描き直されて太くなり、表情が全く分からなくなっていた………泣いているのか、怒っているのか、とにかく明るい笑顔ではないらしいけれど、その程度のことしか分からない。
「………ダメ、違う」
 綾美は結局、消しゴムを激しく動かして人物をすべて消した。
 綾美が描こうとしているこの絵は、今日初めて描いた絵柄じゃなかった。
 角度や距離を様々に変えながら、この一月ほど、綾美は繰り返し繰り返しこの場面を描いていた。今、使っているノートにも、ほぼ見開きごとにこの絵柄がある。
 一つの図をそんなに長い間描き続けることは、今までなかった。三日も楽しめば次の絵柄が思い浮かぶ。この絵も、最初は景色の部分だけを思いつき、それを描いている二日間ぐらいは単に楽しいだけだった。
 ところが、ふと思い立ってこの少女を登場させ、それが思うように描けないことに気づいてから、彼女はこの図に挑戦し続ける羽目になってしまった。そして毎回、納得の行く形で完成させられない。海や砂浜や松の幹は見事に決まるものの、少女だけは、自分が「これだ!」と思えるポーズや表情にどうしてもならない。それでムキになって何度も消したり描いたりして、結局いつも完成できないのだった。
「あーっ、もう!また違う!どう描いても、なんか違っとる!」
 悲しい表情にすれば「もっと怒った感じのはずだ」と思えるし、でも怒った表情にすれば「いや、ムカついてるわけじゃないんだ」と思える。髪型や衣装やポーズ、光の加減、さらには少女に当たっている海風の強さ…それらについても同じだった。どう描いても見てみると不満で、そのうちに描くのが不愉快になる。
 そんなに不愉快ならば、別の絵を描けばいい。
 綾美も、それは思う。
 なのに授業が始まるたびに、綾美の手は必ずこの絵柄に、この少女に挑戦し始めるのだった………。
「あ」
 チャイムの音で、綾美は我に返った。
 教師が終わるとも何とも言わないうちから、教室の中は片付けをする音で騒がしくなった。
「おんなじ疲れるなら、授業聞いとればよかったかも…」
 机を片付けながら綾美はそう思ったが、思ったところで決して聞けないことも彼女は分かっている。
 …授業を聞く気になれないのは、落書きが好きなせいだけじゃない。
 綾美はこの南高という高校を、積極的に選んだわけじゃなかった。家に経済的な余裕がない中、確実に入れそうな県立高校の中で交通費や積立金が安く上がる高校がここだった。
 とはいえ、特に入りたい高校が別にあるわけでもなかったから、不本意入学というほどでもない。強いて言えば、中学の先生から「商業科だったら資格が取れて将来に有利よ」と薦められたのがごく薄い動機になってはいた。でも簿記はなんだか性に合わなくて、資格を取るどころか大の苦手科目になっている。
 将来についても、特に夢もなければ、自信を持てる特技があるわけでもないので、何の展望もない。
 興味を惹かれる部活動はなかったから、中学に続いて何部にも入っていない。話友達のようなクラスメートはできたが、なんというか、それぞれ彼女とは毛色が違っていて、一緒に楽しめる話題は少なく、綾美は無理をして雑談について行っている。
 結局、今の綾美にとって高校生活とは、何の張り合いもなく、そして気疲れが溜まるものでしかなかった。放課後に葉月と話すひととき、そして落書きだけが、彼女の心のよりどころだった。そのことがまた、彼女をして落書きに熱を注がしめていく…。
 皮肉なことに、一番よく話す仲間たちと過ごした後が、綾美が一番気疲れを感じる時だった。
 仲間といっても、対等な友達同士というよりは、ちょっと幼い感じのする綾美に興味を持ったある仲良しグループが、
「ねえ。あの子かわいくない?」
そう思ってなかば一方的に綾美を引っ張り込み、マスコットみたいな感じで彼女をチヤホヤしているという関係だった。ユミという子を中心にしたそのグループは、どちらかというと、スーパーやコンビニの飲食コーナーでたむろしながら携帯電話をいじっているタイプの少女たち。おとなしい綾美がその中にいて気疲れするのは当たり前なのだが、とにかく話しかけてきてくれるし、彼女たちなりに話題を合わせてきてくれるから、一緒にいる間の居心地は悪くなかった。それで仲間づきあいを続けている。
 あとは、その仲間たちを通じて、ある人に近づくことができるからだった。
 綾美がいる三組は全員が女子だけれど、学校に男子が一人もいないわけじゃなく、ただ少ないので、商業科の四クラスのうち二クラスに女子と半々で集められていた。
 隣の二組はその男女クラスで、そこから今、細身の男子生徒が一人出てきた。
「あ………」
 自分の教室の入口から、綾美はその男子を横目で追った。隣にユミと、同じ仲良しグループのもう一人の女子がいて、彼としゃべっている。女子二人はもちろん制服だし靴下も紺のハイソックスだけれど、スカート丈を注意されないギリギリまで詰め、髪を地毛だと言い張れるギリギリまで脱色していた。
「綾美、ちゃおー!」
 ユミが手を振ってきた。綾美が手を振り返した刹那、問題の男子生徒が笑顔で綾美を見てきた。
「吉川さん、お疲れ!」
「お、お疲れ」
 挨拶を返しながら、綾美は思わず下を向く。頬が少し赤くなる。
「……………」
 その男子は加藤といって、綾美と同じ中学から来ていた。綾美は中学時代のなかば過ぎから、彼の姿を見るたびに動悸を覚える。
 でも中学の間はそれだけのことで、近づくために何をするわけでもなかった。できなかった。
 加藤は、中二の時に綾美と同じクラスにいて、綾美と彼との二人が文化祭委員だった。
「じゃあクラスの報告は、俺がやるけぇ!」
「…うん、ありがと」
 教室の前に立って委員会の中身を報告することを考えると、気弱な綾美は冷や汗が出た。それを見通して気遣うみたいにして、加藤は毎回その役回りを買って出てくれる。地味な顔立ちに反して朗々とした声で発表をし、時には笑いまで取る彼を綾美は頼もしく思い、やがて好きになった。
 でも、文化祭の準備はいつまでも続かない。想いを秘めたまま当日になり、日中の催しはあっという間に終わった。そして夕方にフォークダンスで組になって、
「あのさ……」
「ん?」
「…ありがとう。すっごく、助かった」
「え?いいっていいって!」
そう言葉を交わしながら気持ちよく笑って、それきり加藤と話す機会はなくなった。
 疎遠な男女が近づくには、接点がいる。だが中学時代も今も、綾美の顔見知りは葉月みたいな真面目なタイプの同性ばかりで、異性との間を取り持ってくれるような性格や人脈の持ち主はいない。しかも加藤は明朗活発な性格のせいか、綾美が苦手な騒がしい子たちとグループを組んでいた。
 ところが、高校に上がって今の仲間たちのグループに入ってみると、彼女たちと一緒に動く男子の中に、加藤がいた。
「違う世界に、住んでる人だから」
 そう思ってあきらめていた加藤と、綾美は話ができるようになった。ここでも彼は明るい人気者だった。誰にとっても魅力的なはずだから、自分の想いなんか叶うわけがない…綾美はそう思っていたけれど、それでも話せるのはうれしかったから、仲間たちとの付き合いをぞんざいにはできなかった。

 …帰りのホームルームが済むと、綾美は葉月のクラスへ行って彼女を誘い、一緒に階段を上り詰めた先の塔屋へ行った。そして今日もそこに隣り合って座り、何をするでもなく、がらんどうの空間に身をゆだねた。
 ひんやりした空気の中へ、二人が学校生活で溜めた気疲れが少しずつ蒸発してく。心地よい葉月の感触が、綾美を緊張から解放して心のこわばりを溶かす。葉月にも、綾美の感触が同じ作用をもたらす。葉月も活発なたちではないから、大勢の中にいると綾美に劣らず気疲れがするのだ。
 ただ、葉月の方が綾美よりしっかりしていて、そして放っておくと綾美が勉強しないことをよく知っていた。
 それで昨日と同じに、葉月による「補習授業」が始まった…。
「ちょっと綾美、ちゃんとノートの方見とってよ!」
「うん、見とる」
 がらんとした塔屋に、今日も「葉月先生」と綾美の声が響いている。
「解く順番を見とってくれんと、解き方覚えられんでしょ」
「大丈夫、ずっと見とるけぇ」
「ウソ。絶対に上向いとったし!綾美の目は顎についとるの?」
「うん」
「……………」
 葉月は絶句したが、気持ちを切り替えて書き込みを再開する。綾美も今度はノートに注目し続けている…
「あ!」
 ノートを見ていた綾美が、急に声を上げた。
「な、何?」
 葉月がピクリと手を止めて、綾美の顔を眼鏡ごしに見る。
「…ううん、なんでもない」
 綾美が答えると、葉月は長い黒髪を一掻きしてから、安心したようにノートへ向き直った。
 でも、綾美は急に眉を寄せて、曇りがちな表情を見せ始めた。
 この時に開かれていたのは、今さっきの授業で落書きをしていたページだった。最後の問題文のすぐ下まで、綾美が描いた入道雲や青空が広がっている。
 そこへ葉月が、最後の問題文の解答を書いた。つまり絵の中の夏空へ、葉月が英文を書き込んだ。
 それを綾美は「あ!」と思った。
 そして、何でもないとは言ったものの、ずっとそれが引っかかっている。
「ほら、ここ………ちゃんと見とる?」
「…う、うん」
 返事はして、いちおう葉月のペン先を見てはいるものの、綾美は絵が汚されたことが気になって仕方がなくなっていて、そしてイライラしていた。
 ただ、そのイライラを葉月にぶつけて彼女を憎むことは、綾美は必死に避けている。
 綾美にとって葉月は、授業中ずうっと落書きしていることをオープンにできる、ただ一人の相手だ。それも、中一から今までの三年あまりの間、ずっとそういう間柄だった。教師や母親はもちろん、並の友人にもこんなノートは恥ずかしくて見せられない。ただひとり葉月だけが、「それが綾美だ」ということを分かって、その上で付き合ってくれている。
「普通の友達じゃない」
 今この瞬間も、綾美はそう思っている。
 そして、葉月がわざと絵を汚したわけじゃないことも、もちろん綾美は分かっている。
 そもそも綾美は、出来上がった作品に執着は持たないはずだった。描きたくなったイメージをひたすら描いてゆき、そのとおりに完成させるところまでが彼女の楽しみのはずだった。
 ………なのに今、落書きの夏空を人に汚されたことが、綾美は気になって仕方がなかった。喉に刺さった魚の骨のように、後を引く不快感を綾美に与え続けている。
 落書きを覚えてからの人生で初めて綾美が感じた、不思議な感情だった。


サンプル2へ続く




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