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お盆が明けて、十八日。
この土地は、お盆を過ぎると曇りがちの日が増え、そのまま秋になっていく。その予告なのか、昼前から綿雲が出て時折太陽を隠す様になったが、まだ空の半分以上は青く、日が差せば地面にはくっきりと影ができる。なにより、東京や大阪よりもカラッとしているとはいえ、暑さはまだ夏本番だ。
謙一が、北高のある豊岡の町へ向けて車を走らせている。観光客のピークは終わって、見渡す限り他に車はない。視界の左側に、広大な水面が続いている。堤防も河原もなく、道とほとんど同じ高さで円山川が流れているのだ。向こう側まで、何十メートルあるだろうか。湖と見まごう幅の静かな川面が、雲間から現れた日差しをキラキラと反射している。
「この前とは、ぜんぜん違うな……」
右手の一段高いところに線路があって、今、短い普通列車がビュッと通り過ぎた。ちょうどこのあたりが、帰ってきた日に謙一が夜行列車からのぞいたあたりになる。あの時のこの景色は彼を重い気持ちにしたけれど、今となっては美しい景色だ。そして、思い出の景色でもある。昔から、東の方へ撮影行をする時は必ずここを通ったし、それ以上に通学で毎日の様に見ていた場所だ。一人だったり、十蔵と写真をめぐって議論を交わしながらであったり、あるいはひそかにどきどきしながら麻衣子の横に立っていたり。この広い川面は、心躍る時はキラキラと輝いて、気持ちが沈んでいる時は鉛色になって、自分の心をよく映していた………謙一には、そういう記憶がある。
そして今日は、青い水面がひときわきれいに見える。
「よし、今日なら、麻衣子とちゃんとした話ができそうだ」
北高は、町はずれの小高い丘にある。バス通りから正門へと続く坂道は「遅刻坂」と呼ばれていて、その名の通り駆け足には少々きつい傾斜が続く。その坂へ謙一の車がさしかかると、頂上に、ぽつん、と、麻衣子とおぼしき人影があった。この前と同じ、薄手の白いブラウスに夏物のスカートという姿が、正門の手前で後ろ向きで立っている。
謙一の鼓動が、ドキン、と大きくなった。彼は傾斜に合わせてギアを落とし、ぐっとアクセルを踏み込もうとしたところだったが、
「いや、歩いて行って少し落ち着こう」
と考えて、坂の入口に車を止めた。
ドアを開けると、むわっ、と、暑い空気が謙一に迫り、両脇の木立で鳴く蝉の声が大きくなる。謙一はその中を歩き始めたが、ほどなく、たまらなくなって駆け出した。八十メートル……五十メートル……。後ろ頭に結び目が盛り上がり、つやつやした長い髪が背中まで垂れている。次第に同じ高さへと近づいてくる後ろ姿は、やっぱり麻衣子だ。
「麻衣子、おまたせ!」
謙一の声に、麻衣子が振り返る。
「謙一君!」
汗がしみて思わず目を閉じた謙一に、鈴の音の様な懐かしい声が伝わった。
「そんなにあわてなくても……私たち、遅刻なんてしなかったじゃない」
たどり着くや下を向いてぜいぜい言う謙一の肩に、麻衣子が笑いかけた。
「…………いや……、待たせちゃいけないって、…………思ってさ……」
坂の上は、門の内側から張り出す桜の巨木が陰を作っていて、涼しい。しかし、冷房のきいた車内から急に外へ出て動いたからか、謙一の呼吸はなかなかおさまらず、額の汗も止まらない。すると、ほのかな体温と、杏の実の様な甘酸っぱい匂いとが、ふっ、と謙一に近づいた。
「水、飲む?」
麻衣子がしゃがんで、水をたたえた水筒の蓋を差し出しながら、鼻眼鏡で謙一の顔をのぞき込んでいた。パチッと開いた黒目がちの目が、二十センチ前にある。差し出された細腕は、あくまでも白い。謙一は彼女の瞳に目を合わせてから、蓋を受け取って一気に中身を干した。
水を飲み干すと謙一は呼吸が楽になり、水筒を手提げにしまう麻衣子に照れ笑いをして見せた。
「ありがとう。用意がいいね」
「うん、暑いからね」
そういえば、彼女はここに何の用事があったのだろう。
「北高には、どうして?」
「図書館で、本を借りてたの。昔読んだ本を、また読みたくなって……。町の図書館にもあるんでしょうけど、あの本ならあそこに、って思って、わざわざこんなとこまで来て特別にお願いして……バカみたい」
「……麻衣子らしいかもしれない。…………それにしても、学校も変わってないなあ」
「うん、中も相変わらずよ」
四方に枝を張り巡らせた桜の巨木のトンネル、錆が浮いた自転車置場の覆い、薄暗い昇降口、そしていまだに鉄の窓枠を使う古い校舎……蝉しぐれにまじって、運動部のかけ声が聞こえる。謙一は、ここでようやく、とても懐かしい場所に来たんだという感慨を持った。明日またここへ来て、月末ごろから毎日通うことになるのが、まだ信じられなかった。
そして、葉桜を背景にした麻衣子の顔も、やはりあの頃のままだ。涼しげなブラウスが高校の夏服を思い出させるのか、余計に謙一にそう感じさせる。
その麻衣子の視線が、謙一の背後の上空に向かっている。謙一が振り向くと、正門の横に鉄線で囲まれた原っぱがあって、送電線を何本も抱いた高い鉄塔がそびえ立っている。
「私、……鉄塔、好きだな」
麻衣子のつぶやきに、謙一も振り返って鉄塔を見上げる。鉄骨の組み合わせが上に向かってすらりと伸び、広い夏空を突いている姿は、たしかにすがすがしく、そして力強い。
「…………いい絵だよね」
謙一が応じると、うっとりとした眼差しで見上げたまま、麻衣子が続ける。
「それに、あのてっぺんからだったら、きっと、三階の教室なんかよりずっときれいに、いろんなものが見下ろせるじゃない。……昔から、そんなことばっかり考えてた」
三階からの景色も十分に美しいが、校舎は少し奥まっているし、高さがぜんぜん違うから、それはそうだろう。一番高い送電線に、鳥が止まっている。麻衣子の意識は今、あの鳥になっているのかな、と思いながら、謙一は自分も鳥の目線に思いをこらした。
どこか景色のいい場所へ行こう、と、二人並んで坂道を下る。十年前の下校時間よりもずっと日は高いし、麻衣子のサンダルが立てるコツコツという音は、その頃にはなかった音だ。だが、それでも謙一の頭には、傾いた夕陽を受けながら麻衣子と帰った記憶が、否応なしによみがえってくる。話の切れ目に、そっと麻衣子の手にふれてみようと、謙一の腕が少し上がる。薄笑みを浮かべて並ぶ麻衣子は、応えてくれそうに見える。それは、あの頃もそうだった。しかし、それはあまりにも話ができすぎだという感じがして、結局できないのも昔のままだった。
「麻衣子」
表情に彼女の気持ちを問おうと、謙一が横向きに呼びかける。
「ん?」
と答えて、麻衣子が眼鏡越しにキョロッと見開いた目を向ける。子どもが、珍しいものにわくわくする様な表情。それは、彼女もまた同じ感情を自分に寄せてくれているということなのか、それとも昔の友達と会えて楽しいというだけなのか、謙一には分からない。
「……いっつも帽子とか持ってないけど……その肌で日焼けして、痛くない?」
「日焼け止め、塗ってるから…けど、もう少し日が強かったら、それでも焼けちゃうね。でも、帽子って、なんだか窮屈で」
「へえ…………麦わら帽とか、似合いそうだけど」
結局、謙一はどうでもいい話を切り出して、それでまた二人ともおしゃべりに戻る。見違えて元気になり、また東京時代には女性といい仲になる様なことがないでもなかった謙一だが、麻衣子を好きな異性として意識すると、やはり写真しか芸がない内気な少年に戻ってしまうのだった。
「へえ……謙一君、運転してる……」
謙一がとりあえず市街へ向けて車を出すと、麻衣子が助手席で驚いた様な顔をした。驚かれて謙一は一瞬とまどったが、ひょっとして、と思って麻衣子に尋ねた。
「もしかして麻衣子、免許持ってないの?」
「うん」
麻衣子がこくんとうなずくのをバックミラーに見て、今度は謙一が驚いた。ここも田舎で、大人は運転免許を持っていて当たり前という世界だ。免許を取らずに都市部へ出た人間も、次の年には実家の車を乗り回す様になっている。早生まれの謙一も大学一年の終わりに、帰郷を返上して教習所に通ったのだった。
「柴山で車なかったら不便だろ。買い物とか、どうしてるの?」
柴山の集落には雑貨屋があるきりで、それ以上の買い物は山を越えなければならない。……いくら実家だと言っても、生活や仕事は一体…………謙一の頭に、麻衣子に聞きたいことがいくつも湧いてくる。
「うーん……」
麻衣子がきょとんとした顔でちょっと考えて、それから、はにかんで言う。
「でも、私が運転なんてしたら、即事故っちゃいそう」
「…………」
麻衣子の答えになっていない答えに、謙一は何から聞いていいのか分からなくなった。
道が南に向きを変え、麻衣子の上半身に日が一杯に当たる。話の途中から前方をじっと見ていた麻衣子は、日よけを倒そうともせずに、目を眠り猫の様に細めてまぶしさをこらえている。
「ほい」
謙一が見かねて、左手を伸ばして日よけを傾けた。
「あ、……ありがと」
車を運転できないどころか、助手席に乗るということもあまりないらしい、と、謙一は思った。麻衣子の目が元の様に開き、ふたたび前方の景色を見つめる。小さく口を開けて、かつての通学路をじいっと見つめている。まるで、長い間どこかに閉じこめられていたみたいだった。
「仕事って…………してるの?」
謙一が話の続きを切り出すと、麻衣子は前を見たまま、ぽつ、ぽつ、と答える。
「家のお手伝い……うち、民宿やってるから。……あ、たしか謙一君の家も……」
「両親が親戚の旅館で働いてるだけだよ……。でも、それでやってける?」
城崎の西側がにぎわうのは冬のカニの時期と、あとは今時分に海水浴客が少しあるだけで、麻衣子の稼ぎはいくらにもならないはずだ。
「お金、そんなに使わないし。……それに、とっても静かで、いいところよ」
「……うーん、…………あそこでのんびり暮らすのも、いいなあ……」
謙一は、柴山の町の時間が止まった様な眺めや、ひっそりとした駅への坂道を思い出した。今すぐに自分が住むと想像すると、ちょっと人が少なすぎて寂しい。でも、そこでずっとそうして生きて行くのなら、幸せかもしれない……そうだ、麻衣子はいつから柴山に戻ってきていたのだろう。そして、何があったのか。
「あのさ、……いつ頃から、帰ってきてたの?」
すると、バックミラーに映る麻衣子の顔が、きゅっ、と雲って、眉間にしわが寄った。不機嫌と悲しさとの、中間ぐらいの表情。そしてその顔が、ゆっくりと謙一に向く。
「さっきから、謙一君が聞いて一人でうなずいてばっかり。そろそろ、私が質問する番だよ」
それはその通りだったが、麻衣子がその話題を避けた様にも見えた。どちらにせよ、肝心な話題をのっけから遮られて謙一は少しムッとしたが、「そうだよな……よっぽどのことがあったんだよな……」と思い直して、麻衣子の言葉に従った。
「……そうだね。で、何を聞く?」
すると麻衣子は向き直ってちょっと考えてから、あらためて謙一の横顔を見つめた。
「えーっと、……謙一君、元気になったよね」
「そうかなあ」
「うん。前は、ちょっと遅れてからボソボソっていう感じで返事してたし、私が話を振らないとあんまりしゃべらなかった。けど、今は……ぽんぽん言葉が出てくる感じがする」
「ああ。最近ちょっと、気分がいいんだ」
車が交差点を左に折れる。ハンドルを切る謙一の動作は、その言葉の通りに軽快だ。
「東京で、そうなったんじゃなかったの?」
「どうだろ。……でも、写真のことをあきらめちゃってから、帰ってきてしばらくまでは、こんなじゃなかったよ。もう、ぐちゃぐちゃに、へこんでた……」
けど、麻衣子がいてくれたから、という言葉を謙一は思い浮かべたが、いざ彼女の顔を見ると、やっぱり言い出せなかった。
「…………向こうで……何があったの?」
麻衣子の小さい目が、ぐっ、と見開かれて、バックミラーに映っている。
「……それは、麻衣子のその話と引き替えだな」
高校時代の気弱な彼ならば、聞かれるままに話を続けていただろうか。だが、そうするには内容が重すぎたし、「麻衣子も話してくれないのに……」という思いもあって、謙一はわざと意地悪そうな笑顔を作った。
「…………意地悪」
麻衣子がつまらなそうな顔をしたところで、車は初めて信号に引っかかり、スピードを落とし始めた。車は市の中心部まで来ていて、道の両側を商店や会社が占める様になったが、建物は背が低く古ぼけていて、車もそうだが人通りも多くない。
それからしばらくの間、昔話に花が咲いた。少なくとも謙一は、
「これからまだまだ時間がある。いきなり過去に話を振って、さっきみたいに気まずくしちゃダメだ」
と自分に言い聞かせて、つとめて話題を昔の笑い話や、いい景色がある場所の話へと振っていた。はずむ話にまかせて、車は円山川のそばをぐるぐる回っていた。
このあたりの円山川には堤防があり、車はその上の国道を走っている。さっき渡って戻ってきた橋がまた見えてきた時、話題は謙一の夢のことに移っていた。
「……へえ……じゃあ、また写真家を目指すの?」
「うん。……今、極めたいのはこのへんの海や山だから、すぐ東京に出るわけじゃないし、その前に、どうなるかわからないけど……」
顔は笑っていても、謙一の目は真剣だった。麻衣子がバックミラーの彼をのぞき込む。
「でも、あれから十日ぐらいで、真っ黒に日焼けして……本当に頑張ってるみたいね」
「ああ、毎日撮影か現像で出かけてる…………頑張れそうだし、絶対頑張ってみせるよ」
「……ふうん…………」
麻衣子が前を向き直って、ちょっとうつむいた。
将来の話をしているうちに、謙一は運転しながらではなく、どこかに落ち着いてじっくり麻衣子と話し込みたくなってきた。それに彼は昨夜遅かったので、疲れて少し眠くなってきていた。そういえば、どこかへ行こうと言って車を出したのだった。
「そうだ、どこに行こうか」
麻衣子は少し考えてから、上目づかいに謙一の顔を見て、
「さんざん走り回ってからバカみたいなんだけど……やっぱり、学校の山から見下ろす景色が、一番かも」
と言ってニコッと笑った。謙一も、つられて笑う。つられただけではなく、その通りだと思った。
「鉄塔に、登る?」
「まさか。……学校の教室に行こう。ここに『先生』もいることだし」
そうして謙一たちは北高まで戻り、懐かしい匂いのする狭い階段を競う様に上がって、三階の、二人が三年生だった時の教室から、窓の外を眺めたのだった。
「わぁ…………」
麻衣子が乗り出さんばかりに窓へ寄って、思わず声を上げた。山や田畑に囲まれた豊岡の町が、箱庭みたいに見える。地上にいる時よりもぐっと空が広くなり、そして近くにある。
一歩遅れた謙一は横に並ぼうと思ったものの、古い校舎の小さい窓は、並ぶには窮屈な幅しかない。それはそれで「チャンス」なのだが、眠気を覚えている様な状態でどきどきする様なことをしてのけるのは嫌だった。それで謙一は、一歩後ろで麻衣子と同じ景色を眺めてから、麻衣子のすぐ後ろの椅子に座り、彼女の肩越しに空を見つめた。
「……あの頃、こんなに空が近かったっけ」
謙一がなんとなく尋ねた。上空を流れる雲が、さらに増えている。しかし、まだ空そのものは青く、雲との間にくっきりとしたコントラストを保っていた。
「…………うん……たぶん」
景色にうっとりしているのか、やや遅れて麻衣子の背中が返した答えは、どこかとろんとしている。
窓際にはきつく日が差し込んでいるが、謙一の頭には麻衣子の陰がかかっている。開けた窓からは、彼女のブラウスの裾がはためくぐらいに風が吹き込んでくる。それに教室の内側は適度に薄暗く、見た目にも涼しい。
「…………」
謙一は風を受けながら、頬杖をついて前を見た。白くてやわらかそうな麻衣子の肘が視界の左にあって、さっきも彼女が漂わせていた、かすかな甘酸っぱい香りが伝わってくる。
目の前にあるがらんとした教室に、夏の昼休みがよみがえってきた。…………俺の席は、教室のど真ん中だった。隣のクラスから十蔵が来て、ウチのクラスの何て言ったか、ヤツと同じ趣味の仲間と三人、その手の撮影地とかの話につき合わされてた。…………それで、壁側の前の方に、麻衣子たちがいた。必ず輪の中の一番後ろに座ってる彼女を、斜め後ろからチラチラと見てたっけ…………でも、その位置に十蔵が立つんだよな……さりげなく顔を十蔵の脇へ持ってって、麻衣子の横顔の、耳の前に垂らした髪、あのあたりを見て一人でどぎまぎしてた。…………昼休みが終わって、授業中にまた見ようと思うんだけど……、午後は、いつの間にか、うとうと………………。
「…………?」
人の気配に謙一が顔を上げると、麻衣子の顔が彼を見下ろしていた。謙一はいつの間にか眠ってしまったことに気づき、大いにうろたえた。
「ごめん!…………ちょっと、その、疲れてて……」
幸い麻衣子の表情は、しみじみとした感じの笑顔だった。少し、頬が紅い。謙一はひそかに胸をなでおろす。
「ふふっ……授業中も、よく寝てたよね」
麻衣子は謙一にそう言いながら、ふたたびドキッとする謙一をよそに、机の向かい側に腰を下ろした。前の椅子は、すでに後ろに向けてあった。謙一が寝ている間、そこへ座っていたらしい。
「……向かい側から、ずっと、見てたの?」
恐縮しきりの謙一が、うつむき加減で真向かいの麻衣子に尋ねる。
「うん。……気持ちよさそうだったから、起こすのもどうかと思ったし……」
太陽は西向きに移動していて、少し赤みを帯びた麻衣子の顔が逆光になっている。
「……それに…………」
朝の教室で話す時も、こうして謙一が席に座り、麻衣子が前の椅子を使っていた。そしてその時間の太陽は教室に差し込む位置になく、やはり麻衣子の前は薄暗かった。
「その……なんて言えばいいのかな…………とっても、懐かしかった、っていうのか…………なんか……じっとこう、見てたくなって……」
座っている麻衣子の姿の明るさ、それに位置。謙一の前に、彼女を見初めた頃の朝の風景がそのままにあった。そして、下を向いた麻衣子は、口を小さく開けたまま言葉を途切れさせて、真っ白な頬を、泣きっ面みたいに赤く染めている……。
刹那、謙一の頭から、目の前にいる麻衣子以外のすべてが消えた。椅子が倒れる音が響き、そっと触れるのすらためらっていた両手が、あっさりと麻衣子の両肩を抱いた。やわらかく、温かい彼女の感触が、痺れになって謙一の脳天に伝わる。そのまま彼女の背中に手を回して、机を挟んだまま不器用に彼女を抱きしめた時、ようやく彼は麻衣子が体を固くしているのに気づいた。
「!」
謙一は我に返って、あわてて麻衣子から手を離そうとした。するとその時、
「違うの!謙一君が嫌なんじゃないの!!」
麻衣子がそう叫び、両腕を謙一の背中に巻きつけ、がばっ、と彼の肩に顔を埋めた。
「……びっくりした…………びっくりしただけ……」
熱いぐらいの温もりが、謙一を包む。しかしそれでも、痙攣の様な震えがまだ伝わってくる。ただ驚いたでは説明がつかないぐらい、体に力が入っている。謙一が恐る恐る、麻衣子の横顔にくっつけていた顔を上げて、乾き切った口を開く。
「……ごめん、麻衣子…………驚いた?」
唾液を飲む音が聞こえるほど近くに、真っ赤になった麻衣子の顔がある。潤んだ黒い瞳が、彼を見上げる。
「…………大丈夫、大丈夫だよ。…………謙一君、……ずっと、好きだった。…………だから……震えてるのは、違うの……」
顔を上げた麻衣子はそう言って、ぎゅっと目をつぶった。目の端に、涙の玉。彼女はなおも体を固くして、閉じた目も上下の睫毛がびくびく震えている。けれど、謙一は言葉の方を信じて、麻衣子の唇に自分の唇を重ねた。
風が強まったのに気づかされるまで、二人は長い間、相手の唇を何度も貪りながら、お互いの体の感触を確かめ合っていた。
「……なんだか、こうしてるのが不思議すぎて……笑っちゃう。……私、おかしいね」
顔を離すと、だいぶこわばりが解けた麻衣子がぎこちなく笑って、そう言った。それは謙一にしても同じだった。
二人が座り直して火照りを冷ましていると、今夜はこのあたりの夏祭りなのか、祭囃子の笛太鼓が小さく聞こえてきた。太陽の位置はなおも高いが、光の色がもう夕方なのを告げている。……ぴーひゃらら、どどんどん……楽しい時の到来を告げる調べは、日があるうちから聞くと逆に寂しい感じがする。
「…………帰ろ、……私、帰らなきゃ」
まだ赤みが残る顔を上げて、麻衣子が言った。
「うん、送るよ」
謙一はそう答えて、麻衣子と一緒に立ち上がった。そして先に歩き出した麻衣子について行こうとしたが、ふと窓が開いたままなのに気づき、彼女を先に行かせて窓の方を向いた。
窓の取っ手を引くが、動かない。鉄の窓枠は年季が入っていて、謙一が現役の頃も時々言うことを聞かなかった。彼が窓をガタガタさせ始めると、入口のあたりから麻衣子が話しかけてきた。
「謙一君」
「ん?」
「今日、謙一君に会えて、私、ほんとによかった……謙一君の手や肩にさわれるなんて思わなかったし、謙一君が抱きしめてくれるなんて、思ってもみなかった……」
「……それは、僕もそうだよ。ありがとう」
謙一は手を止めて礼を言うと、ふたたび窓を直し始めた。なまじ動きそうな気配があって、かえってあきらめがつかない。
「でもね、今の謙一君……何て言うのかな、時々ちょっと、空中のなんにもないとこを歩いてるみたいで、……ちょっと心配になる」
「…………」
もちろん謙一自身、そう言われる心当たりが少しはある。でも、今はその生き方をして行くしかないし、今持っている夢は自分にとって大切なものだ。返す言葉が見つからず、謙一は作業を続けてごまかした。
「……あのね、写真がいけないっていうんじゃなくて、……高校の時の謙一君みたいに、目の前にある景色だけをじいっと見ていった方が、いいと思うの。……昔、私の話を優しい目で最後まで聞いてくれて、それからゆっくりと返事をくれてた謙一君は、とってもあったかかった。…………謙一君も、本当に幸せそうだった…………」
窓は、無理に引っ張ると動く様になった。謙一の記憶では、あとちょっとで直るはずだった。そしたら一番に振り返って、東京の話から何から、全部話して分かってもらおう、と彼は考えていた。
「……それで、昔の、ぼそぼそ話す謙一君になっても、ちょっと自信なさげな謙一君でも、……私、嫌いになったりしない。……ううん、その方が謙一君らしくて、私、もっともっと好きだよ………だから………」
最後の方で、麻衣子が急に涙声になった。ちょうど直った窓が勢いよく閉まり、謙一の頭に嫌な予感が稲妻の様に走った。かっ、と見開いた目で謙一があわてて振り返ると……………麻衣子の姿が、そこになかった。
夏祭りの晩と、同じだった。いや、あの時は「幻か何かで、消えてしまったのか」という疑問をすぐに打ち消すことができたが、今度はそれがどんどん大きくなって、謙一の心の中に焦燥が強まってくる。謙一は駆け出して、汗を流しながら大声で麻衣子の名前を呼び続けた。隣の教室、その隣の教室、トイレ、そして階段を下る……差し込む夕陽の中に彼の声が響くばかりで、麻衣子はいない。昇降口まで来たところで、運動部の生徒たちが変な顔をしているのに気づき、さすがに大声はやめた。だが、麻衣子のと並べて隅に寄せてあった靴は、彼の分しかない。
「……外、って…………ことだよな……なあ…………」
かかとを踏んだままよたよたと、しかし、走り去った誰かを追う様な勢いで、謙一が門へと駆けていく。
祭囃子はいつしか遠くなり、蝉しぐれの主はひぐらしに変わっていた。
「水瀬…って、………穂坂の、コレだった女子か?」
十蔵はそう言いながら、謙一に向けた拳の小指を立てた。だが、冗談めいた台詞とは裏腹に、十蔵は真顔で半分そっぽを向き、声は低く口調も早口でなく、まるで言いづらい事を絞り出している様だった。
「……………」
彼が面白おかしく冗談を言ったのでないことは、謙一にも伝わった。
「……そうか、穂坂は知らなくてもしょうがないか………」
十蔵の背後に建つ、彼の職場である古びた機関庫が、場の空気をさらに重くした。謙一が豊岡駅の裏手にあるそこを訪ねると、十蔵は折よく仕事から上がったところだった。
「震災で、亡くなったよ」
彼等、そして麻衣子が高校を出た翌年、九五年の一月に神戸を襲ったそれは、十年経った今でも、百数十キロ離れたこの土地の人間にも、忘れがたい記憶だ。犠牲者の中には、このあたりの出身者もたくさんいる。…だとすると、謙一が何度となく会って、たった今十年越しの想いを確かめ合って、そして幻のごとくパッと消えた麻衣子は……
「………ウソだ!…ウソだっ!」
「何がウソだ!ろくに帰っても来なかった奴に何が分かる!」
怒鳴り返してきた十蔵の気迫に、謙一は押し黙った。黙ったが、それでももちろん、さっきまでいた麻衣子の姿や感触の記憶は消えない。
「……十蔵、来い!」
謙一はやおら目を見開くと、十蔵の腕をつかんで車の方へ歩き出した。
「ど、どこへ?」
「俺の家だ!見せたい写真がある!」
「待てよ、俺も車だってば!」
「後でここに送ってやる、乗れ!」
そうして二人が乗った車は、猛スピードで豊岡の街を抜け出し、あっという間に城崎近くの川沿いに入った。空はいつの間にか黒っぽい雲に覆われ、西の方に橙色の光が少し見えるだけだ。青かった川面は黒ずみ始め、鉛色になろうとしている。
謙一も十蔵も、一言も口を利かなかった。謙一は、麻衣子が「消えた」ことや十蔵の話を否定すべく、彼女がいたこの数週間の記憶を懸命に引き寄せていたが、逆にそうすればそうするほど、否定したい結果がぐいぐいと迫ってくる。血走った眼を涙で潤ませ、隣に十蔵がいる事など忘れているかの様だった。十蔵は十蔵で、この十数分あまりの突拍子もない事態に唖然としていた。それに、謙一の異様な雰囲気と荒い運転とを目の当たりにして、何があったのか聞くどころか、
「おい!もっとゆっくり走れよ、カーブがあるだろ!」
とたしなめるのがやっとだった。
それでも、町内へ向かって角を左に折れたところで、二往復だけ会話があった。
「十蔵」
「ん?」
「……何で、ついてきてくれた?」
「昔、昼休みにしゃべってた時な……俺、ダテに穂坂の斜め前を塞いでた訳じゃないぞ。………彼女の事でも、お前にかなわないってのは分かってたけど…」
車が、前向きのまま家の車庫に突っ込んだ。十蔵を連れて、謙一は誰もいない家を二階へ駆け上がり、自室に飛び込んで壁を指した。
「今年の写真だ!ここに麻衣子が写って……………?!」
しかし謙一の会心の作は、柴山駅のベンチを写しただけの写真になっていた。すべてがホワイトアウトしかけていて、写真雑誌の初心者向けの記事にある「失敗例」の様だった。もちろん、隣の花火の写真にも麻衣子の姿はない。
「……………花火の方は、相変わらずの……腕前、だな………」
かなり間を置いた後、十蔵が、言葉を選びながらようやくそれだけ言った。
「……ウソだ…………」
彼はそのまま散らかった床にへたりこみ、しばらく放心した様に写真を見上げていた。謙一の頭の中で、何か糸の様なものが、ぶつん、と切れた。彼の両腕がだらりと垂れ、そして足が床に崩れ落ちた。顔だけが上を向いたままの目に、涙があふれてくる。悲しいというより、胸が張り裂ける苦しみに耐える顔。あふれた涙が流れ落ち、そして流れ続ける。
「……何が、『似たもの同士』だよ…………大学、卒業できてなくて、……当たり前じゃないか……」
嗚咽が始まり、声になり、そうして謙一は、床に崩れて、子どもの様に大声で泣き始めた。泣き狂う中で、東京に出てから今までの生活がひどく浮かれたものに思えてきて、謙一はそれを麻衣子に対して恥じた。そして、最後の貴重な時間を使って大事なことを言ってくれていたのに、自分が振り向きもしなかったことを、麻衣子に謝り続けていた。
外で雨の落ちる音がしたかと思うと、あっという間に本降りになって、そのまま長い間降り続けていた。
(つづく)