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雨は夜のうちに止んで、翌朝は入道雲が盛り上がる夏空になった。この土地の気候を考えると、こういう晴れ方は今日あたりが最後かもしれない。
正午ごろ。背広に身を固めた謙一が、強い日差しが降り注ぐ表通りを歩いている。北高の面接が、二時からある。形式上、車で通勤してはいけないことになっているそうで、石岡のアドバイスに従い、今日は駅から電車に乗るのだった。
道の片側に短い日陰ができていて、お盆前より少なくなった旅行客はそちら側を行き来している。無表情に下を向いた謙一ひとりだけが、道の逆側で真っ白な日を一杯に浴びている。うつむいているのは、もちろんまぶしいからだけではないし、小股でとぼとぼ歩くのも慣れない背広や革靴のせいだけではない。
落ち込んでいる、というのとは、違う。放心して頭が空っぽになり、きつい日差しもまったく眼中になく、足だけが惰性で駅へと向かっている。
もちろん、麻衣子のことを思えば今でも狂おしくなるが、一晩泣き明かした疲れもあって、謙一は彼女のことばかりを考えないで済む様にはなった。しかし、さりとて他のことも何も考えられない。どこかへ出かけて写真を撮ることも、腕を磨いてこの土地の景色を日本中に送り出すという夢も、今は謙一の頭から消え去っていた。そして、ならばこうして生きて行こうという考えも意欲も、何一つない。ただ、とりあえず今日は面接があるからそこへ行くという、それだけで歩いている。
「ケンちゃーん」
角を曲がり、川沿いの道へ出たところで、朝香の声がした。謙一が顔を上げると、制服姿の朝香が、手提げ袋を揺らして小走りに近づいてきていた。先輩たちが熱心で、午前中は日曜とお盆休み以外毎日部活だ、と朝香が嘆いていたのを、謙一は思い出した。
「うわ、暑くない?」
目の前まで来た朝香は、謙一の格好を見て目を丸くした。
「ああ……面接だから」
謙一が重い口を開くと、朝香がもう一歩近づき、彼の顔を見上げて言った。
「そっか、いよいよ先生……だね……」
朝香は楽しそうに口を開いたのだが、彼の心がいい状態でないのを察したのか、口調が尻すぼみになり、笑顔をやめた。そして、少し謙一の顔を見つめた後で、
「じゃ……」
と言って口をつぐみ、ちょっと考えてから、
「気をつけて、行ってきてね」
と静かに言って、謙一の横を通り過ぎた。すれ違いざま、麻衣子から伝わってきたのと同じ、甘酸っぱい香りがした。一瞬、謙一の頭に麻衣子が思い浮かんだが、不思議と悲しい気持ちにならなかった。しかし、それが過ぎるとやはり頭の中は真っ白で、ただ、今日の暑さが体に堪えることを、今頃になって感じ始めた。
朝香が立ち止まって、肩を落として歩いていく謙一を見送っていた。もちろん笑ってはいなかったが、心配そうな顔でもなく、強いて言えば久しぶりの人を見かけた様な表情で、小さく口を開けて、ぼーっと見ていた。
鞄を提げ、片手に脱いだ背広を持って、バスから降りた謙一が「遅刻坂」を登っていく。さすがに学校を前にすると嫌でも昨日のことが思い出され、暑さと一緒になって謙一の心臓を張り裂けそうにする。門を入ると謙一は葉桜の根元に座り込み、体と心とが落ち着くのを待った。そして、やかましいほどの蝉しぐれに追われる様に、小走りで、しかしとぼとぼと来客用玄関の方へ歩いて行った。
「おお、ええ顔になったな。……ちょっと力抜き過ぎかもしれんが」
職員室に顔を出すと、石岡がそう言って目を細めた。
「まあ、一杯行こうや」
石岡は隣の椅子を引き寄せて謙一を座らせると、冷蔵庫から日本茶のペットボトルを出してきて、なみなみと謙一のコップへ注いだ。謙一はそれを飲むと、まだ少しどきどきしていた胸のあたりがぐっと落ち着いた。
「何かあったか?」
「……いえ、疲れてるだけです」
「なるほどなあ」
石岡は少し斜めを向いて、考える様な表情をした。時折、出勤している教員が会釈してきて、謙一は立って会釈を返す。やはり学校にいると胸が痛むが、がらんどうでなければ、泣きそうになることはなさそうだった。
「タダの顔合わせやけど、しっかりな。……終わったら、駅まで一緒に帰ろうや」
謙一にそう言って、石岡は喫煙所であるらしい仕切りの向こうへ姿を消した。
校長や教頭にあれこれ尋ねられているのか、あるいは事務手続がもたついているのか、一時間をだいぶ過ぎてもまだ謙一は帰ってこなかった。
職員室の隅、間仕切りで細長く隔てられた部屋に、ガタが来た扇風機の回る音と、石岡の話し声とが響いている。
「……どうや、まだあかんか。人間、正直が一番やで。それに今日会ったんなら、あいつがええ顔になっとるの分かるやろ…………そらそうや。力抜けたのはええけど、あれだとあいつ……だから言うてるんやないか。ん?…………うーん、そらまあそやけど……まあ、学校のことは俺にまかしとき。…………おお、うんうん、…………よっしゃ、よう言うた。…………そしたらなあ……」
それからしばらく何やら話した後、石岡は携帯電話を折り畳んで、タバコに火をつけた。
「……はて、まかしとき言うたものの……まずいと言えばまずいわなあ…………」
石岡は、窓のそばと廊下側とを思案顔で行ったり来たりしていたが、そのうち不意に天井を仰いで、
「……まあ、それで行こうか」
とつぶやき、部屋の中央にある長机に掛けた。机は黄色くなった書類の束で散らかっていて、ガタガタ言いながら回る扇風機は隅の方で落ちそうになっている。
「……先生」
その時、ふらふらと謙一が現れた。
「おう、……校長の長話に、つき合わされたらしいな」
「ええ……まあ」
彼が並大抵でなく疲れているのが、一瞥しただけの石岡にも看て取れた。
「ちょっと落ち着いてから出よか……お前さんは、これから頑張ってもらわにゃいかん体やからな」
石岡は灰皿にタバコを押しつけると、立って、謙一を促しながら仕切りの向こうへ出た。
謙一たちが坂道を下る。降り注ぐ陽はやや色を濃くしているものの、まだ強く、そして高い。ただ、うるさかった蝉の声は止んでいた。
「一体、何があったんや、……って聞いても、よう言わんやろな」
前を向いたまま、石岡が謙一に言った。涼しい風が通り過ぎて、木立がざわっと音を立てる。言われて思い出すと涙が出そうになって、とにかく聞いてもらおうかとも謙一は思ったが、かろうじて分別の方が勝った。
「…………はあ……すみません」
謙一がボソッと答えたところで坂道が終わり、二人は道を右に折れる。太陽が真正面に見え、謙一の目をくらませた。
「ええんや…………それよりも、もう少し落ち着いたとこで写真を撮ってみい。最初は失敗するやろけど、すぐにええ写真になるで」
「…………」
今の謙一にとって、麻衣子にちなむ景色は胸をしめつけるし、それ以外の風景は灰色の物体でしかなかった。だから写真を撮ろうなどとは思いもしなかったし、写真に熱を上げていた昨日までの自分が、今の彼とはまったく別の、何か汚いものにすら思えていた。ただ、石岡の言葉を聞いて、「それでも自分は、そのうちまたカメラを手にする様になるのかもしれない」という想像が、少しだけ謙一の頭をかすめた。
バス停にたどり着くとちょうどバスが来て、謙一たちはそれから十分ほどで豊岡の駅に降り立った。バスに乗ったあたりから石岡の口数が少なくなったので、謙一も黙っていた。駅前には、部活を終えた高校生が集まり始めている。謙一が切符を買っていると、石岡が彼を改札口の脇に呼んだ。
「暑いことやし、そのへんでちょっとやって行きたいなあ……」
「……ええ……」
今の謙一にとって、人と向き合うことはしんどい半面、一人になるのも心細かった。それに、飲めば一時でも楽になるかもしれないとも思い、彼はそれを期待していたのだが、
「けど穂坂、お前さんはまっすぐ城崎へ帰れ」
急に真剣な表情になった石岡が、びしゃっ、とそう言った。もちろん謙一は抵抗を覚えた。しかし、この前とは違い、今の謙一に文句を言う力はない。
「…………はあ」
石岡は表情を引き締めたまま、謙一を見据えてふたたび口を開く。
「それから、やっぱお前さんにずっと北高の教師をやらすわけには行かん。俺も手を貸すが、なるべく早く他の仕事を探してもらう」
いくら今の謙一でも、これは言い返さざるを得ない。石岡の勧めに従ってきて、たった今面接を終えたばかりだ。たしかにこのところの自分はひどい有様だったが、いまさらそれを言い出されても困る。
「ど、どういうことですか……僕が、何かしましたか?!」
「……それは、今、俺からは言えん。俺もこんな無責任なことは言いたくない」
石岡はそこでちょっとだけ顔をそむけたが、すぐに謙一へ向き直って言葉を強めた。
「けど、すぐにお前さんにも分かるし、分かれば納得する。あてがなかったら、親に土下座してでも本家の旅館で働かせてもらえ」
謙一の頭は考え込み始めてしまい、反論どころではなくなった。
「穂坂、……これから城崎へ帰ったら、お前さんは責任重大、いちいち浮かれたり沈んだりする暇なんて、もうないで」
石岡はそう言うと、笑顔になって謙一の両脇をつかみ、くるり、と改札の方を向かせた。そして、
「ほれ、行ってこい!」
と叫んで、バシン!と彼の背中を叩いた。何が何だか分からないまま、叩かれた勢いに従って謙一がゆっくり歩き出し、改札口に入っていく。
謙一が改札口から見えなくなった後、石岡は腕組みをして、しみじみとした笑顔で改札の内側を見つめていた。向かいのホームに、城崎行きの電車がゆっくりと入ってきた。
「……後はまかせたで。俺は、どうも大ざっぱでいかんわ」
電車が城崎に近づいていく。謙一は落ち着かない心持ちで、ドアの窓から円山川を眺めていた。線路から見るのは、月初め以来になる。そこかしこから高校生の無遠慮な話し声が湧き上がっているが、謙一の耳には届いていない。
「…………」
疲労と不安とに沈みつつ、石岡の言葉の意味をぐるぐる考えている謙一をよそに、青く静かな川面が太陽にきらきら光っていた。
終点の城崎に着くと、引きずる様に歩く謙一を高校生が次々と追い越して行き、あっという間にホームは彼一人になってしまった。
力なく歩き続けて改札をくぐると、駅舎の中の壁際に、朝香がぽつんと立っていた。白いワンピースにかかとのあるサンダルという、見慣れない格好だった。帰る客の話し声が待合室から響いてくる中、ひとり立って下を向いて、考え込む様な顔をしている。
「朝香……」
謙一がそばまで行って声をかけると、朝香は顔を上げて、ちょっと目を丸くしてから、にっこりと笑った。距離が近いせいもあるのだろうが、いつもの様に駆け寄って来たりしない。
「おかえりなさい。……どうだった?」
どうだった、と言われても、受かるも落ちるもないのだが。
「……疲れた」
「……なんか、そんな感じだね」
ややあってボソッと答えた謙一を、朝香が優しい目でいたわる。
「あれからすぐ、私もお出かけしててさ、……ちょうどケンちゃんも帰ってくる頃かなって、待ってたの。……一緒に帰ろう」
しかし、お出かけにしては手ぶらだし、それに朝香のワンピースからは、ずっとしまってあったのをついさっき出したと言わんばかりに防虫剤の匂いが漂っていた。
ともあれ、謙一は朝香と並んで、駅舎の外へ出た。駅前広場に面した大きな外湯が人を集めていたが、駅前通りに一歩入ると、まだまだ明るいのに人が少なかった。その日で帰る客があらかた町を出てしまうと、駅近くの店は商売を終えてしまうのだ。
「ケンちゃん」
歩きながら、朝香が謙一を呼んだ。謙一が斜めに彼女を見る。朝香は謙一の方を向いて、しかし彼の顔は見上げないで尋ねた。
「なんか、とっても悲しいことが、あったんだよね」
「…………うん、あった」
謙一は前を向いて、抑揚のない声で答えた。
「……お昼のケンちゃん見てすぐに、そういう気持ちがすっごく伝わってきた。今もそう。……ねえ、どんなことがあったの?」
「…………それは、悪いけど、言えない」
話相手が誰であっても、幽霊とデートしたなんて話を、真顔でするわけには行かなかった。それを抜きにしても、泣き崩れずに話し切る自信がなかった。
「そうだよね……ごめん」
朝香も、歩く方を向き直った。建物の影が昼間より伸びて、道の半分近くを覆っている。
「でも…………もう少ししたら、話せる、かもしれない」
「…………うん。話せたらで、いいよ」
朝香の顔が、ちょっとだけ明るくなった。
朝香を外側にして、二人並んで地蔵湯橋を渡る。夏祭りの晩、麻衣子を最初に見た場所だ。謙一の胸から目頭にかけて、ツーンとした痛みが駆け抜ける。が、それ以上にはならなかった。そして、昼間は灰色に見えていた川沿いの風景が、少しだけ色あいを取り戻していた。まだ高い西日が、町並みや柳並木、川面、それに浴衣姿の人々を、キツネ色の部分と陰の部分とに分けている。
「……朝香になら、話せそうだし……聞いて、もらいたい……」
悲しみに沈むか真っ白になっているかだった謙一の頭が、少しずつだが、この日初めてまともに動き始めていた。
「朝香、……さっきの話だけど」
朝香が、今度は謙一の顔をしっかりと見上げた。二重の丸い目をちょっと細めて、やさしい表情で言葉を待っている。
「……失恋、したんだ」
「写真の、女の子?」
謙一は麻衣子が消えた写真を破り捨ててしまっていたが、朝香は、写真に麻衣子が写っていたのを覚えていた。
「うん」
「……ケンちゃんが、ふられたの?」
「いや…………亡くなった。急に」
朝香は謙一から目を離して、伏し目がちにして下を向いた。
「…………そっか……それは、悲しいよね」
本当に、悲しそうな顔。それきり朝香は黙って、謙一もそれで十分なのか、あとは何も言わなかった。そのまま二人は、川に沿って歩いていく。道のところどころに打ち水の跡があって、木造の家並みとあいまって涼しげだった。
表通りがだいぶ近づいて来たところで、板材を積んだトラックが止まり、そこから木の階段を下ろして、川の上に床を組む人々の姿があった。その手の業者ではなく、町の人たちの様だった。
「今夜は、灯籠流しだよ。……そっか、始まったの、ケンちゃんが東京に行ってからだったっけ」
床を組む作業に目をやった謙一に、朝香がそっと教えた。
「……きれい、かな」
「うん、きれいだよ」
川面で作業をする男たちの中には、謙一の同世代やもっと若い人もいた。十蔵がいる。他にも、彼の知った顔があった。そういえば、夏祭りの夜店もテキ屋まかせではなく、町の大人たちが出す手作りの店がいくつもあって、謙一も子どもの頃に、親が夜店を手伝っているのへ出くわした記憶がある。知り合いに対して自分を恥じる感情はもう起こらなかったが、それとは別に、町の行事を旅行客みたいに眺めている自分が、少し恥ずかしかった。
そうして二人は表通りへと足を進め、謙一の家へ向かって曲がるところまで、黙って歩いた。
「朝香、どうもありがとう…………朝香のおかげで、とっても楽になった」
「ううん、私、なんにもしてないよ」
「……そんなこと、ない」
立ち止まってそんな言葉を交わし、謙一は「それじゃ」と言おうとしたが、朝香はややうつむき加減で考える様な顔をして、そのまま立っている。
「どうしたの?」
「ううん……えっと……」
「……上がって行く?」
謙一はとりあえずそう勧めた。疲れてはいたが、もじもじとして要領を得ない朝香の態度が、少し気になる。
「ううん、まっすぐ帰る」
けれど、朝香はそう言うと気持ちを切り替える様に笑ってみせて、前を向き直った。
「……わかった、気をつけて」
謙一はそのまま見送ろうとしたが、そこで夏祭りの晩の、彼女の泣きべそを思い出した。
「朝香、……その……一人で、普通に歩けるか」
「え?」
朝香が振り返り、けげんそうな顔をした。謙一がぼそぼそと解説する。
「……こないだ、このへんで泣いてたろ……石岡から、理由を聞いた」
「バカ、そんなのもう大丈夫だよ」
恥ずかしそうに顔をそむけて、朝香は歩き出した。が、二、三歩歩くと、ワンピースの裾をひらりとさせて、体ごと振り返った。
「ケンちゃん」
「ん?」
「……それじゃ、またね」
はにかみ笑いをしてそれだけ言うと、朝香は向き直って、人通りが増えてきた道を小走りに歩いて行った。
昨夜ろくに眠っていなかった謙一は、どさっ、と服のまま敷布団へ横になると、考え事をする間もなく眠りに落ちてしまった。
そして、呼び鈴の音で目を覚ました。長い時間眠った様な気がして、窓の外も暗かったが、電気をつけて時計を見ると、まだ七時だった。
窓を開けて真下の暗がりを見ると、朝香が夏祭りの時と同じ浴衣を着て、謙一の部屋の窓を見上げていた。謙一の姿を認めると、彼女は丸い目をさらに見開いてから、申し訳なさそうに、でも、大きな声で言った。
「ゴメン、寝てた?」
「うん……でも、大丈夫だよ」
事実、意識はだいぶすっきりしていた。
「あのさ、灯籠流し……見に行かない?」
朝香が、おっかなびっくりといった感じで、声を落として謙一に呼びかけた。つぶらな瞳が、街灯の薄明かりに小さく光っている。見てみたいな、という気持ちが、わずかだが謙一に起こった。
「……いいよ。着替えるから、ちょっと待ってて」
「うん!」
朝香が両腕をしゃんと下ろして、安心した様にニコッと笑った。
謙一は窓を閉めて、汗じみたYシャツ、それにズボンを勢いよく脱ぐと、傍らに脱ぎ捨ててあったジーンズを拾い上げたが、ふと何かを思いつき、それを元に戻した。そして押入から取り出した柳行李を探って、藍色と白の細かい模様に彩られた浴衣を見つけた。はらりと広げると、防虫剤の匂いが部屋中に漂う。謙一は浴衣を上から下へざっと眺めたが、幸い虫食いやシミはない様だ。
ざばっ、と風呂場で水を一浴びしてからそれに着替え、下駄を鳴らして謙一が玄関を出た。外は、すっかり涼しくなっている。
「ごめん、お待たせ」
しかし、朝香の姿が見えなかった。表通りへ出る方を見ても、誰もいない。
「…………?」
心の中で首をかしげながら謙一が反対側を見ると、黄色い浴衣に短い結び髪の後ろ姿が、下駄の音を響かせながら向こうへと歩いていく。
「朝香!」
謙一が呼んだが、朝香の後ろ姿は振り向かず、足も止めない。そして木屋町通りと呼ばれる薄暗い裏道へ突き当たると、ひょいと左へ曲がり、見えなくなってしまった。謙一はもう一度朝香の名前を呼ぶと、急ぎ足で後を追った。
「……怒らせるほど、待たせたかなあ…………」
という焦燥の一方で、これは、いつか夢で見たことがある場面だ、と謙一は思った。続いてそれは麻衣子の後を追った時の記憶とだぶり、そして
「まさか、朝香まで幻なのか?」という連想に鼻の頭がツーンとしかけたその時、
「わっ!」
曲がり角の左から朝香が、勢いよく顔と両手とを出して見せた。不意をつかれた謙一は大あわてで飛び下がり、よろけそうになった。
「…………そんなにびっくりした?」
朝香が、笑いつつも心配してみせる。謙一は姿勢を取り戻すと、あわてて袂で目頭を拭って、
「……いや……大丈夫だよ、これぐらい」
と笑って見せ、それから、ほっ、と大きく息を吐いた。
柳並木の通りを流れる大渓川は、表通り沿いのにぎやかな一帯をよける様にして、裏手に回っている。その川筋に寄り添うひっそりした小径が、木屋町通りだ。通りに面しているのは、建物の背中か板塀ばかり。川の向こう岸には、雑木林に混じって古い民家や旅館の寮がへばりつく様に並び、それらと通りとを結んでいろんな形の橋が何本もかかっている。だが、暗くて恐い道というわけではなく、朱塗りの灯籠が並んで道を橙色に照らし、むしろ幻想的な雰囲気だ。それに川は下流よりも落差があって、水が流れ落ちる涼しげな音がする。
その小径を、謙一と朝香の後ろ姿が、柳並木の通りを目指して歩いている。
「ケンちゃん、浴衣よく似合うよ」
「……ありがとう……でも、慣れないから、歩きにくい」
その言葉通り、謙一はいつもより小股で歩きながら、何度も袷を直している。下駄履きの足も時々つまずきそうになる。
「ふふ、さっきの私のワンピースみたい……ケンちゃんをびっくりさせようと思って着たんだけど、窮屈で落ち着かなくって。だから、着替えてきちゃった」
「あれ…………お出かけ、って……」
「ゴメン、あれウソ。……おめかししてお出迎えなんて、よく考えたら照れくさくなっちゃって」
ペロリと舌でも出しそうな顔で、朝香が下を向く。謙一が、彼女の肩のあたりを見ながら聞く。
「……でも、浴衣も、普段着じゃなくない?」
「浴衣は、子どもの頃からよく着せられてたでしょ。私、この格好も落ち着くよ」
そう言われてみると、朝香は普段とまったく同じ速さで歩いていて、着付けもぜんぜん乱れていない。そして、たしかにさっきの彼女よりも、今の彼女の方が活き活きしていると謙一は思った。朝香に限らず、この町の女の子は小さい頃からよく浴衣を着てたっけ……。謙一は、そんなことも忘れていた自分が少し恥ずかしかった。
「ほら、ケンちゃん、こっちこっち!」
木屋町通りを抜けると、さっき床を組んでいたあたりで、川沿いの柳が下から明るく照らされているのが見えた。人が集まっている空気。マイク放送が聞こえ、幻想的な音楽が流れている。朝香が謙一の袂を引いて車道を渡り、いつも歩いているのと反対側の川沿いへと彼を導く。
「…………」
袂を朝香にまかせて進みながら、謙一は首を横にして川の方を眺めた。さっき組み立てられていた舞台が明るく照らし出され、土地の人らしい親子連れと、泊まり客と思しき浴衣の男女が、今、ぼんやりと飴色に 輝く灯籠を、川面に浮かべようとしている。その後ろで数人が順番を待っていて、道から床へと降りる階段も灯籠を持った人々でいっぱいだった。さらに道の上も行列は続き、その先では明るい白熱灯の下に座卓が出され、大勢の子どもや大人がいそいそと灯籠に紙を貼っている。ここでは、川に浮かぶ灯籠よりも、柳の枝に見え隠れするそうした人々の方がきれいだった。
「朝香」
袂を軽く引き寄せながら、謙一は朝香を呼んだ。朝香が手を離し、歩みを緩めて振り返る。
「……普通、灯籠流しっていうと、亡くなった人の供養だけど……ここのは、そういう感じじゃないけど……」
「うん、ぜんぜん違うよ。願い事がかないます様に、って、お願い事を書いて流すんだって」
朝香は足を止めて、真面目な顔で川を見下ろしながらそう言った。謙一も同じ様にして浮かぶ灯籠を見ると、紙は和紙ではなく画用紙で、子どもらしい願い事がクレヨンのつたない字で書いてある。しかし、画用紙のおかげで光がとても柔らかく、蛍の乱舞を思い出させる。写真の仕事で伝統的な灯籠流しを何度か見ている謙一だったが、楽しそうに灯籠を作ったり浮かべたりしている人々も含めて、こういう灯籠流しもいいな、と思った。
「ほら、このへんで見ると、すっごくきれいでしょう」
「…………うん」
静かな返事とは裏腹に、謙一の目は川の上流を見たまま、離れない。川下へ向かって三分ほど歩いたところの、橋の上。このあたりまで来ると人も少ないし、そして煌々とした照明もないので、暗い川面に灯籠が点々と浮かぶ姿が引き立つ。音は、頭上の藤棚で無数の風鈴たちが奏でる、シャラシャラというさざめきだけ。
その薄暗い世界の、闇に染まった川面に、飴色の灯りたちが次々にやってきて、いつまでも漂っている。ぽつんと一つだったり、二つ三つ連なっていたり、あるいは、ひとところに集まっていたり……。鈍く小さい灯りに見えて、集まった灯籠は、川にかかる柳の枝や、のぞき込む人々の横顔を明々と照らし出す。でも、かと言って川中が明るくなるわけでなく、いくつ集まろうとも、灯籠が浮かぶその場所以外は、闇のまま。
「なんか……不思議な感じがするね……」
「……ああ…………不思議だ」
朝香は橋の手すりに頬杖を突いて、とろんとした様な眼差しで川上を見ていた。橋の下に集まった灯籠の灯りで、顔がほんのり暖かい色に照らされている。謙一は彼女の顔をちらりと見て、たぶん自分もこんな目をしている、と思った。
よく見ると、川の両岸は完全な暗がりではなく、旅館や商店のガラス戸から漏れる灯りが、古い家並みや上流にかかる橋、それに柳並木を静かに浮かび上がらせている。謙一は、それらと灯籠の乱舞とを見合わせながら、この町へ帰ってきた日に、この川沿いの風景がものすごく新鮮だったことを思い出した。そして、
「……なぜこんな美しい場所を差し置いて、山や海を駆け回っていたんだろう…………それ以前に、なぜこんなきれいな町から、自分は出て行ってしまったんだろう……」
そんなことを考えていた。
しばらくそうしてから、謙一は足の疲れを感じて、後ろにある縁台に座った。夜風、そして風鈴の音が心地よい。川下に首をひねって、引き揚げられた灯籠が川沿いに並んでいるのを見ていると、隣に朝香が座る気配がした。謙一は朝香の方を向いたが、彼女はなおもうっとりとした眼で上流の眺めを見つめている。彼もそれに合わせて、しかし心底から美しいと思いながら、灯籠たちが漂う光景を朝香と一緒に見つめた。
五分、いや、十分近く経ってから、朝香が一瞬、ちらっ、と斜めに謙一を見上げてから、下を向いて口を開いた。
「……私……余計にケンちゃんのこと、疲れさせちゃったね」
「ううん…………だいぶ、楽になったよ」
たしかに体はくたびれているし、じっとしていると、まだじわじわとつらくなってくる自分がいる。けれども、灯籠流しはすばらしかったし、それに夕方、朝香が横で、自分が話すまで待っていてくれたことや、川沿いの道で黙って一緒に歩いてくれたことは、その前よりも謙一の心を確実に軽くしていた。
「……朝香は、聞き上手だな……」
「ううん、……ケンちゃんが昔から、そういう風にしてくれたから」
朝香のしょげた表情が、ちょっとだけ笑顔になった。謙一はその言葉の意味が分からず、不思議そうな顔をする。
「お昼に、会ったでしょ?その時に、さっきも言ったけど……ああ、ケンちゃん、なんか悲しいことがあったんだ、っていうのが、すっごく伝わってきた。あんまりしゃべらないのに、とっても気持ちが伝わってくるケンちゃんは、久しぶりだった……」
「…………」
「それで……あれからずっと、どういう風に言えば、ケンちゃんがちょっとでも楽になるのかな、って、ずっと考えてた。…………でも、悲しくて苦しいのって、誰に何を言われたってそのままなんだよね。笑って『元気出して』なんて言われると、むかついてくる。…………だから……何があったのか聞いてあげるしかできなくて、……それで話を聞いたら、本当に悲しいことだったから、なんにも言えなかった……。それだけだよ。……ケンちゃんも昔から、そんな風に、私と気持ちを同じにしながら、時間をおいて、ゆっくり答えてくれてた……」
話し終えた朝香を見ながら、麻衣子も似た様なことを言っていたのを謙一は思い出した。でも、聞き役になるのは返事が遅れてしまうからだし、返事がゆっくりなのはちょっと考えてしまうだけのことだ。しかし朝香の言葉を聞いて、昔は嫌だった自分のそういうところが、今、謙一には、なんだか悪くないものに思えた。
それから二人はまた黙って座っていたが、そのうちに、人がぽつぽつと増えて、話し声が響く様になってきた。
「これに合わせて、花火をやるから……」
「……少し、歩こうか」
「うん」
謙一と朝香は並んで、川を横目に見ながら、元来た道を歩き出した。風が止んだが、もう暑くはない。時々朝香の口から、たわいのない感嘆がまばらに漏れ、謙一がやや遅れてボソッと相槌を打つ。
「さっきは、ホントにありがとう」
朝香が、川面の光を目に映しながら、思い出した様に言った。
「ほら、一人で歩ける?って、聞いてくれたでしょ」
「……ああ」
謙一が、小さくうなずいた。少し間があってから、上を向いて元気よく朝香が続ける。
「だけど、もう大丈夫だから。……でも、うれしかった。あと、ケンちゃんにしてはよく気づくなあって思って、びっくりしちゃった」
「そりゃ、ひどいよ」
「冗談冗談」
道なりに車道を越えると、ふたたび木屋町通りに入った。だが、まだ帰るには惜しい気がしたのか、ほどなくどちらからともなく足を止め、来た方を振り返った。
誰も来ない薄闇の中、朱塗りの灯籠が並ぶその先がぽっかりと開け、遠目に明々としたにぎわいが見える。
「……僕はこんななのに、朝香は、強いな」
明るい朝香を見ているうちに、謙一は、今も目に見えて沈んでいるだろう自分が恥ずかしくなった。
「ううん、……ケンちゃんが悲しくなってるほど、私が悲しくないからだと思うよ」
「そう、かなあ」
「私は、表通りのあのへんに、楽しかった思い出がたくさんあったけど……様子がおかしいって思ったのも、別れてくれって言われたのも、やっぱりあのへんだった……そりゃ、通るたびに泣きたくもなるけど、どっちかというと、バカヤロコンチクショウ!だよね」
そこで朝香が笑って、体ごと謙一の方を向いた。彼女の泣き顔を思い出すと、さすがに笑い返す気にはなれない。謙一は言葉が見つからなくて、とりあえず朝香と向かい合った。
「でも、ケンちゃんは……あの子が大好きなまま、花火とか、どっかのベンチとかを、見てたんだよね……それがそのまんま、ケンちゃんにとってすてきな景色のままで……急にあの子だけ、いなくなっちゃったんだよね…………私のなんかより、そっちの方が……絶対、…………悲しい……はず…………」
あとは、涙で声にならなかった。朝香は謙一にしがみつくと、堰を切った様に声を上げて泣き出した。また風が吹き始めて、対岸の杉林がざわざわと鳴る。
「…………ごめんね……私も、まだ…………つらいよ……」
たとえ理屈が彼女の言う通りでも、だからといって朝香が平気になるわけがないのは、謙一にもよく分かった。胸の中で真っ赤になって泣きじゃくる朝香の、嗚咽が、声が、そして震えが、謙一の体中に痛いほど伝わってくる。朝香がいた数々の場面が、謙一の頭にぐるぐると浮かんでは消えていく。笑ったり、むくれてみせたり、謙一の写真に見入ったり……夏祭りのほんの一コマを除いて、今ここで涙している彼女とは正反対の、元気な表情や仕草ばかりだった。
「……泣いて、いい……朝香だけ泣いちゃいけないなんて、そんなわけない…………ずっと我慢させて、ゴメン……」
謙一も、涙声になった。頬に、涙が幾筋も流れている。彼の片手は震える朝香の頭をしきりになでて、もう片手は彼女の背中を、赤ん坊をあやす様にポンポンとたたいていた。
そのまま、どれぐらい時間が過ぎただろうか。朝香の嗚咽や震えは止んで、周りの音も川の流れだけに戻った。朝香の襟首のあたりから、あの、杏の実の様な甘酸っぱい匂いが、謙一に伝わってきている。
朝香が、まだ腫れている目で謙一を見上げた。
「…………でも、あのね……」
「ん?」
「今、ケンちゃん、我慢させてゴメン、って言ったでしょ。……でもね、こんなこと言ったら怒るかもしれないけど……ケンちゃんが東京から帰ってきて、とっても沈んでるのが最初の一言で伝わってきた時、私……もちろん心配もしたけど……それよりも、うれしくて、すっごくいい気分になれたの」
「……僕の気持ちが、伝わってきたから?」
ちょっと考えてから出てきた謙一の声に、朝香が少し笑った。
「あたり。昔のままのケンちゃんが、これからずっといるんだ、って、私、舞い上がりそうだった。夏祭りの時も、ケンちゃんが私と同じに『きれいだ』って思ってるのが、じわーっと伝わってきた。……だからね、私、ケンちゃんのおかげで、本当に楽しく過ごしてたんだよ。ケンちゃんを励まそうとは思ってたけど、それで無理に元気にしてたわけじゃないよ」
たとえそうでも、特に途中からはかなり苦労もしたはずだが、朝香はそれは言わない。謙一は恥ずかしくて、返す言葉がなかった。
「ううん。楽しかったのは、帰ってきてからだけじゃない。ケンちゃんが帰ってくる、って聞いて、それだけで私、元気が出た……もしあの知らせがなかったら、私、そのまま学校にも行けなくなってたと思う。……だから、お礼を言うのは、私なんだよ」
そう言いながら、朝香の顔がふたたびうつむいてきて、言葉が途切れがちになる。
「……それでね、知らせを聞いてから、私、……きれいな景色を見たら『きれいだな』って一緒に思ってくれるケンちゃんを思い出して、……毎日わくわくしてた…………それで、気がついた。……あのね…………ものすごく、不真面目だけど…………私、きっと、ずーっと前から……ケンちゃんのこと…………」
うつむいた朝香の顔が、ぎゅっ、と、謙一の胸に埋まって、小刻みに震え始めた。女の子の、やわらかい感触。彼女が真っ赤になって泣き出しているのが、温もりで謙一に分かる。
「…………ごめんね……すっごく不真面目だよね…………私、ついこないだまで他の人とつきあってたのに…………大好きな人がいて、その人が死んじゃったばっかのケンちゃんに……こんなこと…………」
謙一は、不真面目だとは思わなかった。……この十年あまり、一人で生きてると言わんばかりに、勝手にいい気になったりうじうじ沈んだりを繰り返してきた自分。今、目の前で泣いている女の子は、そんな嫌な奴をずっと待ってて、そして様子がおかしいのを見るや、何とかしなきゃって頑張った。つらいところへ好きな人が来たなら寄りかかってしまえばいいはずだし、嫌な風に変わってしまったのなら相手にする必要はない。でも彼女は、どちらの誘惑も振り払って、自分を励ましたり引き戻したりしようと、泣くのも我慢して努力してくれた……。
「……不真面目なんかじゃ、ないと思う。けど……」
謙一はぽつりと言い、そして悩んだ。……不真面目では、ない。でも、彼女に降りかかっていた出来事を考えると、彼女が自分に抱く想いは、苦し紛れの気の迷いかもしれない。それに、麻衣子……………今この瞬間もなお、麻衣子がいてくれたことを思い出すと、謙一はせつなくなって、そして胸がしめつけられる。
謙一は逆らわずに、目を閉じて麻衣子を思い浮かべてみる。見ることができなかった別れ際の麻衣子の姿が浮かび、彼女の声が、頭によみがえる。謙一の目頭が熱くなる。
『……目の前ある景色だけをじいっと見ていった方が、いいと思うの……それで、昔の、ぼそぼそ話す謙一君になっても、ちょっと自信なさげな謙一君でも、……私、嫌いになったりしない……ううん、その方が謙一君らしくて、私、もっともっと好きだよ……』
麻衣子の姿が、そこで消えた。謙一がまぶたを開けると、目の前には、真っ赤になって泣く朝香が自分の胸に埋もれている。髪型も肌の色も違うけれど、謙一はそこに麻衣子の姿を見た。朝香は朝香なのだけれど、彼女は麻衣子に代わって答えを待っているのだと感じた。……小さい頃、不器用な自分をずっと慕ってきていた朝香。足手まといだからと追い払っても、必死についてきた朝香。この町で、自分をずうっと待っていた朝香…………たとえ彼女の気の迷いでも、今、これを振り払ったら、麻衣子を二度悲しませることになる。
いや、振り払いたくなんかない。自分は今、目の前にいる、朝香と、ずっと一緒にいたい。
「朝香……」
返事の代わりに、謙一は朝香の背中に両手を回して、ぎゅっ、と力を込めた。
「……ケンちゃん!」
やがてすすり泣きが止まって、うれしそうな朝香の声がした。橙色の薄明かりの中で、川のせせらぎだけがいつまでも続いていた。
「朝香、…ちょっと、そこに、座ってみてくれない?」
「え、……私?」
翌朝は曇り空だったが、午後から晴れてきた。もう夏空ではなくて、細長くちぎった様な雲が高いところに浮かぶ、秋の空。そんな昼下がりに、川沿いの柳並木で、謙一が朝香を連れて写真を撮っていた。けれど、謙一の装備はカメラ一台きりで、香住の方を駆け回っていた時の様な、雑多な道具を入れた鞄などはない。
「…いいけど、きれいに撮ってね」
いつかどこかで、誰かが言っていた様な台詞をぽつりと言うと、朝香は都会の中高生がそうする様に、べたっと道端に座った。謙一が苦笑した。
「……あのさ…普通ここでそう言われたらさ、そこの川の手すりに……」
「えーっ、じゃあそう言ってよー」
朝香は立ち上がって、厚い石造りの手すりに浅く腰掛けると、
「これでいいー?」
急にニッと笑って、思いっきりカメラ目線で顔を謙一の方へ向け、Vサインを突き出した。
「……もっと、普通の朝香が撮りたいんだけどな…」
すでにファインダーをのぞきにかかった謙一はそう思ったけれど、口を開いたところで、それを言うのをやめた。謙一の手が、ぐいっ、とレンズをアップの方へ回す。連日の日焼けがだいぶ板に付いて、薄い小麦色になった朝香の肌が、謙一の眼の前に迫った。笑みに細まってもなおパチッとした感じがする、こげ茶の瞳。スリムな中にもかわいらしい丸みを持つ、ほっぺたの輪郭。白いTシャツに包まれた女の子らしいなで肩………謙一は、どきどきしながら彼女の顔にピントをつけて、そのままシャッターを切ろうとした。
「……………」
けれど謙一は、シャッターボタンから手を離した。そして元通りにズームを引くと、カメラをちょっと左上に向けた。左手ぎりぎりに古い家並みが入り、その軒下の道を遠くから、赤と黄色の浴衣姿が歩いてきている。下流からカーブを描いて続いてくる川の手すりが、画面中央を斜めに走っていて、その一番手前、ファインダーのやや右下に、ぽつんと、朝香が腰掛けて笑っている。その上では柳が青々と風にそよぎ、右端には初秋の薄い青空と、鏡の様に町並みを映す水面………。
「………これだ……」
謙一は静かにそう思って、ゆっくりとシャッターを切った。
それから謙一と朝香は、川にかかる石橋の真ん中へと移り、寄り添って川下を見つめていた。この町のいつもの景色が、目の前にある。
「私がいまさらこんなこと言うのも、なんか変だけどさ…」
川面を眺めたまま、朝香が口を開いた。
「…ん?」
「やっぱ、城崎って、…いいとこだよね」
少し間をおいてから、カメラをのぞいたり離したりして構図を取っている謙一が、ぼそぼそと返事をする。
「……変じゃない。…いいところだよ。……せつなかったり、悲しかったりしたことも、含めてね」
「うん」
しばらくしてから、今度は謙一が朝香の手を、ぎゅっ、と握って、
「…すぐに……いろいろ大変だよ。…うちの親や、それに朝香のお父さんだって気づくだろうし、……そこへ来て、僕も無職になるかもしれない」
と告げ、朝香の横顔を見た。少し赤くなった朝香の顔が、頼もしげな笑顔になって謙一の方を向いた。
「大丈夫。ちゃんと話をしてけば、お父さんも叔父さんたちも、いつかきっと分かってくれるって」
そして、目をキョロッとさせてこう付け加えた。
「あ、もしもの時は、私が食べさせてあげるよ」
気持ちはうれしいけど、うんと言ったらはじめからそのつもりみたいで……と真面目に考えてしまった謙一は言葉が見つからず、何とも言えない表情を朝香に向けた。その心はちゃんと伝わった様で、朝香は
「冗談だよ。……一緒に、がんばろ」
と、いたずらっぽく笑って謙一を見上げた。
「あ、ケンちゃん!……ここを、こんな風に写すと…きっと、写真、とってもきれいだよ」
朝香はパッと川の方を向き直ると、手で空中に四角を描いて、それからまた謙一の顔を見た。
「……ああ」
朝香の温もりや匂いを間近に感じながら、謙一はボソッと、しかし心の底から、無邪気な朝香の提案に答えた。そしてその時、ずいぶんと時間が過ぎて、日が傾き始めていることにようやく気づいた。今日もどこかで何かがあるのだろうか、遠くの方から、ぴーひゃら、どんどん……と、祭囃子の音がかすかに聞こえてきた。だが、謙一のそばで息づいている温もりは、もう消えない。
(完)