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 翌日は雨が降り、その次の日はまたいい天気になった。
 謙一の両親は、毎朝、謙一が起きるよりも前に出て行って、帰りは遅く、すぐに寝てしまう。泊まりのこともあり、親たちは気持ちがどうこうの前に、あらたまって彼と長話ができるほど家にいない。謙一が東京に行って二度目の夏休みあたりから、こういう仕事ぶりになっていた。朝香によると、旅館の主である本家の伯父などは、すぐ隣の家へ二日に一度しか戻らないそうだ。
 謙一が大学へ進んだ翌年、一九九五年の一月に、神戸の震災があった。それまでも不況の影響は多少あったが、客の大半が京阪神からやってくるこの温泉町は、震災で大打撃を受けた。どこの宿も収入が減り、その分は人件費を削ることでカバーし、残った人間はそれまでよりも忙しくなったのだった。やがて客足は少しずつ戻っていったが、世間は値段を上げられる様な状況ではない。
 あれから、十年。本家の旅館でも経費削減はもちろん、それまで一泊二食つきだけだったのを、宿泊代と食事代とをはっきり分けて素泊まり客を安く受け入れていた。泊まり客には好評で、石岡もそれでここを気分転換の拠点にしてくれているのだが、温泉旅館というのはそのへんをあいまいにして利益を出している構図があって、正直というのもなかなか大変な様だ。

「今日も、暑いな……」
 海が見える下りの山道を、黒いスポーツタイプの乗用車がカーブしながら下りていく。謙一が、西へ向かって車を走らせていた。車道楽だった父親が謙一の大学時代に買った物だが、ほどなく主に暇がなくなって、当時からたまに帰郷する彼が使うだけになっていた。
 今日の謙一は、疲れ果てていた先日の餘部行きとは違い、カーステレオで夏向けの曲をかけ、時折それに合わせて鼻歌を歌っている。忙しくギアチェンジをする左手の動作までが、楽しんでいるかの様に見える。道はほどなく入り組んだ海岸の上に出て、海の青を見ながら、やはりカーブを繰り返して下る。下り切ると、海辺の小さな集落。その家並みが途切れると上り坂となり、波が打ち寄せる崖の上を左右に曲がりながら登って行き、やがて山に入る。そして、曲がりくねった山道が下りになると、また海が見えるのだ。
 途中、待避場所で海を写したりしながら、その上り下りを何度も繰り返し、謙一は一時間ほどで柴山の町を見下ろす場所に来た。緑の山がすり鉢状に入江を囲み、山の傾斜の途中から入江の前まで、大小の家が潮風を受けて並んでいる。海沿いの集落の中では大きい方で、数十軒ある建物の中には旅館もあり、海岸の道路沿いにはコンクリートの建物も見える。だが、いずれもいい具合に古びて、昔から時間が止まっているかの様に感じさせる。
 この町のどこかに、麻衣子がいる。
 昨日の雨の間に、謙一は海や山の写真を撮りに行く気力を取り戻し、貯め込んでいた。そして、どうせ行くならと、彼はここに来ることを思いついたのだった。
「麻衣子に、また会いたい……」
彼女の家までは知らないし、うろうろ歩いても会えない可能性の方が高いが、彼はそれでも構わなかった。
 しかし、いきなり町に降り立つのもためらわれて、それにここから見下ろす町や海もきれいだったから、謙一は真っ青な水平線をからめて町の全景を撮ったり、無駄に望遠を使って桟橋のあたりをアップで写したりして、それから町へ下り、車を止めた。

「……駅からも、町が見渡せたっけ」
 道路沿いの撮影を楽しんでから、町の中ほどにある狭い道に足を入れる。木造の民家や旅館が並ぶ道はほどなく緩い坂になり、路面が夏の日差しに白んでいる。昼時のせいか、蝉しぐれの他はひっそりしていた。謙一が歩いては立ち止まって、古い家並みに囲まれた坂道をカメラに収めていくうち、両側が雑木林になり、上の方に線路が見えた。錆が浮いたガードをくぐり、右へ折れて坂を上り切ると、無人駅がある。使われなくなった海側のホームから、柴山の町が一望できる。
「ふう……」
 流れ落ちて止まない額の汗を拭い、大きく息を吐いて、謙一がすすけた待合室をのぞくと……………木の長椅子に、麻衣子が座っていた。
「…………」
 薄手の白いブラウスに夏物のスカートという格好で、向かい側の壁を見るともなしに見ている麻衣子。脇に、たたんだ麻の上着と、それから鞄。どこかへ行くのだろうか。
 どう声をかけたものかと立ちすくんだ謙一に、やがて麻衣子が気づく。
「麻衣子、でいいよ。……謙一君」
彼女は目をさらに細めて、そう言った。そこに謙一がいるのが当たり前という風な顔だった。
「……じゃあ、……あの…………麻衣子、……こんにちは」
「ふふっ、……こんにちは」
ツボにはまった、という感じで、麻衣子は笑顔をはじけさせた。
 謙一は狐につままれた様な心持ちで麻衣子の隣に座り、正面を向いたまま、
「……出会い頭に妙なこと言うのも、変わってないなあ」
と言うと、首を彼女の方に向けた。麻衣子が、まだ笑っている。待合室の内壁は白く塗られていて、後ろから差し込む光が部屋中に反射して明るい。麻衣子の白い肌が、さらに透き通った様に白く見える。
「おとつい、あいさつもしないで、ごめんね。……待ち合わせの時間が過ぎてて……声、かけたんだけど……」
 吹き込んできた風に前髪をくすぐられながら、麻衣子がようやく笑うのをやめて謝った。謙一は写真を撮り終えた時のことを回想した。放心してうずくまっていた時間の記憶は定かではないが、自分はそんなことにも気づかなかったのかと、恥ずかしくなった。
「……いや、こっちこそごめん……それと……」
そして、気を取り直して謙一は礼を言う。
「ありがとう」
 写真のお礼もあろうが、ともあれ麻衣子が幻でなかったことにも、礼を言いたかった。

 白い壁の照り返しはまぶしいが、通り抜ける風があり、見かけとは不釣り合いなぐらいに涼しい。風上である無人の改札口から、青く輝く海と入道雲とが見える。
「謙一君は、車で、城崎から?」
「うん」
「そっちから下りてくる時の景色って、きれいでしょう。私、一番好き」
「きれいだよね。一番最初に何枚も撮ったよ」
 三十センチほどの距離で並ぶ二人は、そのまま、このあたりの風景のポイントや、高校時代の思い出話を交わした。朝の教室はもっと薄暗かったし、それに吹き抜ける風ももっと弱かったが、謙一の意識は半分ぐらい、十年前の朝の教室に戻っていた。
「そうだ、絵は、今も描いてるの?」
「……しばらく、お休みしてる。それより、謙一君は相変わらずみたいね」
 麻衣子は一瞬だけ顔を曇らせた後、興味深そうな顔で、謙一が首から提げているカメラに話題を振った。
「まあね、プロ失格の腕前ですけど」
 それを言って彼は自分の置かれた状況を思い出したけれど、憂鬱が差してくる様なことはまったくなく、心底からその冗談を楽しんだ。
「そんなことないわよ」
麻衣子が微笑んで、優しく応じた。
 話が途切れると、謙一は胸がどきどきしてきた。肩を抱こうと思えばできる様な距離で、麻衣子が目をしばたかせて彼の言葉を待っている。……そうだ、この白い明るさは、そしてこの距離に麻衣子の顔があったのは、あの冬の夕方………そのまま肩を抱いて想いを伝えようとしたものの、かなわなかったあの時。
 意識をその時へと移した謙一は、息を飲む。
 ややあって、彼は口を開いた。
「こないだは背景にしちゃったけど……今度は、麻衣子を…………その……、モデルにしていい?」
謙一は結局、写すことで、会えた喜びを表現するしかなかった。でも、それで今の彼には十分だった。
 麻衣子は小さく驚いてから、下を向いた。
「……ちょっと、過ぎた願いだったか……」
謙一の背筋に汗が流れる。が、ほどなく、うつむいた影の下で、麻衣子の顔が照れた様な明るい笑みに変わった。
「いいよ…………でも、きれいに撮ってね」
「……ありがとう!」
 謙一はホッとした。しかしそこで息を吐かずに、立ち上がって入口の方へ戻ると、中腰でおもむろにカメラを構えた。麻衣子が背にしている古ぼけた窓から、夏の日がまっすぐに入ってきている。
「……こっち寄りに、斜め向いてもらっていい?」
「うん」
 麻衣子の上体が謙一の方を向き、逆光がやわらぐ。眼鏡の下で、麻衣子の目がしきりにまばたきをする。ブラウスの上で胸のふくらみが影を作り、ほどよいアクセントができる。
 謙一は、麻衣子の上半身に、明るい窓を添える構図を選んだ。
「笑って笑って」
 やや遅れてニコッとした麻衣子の笑顔に、謙一は目を見開き、唾を飲んだ。
 見ているだけでどきどきする人を、これから写す………東京で裏稼業をしていた時、艶めかしい女性の肌を写しながら「何か一つだけ足りない」と思っていたその答えを、今、謙一はかみしめていた。けたたましい蝉の声が入ってきているが、謙一の耳には届いていない。
 露出の基準は、やわらかそうな白さに少し赤みを浮かべている、麻衣子の頬のあたり。明るさを考えればもう少し低い数値が定石なのだが、たとえ背景が真っ白になっても、今は彼女の肌の赤みが見たままに撮れれば構わなかった。あえて一枚だけで、と謙一は決めて、彼女がまばたきを終えた瞬間、それが合図だった様にシャッターを押した。

「……やった……」
 謙一が大きく息を吐くのと同時に、列車が来ることを知らせる自動放送が流れた。麻衣子の姿は、今度はちゃんとそこにあった。
「変なこと頼んで、ごめん」
「ぜんぜん平気よ。そのかわり、いつか謙一君にもモデルをやってもらうね」
 麻のジャケットに袖を通しながら、麻衣子が明るく言う。まだ、頬がほんのり赤い。
「そうだ、どこへ行くの?」
「神戸。ちょっと、お呼ばれしてて……何泊になるかな」
その言葉通り、彼女が持ち上げた手提げ鞄は少し大きめだ。
 二人がホームに出ると、もう列車が駅のそばまで来ていた。別れが近づくのに背中を押されて、謙
一がどきどきしながら持ちかける。
「……どこかで待ち合わせて、会ったりできない……かな」
「うん、いいわよ。えーっと……」
 あっさりと、いい返事。麻衣子が指を折って日取りの見当をつけていると、背後に薄赤色のディーゼルカーがゆっくりと入ってきた。二人の間に、暑苦しげなエンジンの排気音が加わる。
「十八日に、ちょっと用事があって、お昼頃にでも北高へ行くつもりよ。それなら確実。……ちょっと、先になっちゃうけど…………」
麻衣子は大きな声でそう言いながら、列車のドアに向かって後ずさりした。停車時間はわずかだ。
「分かった。気をつけて!」
謙一は思わず、子どもみたいに手を大振りした。麻衣子は乗ってドアを閉め、振り返って窓から小さく、しかし、しきりに手を振る。
 列車が地鳴りの様にエンジンを響かせて、ゆっくりと滑り出した。謙一は前に出て、列車がホームを離れ、カーブの向こうへ消えるのを見送った。
 蝉しぐれが戻ってきたホームで、謙一は麻衣子の笑顔を思い出しながら、気持ちの高まりを覚えていた。


     X

 謙一が柴山へ行ってから、一週間ほどが過ぎた。
 昼頃、謙一の車が日差しに黒光りしながら、彼の家へ戻ってきた。切り返し、後ろ向きに車庫へ入る動作はゆっくりだが、謙一の表情にはせっついた色がある。しかし、いらいらしているのとは違った。
「よっしゃ!」
 ドアを閉めるのに合わせてそう言うと、彼の顔はさっと上機嫌になり、玄関へ向かう足取りも軽い。手に提げた紙袋からは、大きめのファイルケースみたいな箱が顔を出している。他にも底の方に何か入っている様だ。
 柴山で麻衣子に会ってから、彼の山や海の写真を撮ろうとする意欲は、さらに強まっていた。麻衣子のせいだけではなく、久しぶりに出かけた西の方の海沿いは、謙一が想像したよりもずっと彼の意欲をかき立てた。それはすなわち、彼の生きる意欲でもある。その溢れ出て止まない力を、謙一は毎日の様に車で撮影に出ることで発散していた。それに、少しでも止まったらまた元に戻ってしまいそうで、その意味でも彼は勢いにまかせて写真を撮りまくっていた。謙一の表情は東京で夢に向かっていた頃の引き締まりを取り戻し、日に当たる部分は真っ黒に日焼けして、腕の筋肉もつき始めた様に見える。
 故郷の人間は誰も見たことがなかった、元気な謙一。
「あらよっと!」
 謙一は部屋の戸を開けた。部屋はあれから別の場所の様に散らかっていた。必要に応じて出された本や道具、それに飲み物の空き容器などが、用が済んだ状態のまま床に散乱し、そして布団は敷きっぱなし。ついたままのテレビが小さくしゃべっている。彼は回り道をして勉強机へ座ると、紙袋から、まずファイルケースの様なものをゆっくりと抜き、
「これは、後だ」
と言って、それをそうっと足下の壁に立て掛けた。そしてふたたび袋に手を突っ込むと、写真屋で出来上がりやネガを入れてくれる、あの袋を一つずつ取り出した。七つ、八つ…………すべて出し終わると、謙一は紙袋を畳んで横に投げ、最初の一つを開きながら前屈みになった。
 この十日間で、現像に出したのはこれが三回目になる。しかも、毎回十数本という量になっていて、それが謙一の活発さを示している。ファイルケースの中身は大きく焼いた写真だ。現像の色あいなどにも注文をつけるため、彼は遠く離れた福知山という町までこれを頼みに行っていて、今引き取ってきたところだった。
 つきっぱなしのテレビは神戸発のローカルニュースをやっていて、蝉の声にかき消されそうになりながら、十年前の震災にちなむお盆の追悼行事をしんみりと伝えていた。



「……ううん、とっても元気にはなったよ。顔色もよくて、せっせと写真撮りに出かけてるみたいなんだけど…………何て言うか、元気すぎて、恐い。それに、あんなことばっかりしてて、大丈夫なのかな……。叔父さんや叔母さんに聞いても、なんか嘘っぽい感じで『元気だよ』としか言わないし。…………え?……うん、私は、きれいな写真だなあ、って思うけど……でも…………よく分からないけど、ちょっと、前のケンちゃんの写真とは違う様な……なんていうか、きれいすぎる感じがする……」
 少し長めの通話を終えて、朝香は携帯電話を折り畳んだ。彼女が寄りかかっていた南側の窓の向こうでは、今日も道路沿いの緑が輝いている。朝香は窓を開けると、桟に両腕をのせて、頬杖をついた。
「…………」
 思案顔で、前の道を見下ろす朝香。三十秒と置かずに、左右に乗用車が通り過ぎて行く。十五日を数日後に控え、世間はお盆休みに入っていた。温泉町は泊まり客でいっぱいだし、都会から帰省してくる人も多い。
 朝香は思い出した様に顔を上げ、窓とカーテンとを閉めると、振り払う様にして制服を脱いだ。そして丈がほとんどないジーンズの半ズボンをはいて、少し大きめのノースリーブをかぶると、鞄から出した財布、それに借りた本を入れる図書館の袋を持って、部屋を出た。
「朝香、出かけるんか」
 玄関で、旅館の方から出てきた父親が、朝香に声をかけてきた。朝香が答える。
「うん、ちょっと図書館まで……お夕食の手伝いは、するからさ」
「図書館か…………」
 父親は難しい表情で朝香の顔を見てから、目を彼女の手足に転じて、やや不機嫌に言った。
「……構わんけど、……もう少し、肌を隠しなさい」
彼女が普通にこういう格好で出かけているのを知ったら、どんな顔をするだろうか。もっとも、外へ遊びに出る様になったのは謙一が帰ってくる頃からで、それまでの一月ほどの朝香は、通学以外こもりがちだったが。
「はあい。…………あ、学……じゃなくて石岡先生が、明日二人空いてますかって」
 朝香が話題を変えると、父親の表情が少しやわらいだ。
「……ああ、お盆だから割増になるけど、明日だけなら大丈夫や。そう伝えたげて」
「わかった」
「…………しかし、豊岡に住んではるのにわざわざ……物好きな先生やなあ」
「いいじゃない、物好きなおかげでウチが助かってるんだし……じゃ、行ってきます」
 ビーチサンダルをぺたぺた言わせて、朝香は通りを町の方へ向かった。外湯の前にある駐車場への出入り、それに百メートルほど先で道がカクッと折れているせいで、車がつかえて列になっている。その上、歩道がないところへ人通りも多いから歩くのも窮屈なのだが、朝香は上手に人をよけてすたすた歩いていく。にわかに押し寄せた人々を笑うかの様に、道端の川の上で青葉が風にそよいでいる。
 道が左に折れているところで、朝香は人の流れから外れて、立ち止まった。
「…………」
顔が、こころなしか翳っている。彼女は右側にある、ロープウェイが登っていく山の麓の広場を少し眺めた。それから向き直って、気持ちを切り替える様に大きく息を吐いた後、行くべき方向へと足を踏み出した。

 ほどなく表通りから折れて、旅館の勝手口や民家に挟まれた細い道を歩く朝香。図書館は、こんなところにはない。自分と同じ名字が書かれた表札の前で、彼女は立ち止まった。
「ケンちゃん……いるかな」
 父親が、帰郷した甥をダメな奴だと思っていること、そしてその謙一を朝香が慕うのが面白くなく、年頃の娘だからと変な用心までしていることを、彼女はちゃんと分かっていた。でも、後で図書館にも行くつもりだから、朝香の返事はまったくの嘘ではない。
「ああ、いらっしゃい」
 朝香が呼び鈴を押すと、謙一が上機嫌で二階から顔を出した。
「…………」
 二階へ上がった朝香は、数日前に来た時よりさらに散らかった部屋を、呆然と眺めた。テレビは消されていたが、昼間とはいえ天井の蛍光灯は消され、デスクライトだけが黄色く光っていたから、なおさらすさんで見えた。彼女の幼い頃の記憶にある謙一の部屋はよく片づいていたから、日増しに部屋が汚くなっていく様子に、違和感を覚えずにはいられなかった。
「ゴメン、今片付けるよ」
 飲み物を持って上がってきた謙一が、入口で立ちすくんでいる朝香に言った。雑多な品々をどけてできた空間に、朝香が座る。謙一は机の椅子にかけた。
 謙一がさっき壁に貼った、二枚の大きな写真を朝香が見上げる。一枚は、花火が上がり、その下を列車の灯りが通り過ぎていて、灯りの手前に浴衣姿の女性の影が浮かび上がっているもの。花火は大きいけれど少しブレてやわらかい感じになり、列車は光の帯になっている。女性の涼しげな後ろ姿だけがくっきりしているけれど、シルエットだけだから変に目立ったりはせず、むしろ花火とよく合っている。
「僕は最近、いまいちかなって思う様になったけど」
「ううん、そんなことない」
朝香は、夏祭りの日に花火を見てきれいだったのを間近に思い出し、うっとりと見とれた。
 そしてもう一枚は、古い建物の中で、木の長椅子に座った女性が微笑んでいる写真。柴山で謙一が写した、麻衣子だ。
「これ、誰?」
朝香の目が麻衣子の写真に移った時から、謙一の表情が得意げだった。
「高校時代の同級生。たまたま会って、撮らせてもらったんだ」
「あ、つい最近なんだ……なんか、ケンちゃんより年下に見えるけど」
「うん、僕もびっくりしたけど、間違いなく本人だった」
「…………もしかして、こっちに置いてきた彼女、とか?」
「まさか」
謙一が、目を伏せて静かに、しかし楽しそうに笑う。
 白っぽく塗られた建物の中に光がいっぱいに入り、明るさのせいでぼうっとなっている。それを背景に、髪を後ろで結んだ円い眼鏡の女性―――というより少女だと朝香は思った―――が、くっきりと色鮮やかにたたずんでいる。長い黒髪のつや、眼鏡の下でかわいらしく見開かれ、瞳に光を受けている目、それに頬の赤みや、口のまわりにえくぼを作った色白の肌。少女は腰まで写っているのだが、顔だけが特に鮮やかで、強烈なまでに朝香に迫ってくる。
 たしかにきれいな写真だし、見ていて妬けるぐらいかわいらしく写されてはいるのだけれど、なんだか不自然だ、と朝香は思った。
「そうだ、おとつい海へ行って来たのができたよ」
 謙一が手を伸ばして小さいアルバムをよこした。朝香が開くと、ここから一番近い海水浴場が写っていた。にぎやかな砂浜やどこまでも続く青い海が、朝香には懐かしい。一昨年ぐらいまでは何度も行っていたが、友達づきあいや部活に忙しくなってから家族では行かなくなっていたし、高校生ともなると、友達と出かける先は海や山よりも街になる。
「今年は、海に行った?」
「ううん」
「少し曇ってたから、また行くよ。よかったらおいで」
「…………」
 朝香はこれらの写真にも、壁にある少女の写真と同じ様な印象を持った。驚くほど鮮やかに撮れてはいるのだけど、狙っているというか、謙一がどこを一番撮りたかったのかが分かり過ぎて、ギラギラした感じがする、と朝香は思った。……人は景色をそういう風には見ない。少なくとも自分はそうだ。以前のケンちゃんの写真は、壁の花火の写真みたいに、もっとやわらかい感じがして、自分もそこで見てる様な感じにさせる写真だったのに……。この間、朝香は三回ほど謙一と会い、写真を見せてもらっていたが、そのすべてにそういう違和感を覚えていた。唯一、夏祭りの日の柳並木の写真だけが例外で、これを見た時には、朝香は謙一のセンスが相変わらずなのを大いに喜んだのだったが……。
 つまり、その夏祭りの晩の後に、謙一の写真が変わってしまったのだ。そのかわり謙一は、元気になった。人目を気にしながら所在なく過ごしていた彼が、目を輝かせてせっせと出かけて撮りまくり、出来上がりを眺めてはまた出かけて行く。
「ケンちゃん……なんかあったの?」
 謙一の顔を見上げて、ぼつっと朝香が言った。
「僕、何か変かい?元気がないとか?」
むしろその逆で、こうして話をしている時も謙一の声には、帰ってきた頃にはなかった、いや、東京へ行く前にもなかった強い張りがある。
「…………ううん、私の、見間違い」
 朝香に何かあったかと聞かれて、謙一は海へ行く日の前夜に、両親と口論したのを思い出していた。
 仕事は来月からだが、初めてならば相応の準備が必要で、それは石岡からも念を押されている。しかし謙一は写真にかまけ、準備をほとんどしていなかった。のみならず、写真の整理や道具の手入れ、それに構想を練るなどして寝る時間が一定せず、好きな時間に起きて、適当に撮影行に出たり、写真屋との間を往復したりという生活をしていた。半月後から社会人になろうとする人間の生活態度として、どうだろうか。
「勉強するとかあるだろう!家でじっとしてられないのか!」
「あてもなくぶらぶらしてるわけじゃなし、何しようが勝手だろ!」
 たしかに、謙一の言い分も一理ある。しかし親からすれば、毎日忙しく、しかも彼のことで身内や近所から様々に思われている中、本人がこんな態度だったら腹も立つだろう。
「旅館の手伝いに来るぐらいしたらどうなんだ!朝香ちゃんなんかなあ……」
「あんたさっき『家にいろ』って言ったじゃないか。それに、伯父さんが俺のこと何て言うかなあ?」
「!…………この…………仕事が始まったら、出てけっ!」
「ああ、出てってやるさ!後悔するなよ!!」
 高校時代はカミナリを落とせばしょげ返っていた謙一が、五分に言い返し、言葉を逆手に取って嗤うまでになっている。父親はどうしてよいか分からなくなった。そしてこの口論は、かえって謙一を発奮させる材料になったのだった。

「そうだ、お昼食べた?」
 謙一が、朝香に聞いた。
「まだ、だけど……」
「外へ、食べに行こうか」
 二人で、表通りを歩いて行く。やはり人通りは多かったが、川沿いの道に入ると、車が通らないし、川の向こう側へ分かれていく人の流れもあるから、歩くのが楽になる。右手に見える川面は今日も静かに町並みや橋を映し、そよ風に柳が揺れている。照りつける夏日は厳しいが、左側の古い建物たちは落ち着いた色をしていて、どこか涼しげですらある。
「北高のテニス部は、今、強いの?」
「うん。男子も女子も、県大会に行った先輩が何人もいるよ」
「へえ、すごいなあ」
「でも、だから私、ぜんぜんついて行けなくて……」
「大丈夫大丈夫」
 明るく、よく話す謙一。……本当に元気ならいいことだし、話も楽しい。自分がそれに慣れてないだけかもしれない。朝香はそう思ってみるのだが、しっくりこない。昔の謙一は、こないだ彼女が駅で出迎えた時の様に、一瞬遅れてボソッと返事をする、そんな話し方が多かった。そしてそれは朝香にとって、ゆっくりと、でも、じわーっと気持ちが伝わってくる、とても心地のいい話し方だった。謙一と再会した時も、落ち込んでいるのがよく伝わってきた一方で、それが相変わらずなのがうれしくもあって、朝香はじーんとなったのだった。
「よう」
 人通りの中から、よく通る高い声が謙一を呼んだ。十蔵だった。すると謙一はびくっとするどころか、大きく手を振り上げて、
「よお、十蔵か!」
と十蔵より大きな声で呼び返した。朝香が思わず一歩下がる。十蔵も驚いている。
「……元気、だな」
「ああ、おかげさまで。今、立て込んでるんだ。また」
謙一が歩き出した。十蔵は、首をかしげて見送るばかりだ。
 朝香は謙一について、木造家屋の並びにある蕎麦屋に入った。彼女はここの山芋をからめた蕎麦が好きで、謙一が帰郷するとせがんで連れてきてもらっていた。
「ここも変わらないね」
「うん」
ランプを模した白熱灯が、ところ狭しと古道具が掛かる壁や、よく磨かれた木のテーブルを照らしている。食事時を少し過ぎているので、二人の他に客はない。『お酒と愛想はありません』という貼り紙の通り、むっつりと黙った初老の亭主が、厨房で蕎麦をゆでている。
「あと少しで、先生だね」
 楽しそうに言う朝香に、水を飲み終えた謙一が答える。
「ああ、……でも、いつまでもそんなこと、してられないよ」
「え?」
「僕はやっぱり、写真家になりたい。今度は香住らへんの山や海を撮って、日本中の人に見せたい。もちろん、そこだけってわけには行かないから、あちこち行くだろうけど……とにかくね」
「……ふうん」
謙一の目の輝きとは裏腹に、朝香はうつむき加減になった。
「どうしたの?」
「ううん、……ちょっと疲れてるだけ」
下を向いているうち、不意に朝香は、「今から、さっきの写真の海へ行こう」と言いたくなった。謙一に、あんなギラギラした写真じゃなくて、自分が海に来たみたいな気持ちになれる、「以前の謙一の写真」を写してもらわなきゃ、と思った。でも、どうすればそうしてもらえるのか思い浮かばないし、それに今の謙一を見ていると、撮影に口を挟んでも邪険にされるだけな気がして、何も言えなかった。
 黒光りする瀬戸物に盛られて、細めの上品な蕎麦が出てきた。二口ほどたぐったところで、朝香が顔を上げて言った。
「明日も、写真、見に行っていい?」
謙一が箸を止めて、笑いながら答える。
「さっき見たばっかりじゃないか」
「うん、でも……もういっぺん見たい」
朝香のその言葉を聞くと、謙一はまんざらでもない調子で
「いいよ、でも家にいたらね」
と言い、器を持ち上げて残り少なくなった蕎麦をすすり込んだ。朝香はその時、謙一が出かける直前を襲って、やっぱり無理にでもついて行こうと考えたのだったが、結局それはかなわなかった。



 翌日の晩、本家の旅館の部屋で、謙一は石岡と差し向かっていた。石岡は東京の実家から戻ってきたところだ。素泊まりの部屋には仲居さんの出入りもなく、先ほどまで朝香がいたが、土産の菓子をもらって本家へ引き上げて行った。
「お前さんの写真でも見ながら、泊まってゆっくりやろうや」
 そう言われて謙一は来たのだが、言葉の雰囲気とは裏腹に、今のこの部屋の空気は重苦しかった。

「いやらしい写りやなあ……」
 缶ビール片手に謙一のアルバムを見た石岡が、ところどころをほめつつも、朝香が思った様なことをもっと率直に突きつけていた。今の謙一にすれば、素人同然の人間に何か言われるぐらい平気だったが、さんざん世話になり、今まで自分をほめ続けてきた石岡に面と向かって批判されると、さすがに言葉が少なくなった。
「まあ、それはさておきや……お前さん、ちいと元気が良すぎて、えらい親不孝してるそうやないか」
 石岡がアルバムを閉じ、顔を上げた。謙一はビールを一口飲んでから、口をとがらせて言う。
「朝香が言いましたか」
「お前さんが変に元気がいい、いうことだけはな。あとは、俺の予想や。もう一つ予想しよか。お前さん、教える中身のおさらいとかも、全然やってないやろう」
 たしかに、それは朝香には知れようがない。謙一はイライラしつつも神妙になった。石岡はしんみりした口調で、しかしきつい目つきでじっと謙一を見据えて、続ける。
「俺も親不孝でだらしのないヤツやから、説得力ないかもしれんが……」
そこでタバコに火をつけて一呼吸置くと、石岡の声が一段低く、そして厳しくなった。
「人の一生左右するかもしれん仕事で、そのくせ替わりはなんぼでもいる仕事や言うたやろ。それをちっとはわきまえろや」
 謙一は、ええ、先生に左右されてきて僕は大変です、と皮肉を言おうと思ったが、思い直した様に顔をバッと上げ、一気に叫んだ。
「元気出せって言ったの先生でしょう?!それに俺がどれほど大変な思いして、東京のことを思い出さない様にしてるか……写真いっぱい撮って、大きく夢持って、それで駆けずり回ってないと、俺、どうにかなりそうなんですよ!……それを、親父やおふくろも……先生も……」
途中からは、涙声だった。たしかに、勢いにまかせて好きなことをしているのは事実だったが、そうしていないと元に戻ってしまいそうなのも、また依然として事実だった。
 石岡は同じ勢いで何か言い返そうとしたが、口をつぐみ、ぐっ、とビールの残りを干してから言った。
「……けど、何とかなってるのはお前さん一人の力やない。しんどいのもお前さんだけやない。俺はさておき、親父さんやおふくろさん、朝香。お前さんのまわりの人間も、自分のことでめっちゃしんどいのに、お前さんのこと気に掛けてるんや。それ考えて、もっと大事に……というか、もっと素直に甘えたらどうや」
口調は静かになったが、眼差しは相変わらずきつい。
 沈黙があった後、謙一がおそるおそる反論する。
「……親父やおふくろが大変なのは分かるけど、その……親だし…………親父たちがつらいのは、親父たちにも……原因が、あると……」
石岡は、思いのほか静かにそれを受け止めた。そして話題を朝香のことに転じた。
「……まあ、すぐには素直になれんか。ほな、朝香はどうや。あれには、お前さんを心配する筋合いなんて全然ないのやで」
「あれは、昔からなついてたし……けど、別にしんどいことなんか……」
「ちゃうわ、あほ!」
 石岡が、急に前のめりになって語調を強めた。謙一は思わず身を縮めた。
「あいつはなあ、本当は死にそうなぐらいしんどいところを、お前さんを心配して頑張ってるんや!」
石岡が姿勢を戻し、一転してしんみりとした口調になって続ける。
「……あいつな、ついこないだ失恋したとこなんや。中学からずっとつき合うてた奴に、ぽい、と、捨てられてもうた」
「…………」
 話の意外さに、謙一は絶句するばかりだった。七年間の空白のせいで彼はつい朝香を幼く見てしまうが、思えばまさにそういう年齢だった。
「北高もそいつ追っかけて入ったんや。高校でも地元でも、同級生はみんな知ってた仲や。俺もあいつが北高に来る前から、表通りを仲良う歩いてるとこや、曲がり角になってるとこのロープウェー乗り場の広場な、あそこで並んで座ってるとこに、何度か会うたわ」
夏祭りの帰り道、表通りで朝香が急に泣き出したのを、謙一は思い出した。謙一との仲を勘ぐった朝香の同級生が、
「えーっ、もう?!」と言っていたことも脳裏をよぎった。
「先月の頭のことや。まだ、学校行くのもそやけど、表歩くのもしんどいやろなあ…………今日び、兄弟でもそんな状態で人の心配なんかようしないで」
 さすがにこの話は、謙一の心を打った。しかし、あらためて振り返ってみると、彼女は謙一の前では本当に楽しそうだった。朝香の存在に励まされたことは否定しないまでも、そういう事情があるとすれば、むしろ助けているのは自分の方だった。
「……朝香は、どう言ってるんですか」
「そういう問題や、ない。俺は、きっと頑張ってると思うんや」
そうして、二人とも黙った。やはり謙一には、「自分がいるから彼女は元気なんだ」と思えた。……ならば朝香のためにも、余計にここで失速するわけにはいかない。彼はそういう思いを強くした。

「外湯、行こうや」
 懐手で難しい顔をしていた石岡が、不意にそう言って立った。謙一がそれに続くと、扉のところで石岡が振り向き、思い出した様に言った。
「あ、言い忘れてた。教頭が、十九日に来てくれって。来週の金曜な。たのむで」
「はい、ありがとうございます」
 石岡の言葉に校舎や教室を思い浮かべた謙一は、その前日が、麻衣子との待ち合わせでやはり学校へ行く日なのを思い出した。
 お盆が明ければ、麻衣子にまた会える。そして、それからは、ずっと会える。
「たしかに今の俺は、ちょっと落ち着きがないかもしれないけど……」
 謙一は、意欲を取り戻すきっかけをくれた麻衣子のためにも、ここで元に戻るわけにはいかないと思った。


   (つづく)


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