(前半より続く)
ゴォォォォォ………ドポン!
「!」
波は荒く高いが、百メートルほど沖に並ぶ消波ブロックで砕かれている。にもかかわらず、その灰色の沖で白い波頭が飛び散るたびに、驚くほど大きな音が堤防に座る紘子まで届くのだった。
泣きそうな曇り空に、カモメが二、三羽てんでに輪を描いている。その下で、紘子はもう十分あまりの間、黒ずんだコンクリート壁の上に座って北風に吹かれていた。セーターの袖を手の中程まで出して、ミルクティーの缶で指の甲と腹とを交互に暖める仕草は、いかにも寒そうだ。
しかし、目を細めて沖の方を見るその顔は、まるで暖かい風に吹かれながら、春の海でも眺めているかのように見えた。
「風よ、吹け………もっと……………」
氷水みたいな感覚に凍えながら、一方で紘子はそんなことを思っていた。そして潮くさい北風は望み通りに、彼女の細い髪もはだけたGジャンも、そして彼女の体そのものをも吹き飛ばそうとする………。
しかし、風がどんなに吹いても、現代社会のノートが進まないことは、頭の中から吹き飛んでくれない。刺すような風にぼおっとしてきて忘れたかと思うと、ノートの約束をしてしまったヒロエやチイちゃんの顔が浮かんできて、ずきん、となる。
「はぁー………」
そしてそれは、簿記がぜんぜん頭に入っていないことへの焦燥についても、まったく同じだった。
それでも、何度か繰り返すうちに揺り戻しが軽くなってきて、
「帰ろうかな…」
と思う。だが、そうすると、オンボロストーブのせいでぜんぜん暖まらない部屋の机が思い出されて、
「……あんなところへ?」
と、気持ちがずっしり重くなり、そうして、結局風に吹かれているしかないのだった。
ふと右手を見ると、堤防と水面との間に小さな砂地があって、そこにカモメが何十羽も集まっていた。飛び立つでも移動するでもなく、砂の上に群れてうようよと動いている。
「…いいね、お前たちは……」
紘子の距離からはカモメたちが丸っこく見えて、みんな暇をもてあましてゴロゴロしているように見えた。
そのすぐ先で、別のコンクリート壁が海に向かって突き出していて、向こう側に小さな漁船がたくさん溜まっている。それが漁港だ。
紘子は漁船たちの白っぽい船体を眺めながら、小さい頃、父が乗る船に連れて行ってもらったことを頭に浮かべた。木の甲板の上にロープや網が雑然と並べられ、すぐ先で小さな船室が口を開けていた光景、船がガクッと揺れてそれがひどく恐かったこと、それだけが心に残っていた。
紘子は、ミルクティーの缶を開けて、中身を一口飲んだ。
「うん、あったかい」
ミルクティーはだいぶぬるくなっていたが、それでも風の冷たさよりはずっとましで、甘さとあいまって彼女の体を温めた。
落ち着いたところで、小学生時代の授業の記憶が蘇った。
『…陸揚げされた魚は、県内はもちろん、大阪や東京にもたくさん運ばれて行きます……昔は魚市場もここにあって、あちこちから来た人々で朝遅くまでにぎわいました…』
担任は、教師になりたての優しい女の先生で、紘子は好きだった。けれども「この町の漁業」という社会で半年ぐらいやったその授業は、ひどくつまらなかった記憶がある。若い上に京都の出身だと言っていたから、今思えば仕方ないのかもしれない。が、それでも「この町の漁業」についての先生の話は、本でも読んでいるみたいでどこか白々しかった。
あとは、漁協へ話を聞きに行って、模造紙に漁協のおじさんの話や、アジやカニがどれぐらい獲れるとか、県内の漁港で何番目だとかいったグラフを書かされたが、子どもにとっては現実味がなかった。魚の陸揚げはもとより、今や魚市場は二十キロばかり離れた大きい町にあるだけなので、魚を積んだトラックの出発も日の出前に終わってしまう………だから当時の紘子たちが漁港で目にできたのは、今の彼女が見ているのと同じく、空荷の漁船がぷかぷか浮いている姿だけだったのだ。
「……………」
いや、「この町の漁業」の現実味は、目の前にあるといえばあった。漁船に連れて行かれた記憶をたぐるまでもなく、紘子の父親は漁師だ。けれども、彼女が幼い頃、飲んでも優しかった頃にも、あまり父親は仕事や魚の話をしなかった。紘子が女の子だったせいか、あるいは、近所の草花や山側の神社のあたりの景色、それに少女漫画のキャラクターを描くばかりで漁船や魚にまるで関心を示さなかったせいか………ともあれ父親があまり漁の話をしないものだから、社会の授業の時も、父親に尋ねるということを紘子は思いつかなかった。
「………でも」
両手でかばうようにして二口目を飲みながら、紘子は思い返す。
幼稚園か、せいぜい小学校の一、二年のことだったが、夏休みや冬休み、当時は朝遅く行っても漁港にはまだ大人たちが何人か働いていて………確か、ちょうど今頃の寒い朝、友達の父親から、ゆでたカニの足を一人一本ずつもらって食べた。
「あれ、すごくおいしかったなあ……」
当時は紘子の家でも季節ごとに、丸ごとのカニや大きなエビ、山のようなアジの刺身なんかが食卓に出ていた。でも、寒い空気の中で、口や手をべちゃべちゃにしながら友達と食べたカニの足………それよりもおいしい食べ物の記憶は、彼女にはない。
今でも魚は毎食のように食卓に並ぶけれども、彼女が幼い頃みたいな、丸ごとのカニや大きなエビといった、世間一般で高級と言われるような品はあまり見なくなった。出てきても、ひどく小ぶりになったような、前ほどおいしくなくなったような気がする。もっとも、今の紘子の家で出てくる魚だって都会から見れば獲れたての逸品なのだろうが、よその土地で魚を食べた経験がないから、そんなことは思いもよらない。
「……………」
やがて紘子の頭の中で、そういった食卓に並ぶ魚介類の変化と、飲んだ父親の昔と今の違いとが、なぜか二重写しになった。そしてそれに連なって、さっき充血した目で自分を叱ってきた父親が思い出される。
紘子は思わず顔をしかめた。
「あーっ!もう……」
先ほどの父親の姿も、もちろん、思い出したくないことの一つだった。紘子はガバッと下を向いて、両手に持ったミルクティーの缶を、ぐっ、とセーターのみぞおちのあたりへ押しつける。
すると中身がはねて、セーターの胸のあたりにシミを作った。
「…!」
舌打ちしてコンクリートの上に缶を置くと、紘子は立ち上がって、えいっ、と堤防沿いの道路へ飛び降りる。そして堤防の切れ目を探してそこの階段を駆け降り、ポケットから出したハンカチに海水をつけるべくテトラポッドの間にまたがった。
ドッポォン!!
そこで、とびきり大きな波が音を立て、紘子を驚かせる。
「…あわっ……あわわっ」
腕を振り回しながら彼女はよろめいたが、すんでのところでテトラポッドの上に手を突き、事なきを得た。が、周囲の風は防波堤に沿って上へと流れていて、上着が、そしてスカートがまくれ上がる。
「いやあぁぁ!」
………どうにか立ち上がり、濡らしたハンカチで紘子がセーターのシミを拭い終えると、上空を飛び交うカモメたちが目に留まった。
自分の間抜けな様を笑っているように、彼女には思えた。
紘子の頭に、四つん這いでヒーヒー言っていた自分の姿が浮かぶ。次いで、落書きだらけでぜんぜん進まない現代社会のことや、明日テストなのに頭に入っていない簿記のことがよみがえる。そして、寒さに足をこすり合わせながら鉛筆にトーテムポールを彫っている自分の姿が、オンボロストーブに八つ当たりする自分の姿が、払っても払っても想像されてくる………。
「…ひゃは……ひゃははは、きゃははははは………」
明日、学校に行ってヒロエやチイちゃんに会うまで、一時間目のテストが始まるまで、あと十数時間。情けなくて泣きたいのに、重苦しくて胸が張り裂けそうなのに、なぜか頭の中に笑いがこみ上げて来て、紘子はテトラポッドにまたがったまま、沖で砕け散る波に向かって笑い声を上げ始めた。
「きゃははは、ぎゃはははははは………」
風は変わることなく、冷たく強い。紘子の見開いた目からこぼれる涙は、頬を伝わず、もみあげの方へと流れていく。笑い声は前方に響き渡ることなく、彼女の耳だけに伝わり続ける………何もかもが、さっきまでと同じように後ろへと流れていく。けれど、やはりさっきと同じように、重く沈んだ気持ちだけは流し去られることがなかった。
紘子の頭上のカモメたちは、輪を描くのをやめない。海や空の灰色は、紘子がここへ来た時よりも濃くなっている。
「あーあ………」
紘子は、表通りを家へ向かって引き返していた。家を出た時よりも薄暗さがぐっと増して、間もなく明かりは外灯の白い光だけになろうとしている。空気の冷たさは、相変わらずだ。
灰色の海を見ながらどれぐらいの時間を過ごしたのか、紘子には分からない。ただ、前からの重苦しい気持ちに加えて、
「何やってんだ、私…」
という虚しさも背負ったことだけは確かだった。あとは体がすっかり冷え切り、笑い疲れの残る下顎がガクガク震えている。Gジャンのボタンは一番上までガッチリと合わせられ、その上にセーターの丸首が白く覗いていた。
ひゅー、ひゅーぅ………低い笛のような音が、表通りまで伝わってくる。海に吹く北風はさらに強まっているらしい。この時期に一度ここまで強くなると、海風はなかなか止んでくれない。この音がいつまでも止まないと、漁は足止めになってしまう。
海側の家が途切れ、その海風が紘子を襲ったが、死んだ魚みたいな目をした彼女は、飛び跳ねるどころか足を速めようともしない。前髪が真横になびき、何本かが紘子の目に入ってきたが、彼女は軽く眉をひそめたきり、同じ速度のままトボトボと歩いていく。
「紘子?……紘子ぉ!」
風がふたたび家並みに塞がれたところで、紘子は聞き慣れた女性の声を聞いた。振り返ると、その声音で彼女が思い浮かべた通りに、見慣れた母親がいた。
「…お母さん」
手には毛糸の手袋。分厚い毛のコートから、もんぺみたいなダブダブの下履きが見える。下履きと軍足のような靴下の下で、ストッキングが二枚重ねになっているのを紘子は知っている。紘子と違って、寒さへの備えは万全だ。
「寒いなあ」
紘子に追いついて並びながら、母親は手袋をした手で自分の丸い顔をさすりながら言った。
「うん」
紘子は母親の完全防備と、ハムが服を着ているような体型とを思い合わせ、
「………それで、寒い?」
と疑問を感じた。胴回りはごく普通の体型をした紘子の倍はありそうで、少し前に、近くの町にある日帰り温泉に行った時、彼女は恥ずかしくて思わず母親からちょっと離れてしまった覚えがある。
ただ、だからと言って紘子は母親が嫌いな訳ではない。むしろ、家にいてくれるとちょっとホッとする。父親に比べれば女同士ということもあるし、何より紘子にうるさいことをあまり言わない。それに、開けっぴろげでサッパリしたところがあって、頼もしい。紘子が今の高校を選ぶ時も、短大のついたお嬢様学校を考えていた父親が
「もっとその…上品な学校にせぇ」
と反対したのを、
「もぉ、私立行かせるお金もないくせにそんな事言うて…それに『商業高校へ行きたい』なんて、しっかりしてて親孝行なぁ」
と取りなしてくれた。もっとも紘子が今の高校へ行きたかったのは、友達がそこへ行くのと、それからその高校のイラスト部に入りたかったからなのだが………。
「紘子さんは、お買い物?」
「うん、買い物」
巾着袋を提げたきりなのを見ればすぐウソだと分かりそうだが、知ってか知らずか、母親はそれ以上聞いてこない。
「お母さんは…漁協の会議、だっけ」
「うん」
母親はそう返事をしてから、ため息を挟んで、独り言のようにつぶやいた。
「……今年も、カニがダメじゃなあ」
「獲れんの?」
「うん、数もあるけどな、年々小ぶりになってみたいでなぁ。ノドグロとか、そういう稼ぎになる魚もこの何年かさっぱりじゃし……」
母親は役場でパートをしているが、すぐ近くの町の漁師の娘で、父親ほどではないにせよ漁の知識はあるらしく、時々父親に代わって漁協の集まりなどに出ていた。
「イカをやる人らはまぁまぁらしいけど、獲れたら獲れたで極端に安うなってしまうしなぁ」
「ふうん…」
同じ漁師の娘でも、紘子は小学校で習った以上に魚や漁の知識なんかないのだが、とりあえずそう返事をした。いや、漁のことは分からないけれども、メグちゃん家の取り壊しの話や、小さい頃にカニの足をもらって食べた漁港の、今よりもまだ人がいた記憶………そんな事を思い返せば、この町の景気がながらくパッとしないのは、紘子にもよく分かる。
第一、町の様子を思い出すまでもなく、紘子の家の景気がよくない。買い換えてもらえない部屋のストーブ、食卓に並ぶ魚、それと………父親の、悪い酒。
「………小さい頃のお父さんは、お酒を飲んでも、いや、飲むほどに優しかった。そしてその頃は、今よりおいしい魚が家の食卓に並んで、漁港には朝遅くまで人がいた………」
父親の変化が、漁がはかばかしくないことと関係しているのは、紘子もよく考えれば分からないでもない。だから、彼女は本当は、父親を嫌いになんてなりたくない。でも、それでも、真っ赤な目で大声を出されたりすると、やっぱり恐くていやらしい感じがして、人目が恥ずかしい………。
「怒られるか何かして、家から出てきたん?」
急に紘子の顔をのぞき込むや、母親はズバリと当ててみせた。今まさに考えていたことを指され、紘子はうろたえた。
「え………何で?」
「その顔だもの…」
「……うん。そうな」
もっとも今日の浮かない顔の種は、現代社会や簿記のノートがはかどらないということだったが、あえて紘子は逆らわなかった。
「お母さんからも言うけど、堪忍してあげてな………お父さんはな、この町の漁師の中では、本当によう働いてるし、何とか上向きにしようとか、魚にいい値がつく工夫はないかとか、他の人らといろいろ考えてるんじゃ…」
「ふうん…」
「…お母さんが、代わりに集まりに行ったりするのもな、他の人らが『お父ちゃん休ましてやれ』て言ってくれるからじゃけぇ」
「そう、なんだ………」
そこで母親が、バン、と明るく語気を強めた。
「うん!じゃけぇ、お父さんが頑張ってる限りな、町の人らが漁を大事に思てる限りな、ウチらもこの町も、きっと、なんとかなる………なんとかなるって!」
それでも、紘子は父親を思い出すと、やはり嫌な気分になってしまう。それに、いくら元気よく「なんとかなる」って言われたって、具体的な根拠がありそうには思えない………だけれど、紘子の考えていることを当ててみせた母親が力をこめて言う「なんとかなる!」は、妙に説得力があるのだった。
「あ!」
だいぶ家が近づいてから、不意に母親が立ち止まって、紘子と反対の方を向いた。
振り向いた先にはこの町でただ一軒の電気店があって、出入口にはとっくにシャッターが降ろされていたが、その隣のショーケースにシャッターはなく、薄暗いながら商品が見えたままになっている。
「…そうじゃ、紘子の部屋のストーブ、古いまんまじゃったなぁ」
「うん…すっごく」
「これ、買っちゃおうか!」
「え………?」
母親が指差したあたりには、石油ヒーターが置かれていた。来たばかりの新品、といった感じで、黒っぽい温風の吹出口が外灯の光を涼しく照り返している。もちろん、温度調節やタイマーもついているようだ。
「……………」
言うまでもなく、寒くなってきてからずっと、紘子が欲しくてしょうがなかった物だ………でも、そんな急に、いいんだろうか?
「…ええん?」
母親は少し間を置いてから、さっきと同じように、ばん、と言ってくれた。
「なんとか、なる!」
「なるぅ?」
「うん、なるけぇ!」
「………ありがと、お母さん!」
紘子が「やった!」という思いをかみしめる間もなく、母親はスタスタと歩き始めている。紘子はあわてて追いつこうと思った、ふと母親の丸い背中を見ていたくなって、そのまま母親の一歩後ろをついて行った。
ほとんど夜になった町の空気は、相変わらずピリッと冷たい。その上、海辺で北風に吹かれていた紘子の体はまだ冷たくて、体の震えが止まらなかった。
でも温風ヒーターがまんべんなく暖めてくれる部屋を想像しただけで、紘子は、じわーっと体の芯が暖かくなるのを感じる。部屋の想像につられてノートのことが紘子の頭をよぎったが、それについて回るはずの重苦しい気持ちはほとんど顔を出さず、むしろ何だか、とても軽い物にすら思えてきた。
もちろん、試験勉強をめぐる状況は家を出る前と何も変わっていない。そればかりか紘子は、
「家に帰って再び机に向かっても、きっとまたトーテムポールを削ったり物に当たり散らしたりして、ほとんどはかどらない」
という確信に近い予想を持っている。
にもかかわらず、彼女の唇はごく軽やかな調子で、
「なんとかなるかも………いや、なんとかなるさ………私も」
という小さなつぶやきを繰り返していた。
海から聞こえる、ひゅーぅ、ひゅうー…という北風の音は、さっきよりも大きくなっている。寒そうで物悲しい、そして時には本当に災いをもたらす音。それが明日になっても鳴り続けているのか、それとも今夜のうちに止んでくれるのかは、紘子にも母親にも、そしてこの小さな町の誰にも、分からない。
(完)