冬の夕べに



 カリッ、カリッ、カリリッ………………。
 どんよりと曇った、冬の日曜の夕方。旧式のストーブが半円形の金網を真っ赤にして、陽炎を立ち上らせている。
 その陽炎の向こうで、紘子が背中を丸めて鉛筆を削っている。白いセーターの背中越しに、カッターナイフで木や黒鉛を削る音が、どうしたわけかもう五、六分も聞こえ続けている。
 青白く照らし出された机には、「現代社会」のノートがあった。試験科目の中で一番覚えることが多く、早くに取りかからねばならない、と彼女は思っている。のみならず、いつも教室でしゃべっているヒロエやチイちゃんから『ノート写させて』と頼まれ、その時のノリで気軽に引き受けてしまっていた。
 しかし、ノートは授業当時の状態そのままで、試験勉強らしい進展は見られない。
 ページの大半に、丸や三角などの無意味な図形が一筆で描かれては何度もなぞられ、さらにそれらの図形には奥行きや高さが描き加えられている。そしてページの右下に小さく、本当に小さく、板書の内容があわてて書き足されていた。その走り書きも、ノートを閉じる時には十分に読み取れたはずが、一月二月してからふたたび開くと不思議なことに、アラビア文字にしか見えなくなっている。しかも、次の時間になんとなく描き始めた枯木が思わぬ大作に発展し、天まで届かんとする枝々がそのアラビア文字をところどころ潰してしまっているのだった。
「枝を塗る時、鉛筆を寝かせて薄く塗ればよかった」
 紘子はぼんやりそんな反省をしながら、ようやく鉛筆を削る手を止めた。カッターの刃先はなぜか鉛筆の先ではなく、軸の中ほどにある。そしてそこには、というか軸の一面いっぱいにクサビ模様や人面が刻まれ、あとは色さえ塗れば、トーテムポールとしてどこかの土産物屋に置けそうになっていた………。

 紘子が机に向かい始めてから、まだ一時間経つか経たないかだ。手前に広げた別のノートには「新しい人権………環?権、プライバツー」という具合に”アラビア文字”の解読が進められているのだが、それは半ページで中断していて、そこから下には、水平線から日が昇る様子がやわらかいタッチで描かれている。そして隣のまだ真っ白なページの上には、無駄に削られ続けた鉛筆の削りカスが小山をなしていた………要するに、彼女のこの一時間ばかりの過ごし方が、そのままこのノートに残っているのだった。
 くずかごの上で、紘子はノートを傾ける。木くずや黒鉛の粒子たちが、名残惜しそうにゆっくりと落ちていった。
「………ふぅ」
 彼女はそれを見届けると、どちらのノートも閉じて棚に納め、別のノートを机に出した。
 現代社会は大変だし、ノートも頼まれているが、試験は最終日だ。
「それよりも、」
 週明けの期末テスト初日、一発目は簿記だ。問題練習をさせられるので、授業のノートは現代社会のそれよりも丸や三角は少ない。それに数字や図が中心だから、走り書きになっていても読みやすい。ゆっくり読んでいけば内容も思い出せる。
 気をよくして、紘子は鞄から問題集を取り出した。例題として授業で使われた場所以外真っ白だけれど、どの問題にも解いた記憶があって、簡単に思い出せそうだ。
「よっしゃ。これならノートもいらん!」
 が、
「……………?」
 鉛筆を回答欄に突き立てた右手はいつまで経っても動かず、紘子の眉間にみるみるシワが寄ってきた。たまらず授業のノートに飛びつき、ページを繰る。
「なあんだ」
 安堵が彼女の満面に広がり、回答欄がひとつ埋まる。紘子の眼が次の問題に移って、筆先が次の回答欄に移る。
「…………………?」
 問題は前の問題と全く同じ種類なのだが、一分、二分………紘子の眼も右手も微動だにしない。ふたたび授業のノートが手に取られ、紘子がホッと息をつき、そして回答欄の上で鉛筆が動く。
「大丈夫………大丈夫よ………」
 実はうろ覚えだったことに気づかされ、焦りを懸命にごまかしながら紘子が目を戻すと、幸い三問目も、前二問とほぼ同じ構図の問題だった。
「よっしゃ!」
 ………だが、やはり紘子は動かない。しかし今度は二分経っても三分が過ぎても、授業のノートに飛びつかない。
 さすがに、もうちょっと自分で思い起こしてみようという気になったのだろうか。
 果たして、ほどなく彼女は前屈みになって懸命に手を動かし始めた。目には集中を示す輝きが現れている。
 ……………カリッ、カリカリッ。
 だが、動いている手にあるのはカッターナイフで、鉛筆のさっきとは別の面に、トーテムポールの続きが制作されつつあった。白いままの回答欄が、はらり、はらりと、削りカスに隠されていく………。

「あーっ、やめやめっ!」
 紘子は声に出してそう叫ぶなり、がばっ、と上体と両手を上げて、椅子にふんぞり返った。
 ふわっ、と宙に浮くような感覚がした後、彼女は椅子ごと床に打ち付けられた。
「………つつ……………」
 視界に星が舞う中、紘子は頭を押さえて畳の上をのたうち回った。それから急に立ち上がると、丸い金網を橙色に燃やしているストーブの側面を力一杯蹴飛ばした。ガシャン!と、蹴飛ばした衝撃とは別の音がストーブの中からして、煌々としていた金網がみるみる色褪せていく。安全装置が働いたのだ。
 蹴飛ばしたのはもちろん、八つ当たり。ただ、彼女の名誉のために言っておくと、紘子は安全装置があって大丈夫なのを知っていて、今に限らず、たいがいこうやってストーブを消している。こうすると夜、布団の中がほどよく暖まってから、起きあがることなしにストーブを消すことができるのだ。紘子はこのことをひそかに、
「私って、頭いい」
と得意がっているが、同時にこれには、茶の間にあるようなタイマーつきの温風ヒーターを、親が自分用に買ってくれないことへの面当ても含んでいた。
 ストーブが消えて我に返ると、ストーブの置かれたあたりは少し蒸すぐらいに暑かった。
「………机じゃ、寒くて足をこすり合わせてたってのに」
部屋全体がまんべんなく暖まるという点でも、温風ヒーターはうらやましかった。
 紘子はスカートのポケットから青いゴムバンドを出して、背中までの後ろ髪をきゅっと結わえる。そしてカバンから緋色の小さな巾着袋を無造作につかみ出し、壁のフックから上着を取ると、たまりかねたように部屋のドアを開けた。

 カーテンのせいで部屋では気づかなかったが、階段に面した小窓の明かりはもう薄暗くなっていた。ひゅうううう、という、海からの風を切る音も冷たそうだ。ネズミ色の海が、波を蹴散らして荒れ狂う様が目に浮かぶ。が、紘子はそれにも構わず外出するつもりで、狭い急な階段を降りた。降りて、一階の廊下を右に折れると玄関だ。
「……………」
 降りたところで、紘子はかすかに味噌汁の匂いを感じた。昼食の残り香。それにつられるように、彼女は左に向きを変え、台所ののれんを手で分けた。
 昼ごはんのそれは、紘子の好きな豆腐とネギの味噌汁だった。とっくに冷めているだろうが、彼女が思いついた企みには、その方が都合がいい。そして炊飯器には、まだ一合ほどのご飯が暖かいまま残っているはずだ。ある方法でこの二つを食べるのが紘子のひそかな大好物だったが、親がいる食卓ではそれができない。だが幸い、母親は町内の集まりで出かけている。
「ふふっ」
 ひんやりとした台所で鍋の蓋を持ち上げ、上澄みに漂うネギの光沢が見えた瞬間、紘子は思わず、ニッ、と笑みを浮かべてしまった。そして、後ろを向いて炊飯器を開けると、いい匂いがする湯気の向こうから、想像よりも大量の残りご飯が現れた。紘子は夢中でお椀を手に取り、がばっ、と、アツアツのご飯をよそい、
「これじゃ、あふれちゃうか」
一瞬考えてから、ちょろっ、ちょろっ、と、盛り上がった部分をしゃもじでこそぎ落とすと、振り返って鍋の蓋を開けた。おたまを一回転させると、沈んでいたものが煙みたいに浮いてきて、味噌汁が色を戻す。紘子はそこを素早くひとすくいして、お椀の上でおたまを傾けた。
 ネギや豆腐を交えながら、流れ落ちる味噌汁がうっすらと白いご飯を染めていく。ご飯の熱で、味噌とじゃこだしの匂いが蘇り、それが紘子めがけて向かってくる。紘子の頭は、その、この世で一、二を争ういい香りで真っ白になり、彼女はそこに立ったまま、夢中でお椀の中身を掻き込み始めた。
「うーっ、幸せすぎっ!」
 試験勉強がお先真っ暗なことも、頭をしたたかに打ったことも、もはや紘子は忘れている。
「紘子!何ちゅう食べ方しとるかっ!」
 と、八割方食べ進んだところで、背後からややしわがれた、しかしどこか鋭い父親の声が響いた。紘子はその声にビクッとして、我に返った。我に返ったが、口と箸を持つ手が止まらない。
「紘子!!」
 全て食べ終わって、心の片隅でおかわりをこらえながら、ようやく紘子は声の方を振り向いた。台所と続きになっている茶の間で、炬燵に座った父親が恐い顔でこちらを見ていた。
 炬燵の上に、透明な液体の入ったコップと瓶がある。この町の主な生業は漁業で、紘子の父親は漁師だ。午前中に帰宅して、普段はこの時間には寝てしまっているのだが、休日は一杯飲みながら寝たり起きたりしている。
「ええかげんにせぇ!」
 父親は立ち上がって、充血した目を怒らせた。汁かけご飯の立ち食いをたしなめるにはおよそ不相応な、ものすごい形相と声量。ただ、こちらへ向かってくる気配はないので、紘子は言い返すゆとりを覚えた。
「………お父さんだって、仕事に出る時に時々しとるがあ。私、見たことあるけぇ」
「漁師の朝は別じゃ!それに立ったまま掻き込んだりせんわい!」
「じゃあ、立ったままはよすけど、朝じゃったらええよね!朝は私も忙しいけぇ!」
「アホっ、こっちゃ命がけの商売じゃ!学校なんて、もうちょっと早よ起きたらええだけじゃろが!!ワシが出かけるような時間まで起きて落書きばっかりしよって!」
 寝起きの悪さや夜更かしのことを言われ、紘子の形勢がぐっと悪くなった。ただ夜更かしといっても、父親の出る時間というのは日付が変わるか変わらないかぐらいの頃だ。
「………紘子。ちょっとこっちゃ来い」
 酔った父親の「ちょっと」は、ねちねちと長い。紘子は顔だけはしおらしく、でもわざとらしい大声で
「ご・め・ん・な・さ・い!」
と謝ると、お椀と箸とを洗い桶へ押し込むようにしてから、
「出かけてくる」
そう言って、さっと巾着袋を取り上げて廊下へ向かった。
「どこ行くんじゃ」
 父親が、充血した眼で娘の姿を追いながら聞く。
「………マ、マルヤスーパー」
「何買いに行くんじゃ」
 しわがれた声に、再び怒気が含まれている。のみならず、炬燵から出てきそうな姿勢なのが紘子の横目に入った。紘子は茶の間に面したガラス障子から顔だけ出し、わざと恥じらうような顔を作ってから大声で、
「パンツ!…他も聞きたい?」
「……………」
 振り上げた拳の下ろし場所に迷った父親は、
「ちっ、色気づきよって…」
下品にふてくされながら、それでも少しだけ淋しそうに顔を炬燵へもぐらせた。



 とっくりセーターの上に青いGジャンを羽織った紘子が、ポケットに手を入れて、やや前屈みで外を歩いている。
 歩いているのは、東西に長いこの町の表通り。しかし「表」と言っても、センターラインもなければ、両側も木造の古びた民家ばかりだ。おまけに人通りはまったくない………黒い板塀や木枠のガラス戸、瓦葺きの屋根、そして灰色の空。それが紘子の視界のすべてだ。
「いいところ………なのかなぁ」
 ここは日本史の大きな出来事に関係した豪族ゆかりの土地で、その一族の名がそのまま町名になっている…というのを、紘子は小学生の時に嫌というほど聞かされた。山側へ少し登った町外れに小さな駅があり、駅のさらに上にその一族を祀った神社がある。季候のいい時期には、旅行客の車がぽつりぽつりとやってきて、歩いているとそこへの道のりをよく聞れる。中にはわざわざ列車でやってきて、
「いいところだね。百年、いや、二百年ぐらい前のままなのかな?」
と言いながら、町並みの写真を撮って歩く旅行者もいる。
「…さあ、どうでしょう」
 そんなこと聞かれても、私、百年前に生まれてないし…と思いながら紘子が答えたのは、二ヶ月ほど前のことだった。
 ちょうど今、紘子はその旅行者に声をかけられた土蔵の前を通り過ぎた。
「大きい家だね。昔の網元か何か……きっと今も、このあたりじゃちょっとした家なんだろうね」
 大きなリュックをしょった旅の男はそう言って、白壁がだいぶくすんだその蔵屋敷を喜んで何枚も写していた。そこは幼なじみのメグちゃんの家だったが、彼女の家は金持ちでも何でもなく、「手入れも厄介だし工事屋さんも高いから、取り壊して家も半分にする」と、先日メグちゃんの親が紘子の親に話していた。

 それはそうと、紘子が思った通りに、外はヒリヒリするような寒さに覆われていた。そして海側の家が途切れるたびに、待ってましたとばかりに冷たい海風が体を突き抜ける。
「つべたっ!」
 そのたびに、紘子は水たまりをよけるみたいに、ぴょん、ぴょん、と駆けて、風が塞がれたところでまたトボトボ歩く。
「マフラーが、いったかなぁ」
 屋根と屋根との間に細長く続く空には、まだらに黒い、泣き出しそうな雲がひしめいている。薄暗いが、まだ街灯が灯るほどではない………それにしても、今日も誰も歩いていなかった。家を出てから三、四分の間に出会ったのは、軽トラック一台きり。あとはカモメが一羽、海の方から紘子の頭上に現れたと思いきや、道を間違えたという感じですぐに引き返して行った。
 淋しい限りの景色。ただ、紘子にとっては、これでよかった。誰もいない空間、それにピリッとした寒さに、紘子はむしろ爽快感さえ覚えている。ほどなくマルヤスーパー―――――スーパーと言っても、狭い間口の上に安っぽいビニールの日よけを乗せた雑貨屋だが―――――が見えてくるはずだが、そこは目的地なんかじゃなかった。一応、財布の入った巾着袋を持ってはきたが、是が非でもという買い物はない。
 とにかく、迫る期限を前に進まない勉強がある家から、オンボロで利かなかったり暑過ぎたりのストーブがある家から、それと酒を飲むうるさい父親がいる家から、外へ出たい。それだけ。
「あーあ………」
 今日は日曜だが、父親は、たまに平日でも、この時間まで寝たり起きたりしながら一杯やっていることがある。朝が早いから、普通の人で言うとこれぐらいの時間が真夜中にあたるのは、紘子にも分かっている。決して楽な仕事でないのも知っているから、お酒も飲みたいだろうとも思う。しかしそれでも、昼間から赤ら顔で酒の匂いを発散している父親の姿に、いつしか嫌な気分を覚えるようになっていた。
「……………」
 中学高校と進み、友達の範囲がこの海沿いの町の外へ外へと広がるにつれて、それを「普通じゃない」と思わされるようになってきたのも、確かにある。
 でも、それよりも、ませた言い方だが、
「お父さん、悪い酒になった」
と、彼女は思っていた。幼かった頃、一杯ひっかけている父親は無口で優しくて、むしろ自分から横に座って、話しかけてもらうのを心待ちにしていた記憶が紘子にはある。それに、休みの日でも昼には寝ていた。けれども今は、飲んでいる当座はもとより、酔って眠ってしまった後すら、半分は汚いものみたいで、そしてもう半分は恐くて近づきがたい存在になっている。

 果たして紘子はマルヤスーパーに入ることなく、ただ、自動販売機でミルクティーの缶をひとつだけ買って、細長い町の中ほどにある交差点までたどり着いた。表道りに、山側を走る国道から分かれてきて漁港へと向かう道が直角に交わっている。どちらにも車通りはなく、信号もない。ただの四つ角だ。
 漁港へ向かう道の幅だけ海側がぽっかりと開け、防波堤と灰色の海が、そう遠くない距離に見える。
 そちらから海風がびゅうびゅう吹きつける中、紘子はぽつんと、風上を向いて立ち止まった………結び髪は後ろへなびき、引きちぎれそうに見える。デニムのスカートは風圧で体にぴたり押しつけられ、今にも破れて飛んでいきそうだ。ジーンズの上着は煽られてバサバサ言っている、手首に提げた巾着袋は、どこかへ行きたがっているみたいに後ろへ引っ張られている。そして風は氷のように冷たく、無数の針が突き刺さるみたいな感触が、紘子の顔や首筋、それにスカートの裾と靴下の間を襲い続けていた。
 けれども紘子は構うことなく、防波堤の先の、白い波頭を乱暴に飛び散らせているネズミ色の海を、糸のように細めた目で、じいっと見つめている。
「……………」
 やがて紘子は、ハッ、と何か思いついた顔をして、それから大きな歩幅でもって、海へ歩き出した。


   (つづく)


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