(「福島・会津、スケッチ日和」後半)



 バスはアーケードのある大通りを渡り、それを境にレトロな建築は目立たなくなったが…。
「通り過ぎちゃったとこは、帰り寄れますから…それより、ほら!」
 でも、降りたバスが走り去るのと同時に、少女は誇らしげに道の斜向かいを指差す。
「え………?」
「これが市役所です!会津若松の」
 石造り風の重厚な洋式建築は三階建てだが、それ以上に高くそびえて見えた。装飾を施す柱に区切られた、彫りの深い外壁。その柱の間にサッシではなく、おそらく建築当時のままの、上下にスライドする鉄枠の窓が縦長に連なっている。分厚い庇が突き出たドーム状の玄関から、適度に薄暗い、天井の高そうな内部が少しうかがえた。間口が少し物足りないが、角地にあるおかげで、かわりに長い奥行きを持った堂々たる建物なのが分かる。
「お客さん。思わず降りちゃったけど、やっぱり先にお城にしますか?」
 少女は尋ねてはいるものの、表情は気に入ってもらえるという確信に満ちていた。細い腕はもう、鞄からスケッチブックを取り出している。
「ううん。ここでいいわ」
 果たして優衣も、眼を細めてそう答えた。ここまで少女が取ろうとしてきた道のりは偶然でも何でもなく、少女が自分と同じ好みを持つ結果だということが、もう彼女にも伝わっている。
 文具店や書店といった周囲の店は、凝ってはいないものの、瓦屋根を載せた昔ながらの個人商店といった風で、市役所の古さだけが見せ物みたいに浮いてはいない。そして建物の窓にはブラインドや書類棚が見え、この建物が街とともに今も息づいているのが分かる。節電のためか、開け放たれた窓がそこかしこに見受けられた。玄関からうかがえる高い天井や抑え気味な照明に、風が通り、見た目にも涼しげな室内が想像される…。 
「…こんな建物が、職場だったらな」
 清潔なかわりに明るすぎ、エアコンだけが空気の流れを支配する自分の職場…それを優衣は思い出し、気分を沈ませた。そのエアコンが節電で絞られても、窓は開かない。かわりに明るさも抑えられたけれど、今風のオフィスビルでそれをやっても陰気にしか見えないのだ。
 …さて、軒の陰でスケッチをする少女は、相変わらず優衣の指導を容易に受け付けない。
「ここの窓の縦の長さは、横の二倍はあるでしょう。それがほら、さっきも言ったけど、縦が横の半分しかないじゃないの」
「二倍と半分って、どっちが大きかったっけ?」
「はぁ…?」
 募るイライラと昼近くの暑さ。市役所を前にあれこれ考えていた優衣の頭の中が、早く済ませいという思いだけになる。
「あーっ、もう。貸して!」
 少女から鉛筆とスケッチブックを奪うと、優衣は画用紙を一枚めくって、玄関の真上の、涼しげな内部をのぞかせる開いた窓の並びを描き始めた。春先からスケッチどころじゃなかった彼女だが、さすがは美大卒で、乱雑ながらも見たままの形が走り描きで再現されていく。
「あ。描けるじゃん、私」
途中でふと思ったきり、あとは描きたいものを描くのに夢中になった。
「うわ、すごーい…」
横で少女が感嘆の声を上げたが、優衣の耳には入らない…。
「ふう。こんなもんか」
 ややあってそう思った瞬間、優衣は汗が目にしみる痛みに初めて気づいた。次いで少女に教えている途中だったのを思い出し、しまった…と感じつつ少女に鉛筆とスケッチブックを返す。
「……………」
 優衣の絵に眺め入っていた少女は、もう一枚めくって、優衣が描いたのと同じ範囲をスケッチし始める。範囲を絞ったおかげで注意点が減ったせいか、それとも描くところを見て描く順序や形の取り方を学んだのか、前よりいくぶんマシになった。優衣もそれを喜びはしたが、それよりも、自分がスケッチを終えられた安堵や満足感がまだ続いていて、その方が大きかった。
 少女に連れられ、市役所の通りを先へ進む。
 比較的建て込んだ中の、片側一車線の道。車通りはそこそこあり、低い縁石で車道と区切られただけの歩道はギリギリ二人分の幅しかないが、人通りが少ないせいで、並んだまま歩くことができた。市役所の次の角を右折し、低い軒に挟まれた狭い道に入る。やはり人影はない。一帯は観光スポットではなさそうだし、また役所や会社の昼休みには少し早いせいもあるだろうが、それにしても静かで、午前中の部活を終えたらしい中学生や高校生に時々会うだけだった。
 と、建て込んでいた周囲が急に開ける。道は直線のまま幅がぐっと広がり、行く手の左右と突き当たりが緑に包まれた。手を引いて道の左側へ優衣を誘いつつ、少女が弾んだ声を出す。
「一番向こうの山が、お城の山」
 道の突き当たりは二百メートルほど先で、その奥には山という言葉どおり、濃い緑色の林が高々と盛り上がっていた。それを見ながら左側の、今度は広々とした歩道に入る。
「あ、いい感じ…」
 歩道に沿って、かなりの年月を思わせる煉瓦塀。車道との間に並ぶ街路樹が枝を伸ばし、塀とあわせて行く手をトンネルのように見せる。塀の手前に木の柵があり、その下には冷たそうな清水が豊かに流れていた。そして街路樹のトンネルの先には、深緑色の城山…実際にはトンネルと言えるほど街路樹は密ではなく、行く手の半分以上は日射しの下なのだが、見た目の涼しさの方がより強く優衣を支配した。
 優衣が立ち止まると、手を引く少女もさからわずに止まる。手帳にスケッチを始める優衣。少女もスケッチブックを取り出す。塀の切れ目に門があり、水路に木橋が渡されていた。明治時代から続く小学校だという掲示。夏休みのはずだけれど、遠くに子どもたちの声がする。



 煉瓦塀と水路が尽きると沿道に見る物はなくなり、近づく城山の緑だけが目にしみた。
「…こんなに私と趣味の合う子が、なんで城跡なんかにこだわるんだろ」
 コンクリート造りのピカピカの天守閣を想像しながら、優衣は少女の横顔をチラリと見る。口を結び、小麦色の額には汗がにじむものの、後ろで揺れる短い結び髪とあいまって、遠足に行く子どもみたいな期待感が漂ってくる。歩みも早足で、ともすれば優衣は置いて行かれそうだ。
「ねえ、お城の建物って、そんなにきれいなの?」
 いぶかりながら優衣は聞いた。そこで少女が先に立って、突き当たりを左へ曲がる。
「ううん。醜悪ですよ」
 ぴょこぴょこ揺れる後ろ髪が、大人びた口をきく。歩くたびに、脚を邪魔するように手提げがスカートを叩くけれど、少女の速度は緩まない。
「やっぱりね。その醜悪な物を、なんでわざわざ描きに行くの?」
 後ろから優衣は質問を重ねた。いよいよ入口らしく、前方の沿道に土産物屋や飲食店が見えている。音楽を流したり悪趣味な大看板を掲げたりはしていないが、かわりに人影はまばらだ。
「お城は、建物だけじゃないですよ」
 励ますように声を明るくして、少女は答える。
「ふうん…たとえば、どんな?」
「うーんと、えーっとねえ…」
 そこで少女が、ちょうど車が途切れた道を一気に駆け渡った。
「あ、待ってよ!」
 左右を一瞥してから、優衣も道を渡る。バス停と喫茶店に挟まれた小径を少女は進む。やがて彼女は足を止め、優衣がそこにたどり着くと、ぽっかりと周囲が開けた。
 夏の青空。植え込みと松林と砂利道。表通りよりさらに地味な土産物屋や茶店。竹垣の向こうに、堀らしき空間を挟んで鬱蒼とした山が盛り上がる…ここが城跡の入口だった。ゆったりした砂利道の向こうから、三世代らしき家族連れが楽しげに歩いてくる。
 行こう、という風に、少女がえくぼを見せて笑った。その笑みのあどけなさに優衣は、いきなり駆け出したのを咎めることすら忘れてしまう。
「へーえ………」
 砂利道は堀を渡らず、岸辺で右に曲がる。行く手の両側に白っぽい、ビルのように高い石垣が姿を現す。でも優衣は石垣に興味はなく、それよりも堀の景観に息を呑んでいた。
「どうせここも、石垣の下の四角い水たまりでしょ」
そう思っていたのだが、堀沿いの石垣は水際のあたりに少し見えるだけで、あとは両岸とも見上げる高さまで、捨て置かれたように木々が生い繁る斜面。水際の形も不規則で、そして想像よりずっと広く、堀というより山奥の湖水だった。その静かな水面が、両側の深い緑を鏡のように映している。「荒城の月」の歌詞が優衣の頭に浮かんで、すぐ消えた。
「…只見川に、似てるね」
「そういえば、そうですねー」
 優衣が立ち止まり、少女も水鏡に目を向けて立ち止まる。
 でも、優衣がスケッチしようと思った矢先に、少女は石垣がそびえる行く手へ歩き始めた。
「え…?」
 初めての食い違いに戸惑いながらも、優衣はついて行くしかない。やがて道はその石垣に囲まれる。苔一つない、平らな表面をした石組み。きれいに整備されているのがアダになって優衣は退屈した。しかも影が短い時間帯のせいか、石垣は高いばかりで日陰を作らず、優衣の視界はホワイトアウトしかけている…と、少し先にある曲がり角から家族連れが現れ、続いてバス一台分ほどの団体客も姿を現した。いずれも、こちらに向かって歩いてくる。
「なあんだ。結構お客さん来てるんだ」
 そういえば堀を見ている間にも、何組かの人々が横を通っていた。優衣は他人事ながら安堵したが、歩いてきた家族連れや団体とすれ違うと、もれなく会話に東北訛りが混じっている。つまり遠方からの客ではなく、ヘタをすると家族連れの方は地元の人間かもしれなかった。角を曲がってくる人々は続き、先を行く少女はそれらへ律儀に「こんにちは」と頭を下げるのだが、返ってくる挨拶はこの地方特有のアクセント入りだ。ちなみに少女の挨拶も例外ではない。彼女に限らず東北地方の若い世代は、相手がいわゆる標準語ならば標準語を話せるようになっている。
 ともあれ挨拶をしながら、少女は歩いていく。石垣を眺めるわけでもなく、かといって行く先に目当てがあるような急ぎ足でもない。土地の子が寄り道を楽しんでいる…そんな後ろ姿だ。セーラー服と肩掛け鞄が余計にそう思わせるのだろうけれど、別に小さな手提げを揺らしているのが、学校帰りの寄り道にしては大荷物に見える。
「不格好ねえ…あんな小さな手提げの中身ぐらい、鞄に入るでしょうに」
 半分は苦笑し、半分は少女の意図が分からないのにイライラしながら、優衣は少女に追いつき、そして聞く。
「ねえ。この先に何があるの?」
「えーっとね………いろいろ」
 少女は答えたが、声音がどこか上の空だった。面倒になって…いや、「結局何もない」というオチが恐くなって、優衣は「いろいろ」の中身を聞くのをやめた。ただ、恐れつつもなお、
「わざわざ来るんだもの。さっきの堀の眺めより、もっといい物が、きっと、あるんだ…」
と優衣は信じてもいる。でもそれは確信と言うよりは、そう信じなければこれ以上、身も心も蝕む日射しの下を歩きようがなかったからだ。
 クランク状に角を二度曲がると、両側の石垣が切れて、広場になった。左手の一角に木立が陰を作る場所があり、迷わず優衣はその中へ入る。少女もついてきた。
「わ、涼しい…」
 日なたを挟んだ向こうにも木が繁っている。森の中にいるようで、目が落ち着く。
 近くや遠くを、ぼちぼち人々が通る。木陰の中には丸太のベンチがあり、そこに座る姿もある。それらの一人ひとりがどこから来たかは分からないが、サンダル履きで犬を連れている男性や、通学鞄を持った女生徒の二人連れは、絶対に地元の人間だろう。
「地元の人も、結構来てるわね」
「うん。大きな公園みたいな感じ…だと思う」
 だと思う、と付け加えた割に、少女の答えは自信ありげだった。言われてみると、すぐそばでベンチに座って談笑する老婆たちもそんな感じだ。
「これが、公園………」
 自分の地元の市民公園と、優衣は引き比べた。そこにも木立や散歩道はあるが、グラウンドやテニスコートが面積を取っていて、さっきの堀やここの眺めのような深々とした緑はない。道もこんなに広くはなく、そしてもっと騒がしいのだ。はるばる観光に来る価値があるかはさておき、公園がわりに日々歩く場所としては贅沢すぎる…そう優衣は思い、街の人々に羨望を感じた。
 向き直ると、少女はぼんやりした顔で、あらぬ方角に目だけを凝らしている。さっき質問に答えた時から、すでにそうだった。けげんに思いながら優衣もそちらを向くと、二階建ての小さな、でも本格的な日本家屋が木立をバックにして建っている。
「『日新館』って言うの。弓道のお稽古するとこで、隣に弓場もあります」
 目を見張る優衣に、少女が問わず語りに教えた。その通りらしく、開け放たれた縁側に運動着姿の子どもが見える。手前の駐車場から、弓と巾着袋を持った女の子が親に連れられて敷地へ入っていく。
「手前に駐車場があるのが、ちょっとアレだけど…」
 優衣は丸太に腰掛け、手帳を出した。日新館が気に入ったからだが、バスを降りてからずっと椅子に座っていない。時計は正午を回っていて、食欲がないなりに空腹も体に堪えていた。
「行きましょ。もう少しで、ゆっくり休める場所に着きますよ」
 しかし無慈悲にも少女はそう言い、スタスタと木陰の外に出て行く。口調は穏やかだが後ろ姿は有無を言わせない。優衣は立つのを躊躇したものの、結局、紐で牽かれるようにして後を追った。
「何なの?…何があるのよ?」
 城に来てからの少女の微妙な変化をいぶかりながら、優衣は竹垣に塞がれてよく見えない堀を渡り、緩い上り坂とともに高い石垣の間に入る。ほどなく直角に曲がると、また広場が見えた。
 広場に着くや少女は立ち止まり、一転、弾けるような笑顔で優衣を振り返った。
「ここです!お待たせしましたー!ね、すぐだったでしょう?」
「……………」
 なるほど、ここはベンチだけでなくテーブルもある。
 それらが並ぶ先には、かき氷や食べ物を売る休憩所もあった。食堂や観光案内所も備えた大きめの施設だけれど、周囲の景観を壊してはいない。人々が冷たい物を買ったりベンチで話したりしているが、あくまでも適度な数で、騒がしくはなかった。
 しかし、周囲に木立があるものの、ベンチが並ぶ空間には日を遮る物がなく、暑い。
 そしてその空間と向き合うように、天守閣がそびえ立つ。詳しくは書かないが、優衣の予想どおり、彼女にとってあまり見たくないタイプの「江戸時代の城」だった。
「これが目当てだったなんて…やっぱり子どもだ」
 優衣が失望したところで、第一声よりも抑えられた少女の声。
「さ、座りましょう。大丈夫。私もあれを描きにきたわけじゃ、ないですから」
 なるほど、勧められた席は天守閣に背を向けていたし、少女にも強いてそれを眺める気配はない。座ると彼女は手提げ袋に手を入れ、取り出した物を優衣に差し出した。
「………トマト?」
「はい!」
 ソフトボール大の、少し不格好だけれど、いかにも食べ頃な重たいトマト。
「お客さん、駅でトマトのこと聞いてたでしょう。それで一度、家まで戻って…畑やってるお家からもらったトマトだから、あそこで売ってるのと同じですよ!」
「私のために、わざわざ…?」
「はい!だって、絵を教えてもらうんだから、お礼をしなくちゃ」
 宿の場所に住んでいるとしたら、片道十分弱。でも途中に坂もあるし、それに優衣が野菜の棚を冷やかしてから少女に会うまで、十分あったかなかったかだ。結構な駆け足で少女は往復してくれたことになる。そして、それを運ぶだけのために今まで、わざわざ荷物を一つ多くして…。
「……………」
「すっごく、おいしいですよ!」
 自分の分を手に持って、少女は優衣が食べ始めるのを待っている。不覚にも目頭に浮いた涙を指で拭いてから、優衣はトマトを噛んだ。おいしい。食欲がなかったのも忘れて、中の甘みを吸いながら食べ進む。もちろん冷えてはいないが、それでも口の中の乾きが癒されていく…。
「うん。さっきの日陰よりも、ここで暑い思いをしながら食べるべきかも」
汚れるのも気にせず豪快に同じ物を頬張る少女に、優衣はそのことも感謝した。
 お礼に売店の食べ物を優衣がオゴり、二人は昼食を済ませた。
「じゃ、スケッチしてきますね。あ、ここか中で、待ってていいですから!」
 少女はスケッチブックを取り出して立ち上がると、優衣を制して、もと来た道の方へ歩いていった。そして石垣の片隅に立ったまま、優衣が座っている方を見ながら鉛筆を走らせ始める。
「…私のことを、描いてくれてるの?」
 そう優衣は思ったけれど、それなら、せいぜい隣のベンチに移れば済むことだと気がついた。
「でも、かと言って…」
 少女が視野に入れているだろう範囲を、優衣は見回してみる。何のことはないテーブルとベンチたち。休憩所は地味なコンクリートの建物で、とても古風な茶店といった代物ではない。休憩所の背後と広場の脇は涼しげな木立になっているが、それを描くには位置が変だった。
「わざわざ描くような景色は、見あたらないけど…」
 そう思って少女を向き直ると、彼女は顔を真っ赤に染め、目をしかめて辛そうな表情をしていた。首が微妙に動いた瞬間、両目から頬にかけて涙が光る。泣いているのだ。
「ちょっと、どうしたの?!」
 優衣は石垣の片隅に駆けつけ、少女に声を掛ける。
「な、なんでもないよ…なんでも、ないですから」
 涙声とともに少女は下を向き、スケッチの続きを始めた。うまく描けなくて泣き出したのかと思い、優衣は画用紙を覗く。休憩所やその先の林を遠景に、テーブルとベンチが並ぶ広場をややアップ気味に描いているらしい。でも、決して上手ではないが滞っている様子はなく、現に今も、描き終えたテーブルたちの奥に休憩所の建物が形を現しつつあった。
「ん?」
 すでに描き上げた部分に、妙な空白がある。手前の方のテーブルの一つ。そこに人を二、三人座らせたいようで、人物を描きかけた跡がうかがえるのだが、結局消して、人影に相当する部分だけが抜けたように白いままだった。残っている鉛筆の跡からすると、何度も描くのを試みたらしい。他のテーブルには人間とおぼしき影がちゃんと描かれているから、人物自体がうまく描けないわけでもなさそうだった…。
「………今ここにはいない、特別な誰か。それを描こうとして、でも描けないんだ」
 そう直感して、優衣は黙ってベンチの方へ戻った。
「特別な思い出が、この広場にはあるのね…」
 それなら、堀も日新館もかなうはずがない…城へ来てからの少女との食い違いが、優衣の胸の中でストンと落ちた。涙を拭きながら鉛筆を使う少女をチラリとうかがう。振り回されたことに怒りは湧かず、むしろ、城と聞いて不機嫌になったり、城跡なんかに何があるのかと言ったりしたことを優衣は申し訳なく思った。そして真新しい天守閣を、見るともなく仰ぎ見る。
「…けど、思い出すと泣けて、でも絵に描きたくなるような思い出って、何だろう?」
 友達との日々、家族の思い出、恋愛…優衣は想像を始めようとして、ハッとする。
「泣けるってことは、今はもう会えないけど…ってことだ」
 終わった恋を懐かしむなんて、あの歳ではあり得ない。二十代なかばの優衣自身ですら、そんなのは演歌やポップスの歌詞の中だけだと思っている。友達なら、相手が遠くへ転校などという別れ方もあるけれど、それであそこまで泣くのは、優衣としては合点がいかない。今はいない家族との思い出…そうであれば納得できる涙だったけれど、あまりに重たすぎて、その中身を想像する気にはなれなかった。
「でも、待てよ」
 そこでより根本的な疑問が頭をよぎり、優衣は思い出の中身の詮索を脇に置く。
「彼女は、宮下の町の子でしょ。なんで若松城にそんな深い思い出があるの?」
 もちろん、家族や友達と遊びに来ることが不可能な距離ではない。ただそれにしては、城跡に来てからの足取りが手慣れてはいなかったか…歩き通しの疲れが癒えたせいか、いまさらのように優衣は気づいた。日新館というあの地味な家屋が弓道の稽古に使われているなんて、一見の観光客が見て分かることではない。
「ううん。この城跡に来るより前だって…」
バスで通り過ぎた街の裏通りは多少人出があったものの、市役所から城跡に至るルートはガラガラで、明らかに観光ルートから外れた場所だ。持っていた地図を一度も見ずに、そこをスイスイと少女は歩いた。煉瓦塀と水路の存在まで、優衣に教えながら…。
「…あ、もしかして…」
 宿の相客に、浜通り…原発のある沿岸部から避難中の一家がいる。風呂上がりに外廊下の椅子で休んでいた時、やってきた小さい子の相手を優衣がしていたら、その子がそういう身の上だというのを女主人が教えてくれた。会津若松にも避難者がいることや、会津地方の中で避難先の移動を強いられるケースがあることも、以前にニュースで見ている。よく考えたら安全だから避難先になっているのだが、「福島県だし、原発事故のニュースに出てくるから」と、つい先日までの優衣はひとくくりに危険視していた。
「彼女はあの子のお姉ちゃんで、しばらく会津若松で過ごしてから、あの宿へ…?」
 優衣は少女の方を見た。表情が見えないほど顔を伏せて、懸命に鉛筆を動かしている。
 無縁な場所での不自由な生活とはいえ、もし出歩けたなら、この美しい街は、落ち着かないなりに一息つく思いをさせただろう。これだけの都市だったら、通行人の一人として歩いている限りは、気遣いも受けなければ色眼鏡で見られることもないはずだ。あるいは少女はこの街の学校に入学していて、友達もでき始めていたのかもしれない…ぐるぐると想像が、優衣の中で回り始めた。もしそうなら、自分が「旅館の子」だという少女の認識も、正しくはないがうなずける。どの部屋にいるのか分からないが、外廊下の会話も窓や扉ごしに聞こえたのかもしれない…。
「この街から、会津宮下のあの小さな旅館に移る前に、家族でここへ名残を惜しみに来たのかな…だとしたら、思い出の場所だよね」
 ただし想像しながらも優衣は、その筋書きが唐突で、出来過ぎだとも強く感じている。いくらひっそり暮らしているからといっても、小さい子やその両親らしき大人はその後も見かけた。少女にだけ、今日まで一度も出くわさないのも変だ。
「でも、そうじゃなかったとしても…」
 想像への信頼が半分を切ったところで、優衣はまた少女を一瞥して、そして目を閉じる。
「…あんなに泣くぐらいの思い出と、その喪失とを、彼女は抱えてる。それは、確かだ」
 それに比べたら私は、別に、何かを失ったわけじゃない…そんな思いが優衣を覆った。覆ったところで相変わらず日射しは重苦しく、東京で待つ日常は少しも軽くならないのだが、石垣の片隅で苦しみと格闘している少女が、それまでよりも愛おしく思えた。
「お待たせしましたー!…あの、ごめんなさい。本当に、何でもないですから!」
 そこで、間近にその少女の声。振り向くと、まだ赤みの残る丸い目が、自分は大丈夫だと訴えつつ優衣の心中を探っている。
「安心して。何も聞かないわ」
 優衣が微笑んで言うと、少女は反応に困ったような顔を見せてから、気持ちを切り替えるように笑ってスケッチブックを差し出した。
「お願いします!見て、ダメなところ教えて下さい!」
 優衣の眼は、さっき空白になっていた箇所にまず行った。描かれた人物は一人だけで、数人分あったはずの空白の残りは、背後のテーブルやベンチで埋められている。人物はシルエットにされ、しかもそのシルエットは似ても似つかないのだが、髪型とシャツやジーンズの裾の形が読み取れて、それが優衣であるのが分かった。
「現実との妥協…でも、妥協できるだけ、私より偉いか」
 絵そのものは今までで一番上手だが、それでも教えるべきことはいくつもある。けれども優衣は少女に向かい、しみじみと眼を細めて告げた。
「…直すところは、ないわよ」
「えぇ?そんなあ!ウソでしょう?!」
「ううん。このままが、あなたが描いたままが、一番いいわよ」
「困ったなあー…お客さんにサービスしたからって、そんなに気に入られても…」
「サービスぅ?」
 少女は絵の中の、針金みたいに細く描かれた優衣を指で差す。
「ね、スマートでしょう?」
 まるで魚の骨が座っているかのような優衣。彼女は決して太っている方ではないが、それでも若い女性である限り気にはしている。わざとここまで細く描いて「スマートでしょう」などと言われたら、それは嫌味でしかない。
「…前言撤回。ここは直せ。絶対に!」



 来たのとは別の方へ進むと、人通りが減り、石垣の上の木々が深くなった。石垣が切れると、両側が堀になる。今度は、斜面を覆う豊かな森が目の高さにあり、広い広い水鏡を眼下に見下ろす格好になった。
「お土産屋さんやバスの駐車場がないから、こっちは観光のお客さんは少ないんです」
 少女の言うとおり、出てみると、広くて上品な並木道があるだけだった。
「やっぱりこの子は、一度か二度だけ遊びに来たんじゃないんだ…」
 あらためて優衣は思ったけれど、少女が何者なのか詮索しようとは思わなかった。辛い気持ちをひそかに背負っている仲間同士で、なおかつ彼女の方が少し頼もしい。それで十分だった。
 そして、レトロな建築をきれいだと思う仲間同士。
 二人で中心部の裏通りまで戻り、さっき見送った和洋の古めかしい建築をゆっくり眺め、中を冷やかし、そのいくつかをスケッチした。街並みは決して古い建物ばかりではないのだが、不思議と目当ての建物が浮き上がらない。旅行客らしき人通りも、バスで通った時より増えている。
 昼過ぎの一本の後は、夕方の五時まで只見線の列車はない。時間はたっぷりあった。
 土蔵の中を半分洋風に改造した、焦げ茶色が美しい喫茶店で一休み。
「今日は本当に、ありがとうございました。やっぱり、さすがは先生です!」
 優衣が注文を通し終えるや、少女が神妙に礼を言い、ペコリと深く頭を下げた。
「いいって。でも私、先生なんかじゃないわよ」
 打ち明けて優衣は、自分が会社員であることを簡単に紹介する。
「え?ウソ!だって、おとつい…」
 言いかけた少女が、あわてて口をつぐむ。よみがえる疑惑。優衣は思わず問いただす。
「それ、どこで聞いてたの?」
「えっと、あの………」
「あともう一つ。あなた、あの旅館の家の子じゃないわね」
「……………」
「不思議だから聞きたいだけで、怒ってないし、怒らないから。ね」
 はぁー…、と息を漏らしてから、うつむいたまま少女は言う。
「ウソついて、ごめんなさい…私、旅館の家の子じゃ、ないです」
「でしょう。どう見てもあなた、最近までこの街に住んでた人だもの」
「え?なんで分かるの?!」
 説明しなきゃいけないことか?…と思いつつ、優衣はそのココロを説明した。聞いてくるだけあって、説明が終わると少女は無邪気に感心した。
「あ、でもお客さん、私、今は宮下に住んでるんですよ!」
 それはもちろんだと優衣は思っている。だから余計に想像の幅が広がるのだ。
 …少女は中学一年生で、母一人子一人で育ってきたという。この四月に母親に連れられて、長く住んでいた会津若松から、何の縁もない宮下の町へはるばる越して来たのだそうだ。
 友達もできた頃だろうが、それはそれとして落ち着かず、淋しいに違いない。懐かしい会津若松の街の記憶は、彼女の中でそれまで以上に美しくなっただろう。後生大事に持っている古びた観光マップが、何よりの証拠だ。
 母親は小学校の教師で、その転勤先先が宮下なのだと彼女は言う。
「え?…じゃああの、坂道のとこの教員住宅に?」
「はい」
 宿の一番近所だ。でももちろん、そこに外廊下の話し声が届くはずはない。
「おとつい私、お母さんと温泉に来てたんです。出て体を拭いてたら、廊下に声がして…」
「あ………!」
 外廊下の横の、離れの浴室。優衣自身も日に何度も出入りしている場所だが、相客に出会うことがなかったせいで、「そこには誰もいない」と頭から決めつけていた。
 注文の品が来た。優衣はアイスコーヒーにミルクを注ぎ、一口飲んで質問を続ける。
「旅館の温泉には、よく来るの?」
 パフェを一口すくってから、少女が答える。
「はい!…あ。私よりお母さんが好きなんですけど…若松の家も、温泉のそばでしたから…」
 この子も好きなのね、言い訳しなくても…と思って優衣は微笑む。若松城から遠くない場所に東山温泉という、やはり川を望む静かな温泉場があるそうだ。
「最近は、お母さんが宮下に帰ってくると、必ず、です」
「宮下に帰ってくる?…宮下の小学校に勤めてるんじゃ、ないの?」
 もう一口食べてから、少女の顔が少し曇る。
「海の方から避難してきてる子が、いろんな町に、いっぱいいるでしょう…それで、郡山の方で子どもの世話をする仕事がたくさんあって、誰かが行かなきゃいけないんだって。最初は時々だったけど、夏休みに入ってからは、土日に帰ってくるだけなの」
 にわかに少女の口調が、出会った時のような甘えた感じになった。
「……………」
「お母さんばっかり、行かなくてもいいのに。ううん。お母さんが家にいなくても、引っ越さないで若松にいられたら…」
 …母親とよく来た思い出の場所を見て、涙することはなかっただろう。あの広場で、何か食べながら一休みをするのが約束だった母と子。時を遡れば、そこには父親の姿もあったかもしれない…伏し目がちな少女を見ながら、優衣は彼女の記憶に思いをこらした。
 と、少女の目が見開かれ、優衣を見ながら声を張る。
「あ、でもお客さん。私、お母さんのこと、偉いって思ってますからね!それに、よく言うでしょう。『困った時はお互い様』って!」
 少女は避難者ではなかったけれど、少女の涙は今回の震災と関係があった…他にも教師がいる中で、なぜ彼女の母親だけが続けて赴いているのかは分からないけれど、彼女の抱える淋しさが普通ではないことは、優衣にもよく伝わってくる。そして、彼女が安易な捌け口に逃げたりせず、今朝までそれを抱え込んできたことも。
「それなら、今日一日私に甘えるぐらい、いいよね…」
 ランプを模した飴色の照明を見上げてから、優衣はアイスコーヒーを吸い上げた。
 少女が気を取り直して、パフェの続きに取りかかる。それを認めて、話の続きを始める優衣。ほの暗い、落ち着いた空間にいるせいか、問いかけることへの億劫さが少し緩んでいる。
「…会津若松へ来たかったのは分かったけど、どうして私を?…ほら、懐かしいなら一人で行って、小学生の時のお友達と歩くとか」
「あのね…久しぶりすぎて、一人で会津若松に行って誰かと会うのが、なんだか怖くて…」
 えくぼを見せて、はにかむ少女。怖いと言っても深刻な恐怖ではなく、気恥ずかしさや、互いの成長を比べ合うことへのドキドキ感…そんなところだろうか。
「…電話で話すのは平気なのに、不思議だね。あとは、今日は、さっきまで描いてきたみたいなスケッチを描くためだったから」
「お友達がいると、どうしても邪魔?」
「でもない、ですけど…古い建物とか好きな友達だけは、どうしてもいないんです」
 たしかに、そんな渋い趣向の中学一年生が他にいる方が、むしろ奇跡かもしれない。
「けど、だからって私が同じ趣味だとは限らないじゃない。ていうか、同じ趣味だったのはすごい偶然よ」
「でもお客さんは、絵の先生だっていう話だったでしょう」
 よく分からない理由を、自信たっぷりに挙げる少女。
「………?」
「絵の先生って、きれいな物を見つけて描く専門家、でしょう。それだったら若松の街は絶対気に入ってくれるはずだから…お客さんは先生じゃなかったけど、その通りだったでしょ?」
 身を乗り出しがちにする少女から、この街への愛情の深さが確信とともに伝わってくる。優衣はコーヒーのグラスを置いて、けなげな連れに笑いかけた。
「うん、きれいだった…今日はありがとね」
「そんな、私こそわがまま言って…ありがとうございました!」

 午後五時。夕方の列車は高校生でやや混んだが、二人は向かい合わせに席を確保できた。
 会津坂下という駅で学生は全部降り、二人は窓際に移る。入れ替わりに別の制服姿が乗ってきたが、それまでよりずっと静かだった。出るとやがて車窓は森になり、列車はエンジンをあえがせて山を登る。窓から入る風がひんやりとしてきた。
「そうだ。お風呂場で聞いた声の主が私だって、どうして分かったの?」
 聞きそびれたことを思い出し、優衣は口に出す。
「ずっと家から見張ってたわけじゃないけど…おとついから今日まで、見たことない人で坂を登ってくる女の人は、お客さんだけだったから…」
 少女は眠いらしく、トロンとした目でそう答えた。半開きの眼差しが妙に艶めかしく、大人びて見える。そのまま彼女は、問わず語りのような口調で言葉を継ぐ。
「それに、昨日も今朝も、坂を登ってきた時のお客さん…なんだか心配な、感じがしたから…」
 ドキリとして、思わず目を伏せる優衣。
「死ぬかもしれないって思ってるのを、見透かされてる……もしかして、ついて来たのは私のためで、絵の宿題っていうのも、ウソ………?」
 聞いて、そのとおりだったら何て言おう、と思いながら、優衣は視線を少女の顔に戻す。
 が、少女はもう眠っていた。ついさっきとは一転、口を開けて壁に寄りかかる幸せそうな寝顔は、幼い子どもでしかない。
「まさか、ね」
 思い直して溜め息を吐き、優衣も目を閉じた。眠るつもりはなかったが寝てしまい、少女に揺り起こされると、宮下に近い方の鉄橋の眺めがあった。
 会津宮下の、乗ったのと反対側のホームに着く。ひぐらしの淋しげな輪唱。定期券を取り出す高校生たちについて、車掌に切符を渡し、運転士と談笑する駅員の横を過ぎ、ホームを降りて線路を渡る。待合室の時計は午後六時半過ぎ。まだ明るいが太陽は西に茜色を残すだけで、静まり返った駅前は肌寒いほどに涼しい。
「お客さん。私、この町も好きですよ。友達もできたし、食べ物はおいしいし」
 右に家並み、左に夏野菜の畑を見ながら、並んで歩く少女が語りかけてくる。
「それにねお客さん、最初は見過ごしちゃうけど、蔵とか神社とか、この町にもいい感じの建物はあるんですよ!よかったらお客さん、明日…」
「…私、優衣っていう名前があるの。安東、優衣よ」
 旅館の子ではないと察してから感じている、「お客さん」と呼ばれることへのむず痒さ。それを解消しておこうと、優衣は名前で呼ぶように促した。
「あ、すみませんお客さん!私、玲菜…栗城玲菜って言います!」
 礼儀正しいのはいいが、まるで優衣の意図が通じていない。
「なんでいつまでも、『お客さん』って呼ぶの。旅館の子じゃないんでしょう?」
 食い下がる優衣に少女は、「え、変ですか?」と言いたげな、ぽかんとした顔を向けた。それから瞳をうれしそうな色に染めて、明るい声。
「だって、この町のお客さんじゃないですか。私だけじゃなくて、みんな、誰かが来てくれるのはホントにうれしいんです」
 言い終えるや、満面の笑み。残照を受けるその顔は小麦色だし、まん丸でもないのだが、みずみずしい畑のトマトを優衣に思い出させた。



 その晩、優衣は何ヶ月かぶりに、夜の早い時間からぐっすりと眠った。
 眠るまでの間にも死にたくなるような気分が訪れたし、目覚めれば明日も、合間合間にそれを感じるだろう。楽しい一日があったからといって、それで治るような性質のものではない。ただ、寝入り際の夢うつつの中で優衣は、
「明日は、町の中をもっとじっくり散歩してみよう。あと、この町を出る日には会津若松に寄って、もう一度あの街を、見て回りたい」
今朝までよりもいくぶん前向きな気持ちで、外に出かけることを思い描いていた。
 肌寒さゆえ行儀よく夏布団に収まったはずの優衣は、いつしか寝相を崩し、浴衣の裾を割って出た片脚が畳に届いている。
 網戸ごしの闇にはせせらぎと、それに時々、温泉のポンプの音が聞こえるだけだ。


(完)



追記:
 執筆中に新潟・福島豪雨があり、舞台の一方、只見川上流域も被災しました。只見線は会津宮下まで開通したものの以遠は被害甚大、登場する温泉宿も床上浸水とのことですが、再三お世話になった地域の復旧を心よりお祈りする意味で、元のまま舞台にさせていただいた次第です。



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