福島・会津、スケッチ日和 (2011年夏・無料ペーパー掲載作品)


 只見川上流、会津宮下の駅。油蝉の輪唱と気動車のエンジン音。

「お客さん、絵の先生でしょう?」
 待合室からホームへ出ようとしたところで、優衣は背中に呼ぶ声を聞いた。
 振り向くと斜め下から、まん丸い二つの目が視界に飛び込んでくる。続いて小麦色をした額と顔、夏物のセーラー服。布の鞄を肩から掛けていて、手には、やはり布製の小さな手提げ………土地の中学生らしいが、おとつい初めてこの町へ来た優衣に、中学生の顔見知りはいない。
「…旅館の、子?」
「うん!」
 丸い目を見開いたまま、小柄な少女はまだ幼い声音で元気よく答える。優衣が振り向いたままの顔で黙っていると、
「…あっ!ごめんなさい。おはようございます!」 少女はハッとなって、ピョコンと頭を下げつつ朝の挨拶をした。
 優衣の沈黙は、別に無礼を咎めていたわけじゃない。今夜で三泊目になる旅館は、町から川岸へ下る坂のどん詰まりに建つ一軒宿。お客さん、と呼ぶからにはその関係者なのだとして、優衣はその宿でこの少女に会ったことがなかった。というより宿に限らず見覚えはなく、だから見知ったような顔でいきなり
「お客さん」
と呼ばれて、返す言葉に困ったのだ。そしてその後の
「絵の先生でしょう?」
という問いかけが優衣を驚かせ、絶句させてもいた。
 彼女は著名な画家などではないし、この旅行にはイーゼルもスケッチブックも持ってきていない。今も荷物はポシェット一つだ。宿の女主人には何者なのかを言ってあるものの、あとで触れるとおり、その女主人が人に「あの人は絵の先生だ」と伝えることはあり得なかった。他人が優衣を「絵の先生だ」と思う材料があるとすれば、おとつい、着いてすぐに彼女が女主人と交わした、東京の話題や優衣自身の話…それを立ち聞きする以外にないのだが、でももちろん、そこにこんな少女はいなかったのだ。
 人なつっこそうな瞳で見上げたまま、少女は言葉を継いでくる。
「お客さん。会津若松行きに乗るんでしょう?」
 見事に言い当てられ、また優衣は驚く。たしかに目の前のホームにいる列車は会津若松行きだったが、止まったままなのは、じきに反対方向の列車も来るからだ。さっき、若松行きがもう来ているのを見てあわてた優衣に、窓口を守る初老の駅員が笑って教えてくれた。事実、線路を渡った先の、反対方面のホームにも人の姿が見えるし、この待合室にも他に数人の客が座っている…だから優衣がどちらに乗ろうと、不自然はないはずだった。
「え、ええ…」
「でしょう!じゃあ一緒に会津若松まで行って、絵の描き方、教えて下さい!」
 笑顔を弾けさせながら少女は言って、それからキュッと真顔になった。
「………はぁ?!」
「宿題で、若松の街を描きに行くんですけど…私、絵ってぜーんぜんダメで。お願いします!」
 なるほど、少女の鞄にはスケッチブックらしき四角いふくらみがあるが、しかし声音や語調には無邪気な甘えが漂い、無茶な頼み事をしているという遠慮がまるで匂ってこない。
「えぇ?!ちょっと、あのさあ………」
 客だとか初対面だとかを抜きにしても、内容に無理がありすぎる。列車は会津若松行きだが、そこまでは一時間半の旅路。もちろん優衣の行先はそんな遠くじゃなく、柳津という隣の町だ。
 おとつい、この宮下に着いた優衣は、川沿いの道や高い橋から只見川を眺めて歩き、昨日は町営バスで早戸という景色のきれいな温泉場へ行った。泊まる宿も豊かな緑の中にあって、気持のいい温泉が湧く。優衣はそれなりに満足したが、車がない彼女にとって、町内の行くべき場所はそれで終わりらしかった。
「明日は、どこへ行けば…」
と思いながら迎えた夕食に、ざる蕎麦がついていた。柳津の老舗から取り寄せた逸品だ、と女主人が得意げに紹介する。風呂の帰りに廊下のポスターを偶然目に入れ、その町に小さな美術館があることも知った。蕎麦屋にも美術館にも興味はなかったが、他にあてもないし、とりあえずそこへ…と優衣は考えていたのだ。
「…バカな子ねえ。今夜もここに泊まる客が、はるばる会津若松まで遊びに行くと思う?」
 怒鳴りつけてもいい状況なのだが、少女の言うことが突飛すぎて、怒りよりも困惑が先に立つ。
 加えて、宿から駅までの間に浴びた朝の日射しが、優衣の精神力を早くも奪っていた。寝不足がそれに輪をかけている。人を叱りつけたり怒りをぶつけたりするのは、今の彼女にとって、ひどく面倒なことだった。かたや少女の黒い瞳は必死で、けなげな願い事をする幼子のようにすら見えてくる…。
「…会津若松じゃないと、宿題はダメなの?」
「じゃないですけど、描くんなら、どうしても若松の街が描きたくて…お願いします!」
 必死な一方で、少女の瞳には、うっとりと回想するような色が深々と混じっている。
 それと向き合う優衣は、会津若松の街を知らない。来る時の経由地だったが、駅を乗り換えに使っただけだった。
「若松の街って………そんなに、いいとこなの?」
 その問いを待っていたかのように、少女は一転、満面の笑みになる。
「はい!とっても!」
 都市的な喧噪から逃れるための旅だったから、優衣は、その観光地としても著名な十万都市など黙殺して、まっすぐにこの山奥の町を目指してきた。でも、山奥も悪くはないとはいえ時間を持て余しているのは事実で、柳津にしたって積極的に行きたいわけじゃない。帰りならさておき連泊中に、わざわざ片道一時間半かけて会津若松を見に行くのも変な話だが、行ってはいけない理由はなかった。
「…切符、買い直してくるわね」
 苦笑して優衣が言うと、少女は喜び、ギュッと胸元へ抱きついてきた。優衣は驚いたが、それを振り払う力も湧かない。その場から、四角い待合室の一角…広い木の枠にガラスをはめた窓口を優衣は覗く。しかし今は誰もいなかった。足音に振り返ると、さっき窓口で笑っていた駅員が急ぎ足でホームを降り、手旗やタブレットを持って反対側のホームに渡っていく。
「お客さん、行こ。向こうの汽車が着いて出てったら、すぐ発車」
 少女が手を引いてくる。さからわず、優衣も改札がわりの柵を通り抜け、斜め前で待つ列車の最後尾に乗り込む。と、背中に人の気配。待合室にいた旅の老夫婦や土地の人々らしき客も、全員後に続いてきていた。
「なあんだ、確率論か」
乗る列車を言い当てられた理由を知り、優衣は拍子抜けがした。
 ボックス席の一角を占めた少女に促されるまま、彼女の向かいに優衣も座る。節電も何も冷房装置自体がなく、どこの窓も下段が目一杯に開けられていた。反対方面の列車が出ていくと、今度はこちらのホーム上を駅員がきびきびと往き来する。さっき窓口でのどかに笑っていた駅員の緊迫した動きに、優衣はもう切符を買い直す時間などないことを悟ったが、かと思うと、
「時刻はオーライ・旅客はオーライ・信号オーライ、っと」
節回しのついた、仕事を楽しむような彼の声が耳に届く。続いて小気味よくホイッスルが鳴り、列車は唸りなが動き出した。時計の針は九時十四分。駅を離れて木立の中に入ると、車内に影が差し、そして窓から風が入ってきた。ほつれた髪を丸い額にそよがせ、少女はうっとりと目を閉じる。彼女が進行方向の席を占めているのだ。
「おい…」
 普通はお客様が進行方向だろ、と優衣は呆れたが、でも風は車内前方からも流れてくるし、目の前の窓の風もボックスの中で拡散して、優衣のTシャツを存分にはためかせている。
「東京の電車にだって、走ってる間はびゅうびゅう風が吹きつけてるはずなのに…」
 ジーンズの上でシャツの裾を軽く押さえながら、優衣は窓の開かない東京の通勤電車を回想していた。節電で冷房が弱められた車内の記憶に続き、ここも、そして会津若松も福島県の内であることを久々に思い出す。車窓は深い森と狭い田んぼとを交互に忙しく優衣に見せたが、その速度は東京の電車より明らかに遅かった。なのに窓は、逆向きに座る優衣にすら、シャツの下の肌を時々ヒヤッとさせるような涼気を送ってくる…と、木立が大きく開け、谷間を流れてくるエメラルドグリーンの水面が真下に広がった。
「ほら、川!」
 顔を半分外へ出しつつ、少女が叫ぶ。言われるまでもなく優衣も目を見張る。これだけ山奥なら渓流でもおかしくないのに、只見川はまるで細長い湖水のように豊かな幅を保ち、ごくゆっくりと流れる。水面は深緑ながら透明感を持ち、そして鏡のように両岸の山々を映していた。会津盆地に出る手前まで線路は只見川沿いだが、その流れが深い段丘の下にあるせいで、ここと、もう一箇所ある鉄橋でしかその川面は拝めない。
 二箇所目の鉄橋が終わって森の中に入ると、少女が見開いたままの目でつぶやく。
「いつ見ても不思議…なんであんな、バスクリンみたいな色なんだろ!」
 スケッチはさておき、色彩の捉え方に深刻な課題がありそうだ…バスクリンという表現に優衣は頭を抱え、そして寝不足気味の両目を閉じた。



「ひょっとすると、自分はここで死を選ぶかもしれない」
 そう感じながら優衣は、おとつい宮下の宿で最初の一晩を過ごした。昨夜もそうだった。
 …いつ、どこにいても不安が覆い被さってきて、軽い動悸が四六時中胸を締めつけている。誰と話していても相手の目が気になり、気遣いばかりが先立って苦しい…学生時代から周期的に優衣を訪なう症状だったが、今回のそれは重く、そして春先からずっと続いていた。その症状自体と、症状から来る疲労や寝不足が優衣を蝕み、彼女の気力を奪い続けている。
 幸い彼女は、もともと精神科へ通うことに抵抗はなく、これまでは医者が処方してくる薬で、比較的安楽にその時期をしのいできた。しかし今度は「いつもの薬」がほとんど効かない。
「じゃ、少し強めのお薬出しときますから」
質問も説明もなく処方された薬は、闇取引が時々新聞ネタになる強い抗鬱剤と睡眠薬。二年前に就職し、都内に越してから見つけた今の医者は、忙しさにまかせて機械的に処方箋を書くという感じで、優衣もいまいち信頼できないのだが、土曜の午後にやっている精神科が他になかった。症状が出ている間は、土日は昼過ぎまで体が動かないのだ。
 そして、おそるおそる使い始めたその薬も優衣を楽にすることはなく、かと言ってもっと強い薬をその医者に求めるのは怖い。さらには仕事での人との意思疎通に影響が現れ始め、症状としてだけでなく、現実問題として職業生活の先行きに不安が迫っている。
 夏の暑さと日射し、ひしめく人々に囲まれる通勤の行き帰り、そして震災以来のどこか落ち着きがない世相が、優衣の症状に好ましい影響を与えるはずがない。地獄のような日々が続いた。
 そうした折に彼女は、偶然会った高校時代の恩師に引き留められ、喫茶店でお茶を飲んだ。
「先生。あの…すごい山奥にある、静かな村…そんな場所で、私一人でも泊まれるような旅館があるとこ、どこかご存じありませんか?」
 本当は逃避行を思い立っただけなのだが、風景画を描くという口実を設けて優衣は尋ねた。恩師は美術の教師で、美大志望だった彼女をよく指導してくれ、進学してからも何度か世話になっている。気さくな人柄で、今も優衣に人と話す苦痛を比較的感じさせないのに加え、彼は夏冬の休みになると、旅に出てはどこかの田舎や自然のスケッチを持ち帰ってきていた。
「…そうじゃなあ。あそこはどうだろうかな」
 恩師は火を点けた煙草を一服吸ってから、思い出したように話を始めた。
「すいぶん昔に見つけて、今も一、二年おきに世話になる宿があってな。福島県の…」
「えぇ?…福島って今、メチャクチャになってるとこでしょう?!」
「まあ聞け。福島ちゅうても東西に軽く百キロはある。なんともない場所も山ほどあるんじゃ…ん?信じられんちゅう顔しとるな」
 …そうして只見川の奥にある、優衣が今いる小さな町の小さな温泉宿を教えられた。あてもなく取った、土日から次の土日までの休暇が来週に迫っている。優衣が電話すると、すでに恩師から話が行っていて、女の一人旅をいぶかしがられもせずに予約ができた。
 日曜日の昼過ぎ。山深い車窓を経て降り立ったその土地は、優衣の望みどおりの世界だった。
 涼しい空気。細い道に沿った二百メートルほどの中心集落は、路上や店に時折人影や認めるだけだ。大人は目を細めながら、子どもははにかみ笑いとともに挨拶をくれ、返礼する優衣の顔に忘れていた微笑みが浮かぶ。集落の外側は点在する田畑と草原、そしてあとは山。木立の先に、その山々を映して只見川の静かな水面が広がる。人混み、こもるような都市の暑さ、話しかけなければいけない相手…それらを想起させるものは何一つない。着く前に夕立があったのか、道は打ち水をしたように濡れている。脇の畑で、鈴なりの大きなトマトが水滴を帯びていた。
「うわ、おいしそう…」
そんな感情を食べ物に持ったのも、優衣には久しぶりのことだった。
 しかし、それらを満喫すればするほど、帰ることがより耐えがたく、恐ろしくなった。
 そして帰るべき日は、確実にやってくる。
 日射しが辛いのは相変わらずなのも手伝い、優衣は探索もそこそこに宿を目指す。
 川の流れは、町よりも十数メートル低い。只見川とそれに注ぐ渓流に挟まれた、川面より少し高いだけの場所にその温泉宿はあった。集落の中を歩いているはずが、道が下りになるや緑が濃くなり、「教員住宅」と書かれたアパートを最後に坂の両手は自然だけになって、ほどなく細長い二階屋の組み合わせが下に見えてくる。それが宿で、道はそこで行き止まり。駅から十分足らずの距離だが、森と川しか見えない。
「まあまあ、ようこそいらっしゃいました。女性の教え子さんだとは先生にうかがってましたけど、こんなお若いお嬢さんだなんて…お嬢さんも、絵の先生でいらっしゃるんですか?」
 着物に前掛けと襷がけをした、六十過ぎぐらいに見える品のいい女主人が優衣を出迎えた。
「いえ、私はただの会社員で。絵はもう、趣味で時々描くだけです」
 優衣は言ったが、この春先からは趣味どころではなく、スケッチ一枚描いていない。
「まあ、そうなんですか…あ、靴はそのままで結構ですから、どうぞこちらへ」
 女主人について細長い廊下を進む。途中から外廊下になり、視野が開けた。右手のすぐ先に風呂場らしき、上品な格子戸のついた小さな離れ。人工物は他になく、背後は渓流と山の緑だけだ。
「先生は、お変わりないですか?」
「はい」
「やっぱり、絵をお描きにいらしたんですか?」
「ええ、まあ」
答えつつもウソなのを悟られないかとドキドキして、優衣は左右をキョロキョロ見回している。
「お気に召すような景色があるといいんですけど…なにぶん相変わらずの田舎ですから」
「いえ、そんな…」
 この、外廊下のやりとりだけを切り取れば、優衣が絵の先生なのだと思われても仕方がない。でも、その空間には例の少女はもちろん、女主人の他には誰一人として見えなかったのだ。
 とにかくその宿も、優衣を落ち着かせ、苦痛から解き放った。二階の客室。浴衣一枚で昼日中から畳に寝転ぶ。通り抜ける風と畳の冷たさ。渓流がせせらぐ音の向こうに、蝉の声。ギシュゥ、ギチョッ…湯を汲み上げるポンプが、のんびりとした周期で響く。窓を向いて薄目を開けると、緑の濃淡だけが視界を占めた。
 外廊下に面した離れはやはり風呂で、そこが女湯だった。外廊下を途中で曲がり、格子戸を開けると脱衣所。むやみに広くない、小ぎれいな浴室は二方が開け放たれた大窓になっていて、うち一方に瑠璃色の只見川が望める。最初は熱すぎた掛け流しの湯も、教わったとおりに時間をかけて徐々に肌を沈めていくことで、体の奥へ染み入るような心地よさに変わった。
 他に若干の泊まり客はいたし、日帰り入浴に来る客もいるらしいものの、部屋はもちろん風呂場でも相客と居合わせることはなく、優衣は常に独りきりでいられた。
 だから彼女は、ずっと部屋で寝転んでいたかったし、あるいは湯に浸かっていたかった。
 でも、ずっとそうしていて心が空になると、遠からず戻ることになる日常のことが優衣の頭を覆う。動かぬ体を無理に起こす朝、雑踏と通勤電車、会わねばならない同僚たち…それらが前よりも強く、震えが来るほど恐ろしくなっていた。向き合うしかなかった間は辛いなりに自分をだませていたのが、なまじ解放を味わってしまったからだろうか。
「休暇が終わって、いよいよ帰るしかなくなったら…」
 衝動的に死ぬかもしれない、と、彼女は現実味を持って思うようになった。
 それを紛らわせるべく、とりあえず外に出る。
 死ぬかもしれない、と思っていることの後ろめたさも、優衣に町内を「観光」させた。
「部屋にこもったままだと、旅館の人に怪しまれる」
 半分は図星なだけに、それを彼女は気にしたのだ。本当は、日射しを浴びるだけでも気が滅入る。川の眺めを励みにして坂をどうにか登り、ひっそりした教員住宅を仰ぎ見て通り過ぎ、道が平らになると、そこが集落の一番端だ。たいした坂ではないのだが、そのあたりに着く頃には、すべてが面倒になっていた。今朝、少女に誘われた先が会津若松ではなく地獄だったとしても、言い争うのが面倒なあまり、彼女はそれに従ったかもしれない。
 とにかく外出自体は不本意だったが、行先は悪い場所ではなく、その場その場で気分転換にはなった。しかし町内の見るべき場所は、早くも昨日でネタ切れだった。
 もちろん、テーマパークみたいな代物を求めている訳ではない。たとえば優衣は和風や和洋折衷の古い建築が好きで、そういう建物が自然に息づいている風景があれば、それだけで十分に楽しむことができた。田舎だというので多少それを期待してもいたのだが、雪深い土地のせいか、町中の建物は存外新しい。
 強いてやり残しがあるとすれば、駅前でトマトを買うぐらいだろうか。駅前の木陰に棚がしつらえられ、朝の間、老婆が当地の野菜を売っている。さっき駅に来た時に優衣はそれを見つけ、列車がまだ出ないと聞いてそこへ戻っていくと、「トマト」という値札が見えた。
「あ………」
 着いた日に畑で見た、水滴を光らせる大きなトマトを思って優衣はときめいたが、トマトの籠は空だった。隣のキュウリも同じで、あるのはピーマンや巨大な夕顔など、その場で丸かじりできないものばかり。優衣はそれとなく老婆に話しかけてみる。
「あの…今日はトマト、売り切れちゃったんですね」
「あー、トマトは今が時期だからねぇ、七時には来ねぇと」
 駅まで十分だから、六時半起き。目の前で売り切れているから惜しくてたまらないとはいえ、今の優衣にそれは酷だった。昨夜も不安がさして寝付けず、三時前まで悶々としていたのだ…。



「起きて!お客さん、次だよ!」
 呼ばれて優衣が目を覚ますと、風がぬるかった。胸元に寝汗の感触。たしかに会津若松に着いても不思議はないぐらい眠っていた感覚はあるし、車窓も森どころか郊外の住宅地になっている。でも家はまばらで畑も見え、十万都市の拠点駅が間近という風には見えない。
「もう、終点なの?」
 すでに通路へ立つ少女に、優衣は尋ねる。
「じゃーん!」
 と、少女は片手の畳んだ紙を広げ始めた。紙は座布団ほどのサイズになって彼女の得意げな顔を隠す。会津若松の観光マップ。用意はいいが、いつ手に入れたのか折り目がくたびれていた。
「ほら!終点よりか一つ前の駅の方が、実は街に近いの!」
 幼い声が懸命に言うものの、現在地を指さないので地図は何の役にも立っていない。そこで「七日町に着きます」という車内放送。ゆっくりだった列車がさらに速度を下げ、線路際の家々が急に密になり、優衣は久しぶりに車がたくさん待つ踏切を見た。
 一本だけのホーム。後から高校生が大勢降りてきたが、優衣が車掌と乗り越しの精算をしている間に全員が彼女を追い越し、一番後寄りのさらに先にある駅舎へ入っていった。精算を終えた優衣が見回すと、あの少女がいない。と思ったら、制服集団の最後尾にまぎれて駅舎内に消えようとしていた。
 無人の駅舎をくぐり抜けた向こうで、優衣は立ち止まった少女に追いつく。
「ちゃんと待っててよ!まぎらわしくて見失いそうだったじゃない」
「ごめんなさい…早くね、これが見たくて」
 ペコリと頭を下げてから、少女は自分と優衣が出てきた駅舎を指した。
「スケッチの最初は、これ。ね、素敵でしょう」
 木造らしき白塗りの壁と、緑の屋根。観音開きのガラス窓。屋根には時計台…大正期の洋館といった具合だが、真新しくて、明らかに人寄せのために最近建てた物だ。
 さっき書いたとおり、こうしたレトロな建築は優衣の好みだけれども、しかし彼女は、まがいものは大嫌いだった。
「……………」
 少女は小さなロータリーと車道とを渡り、軒下の陰にしゃがんでスケッチを始める。
 でも優衣は、その「最近建った大正建築」を、照りつける夏日も忘れて見上げたままだった。
「…悪くは、ないわね」
 白塗りの壁は破風に板が組まれていて、途中に割り込む緑色の柱や梁とともに、本当に木造かのようだ。まがいものは普通、タイルやコンクリートの平面にそれらしく色をつけて済ませるのだが、この建物には本物と同じ立体感がある。さっき急いで通った内部を、あらためて優衣は覗き込む。黒っぽい石畳と濃い色の壁を、ほの明るい照明がぼうっと照らし出す。古風で落ち着いた、外装のイメージを裏切らない空間。壁の左手にガラス窓と開き戸があり、中は喫茶店の様だったが、その中も焦げ茶の窓枠沿いにレースのカーテンが束ねられ、木製のテーブルやカウンターが鈍く光っている。エプロンドレスをまとった女給さんでも出てきそうだった。
「ねえ、何してるんですかー?スケッチ直してほしいんですけどー!」
 少女の声を聞き、優衣もロータリーを渡る。ロータリーはヨーロッパの街にあるような石畳。振り返るとそれも洋館の雰囲気によく合っていて、セットで見事な「一つの空間」を作っていた。
「まがいものも、ちゃんと凝れば結構イケるんだ…来て早々、意外な拾い物しちゃった」
 …優衣は連れてきてくれた少女に感謝したけれど、しかしスケッチの指導は難航した。ヘタクソすぎて逆に間違いを具体的に指摘しやすいのだが、アドバイスをしても、彼女はなかなか言うとおりの位置に鉛筆を走らせてくれない。ようやく仕上がった頃には、日陰にいたのに、優衣のハンカチは絞れそうなほど汗を含んでいた。
「お客さん、ありがとうございました。あ、背中!下着透けてるよ!」
「表で大声で言うんじゃない!…それよりまさか、今から色まで塗る気じゃないでしょうね」
「ううん。これからこの道をまーっすぐ歩いて、街の真ん中を通って、お城に行きますよ!」
 少女も額の生え際が汗みずくだったが、元気よく車道の一方を指差した。
「街ぃ………?」
 瓦葺の家が並ぶその道はまっすぐで、遠くにそびえる山まで続いているかに思えたが、目の届く限り、市街地らしきものは影も形も見えない。ということは、どれだけ遠いのか。比較的涼しい宮下でも日射しは気を滅入らせるのに、盆地のこの暑さの中を歩き続けたりしたら、発作的に車に飛び込みかねないと優衣は思った。
 しかも、行先は城だという。城跡の天守閣や櫓ほど「まがいもの」だらけな物はないのを優衣は知っていたし、真贋を抜きにしても、その種の構造物を美しいと思うことはなかった。堀や石垣も、整えられていればいるほど、無機質な人工物という印象を彼女に与える。城の周囲についても、二、三の保存家屋が孤立して点在する他は、模造なのを開き直ったような蔵屋敷風の土産物屋があるばかり…という思い出しかない。優衣は一転、少女に幻滅し、ついて来たことを後悔した。でも振り払って帰る元気もないし、帰りの列車は何時間も先だ…。
「…ねえ。さっき、ちっちゃいバスが来て、駅でぐるっと回って、あっちに行ったよね…」
 思い出したことを優衣はつぶやくや、少女の小さな手提げから出ていた観光マップを奪う。市内を回る観光向けのバス路線が、非常に目立つ色で太く地図上に落とされていた。ここを通り、少女が指した東の方へ向かい、若松城にも行く。三十分おきの運行で、間もなくその時間だ。
「ほら、バスがあるじゃないの。何で言わないのよ」
「だって…」
「バス代ぐらいオゴったげるから、遠慮しないで。ね」
 少女はなおも何か言おうとしたが、見上げた優衣の顔に疲れを察したらしく、口をつぐんだ。
 飾りのボンネットをつけた小型バスの中は涼しく、そしてガラガラと言ってよかった。ベンチ風の椅子が十二、三人分あるだけの狭い車内だが、老夫婦とカップルが一組ずついるのみだ。
「風評被害ってヤツが、まだ続いてるのかな」
 週の前半とはいえ、今は夏休みだ。本来ならいるべき学生や親子連れの分だけ、席が空いている…そんな気が優衣にはした。若い女性のグループもいない。歴史好き、ないし歴史上の美少年好きな女の子にとって、会津若松はこの数年来「聖地」のはずだ。優衣の友人にもその手合いは多く、若松城と飯盛山への「巡礼」に誘われたこともある。ただ優衣にその趣味はないし、さっき書いたような事情から城跡や戦跡にも興味が湧かなかった。
「もしかして会津若松だけじゃなくて、会津宮下のあんないい旅館があそこまで静かなのも……何ともないのに福島ってだけで、本当に軽薄な人たち!」
 そう感じてから、教わるまで自分もそうだったと思い出し、優衣はうつむいた。隣に少女の体が動く感触。彼女は軽く首を曲げては、左右や向かいの車窓をキョロキョロと眺めている。
「そうだ、この子はどこで、私のことを…」
 女主人の孫娘あたりだとして、宿の敷地に三世代が住まっている気配はない。夕食が済んで洗い物の音が消えると、廊下に出ていても声や物音は一切聞こえず、帳場から向こうに明かりは一切なかった。ならば住まいは別ということになるが、女主人が家で客のことをいちいち話題にするだろうか。いや、話題にしたとしても優衣は絵の先生ではないのだ。そう誤解するとすれば、やはり外廊下のやりとりを聞く以外にないのだけれど、そこに少女の姿はなかった。第一、いくらおばあちゃんが好きでも、仕事場だし、それに温泉宿なんて中学生が一人で遊びに来たがる場所ではないだろう。
 率直に「なぜ?」と聞けばいい。そう思って優衣は顔を上げ、向かいの車窓を眺める少女の横顔を見たが、問いかける勇気が起こらず、結局やめた。たとえ子どもだろうと、誰かに話しかけること自体が、今の優衣にはしばしば大仕事に思えてしまう。
 バスが信号待ちのために止まる。優衣も車窓に目を転じた。
「あ………」
 窓や扉に連子をはめた、商家らしき見事なお屋敷。しかも今度は正真正銘の年代物だ。
「うわー……素敵だ」
 それも商家として現役のようで、めぐらせた煉瓦塀の一番端にトラックが止まり、荷物の積み卸しをしている。そこでバスが動き出したが、その後もところどころで、優衣の心を動かすような和洋の古い民家や商店、医院などが現れた。どれも保存家屋ではなく現役で、変に手入れが行き届いていないのが彼女の眼をさらに惹く。
 やがて飲食店などの店が増え、にぎやかになってきた。裏道ながら街の中心部だ。バスは観光向けに回り道をしてきたが、それでもここまで約五分。高い建物が少ないために優衣が見落としただけで、七日町の駅から街は見えていたのだ。その街中でもあちこちで、石造りの洋館や本物の蔵屋敷などが喫茶店や小間物屋として活躍している…。
「…こんないい街を、来る時に私、素通りしてたんだ」
 会津若松という街について「城跡と戦跡で売り出してるらしい」という他に何も知らなかった自分を、優衣はバカだと思った。その間にも、数々の美しい建築が現れては去っていく。
「だったら、バスなんかに乗るんじゃなかった!」
 優衣は歯噛みしたけれど、強く言った手前、今から歩こうとは言いにくい。隣の少女は何を思っているのか、ただ口を小さく開けて、ぼんやりと車窓を見続けている。
「……………」
 じりじりした挙げ句、こらえかねて、優衣は斜め上の降車ボタンに手を伸ばした。
 押す瞬間、その手に、同時に伸びてきた誰かの手が触れる。
 触れた手の主…少女の顔に、優衣と同じ心持ちが露わになっていた。それを隠すみたいにして彼女は、急に照れたような笑みを見せる。
「だから、歩こうって言ったんです。七日町の駅、お客さんも気に入ってたでしょう?」
「…だったら、最初からそう言ってよ」
 答えながら優衣も、にわかに微笑んだ。


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