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虹よりも・・・

 9月24日(土)、「本の杜」なるイベントに出展します(イベントの詳細はリンク先を参照)。
 夏コミでお会いできず、次の文学フリマ(11/3)も行けそうにない…という方はよろしければ。

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 激しい通り雨の後、絵に出てくるような見事な虹が出た。

 それに気づいたのは、空を見たからではない。
 駅ビル沿いにびっしりと固まった人々の群れが、一斉に同じ方へ向けて携帯電話をかざしていたからだ。
ファイル 39-1.jpg
 雨宿りに見えるのは写真がヘタなせいで(汗、雨はすでに止んでいる。
 そして、虹は他の場所からも十分に見える。というより、見るだけなら駅前広場の中央(画面右手)に出た方がより間近に見られるのだが、虹に注目する人全員が撮影上のベストポジションにひしめき、レンズを向けている…。
 便利な時代ゆえの、不思議な光景。
 虹よりもその光景の方が目を惹いたので、虹は記憶に焼きつけることにし、そちらにレンズを向けた。

 人々はカメラのプレビューに満足するや、順に立ち去る。
 どよめきすら聞こえていた割に人々の散りは早く、あっという間に、消えゆく虹を眺めているのは私だけになった。
「きれいだったな…」
 鮮やかな七色の架け橋と、それが少しずつ消えていく記憶を私はその日一杯楽しんだが、風呂でそれを思い浮かべていて、ハッとした。
「写真に撮っていても、自分は消えるまで眺めていただろうか?こうして思い浮かべていただろうか?」
 たとえば旅先での景色や車内の様子、弁当の彩り…写真に撮ることに執着して、そして撮ったことに満足して、じっくりひたることや、過ぎた後の余韻を楽しむことを粗末にしてはいまいか。
 思い返すと、「熱心に取材した」と思った時ほど、いざそれを素に何か書こうとすると、感覚の記憶を手元に引き寄せられなくて苦労する。
 むやみな枚数が残っている物ほど、写真を見ても、その時の暑さや寒さ、触覚、揺れ、匂い、味…そういった事どもの微妙な部分はよみがえってこないのだ。

 ちょっと反省。虹を撮り終えるや去っていった人たちを笑えない。
 今後も写真は撮るとして、とりあえずあの虹は記憶だけにとどめて正解だった。

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