『最後の願い事』作品サンプル




「あんた、あと四十八時間よ」
 その声で目が覚めるや、いきなり金髪の女の顔が目に飛び込んできた。
 僕は飛び起きてベッドの上で身構える。消したはずの部屋の明かりの下に、黒ずくめの女の姿。
「誰だ!」
 僕がそう叫ぶ一瞬前に、女は僕に人差し指を向けてクルッと回した。
「……………」
 気持ちが、急に冷静になった。知らない姉ちゃんが勝手に家に入ってきてるのに、警戒する気が起こらない。横目で時計を見て、今は午前二時だと知る余裕すらある。
「君、誰だよ?」
 問いかけながら、ベッドの横に立つ姉ちゃんを僕は観察する。金髪だけど顔は日本人そのもので、かといってヤンキーという風でもない。威圧するみたいなキツい真顔。真っ黒いドレス。首も体も、軽く組んだ腕もスリムで、組んだ腕のすぐ上に盛り上がる胸のふくらみだけが豊かだった。四年生の先輩…ううん、もう少し上かな。
「私は、死神よ」
 表情を動かさずに、黒いドレスの姉ちゃんは答えた。
 漫画の読みすぎだとしか思えない答え。なのに僕はその答えに妙な説得力を覚えて、あぐらに組んだ足をガクガク震えさせていた。
「はぁ?…な、何言ってんのお前?」
 なんとか自分を奮い立たせて僕は言う。すると姉ちゃんは顔を近づけて僕の両眼を覗き込んだ。
「信じないの?じゃあ今すぐ死なせてあげるわ」
 相手の目つきに魔物のような恐ろしさを感じるや、黒い瞳がみるみる大きくなって巨大な暗闇が現れた。吸い込まれたら終わりだと思ったものの、あまりの恐怖に足腰が立たない…と、いきなり誰かの手が肩を掴み、ものすごい力で僕を真っ暗闇の方へ引っ張り始める…
「やめろ!やめてくれ!!」
僕は必死に手を払いのけて駆け出したが、急に地面が消えて真っ逆さまに落ちて、そこで我に返った。
「……………………」
 床に転がった僕を、姉ちゃんが仁王立ちで見下ろしていた。息が苦しい。恐怖で心臓がバクバク言っている。
「さあ、次は本気であの世に送るわよ」
「分かった…分かったから、やめてくれ…」
「分かればいいのよ。バカね」
 姉ちゃんは勉強机の回転椅子を僕の方に向けると、座って足を組んだ。黒いドレスといっても裾は膝の少し上までしかなくて、しかも裾や袖がメイド服みたいに白いヒラヒラで飾られていた。首にも白のヒラヒラした飾りが巻きついてて、それを黒の細いリボンで結んでいる…よく見ると死神というよりどっかのアニメキャラのコスプレみたいだったが、僕はもう、この姉ちゃんが死神であることを疑えなくなっていた。
「さて。もう一回言うけど、あんたの残り時間は、あと四十八時間だけよ」
 死神の姉ちゃんは、妖しい微笑を浮かべながら僕を指差した。
「…どういうこと?」
「鈍いわねぇー。死神がそう言ってるってことはさぁー…」
 あきれた口調でそう言いながら、姉ちゃんはポニーテールに結んだ金髪をじれったさそうに撫でる。それから急に真顔を作ると、長い前髪を揺らしてグッと顔を近づけてきた。
「あと四十八時間で、あんたは死んじゃうの!」
「はぁ?!」
 ウソだ!……だって僕はぜんぜん健康だし、車やバイクにも乗らないし………
「な、なんでだよ?……ウソだろ?」
「ウソじゃないわ。えーっとねぇ…」
 そこで死神の姉ちゃんは宙でパチンと指を鳴らす。次の瞬間、手が銀色のタブレット端末を持っていた。そのタブレットを長い黒手袋に包まれた両腕で抱くと、姉ちゃんは画面を操作しながら口を開く。
「あんたさぁ、健康診断で『不整脈がある』って言われたでしょ?」
「あー、そういえば…」
 この春、大学に入った時の健康診断でそんなことを言われた。でも勧められて医者にもかかったけど、特に病気は見つからなかったのに…
「…そのせいかどうか知らないけど、あんた、あさっての今頃に心臓麻痺で死んじゃうのよ。あ、いわゆる突然死ってヤツだから、今からあわてて病院行ったって無駄よ。健康ですって言って追い返されるだけだから」
 死神の姉ちゃんが淡々と説明する。とても信じられない話のはずなのに、僕は言い返すどころか、どんどんそれを確実な未来だとしか思えなくなっていった。そんなバカな!嫌だ!怖い!なんで僕だけそんな………僕は姉ちゃんの目があるのも気にせず、身をよじって泣き叫んだ。
「…でも待てよ。コイツは死神なんだから、コイツがあきらめさえすれば僕は助かる」
 泣き叫ぶうちに、その可能性に気がついた。僕は四つん這いで姉ちゃんに歩み寄り、黒いブーツを履いた足にすがりついて必死に頼み込む。
「なあ、なあ…お願いだから何とか助けてくれよ!お願いだよ!何でも、何でもするからさあ!!」
「無理よ」
「そ、そんな!…ケチケチするなよ!!」
「ケチって、別に出し惜しみしてるんじゃないわよ。死神ってのはタダの運搬係で、あんたが死ぬかどうかを決めてるわけじゃないの。だから私にはどうしようもないのよ…ちょっと、どこ触ってるのよエッチ!」
 死神の姉ちゃんはニベもなかった上に、うっかり手を滑らせただけの僕を思いっきり突き飛ばした。
 が、僕が起き上がるや、一転して穏やかな笑顔を向けてくる。
「でもね。あんたが死ぬのはどうしようもないけど、あんたを救ってあげることはできるわ」
「…救って、あげる?」
「そう。そのために私は、二日前にあんたのとこに来たのよ」
 どう思っていいか分からないでいる僕の顔を、姉ちゃんが覗き込む。表情は真顔に戻ったけれど、長い前髪に半分隠れた片目がとても優しい色をしていた。
「まずね、あんたが死んでも、あんたの意識や記憶は、なくならないで残るの」
「…あの世が、あるってこと?」
「そう。こっちでよく言われてるみたいに、先に死んだ人や、後から来る人にも会えたりするのよ」
「……地獄じゃ、ないだろうな?」
「違うわ。とにかく、死んだら体は消滅するし、この世にはいられなくなるけど、あんたは消滅しないし孤独でもないの」
「……………」
 もちろんまだ怖くて仕方がないけど、少し、気が楽になった。
 正直、神様なんて信じてないから、死んで脳の機能が止まったら自我自体が消滅するとしか思えなくて、それが死に対する一番の恐怖だった。
 それから、母親に会える…僕は早くに母親を亡くしている。おぼろげな記憶しかない人だけど、進路や勉強をきっかけに親父と仲が悪くなった頃から妙に恋しくなって、「お母さんがいたら」という思いを募らせていた。死ぬのは嫌だけど、もしそれが避けられないなら、母親に会えるというのは代償として悪くない気がする…
 …でもやっぱり、怖いし不安だし、僕だけこの世からお別れなんて嫌だ……。
「そんなに落ち込まないで。話は、もう一つあるのよ」
 いつの間にか宙を眺めていた僕を、死神の姉ちゃんが向き直らせた。
「あんたみたいに早くに死んじゃう人には、特典があるの」
「特典?」
「そう。あんたの願い事を一つだけ、何でも叶えてあげるわ」
「一つだけ………」
 こういうシチュエーションに備えて考えておいた答えが、僕にはあった。
「分かった。じゃあそれを…」
「百個に増やしてくれ、って言ったら今すぐ地獄に連れてくわよ」
 姉ちゃんが、ものすごい形相をしながら僕の言葉を先回りした。
「話が違うじゃないか!それにお前ついさっき『地獄なんてない』って…」
「そういうセコい願い事をした時点で地獄に連れていくべしってルールを、神様が作ったのよ。そのためだけに地獄も神様が作ったの」
 ずいぶんケチでスケールの小さい神様だな…
「とにかく、百個にしろとか二つにしろとかじゃなきゃ、何でも叶えてあげるわ」
「…何でも?」
「そう。もしあんたが今『こんな世界滅びてしまえ』って言ったら、あんたが死ぬまでに滅ぼせるわよ」
「いやいやいや、そんなこと願わないって!」
 それに近い感情を持ったことはあるけど、そんなことしたら、あの世で七十億人から責め続けられるだろう。
「ふふっ。それぐらいに、何でも叶えられるって話よ。何でもよ。さ、どうする?」
「……………」
 願い事というか、こうだったらなあ…という事はいくつもあって、だから願い事が何でも叶うという話はものすごく魅力的なんだけど、急に言われても頭の中の整理がつかない。
「ゴメン。今すぐじゃなくてもいいのよ」
 取りなすような顔で姉ちゃんが言ってきた。すかさず僕は聞き返す。
「いつまでに、決めればいい?」
「そうねえ…」
 死神の姉ちゃんは立ち上がって、思案顔で部屋の中を歩き始めた。僕は彼女をよけたついでにベッドの上に戻る。そこで彼女が僕を振り向いた。
「目一杯引っ張って、今夜の十二時。でも、なるべく早く決めてちょうだい」
「…分かった」
「じゃあ、とりあえず今は休んで、明日起きたら考えてちょうだい。それじゃ、おやすみ!」
 また指をクルリと回すと、姉ちゃんの姿がパッと消えた。やっぱり死神なんだ…と、あらためて僕は思った。
 寒い。ヒーターをつけてから電気を消して、僕は横になる。
「あさっての今頃に、僕は、死んじゃうんだ………」
 そのことが急に頭の中に大きく広がり始めて、僕は恐怖と悲しみに身もだえした。とても眠れないと思ったけど、でも、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。



「寒っ」
 大学の門を入ったところで、ひゅう、と木枯らしが強く吹いた。一瞬だけ寒さに意識が集中したけど、すぐに気持ちは、目が覚めてからずっと考えていることに戻る。
「最後の、願いか…」
 あさっての未明に自分が死ぬってことは、半信半疑という程度に落ち着いていた…いや、半信半疑よりもずっと強く信じてはいるけど、なぜかそれが心に重くのしかかってこなくて、僕は案外冷静でいる。それよりも…
 願い事が一つだけ、どんなことでも叶う。そのことばかりを僕の頭はずっと考えていた。
 八号館にたどり着いて階段を登って、二限の授業がある教室に入る。
「……………」
 十一月下旬の、土曜日。
 構内には人が少なかったけれど、授業が始まる前の教室には大勢の学生がいた。一人でスマホをいじったりしてる人ももちろんいて、その方が多いのだが、同性や異性の二人連れや、男女が交じった三、四人のグループが楽しそうにしゃべる姿がやけに目につく。
 そして教室の中に、僕が知っている顔はいない。
 僕は、友達や仲間が少ない。あらためてそう思う。
 正直、いろんな人付き合いを抱えるのは面倒臭そうだったから、それでよかった。
 でも一方で、人付き合いの少なさはコンプレックスにもなってきた。人気者とまではいかなくても、ワイワイしゃべったり、しょっちゅう遊びに行ったりする仲間がもっといないと負け組なんじゃないか…連れ立って騒ぎながら歩く男女のグループを見たりすると、そんな気分になる。
「大勢の遊び仲間が、僕も欲しい」
 僕でもついて行けて、ストレスにならない仲間付き合い。男子だけじゃなくて女子もいる華やかなグループ。
 なんでグループの中に女子も必要なのかというと………ぶっちゃけ、女の子と付き合ってみたいからだ。その経験がないのも、正直、コンプレックスの一つだった。
「……………」
 高校の頃に好きだった子や、今の生活で会う機会がある異性を何人か思い浮かべてみる。魅力を感じはするけれど、どう接すればいい仲になれて、その関係を維持していけるのかが分からない。分かったとしても、それはひどく気を遣うミッションである予感がして面倒だった。
 けれども、彼女がいない、いたこともないという状況には引け目を感じる…
「…仲間や彼女を、願い事にしようか」
 一瞬、そう考えた。
 でも、華やかな遊び仲間が今日できたところで、僕は明日一杯でこの世からいなくなる。彼女ができたって、あさってで僕は死んでしまう。それでも一日あるけど、一日だけじゃむしろ未練の原因になるだけだ。もし彼女や大勢の仲間ができるんなら、僕はその状況に胸を張ってずっと生きていたい…
 先生が入ってきて、授業が始まった。
 先生が一方的に話すだけの授業は、今日も退屈だった。ただ、たまに質問が、遅く来て前の方に座らざるを得なかった学生に投げかけられる。質問された方は、先生に質問を繰り返させた挙げ句に、いかにもやる気のない声で「分かりません」と答える。先生は憮然とした顔で答えを言ってから、また一方的な講義を延々と続ける…僕も授業内容を全部理解できるわけじゃないけど、教わる方も教える方もレベルが低いことだけは分かる。
「なんでこんな大学に、入っちゃったんだろ…」
 望んでいたレベルの大学は全部落ちたけど、気になった大学は情報を集めて比較していて、それで、受かった中で一番マシな大学を選んだはずだった。でも入ってみて、授業も就職のためのサポートも、それほどじゃないことが分かってしまった。要領よく自分を売り込んでいい就職にありつく人もいるみたいだけど、そんなに器用なヤツじゃない僕は負け組確定だ。
「それ見い。最初から中ぐらいの大学しか目指さんから、そんな大学しか入れんのじゃ。もう勝手にせい」
 入試の結果が出揃った時、親父はそう言って僕をさげすんだ。大学を決めてもお祝いなんて一切なかったし、僕が東京に向かう日にも、泊まりがけで外へ出たままだった。そんな親父を見返してやる、と思いながら新生活を始めたものの、何も期待できない三流大学と何の面白みもない学校生活が、僕からその展望を奪い去った。親父に対するやり場のない恨みと、自分が負け組だということに対する卑屈な気持ちだけが残った。
「ヘタしたら今のバイトをズルズル続けて、そのままフリーターかもな…」
 最近感じるようになった予感を今日も頭に浮かべたところで、願い事のことを思い出す。
「ぜんぜん別の大学に最初から入ってたことに、人生を書き換える…なんてのも可能なのかな?」
 何でも叶うっていうからには、そんなことだって叶うはずだよな?なにしろ世界を滅ぼすことだって可能だっていうんだから…よし、それを願い事に…
 でも僕はそこで、引き換えに明日限りで死ぬことを思い出した。
「ダメじゃん」
 その願い事の目的は別の大学に行くこと自体じゃなくて、その先にある今よりもマシな将来なんだから。もしそれが叶うんだったら自分の境遇を恥じることはないんだし、だったらずっと生きていたい。
 …あれこれ考えているうちに、授業が終わった。
 この後は昼休み。教室にいた人たちの多くは学食や生協に近い方の階段を目指したが、僕は反対側の、人気のない外階段に向かって歩いた。
「ああ、しんど…」
 朝から今まで考えてきたけど、願い事は見つからなかった。
 教室に入ってから考えたこと以外にも、いくつかの願望を思いついては検討した。でも、仲間や彼女や別の大学と同じように、あさって死ぬんじゃ意味がないことばかりだった。どの願いも、優越感や幸せを味わうために時間が欲しくなるものばかりだった。
 一つだけ、分かったことがある。
 なんで明日限りで死ぬってのに、僕は悲しみや無念さに押し潰されずに、案外冷静でいられるのか。
「…結局、今の僕は、何もなさすぎて失う物がないってことだ」
 しかも、あの世がちゃんとあって、そこは地獄じゃないという。だったら生きてても死んでも大差はないはずだった。肩が落ちているのを自覚しながら、僕はうすら寒い外階段を降りていく。
 その僕の肩を、誰かがつついてきた。
「どう?調子は?」
 振り返ると、死神の姉ちゃんが薄笑みを浮かべていた。部屋に現れた時と違ってマントを羽織っていたが、風に煽られるまま前を派手にはだけさせいて、防寒具の意味をあまりなしていない。
「願い事、見当ぐらいついた?」
「…ぜんぜん」
「ふーん………あ、立ち話もなんだから、とりあえずどっかに座らない?」
 手を引かれるまま一階の空き教室に入って、僕らは通路を挟んで差し向かいに座った。姉ちゃんが足を組んでから指を鳴らす。生協の自販機で売ってる紙コップのコーヒーが彼女の両手に現れた。一つが僕に手渡される。
「あんた変わってるわねぇ。あさって死ぬって言われて、真面目に学校に行く人なんて初めてよ」
 コーヒーを一口飲んでから、死神の姉ちゃんが目を丸くして言った。
「万一間違いだったら困るだろ。今日の授業は出席が厳しいんだ」
「間違いなんてあり得ないわ。あんたは死ぬのよ」
「…他のヤツは、どうやって過ごすんだよ。どんな願い事をするんだよ?」
「そうねぇ…あんたみたいに健康でいきなり死ぬ人は、あんまり扱ったことないんだけど…」
 マントを脱ぎながら、姉ちゃんは淡々と言葉を続ける。
「案外、さっさと覚悟を決める…っていうか、ヤケになっちゃうのかな。だから願い事決めるのも早いわよ」
「で、どんな願い事が多いの?」
「若い男の人だと…やっぱり一番多いのは『金』ね。出してあげたらすぐ外に飛び出して、二日間好き放題しまくってくるわ」
 その答えに僕は失望した。金なら僕も真っ先に思いついたけど、でも結局、最後の願い事にしたいというほどの魅力を感じなかった。アキバで遊んで、好きな漫画を全巻買って読んで、好きなアニメのDVDやグッズを全部買って観て…それぐらいしか思いつかなくて、それが「最後に何でも叶う」の結末だったら悲しすぎる。車とかオーディオとかを欲しがるヤツだっているだろうけど、そんなもの買ったら死ぬに死ねなくなるはずだ。
「その、金で好きなことしまくったヤツらは…満足して死んでったの?」
 僕が一応聞いてみると、姉ちゃんは少し黙ってから苦笑いを見せた。
「お見通しらしいから正直に言うけど、満足はしないわね。未練が湧いちゃって死ぬのを嫌がったりするようになるから、ホントは『金』っていう願い事はこっちは嫌なのよ」
 やっぱり…と思いながら、僕は話題を切り替える。
「金以外は、何が多いんだよ」
「決まってるじゃない。男って言ったら結局コレよ」
 いやらしい笑みを浮かべた姉ちゃんが、卑猥な意味の形にしたゲンコツを突き出してきた。
「そのへんのかわいい女子でも人気アイドルでも二次元嫁でも、誰とでも叶えてあげるし何人でもいいわよ」
 下から覗き込むみたいな角度で僕に顔を近づけて、死神の姉ちゃんは続ける。
「まあ、露骨にエッチだけ頼んでくる人ばっかじゃないけど、でも『勝手にモテまくって、でもってヤりまくりたい』みたいな願い事は人気だし、お金よりは満足度も高いわよ。どう?」
「……………」
 それも考えた。モテたいし性欲だってある。でも誰彼構わずじゃなくて彼女が欲しかったし、その彼女とセックスしたかった。ぼんやりとだけど「この子が彼女でも、いいかなあ…」と時々思う相手も何人かいる。けど、その中の誰かを彼女にできたところで、僕はすぐに死ぬ。彼女がいるっていう状態を楽しみ続け、その優越感を味わい続けることはできない。かえって未練のタネになるとしか思えなかった。
「…あんまり、乗り気じゃないみたいね」
「うん」
「『相手の女がずっと自分以外を好きにならない』っていうオプションつけるのも人気だけど?」
「自分が死んじゃうなら意味ないよ」
 姉ちゃんは不思議そうな顔をしながら姿勢を戻して、腕を組んだ。それから考えるような目で斜め上を見上げたが、すぐに何か思いついたような顔を僕に向けてきた。
「そうそう。あんたを見てて不思議なことが、もう一つあったんだ」
「え?」
「どんな願い事した人でも、親とか、そういう大事な人には必ず会いに行くんだけど…あんたは親に会いに行かなくていいの?田舎、遠いんでしょ?」
「だ、誰が行くか!あんなヤツこそ死ねばいいんだ!!」
 僕は、思わず気色ばんだ。
「何が、あったのよ…?」
 いぶかる死神の姉ちゃんに向かって、僕は今までのことを一気に話し始めた。
 …僕は中学生ぐらいから、プロになりたいと思って漫画を描くようになっていた。だから高校も大学も高望みはしなかった。高望みの必要はなかったし、早いうちから受験勉強に時間を全部取られるのが嫌だったからだ。
 でも、それが親父には、とにかく気に入らなかったらしい。
「いつまで夢みたいなこと言うとるんじゃ!」
 頭ごなしにそう言われ続けたし、原稿を燃やされたり画材を捨てられたりしたこともある。
 夢に近い望みなのは分かってたから、高望みじゃないなりに真面目に勉強もしてきた。でもそれすら親父は理解しようとせずに、時間の使い方から進路選択まで、僕のすることにことごとく反対してきた。だから僕もムキになって漫画を描き続けた。
 何度も何度も喧嘩をした果てに、親父は自分の言うことを聞く弟の方を露骨にかわいがり、僕を露骨にバカにしたり避けたりするようになった。たとえばどんな扱いだったかは、さっき書いた。僕は立派な社会人になって親父を見返してやろうと思うようになったが、これもさっき書いたように、大学に入ってからその展望も消え失せた。親父に対しては、今は恨みだけが残っている。
 そして、漫画も前ほどムキになって描けなくなった。今は「もしいつか商業誌に拾ってもらえたら、ラッキーだなー…」とぼんやり思いながら、入っている漫画サークルの品評会に間に合う程度にちまちま描いている…。
「じゃあ漫画の商業デビューを願い事にしたら?プロになって親を見返してやるつもりだったんでしょ?」
 話を聞き終えた死神の姉ちゃんが、得意げな顔で提案してきた。でも、その願望も検討済みだった。
「却下。どう急いだって載るのは僕が死んだ後だし、僕は死ぬんだから作品はそれ一作きりだろ」
「そりゃ、そうだけど…」
 姉ちゃんは顔を曇らせたが、すぐに切り替えて別の提案をしてくる。
「そうだ。『恨み晴らし系』の願い事も結構多いのよ。そっちにしない?」
「…恨み、晴らし系?」
「うん。たとえば自分をいじめたヤツを殺して欲しいとか、ものすごく不幸にして欲しいとか…それであんたの恨みを晴らしたら?あんたさっき、『あんなヤツこそ死ねばいいんだ』って言ったじゃない」
 言ったけど、親父が死んだって、それで恨みが晴れる気はしなかった。それに今死なれたら、あの世ですぐに顔を会わせることになる。かといって勤めをクビになるとか、犯罪者として晒し者になるとか…そういう不幸の底に親父を落してやろうとすると、どうしても弟が巻き込まれる。兄弟仲は疎遠だけど、弟自体に恨みはない。
 唯一、たぶん親父だけが不幸になって、なおかつ親父を見返してやれるというか、後悔させてやれる方法を僕は知っていた。でも、それはもう望まなくても二日後にやってくる。つまり…
「僕が死んでるのが突然見つかって、それで親父がショックを受けたり後悔したりしてくれれば十分だよ。だから余計に、実家に顔なんて出したくないんだ」
「……………」
 唖然とした、でも何か言いたげな眼で姉ちゃんは僕を見つめたが、やがて割り切ったように表情を変えた。
「ま、別にいいか。私じゃなくて、あんたのことだから」
 片目にかかった前髪を掻き上げると、死神の姉ちゃんは席から立ち上がる。そして飲み残しのコーヒーを一気にあおるや、迫るように上から顔をグッと近づけてきた。
「私は、あんたが早く願い事を見つけてくれればいいの。こっちも忙しいんだから。頼んだわよ」
 僕の返事も聞かずに、そこで姉ちゃんは消えた。
 と思ったら、今度はすぐ前にある教壇の上に現れた。
「忘れてたわ。女の場合だと、『関ジャニの○○君一日貸し切り』とか『キレイになって同性の嫉妬を集めまくる』とか『好きな人を先に取っちゃったヤツに復讐』とかが人気でね、男と違って、みんな結構満足した顔で死んでくのよ。念のために聞くけど…そういうのは、あんたピンと来ない?」
 だとしたらすごく楽で助かる、という表情を姉ちゃんはしていたが、ピンと来るどころかそんな願い事をするヤツの気持ちが全く分からない。僕が首を振ると姉ちゃんはまた姿を消して、今度は戻ってこなかった。

「おう、秋島!」
 学食で、中庭と向かいの建物をぼんやり見ながらラーメンを口に運んでいると、横から名前を呼ばれた。
「ちょうどよかった。こっちで一緒に食おうぜ」
「…ああ」
 結城と相川という、漫画サークルの仲間たちだった。今日はいまいち乗り気じゃなかったけど、話し友達だし断る理由もないから、僕は隣のテーブルへ移って相川の横に座る。
「こないだも言ったけどさぁ、明日のコミティス、秋島も一緒に出ようぜ〜」
 結城が大きな体を曲げて、下ぶくれの丸顔を僕に寄せてきた。
「原稿はあるんだし今からコピー本ぐらい作れるって。秋島がイベント出ないなんてもったいないよ」
 隣の相川も、眼鏡の下のショボショボした目を精一杯見開いて熱心に誘ってくる。コミティスというのは創作漫画の同人誌即売会で、彼らは自分たちの出展ブースに僕も参加するように誘っているのだ。
「明日はやっぱり、ちょっと都合が悪くてさ…」
「えぇ〜、またかよ〜」
「じゃあ本だけ作って預けてくれれば置いてやるよ。よかったら製本ぐらい手伝うからさ」
「……………」
 僕はやんわりと断ったのだが、結城たちもなかなか引き下がらない。前回イベントに誘われて断った時に
「次は出るよ」とつい言ってしまったので、僕も強くは断りづらかった。
「ゴメン。コピー本作る時間も、今日はないんだ…」
 実際、今日はそれどころじゃない。ただ、昨日までの平穏無事な状況でも僕はどうにかして断ったはずで、次の機会があったとしても、この二人のブースに作品を置く気はなかった。
 要は、彼らと一緒にイベントに出たくなかった。結城の漫画は「男も読める少女漫画」と称してローティーンの女の子を主題にしていたが、自分の趣味にもとづく空想だけをネタにして描くので、彼が異性に縁がないロリコンなのをただ披露するだけの作品になっている。相川はラノベ風の長編を目指しているものの、中途半端なところで「つづく」にしては、次はまた別の話を一から始めるのを繰り返していた。一度ブースを手伝ったことがあるけど、当然売れない。そんなブースで一日過ごすのは嫌だったし、僕の作品を並べるのは恥ずかしかった。
「そっかー。じゃあしょうがないなぁ〜」
「でも、次こそ秋島も一緒に出ようぜ。なんなら俺たちの合同本に混ぜてやるから!」
「ああ。ゴメンな」
「いいっていいって」
 話が丸く収まって、僕はホッとした。二人とも話し友達としては悪い相手じゃないし、サークルの中では貴重な仲間だったからだ。
 漫画サークルといっても、ある程度の長さでオリジナルの漫画を描けるのは僕ら三人だけだった。あとの人間はアニメキャラのイラストや短い二次創作を描いてばかりで、しかも大半は落書きに近いクオリティ。そのへんの中学や高校の漫研と変わらない…いや、高校の漫研は女子が中心でまだ華やかだけど、このサークルは男ばかりで「まど★マギ」や「ラブライブ!」のキャラを得意になって描いているという痛い集団だった。
 いや、女子がいないこともないんだけど…
「おーっす!」
 明るいハスキーな声が、そこで僕たちに降り注いだ。噂をすればというか、声の主は江川さんという数少ない女子の一人だった。短く切った髪。色白の、でも活発な少年みたいな顔がニコッと笑う。
「おー、江川じゃん!」
「おっす!」
「おはよう、江川さん!」
 僕も含めて、三人が競うように彼女に反応する。
「おはようって言うな!今日の授業はウチ起きてただろ!」
 カラカラと笑いながら、江川さんはいつもの男っぽい口調で僕の挨拶に反応してくれた。
 江川さんもそこそこの絵が描けるメンバーだけど、「描くより見る方が好きだ」と言う彼女は、描くよりも他のメンバーの作品を見て回ることの方が多かった。見ればその場で、あるいは後から文章で感想をくれるんだけど、誰の漫画やイラストにも「へぇ〜!」と驚き、いい部分を見つけて評価してくれる。そのことと、明るくてボーイッシュな雰囲気とが、僕ら同級生はもちろん、先輩たちからも人気を集めていた。ただそのせいで、数少ない他の女子メンバーからは疎まれているようだった…
「みんな何やってんだ?」
 元気よく聞いてきた江川さんに、とりあえず結城が答える。
「…昼メシ、食ってる」
「んなもん見りゃ分かるって!なんか話してたじゃん。あ、昼間っから猥談?エロ〜い!」
「な、なわけねーだろ!…あ、そうだ」
 結城は体ごと江川さんを向くと、ためらうような間を置いてから厚ぼったい唇を開く。
「なあ、江川さぁ…明日、ヒマ?」
「ん?なんかあるの?」
「…俺たち、明日のコミティスに出るんだけど…サークルチケットがさぁ、一枚余ってるんだ」
「ふーん。それで?」
 江川さんは細身の体を僕らの方へ傾けつつ、わざととぼけるような声を出した。と、盗み見るように目だけで彼女を見ていた相川が、思い切ったように首を彼女の方へ向ける。
「よ、よかったら江川も一緒に、ブースに入ってくれない?」
「そうそう!俺たちのブースなら絶対楽しいからさ!」
「えぇ?でもさぁ…」
 何か言いかけた江川さんは、くりっとした男の子みたいな目を「あれ?」という風に見開いた。その眼が、確かめるみたいに僕らを見回す。一瞬目が合って、僕は胸がドキッとしたが、それをよそに江川さんは結城に向かって口を開く。
「…たしか、コミティスのチケットって三枚だよね?三人いるじゃん」
「あ、コイツは行けないんだって!」
 ついさっきまで熱心に僕を誘っていた結城が、うれしいことみたいに言いながら僕を指差した。その僕を江川さんの澄んだ瞳が見つめてくる。
「秋島君、マジ?」
「…うん。行けないんだ」
 やっぱり行く、と一瞬言いそうになったけど、僕が行けば江川さんは来なくなるから、意味がなかった。
「だからさ江川、行こうよ!俺たち二人だけじゃ困るぐらい客が来るかもしれないし…助けると思ってさぁー」
「コミティス行ってみたいって言ってたじゃん!行こうよ!次は二月までないんだぜ!」
「…でも、一般のお客さんで見に行ったって同じだろ?」
「チケットで入場してブースに入った方が絶対楽しいって!」
 江川さんは戸惑うような顔をしていたが、結城たちは構わずに攻勢をかけ続ける。
「うーん、どうしようかなぁ〜。ウチ明日は昼まで、寝るので忙しいんだよなぁー…」
 化粧っ気のない顔を片手で撫でながら、江川さんは思案顔になる。すっぴんの顔にジーンズ履き。がさつな物言い。飾りっけもクソもないけど、飾る必要なんてなかった。そのままの彼女に僕は、そしてたぶん結城や相川も萌えている。
 行って欲しくない。行かないでくれ………僕は、強くそう願っていた。
 コイツらの誘いを江川さんが受けたら、明日限りで死ぬ僕はもう彼女に会えない。いや会場に行けば会えるけど、僕はブースの外側にしばらくいられるだけで、でも結城たちは一日中すぐ近くで彼女と一緒にいられる…
「…じゃ、行ってみようかな」
 しかし江川さんは、いかにも気軽な感じで行くと決めてしまった。なんてこった。誰にでも明るくて優しいにも程があるよ江川さん…
「やった!ありがとう!」
「じゃあ、さっそく打ち合わせしようよ!」
 結城が歓声を上げ、相川は僕に背中を向けて江川さんに椅子を勧める。
 と、彼女はすまなそうな顔をして相川の動きを止めた。
「あー、悪い。ウチこれから夜までバイトなんだ。後でラインで集合だけ教えてくれる?」
「ぜんぜんオッケー!」
「あ。ちょっと待って!とりあえず…」
 相川はあわてて足元のリュックを拾うと、小柄な体を大仰に動かして中を探り、やがて何かを彼女に渡す。
「これ、サークルチケット。明日、入口でバタバタするといけないから」
「サンキュー。じゃ、後でなー」
「了解!」
 短い髪を揺らしながら、江川さんの後ろ姿が小走りで遠ざかる。細身で何の飾り気もないけど、薄いセーターの腰からジーンズの腿にかけてのラインは女の子のそれだった。彼女はたしかに女の子で、僕は彼女をかわいいと思っている。でも、僕はもう彼女を二度と見られない…
「じゃあ、俺たちも行くかぁ」
「秋島、お先に。次は俺たちの本に原稿描いてくれるよな!」
 僕は二人に挨拶を返したが、すぐに二人の後ろ姿から目をそむけた。
 嫉妬とせつなさで、死にそうなほど胸が苦しかった。
 誘いを受けたからって、江川さんが結城たちや彼らの作品に惹かれてるわけじゃないのは、理屈では分かる。
 そして、仮に彼女が断ったとしても、だからといって僕が明日彼女と一緒に過ごせるわけじゃない。
 けど、だけど………
 江川、綾さん。
 時々ぼんやりと「この子が彼女でも、いいかなあ」って思うことがあった子の中の、一人。
 でも今の僕は、江川さんと…他の誰かじゃなくて江川さんと、綾と一緒にいたくて仕方がなくなっていた。
 彼女がいるという優越感が欲しいんじゃなくて、綾が欲しい。綾を僕の彼女にしたい。そして、そうなってから綾を抱きたい………
「…そうだ。何でも叶うんだった」
 でも、すぐに引き換えの条件を思い出して、僕はそれを願い事にしたものかどうか迷い始めた。


★サンプルはここまでです。これより先は、単行本『最後の願い事』にてお楽しみ下さい!


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