『あれ』――――― 割れ鍋に、閉じ蓋
すっ………するっ、するり………ぱたっ。
宵の口から五、六時間続いた静寂が破られた。
はす向かいの和室で、『あれ』が、面倒くさそうに夏布団から抜け出す音。
嫌悪が、水に一滴垂らしたインクのように、うっすらとだが、みるみるうちに頭を染める。努めてそれを打ち消しながら、私はふたたびキーボードに向かった。
秋の夜長。風が、とっくに季節外れになった居間の風鈴を、ちん、と、一つだけ鳴らす。
「…おはよう」
廊下の向こうの、これまた季節外れのスダレごしに、『あれ』が、起き抜け特有の間が抜けた声を出す。
………日が落ちた頃に
「ちょっと昼寝するわ」なんてバカ言ってから、何時間経ったと思っているのよ。しかも、こっちが頭を痛めて土曜に一日仕事してるのに、あんたは一杯やりながら夕方まで、本を眺めたりネットサーフィンをしたり………私は『あれ』の挨拶に返事をせず、ちょっとだけキーボードの手を止めて、そしてまた指を動かし始めた。何か次の言葉がかかりやしないかとドキドキして、自分の指が奏でるカタカタという音が少し大きくなってるのが分かる。
でも、いつも通りにしばらく沈黙が続き、その後で『あれ』が布団の上を歩く音と、廊下と違う側の襖を開ける音が聞こえただけ。
「はぁ………」
あきれているのか安堵からなのか自分でも分からない、そんなため息が私の口から漏れた。
ソースを打ち込んだメモ帳を閉じ、FTPを立ち上げ十数回目のアップロード。ブラウザを開き、すでにコピペより打ち込む方が早くなっているアドレスを打ち、エンターキーを叩く。
「………ダメか」
思わず声に出して落胆と苛立ちとを必死に受け止めていると、だしぬけに『あれ』の声がした。
「???ってくる」
すっかり頭に血が昇っていて、『あれ』が廊下をこっちへと歩いて来るのすら気づかなかった。おまけに『あれ』は寝起き状態を脱していて、普段のよく通る太い声で急に言ってきたから、私はびっくりして、言葉の内容を聞き取るどころじゃなかった。
「えぇ?」
思わず顔を上げて聞き返した時には、『あれ』はもう私の部屋の前を通過し終え、玄関でサンダルを探る音を立てている。
「買い物、行ってくる」
聞き返すまでもなく、お決まりの用向きだった。一年ほど前に近くのスーパーが深夜営業を始めてから、『あれ』は土曜の夜中になると出かけていき、値引きシールが二重三重に貼られた魚の切り身や豆腐などを両手に提げて帰ってくる。
サンダルをつっかけ、つま先を三和土でポン、ポンと叩いて足を入れる音から、ずんぐりした『あれ』が、Tシャツに甚平さんの下という起きたそのままの格好で出て行く姿が容易に連想された。あっさりした服装と言えばそうだけれど、もう十月。涼しくなってからそういう格好をされると、かえってむさ苦しいというか、オヤジくさい。まあ、三十代なかばの男にオヤジくさくないのを要求するのも、わがままかもしれないが………ドアが開く気配、敷居をまたぐ足音。屋内の空気が軽く吸い出され、遠くで風鈴が、チリン、リン、と揺れた。
バタン、とドアが閉まるのに合わせて、あまり気持ちの良くない振動が椅子を介して私に伝わった。そして、パタッペタッパタッ…と、図体に似合わず早い足音がマンションの廊下に消えていく。ドアを開けた時に動いた空気が、家の奥からタバコの残り香を運んできていた。
「……………ぐはぁ」
何も聞こえなくなると、私の全身から力がぐうっと抜けていった。
招かれざる客が帰ったような安堵の一方で、タバコの残り香が、『あれ』が客ではなくて、ここに住んでいる人間だということを思い出させる。居室にタバコの匂いが入ってきたこと自体も憂鬱だ。私は非喫煙者の中ではタバコの匂いを気にしない方だが、それでも吸わない限りいいものじゃない。
そして、今している仕事。スクリプトの中身は今度こそ完璧なはずだった。これでまだバグが出るとなると、根本的な部分から考え直さなくてはならない。ふたたびソースを開くどころか、もうディスプレイを見るのも嫌だ。
私は窓を少し開けると、眼鏡を外し、ごろん、と、じゅうたんの上に横になった。
さして暑くもない日にじっと机へ向かっていただけなのに、寝転がりざま、部屋着のシャツから汗の嫌な匂いがふわりと伝わってきた。『あれ』はこの匂いをよく「いい匂いだ」って言ってたっけ。何考えてるんだろ、変態だ………まあ、あくまでも一時期とはいえ、裸で隣に寝ながらそのセリフをうっとりと聞いていた私がいたことも、事実なんだけど。
「こんなはずじゃ、なかったんだけどな…あの頃はそんなこと、想像もしなかったっけ」
『あれ』と一緒に暮らし始めて、かれこれ三年になる。いや、単に住まいを同じくしているという事でいうと、もう五年を過ぎた。二十代前半だった私が、来年にはもう二十代と名乗れなくなっている。
私は家賃の節約のために、『あれ』は住宅ローンの負担軽減のために、ルームシェアを取り持つ電子掲示板を覗いて出くわしただけの赤の他人。同じ3LDKのマンションに住みながら、基本的にはそれぞれの居室にこもり、食材や料理も適宜共有はするものの、たいていは食べたい時に一人で食べる。ただ、お互い聞きたいことや見てもらいたいことがある時だけ相手の部屋を訪ね、時にはそのまま雑談………一人になれて、なおかつ必要な時には話相手がいるという、実に快適な下宿生活が続いた。
下宿人と大家の関係が「彼女と彼」に変わった頃、さらに幸せになった、と思っていたのはもちろんだ。
ただ、街中でベタベタくっついて歩く二人連れが描いていそうな甘い幻想は、始めからみじんも持っていなかった。それどころか、自分が他人にそこまで近づき、深い間柄になっていることすら、今も冷静に考えると不思議でしょうがない。
なにせ私は当時も今も、仕事であり趣味でもあるウェブやゲームのプログラム―――データの世界でいろんなデザインや新しい仕掛けを考えて実行すること、それ以外にほとんど興味がない。ベランダにはレモングラスやタイムの鉢があり、時には薄紫のアロマキャンドルを灯したりするけれども、夢中、というレベルまで行ったことがあるのはHTMLやCGIの世界だけだ。いわんや人間をや、いわんや異性をや。社会に出た時点で仕事とは別に毎日五、六時間、自宅で仕事をするようになってからは起きている時間のほとんどを机のパソコンの前で過ごしてきた。チャットやメッセで話したりオフで会ったりするのも、同じような仲間たちばかり。
かたや『あれ』の生活は、県税事務所とかいう役所の仕事、それと、旅に出て写真を撮ったりそれをもとに旅行記を書いたりすることだけで埋められてきた。『あれ』の部屋には今も機材や書籍がいっぱいに積み上げられ、机と、体を横たえるスペースだけが空いている。私の領域であるウェブサイトやゲームには、『あれ』の得意分野である絵の構図や文章のセンスが必要だったし、一方で『あれ』は自分の領域のためにサイトを持ち続ける必要があった。
その意味でも私たちは、最初からお互いを必要とした。
必要とする中でお互いのすごさに気づかされ、惹かれ合った。
分野は違えど、私たちは似たもの同士だった。
「……………」
一つだけ違っていたのは、私は仕事と趣味で自分の時間を一杯一杯に埋めていたけれど、『あれ』はもう少しのんびりしていたことだ。
毎日定時上がりというわけじゃないみたいだが、通勤を含めた仕事の時間は、明らかに『あれ』の方が私よりも短い。帰宅後も、私みたいに毎晩遅くまで夢中になるわけじゃなく、たいがいは『あれ』の方が早く寝ていた。そして今日のような休日も、撮影行やサイトの更新作業などで埋め尽くさず、横になって本を読んだり昼寝したり、果てはまっ白な紙を広げたまま長い間ぼーっとしていることも多かった。それは今に至るまでずっとそうで、撮った写真の整理やアップロードが何ヶ月も後になろうと、紀行文が何ヶ月も途切れようとお構いなしだ。
暇をしている分、料理や掃除、買い物は最初の頃から『あれ』がすることが多かった。私も家事は苦手じゃないけど、なにせ自分の事に夢中でついつい後回しになり、そのまま忘れてしまう。特に、買い物とご飯を炊くのと洗い物とは、結果的にほとんど『あれ』がやってくれている。
ただ、『あれ』は食材の残りや食器のたまり具合とは全く無関係に、やたらに買い物や洗い物をする。安いものを思いつきで買ってくるから、私も『あれ』も食べられないまま、安物買いの銭失いになっていることも少なくない。
やってくれている、というより、趣味の作業や持ち帰りの仕事に飽きた時に、それらから逃避するためにやっているようだ。
だから『あれ』の家事は、何回言っても同じ失敗ばかり。
「ちょっと、ご飯炊けたら混ぜないと固まっちゃうじゃない。それに、底の方がこげちゃうし…」
「あー………そう、だなあ」
しかも、同じ事を繰り返す。
けれども、がっしりとした大の男に、叱られるのを待つ子どもみたいな神妙さで、そのくせどこか間の抜けた返事をされると、かわいらしいというか笑ってしまうというか、とにかくムッとした気持ちがぶつけにくくなり、やがてどこかへ飛んでいってしまう。時には、前より気分がよくなってしまうのだった。
今の間柄になる時に、それを持ちかけたのも、時間と気持ちにゆとりのある『あれ』の方からだった。
私は高校生の頃から興味の対象は一つだけだったから、異性が好きとか嫌いとか、そういう話は思いもよらなかった。むしろ、うざったくて嫌な話題。作るサイトやゲームの傾向のせいで、同好の仲間たちも似たような同性ばかりだったから、余計にそうだった。
「………親を黙らせるために、ちょうどいいからよ………それでも、いい?」
私のその返事は、もちろん半分は照れ隠だったけれど、もう半分は本音だった。当時の私の年で独身なんて普通だったのに、何年も実家に顔を見せなかったのが災いしたのか、田舎の両親が見合いをしろの何だのとうるさかったのだ。もちろん私にその気はない。だから「決まった相手と同棲している」と言える立場は願ってもないし、『あれ』はお堅い役所勤めだからそのツールとして最高だ。現に、あわててやってきた両親は『あれ』に平伏するようにして帰っていった。
一方、『あれ』の方も、
「うん。親がうるさいのはこっちも同じだから、それも考えてるよ」
実に好都合な、気がねを感じさせない返答をくれた。
でも当然、そういう相手を、それも生まれて初めて選ぶのだから、打算だけじゃない。
『あれ』の見た目や振る舞いはスマートじゃないけど、たとえば、私のたわいのない質問にも、あれこれ調べて一生懸命答えてくれる姿はうれしかった。
それから、私が落ち込んでいる時。親や友人は
「机にかじりついてばっかりだからよ…外に出るとか、何か趣味を持つとかしなよ」
などと無理難題を言ってくるけど、『あれ』は何を提案してくるでもなく、私の気が済むまで、じいっと話相手になってくれるのだ………『あれ』は、「パソコンに向かってばかりの私」をそのまま認めてくれる、初めての他人だった。
「…でも、向こうはどうなんだろう。こんな私で、本当にいいんだろうか」
度の強い眼鏡の底にしょぼしょぼした目があって、化粧っ気もなく、無造作に髪を束ねたっきりの私。どんな関係になろうと好きなことをセーブして尽くす気なんかないし、それは嫌と言うほど伝わってるはずだ。公務員なんだから、お見合いでもすれば、もっと奥さんらしい人がいくらでも捕まるだろうに…。
「君は間違っても、ご飯作って待ってたりなんてしないだろ…そういうことされると、こっちも好きな事ばっかりしにくくなりそうで…だから、君みたいな人を待ってたんだ」
これぞ運命の出会い…そう思った。決して打算だけじゃなく、そんな『あれ』を私は好きになった。
私は軽い空腹を覚えて、じゅうたんから起き上がる。廊下の灯りをつけて奥へ進み、炊飯器の蓋を開けた。
ふわっ、と湧き上がった湯気が去ると、炊き上がったきり放置された、平べったいままのご飯が現れる。みるからに固そうだ。
「また………」
昼過ぎに炊き上がりを告げるブザーが聞こえていた。すぐ隣の部屋で暇そうにしてて、いったい何やってんだろう…すっかり固まってしまったご飯をかき混ぜる。しゃもじが重く、土でも掘っているみたいだった。
「ふう…」
手で額を拭いながら、もう片手で流し台の洗いかごにある茶碗を探る。
「痛っ!」
指先に、刃に触れる激しい痛み。あわてて手を引っ込めて、洗いかごに顔を近づけ、流しの薄暗い蛍光灯を頼りに目を凝らす。眼鏡を置いてきた。自分の近眼がうらめしい。
「もぉ……だからさあ……」
包丁が、刃を上に向けて斜めに洗いかごへ突っ込まれていた。痛みが走った指先を見つめる。指の腹に、ぷちっ、と赤くなっているところがあったが、幸い傷にはなっていない。
「包丁だけは洗ったらすぐに拭いて、しまってよ!」
これも、何度も注意している。
「ごめん………でもさあ、すぐ手に取れる様にしといた方が、使いやすくない?」
真顔でバカな答えをしてくる『あれ』に思わず苦笑してしまって、今まではそれで収まってきたけれど、今は本気で腹が立つ。
結局、空腹すらどうでもよくなってしまって、パチッ、と隣の居間の灯りをつけ、疲れた体をフローリングの床へゴロッと横たえた。
窓越しに、ベランダのコンクリートが見える。風鈴が、今度は目の前の頭上で、チリン、リン…と鳴り響く。これもつい先週、『あれ』が引っ張り出してきた。
「鈴虫みたいで、いいだろ?」
いいもんか。寒い。十月に何考えてるんだ。私は寝たまま手を伸ばし、ベランダのガラス戸を閉めた。
少し遠くで、キキィッ、という車のスリップ音が聞こえたきり、後は静かだった。
私は目を閉じた。連日の寝不足ゆえ眠気は常にあるが、たぶん眠らないし、仕事を進めなければいけないので眠るわけにもいかない。
『あれ』ののんびりした、適当な行動に苛立ちを覚えるようになったのは、いつ頃からだったろう。
いつも一緒、何でも一緒…なんて願い下げなのは、昔も今も間違いない。だから、『あれ』が私と全然別のペースで全く別の事をしていようと、いっこうに構わなかったはずだ。『あれ』は相変わらず役所勤めを続けていて、おかげで私は、入居以来の決して高くない額の家賃さえ出せば、この家で自由に暮らせる。話を求めれば答えてくれるのもそのままだし、私が大人になって機会は減ったが、こちらが話したい時には話を聞いてくれる。
「でも」
宵の口から惰眠を貪る『あれ』にイライラし、『あれ』の残していった毎度おなじみのミスに本気で腹を立て、
「出てけっ!」
と叫びたくなっている自分が、現にここにいる。今だけじゃなくて、家で双方が起きている間じゅう、私は、私と時間やペースを共有せず、何かに夢中になることをサボる『あれ』にイライラしている。
私は左右にゴロンゴロンと寝返りを打ち、『あれ』について考えるのをやめようとしたが、そうすると今度は、やはり今は考えたくない仕事についての思案が迫ってくる…。
「あーっ、もう……」
結局『あれ』のことを考えていく。
いつ、それをやめたのか忘れてしまったが、付き合い始めてしばらくの間、
「ああ見えて、実は私が注意を払っていないところで、私と同じに、好きな事に明け方まで熱中して…」
と期待していたのを、私は思い出した。
写真にしろ旅行記にしろ、好きならもっと、家事とバランスを取りながらなんかじゃなくて、そう、私みたいに、毎日空が白むまで夢中になっていいはずだ。仕事も「やりがいがある」と言って色々なエピソードを聞かせてくれたけれど、もしそうなら私みたいに、もっと遅くなってもいい。
けれども、一年経っても一年半が過ぎても、十五分机に向かっては洗い物を始め、ちょっとカメラをいじっては買い物に出かけ、食材と一緒に買ってきたビールを飲みながら雑誌や本を眺め、やがて寝てしまう…そんな『あれ』が、毎日毎日いるばかりだった。
私が好きなら、なんで………なんで私と、夢中になることを共有してくれないの。
「!」
そこまで考えた時、急に視点がひっくり返った。
「『あれ』ってつまり、『普通の大人』じゃん」
…そして世間の常識では、私の方がパソコンオタクのダメ人間だ。
もちろん分かっちゃいる。でも、そんな私と似たもの同士だった『あれ』を、私は好きになったのに…。
「…結局、『あれ』も…私をきっと、笑ってるんだ………」
そう感じると、話を聞いてくれたり質問に答えてくれたりする『あれ』の態度も、要は子ども扱いなのかと思えてくる。結局、私が『あれ』に見てきたのは………幻?……………嫌!そんなの嫌だ!もうちょっと、もうちょっと待ってみたい………三年も待って、そんなのひどすぎる……………でも、これ以上何かが出てくる可能性なんて、ある………?
プルルルルルルルルルルル!
「!」
突然、共用玄関の呼び鈴が鳴った。マンションの入口には、オートロックの扉がある。
…こんな夜中に、誰だろう?『あれ』はもちろん鍵を持ってるし、友人や親なら電話で済む。宅配便?…まさか。思わず見上げた時計は一時前を指している。
居間に寝転んだ時に聞こえた、車のブレーキ音が、ふっと頭をよぎった。
「ひょっとしてあの音………まさか………」
私は床から飛び起きて、部屋の隅にあるインターフォンにかぶりつく。
…白黒のモニターに、困り笑いをしている『あれ』が、大きく写し出されていた。
「なあんだ…」
首から上が画面いっぱいにアップで写り、顔の端がレンズの作用でゆがんでいる。そんなに近づかなくても写るって、何度も言ってるじゃない…。
私は大きく息を吐き、そして、『あれ』の用件を大方予想しつつ、受話器を取り上げた。
「なに?」
「あの、俺だけど」
見れば、分かる。おまけに声が不必要に大きく、びんびん反響しているのが聞こえる。
「鍵忘れて出てっちゃってさあ………開けて」
買い物袋を提げたままの手で、短く刈った頭の後ろを掻き掻き、しょげたような、照れ笑いみたいな顔をする『あれ』。ご飯を放ってあるのを注意した時に返ってくる、あの表情や口調とそっくり同じだ。思わず、でも務めて静かに笑いつつ、私はオートロックの解除ボタンへ手を伸ばす。
「あ!それから…」
モニターの向こうで、『あれ』が表情をあらためながら口を開けた。
「ん?」
「言い忘れてたけど、君さ、洗濯物干したままだよ!」
「声が大きいっ!」
解除ボタンを力一杯ぶっ叩きながらベランダを振り返ると、言われたとおり、カラカラに乾いた洗濯物が夜風に揺らいでいる。朝に干したきり、完全に忘れていた。さっき外を見た時は、横になってたし。
「そうだ、干す時も………」
洗ったのは前の晩で、今朝、やっぱり『あれ』が洗濯機をのぞいて教えてくれるまで、ずっと忘れてた。それ以上ほっといたら、匂いがついて洗い直さなきゃならなくなるタイミングだった…もちろん私のことだから、今日だけじゃない。
洗濯物だけのことでもない。時々包丁が突っ込んである洗いかごには、かわりに必ずお椀がある。まだ食材があるのに買い物してくるおかげで、冷蔵庫を開けた時には必ず何かある。私が最後にトイレや台所を掃除したのは、いつだったっけ………私がいつもし忘れていること、していないことをする、『あれ』…。
「…もし二人とも私みたいだったら、この家も、私もメチャクチャだ」
ベランダのガラス戸を開けながら、私は心の中で自分の頭をコツンと叩いた。
したいからしてる部分もあるに決まってるし、やることは決してスマートじゃないけど………私のために、ううん………えーっと、独り言でも、こんなこと言うのは照れくさいけど、
「『夢中になる私』に、夢中になってくれてる…」
夢中になる私を、『あれ』なりの方法で認めてくれている。
そう思いたい。違っていても、あえてそう思っていたい…。
そこで『あれ』を思い出そうとすると、さっきの、ゆがみながらモニターの画面を埋めるしょげた顔が大写しで浮かんだ。
「プッ……ククッ……………キャハハハハハ!」
吊ってあった洗濯物しまいながら思い出し笑いを始める私。やがて声が反響しているのに気づき、私はあわてて笑いを引っ込め、ガラス戸を閉める。
もちろん、もうイライラしてはいない。
今、パソコンの前に座り直せば、めんどくさいソースの検証を何とかやり遂げて、そしてスクリプトを完成させられそうな気分だ。
部屋に戻って眼鏡をかけ、落ちてしまっていたパソコンの電源を入れ直す。
「…たぶん、『あれ』はやっぱり、私にとって大事な人だ…きっとそうだ…」
パソコンがカリカリと起動音を奏で始めた。私は座って目を閉じ、先週もその前も、さっきまでみたいに『あれ』にイライラして、そして今と同じ結論になったのを静かに思い出していた。
やがて起動音に混じって、『あれ』の小刻みな足音が外廊下から聞こえてくる。
「『夢中になる私』に、夢中になってくれてる」
そう思ってるってだけで、確信はない。週が明けて疲れが溜まってくれば、必ず私は、また『あれ』に向かってイライラを募らせ、猜疑の目を向けるんだろう。そして、その時にまた同じように信じられるかどうかは、分からない。
でも、分からなくても、今は玄関のドアが開いたら、優しくハッキリと『彼』に言ってあげたい。
「おかえりなさい」
(完)