暮 れ て ふ た た び  年末、あるいは、暮れも押し詰まる、という言葉には、あわただしい、忙しいという響 きがある。だがこの頃は三十日ともなると、場所にもよるが、街は静かだ。会社が次第に 官庁と同じ様な年末休みをする様になったし、何より正月から店が開いているから、日用 品をあわてて買いに走らなくてもよくなった。  特に、八百八寺、と言われるこの京都の街は、むしろ正月三が日の方が賑やかである。  「あれ、ともちゃんがおる」  寮の玄関で、歩が声を上げた。  壁の一角に名札がずらっと掛けられていて、外出時は本人がこれをひっくり返して裏の 赤文字の方を向けておく、というのがこの寮のルールだ。都合二百人近い寮生がいるが、 時期が時期だけに名札のほとんどが裏返っていて、「滝野智」という黒い文字は、嫌が応 にも目立った。 「東京に、帰らへんのやろか」 それはお前も同じだろう、と言われるかも知れないが、歩はこちらがホームグラウンドで あり、両親が帰阪して来るのを親戚の家で待っている。ちょっと忘れ物を取りに来て、と もの札を見つけた次第だ。  冬晴れの陽が差し込む廊下を進みながら、歩はともの事を思い出している。  てっきり一人だけで関西へ戻るものだと思っていたら、ともが関西の、それも自分の第 二志望と同じ大学を、やはり第二志望で受けると聞いた時はうれしかった。  もちろん、結果としてともと同じ大学へ行くと決まった時は、もっとうれしかった。  ともにしても同じ事で、どちらからとなく同じ寮を選び、休みのたびに京都の街や、時 には大阪や神戸へ、二人で遊びに行った。 「地元やのにうまいこと案内できんで、どっちが連れてるのか分からんかったな…そう言 えば、私に大阪いうあだ名つけたのも、ともちゃんやったっけ…」  今はもう、ともと二人の時にしか聞かなくなったあだ名を歩が思い出したところで、彼 女はともの部屋の前に着いた。  明かりは消えている。しいんとしていて、人の気配はない。 「…札をひっくり返し忘れただけかも知れんなあ…」  と、歩が立ち去ろうとしたその時、扉の向こうからかすかに声がした。 「………よみ……」  それは間違いなくともの声だったが、ついこの間までのともからは考えられない様か弱 い声音に、歩は胸騒ぎを覚えた。 「ともちゃん、どしたん?!なあ?!」  歩が扉をノックして呼びかけるが、ともは出てくるどころか、返事もしない。歩がたま りかねて扉を引くと、鍵は開いており、薄暗いともの部屋が彼女の視界に飛び込んできた。 倒したゴミ箱の中身が畳に散り、饐えた様な匂いがした。  ともは、胸元から上を掛け布団から出して、伏せっていた。歩に気づき、顔をこちらに 向けたが、目はうつろで、顔はやつれ、死人の様に青白かった。 「ど、…どしたん!!」  ともの変わり果てた姿に歩は大いにあわて、靴のままともの枕元に駆け寄って、布団越 しに彼女の体をゆすった。 「……あ、大阪…」 「ともちゃん、大丈夫か?!」 「………よみが、…いなくなっ…ちゃった。」  ともはけだるそうに、それでも懸命に歩を見つめてそれだけ言うと、がくっ、と顎を下 げ、目を閉じた。 「と、ともちゃん、ともちゃあん!!」  歩は狂ったようにともの体を揺さぶり続けたが、ほどなく自分ではどうしようもない事 を悟り、玄関に向かって廊下を走り出した。  歩は、あらためて、より最近のともとの事を回想していた。  そう言えば、一月近くともちゃんと会ってなかった…。休講が多かったもんやから、さ っさと吹田のおばちゃん家に行って、回数券で大学通うてたもんな。…あ、その前の日や! 掃除してたらともちゃんが来たがな!!…今考えたら、上がりもせんと、えらい無口で… 何か変やったで……あれが、何かのサインやったんか?!………  歩が、親友の大事な変化を見落としていた事に気づき、自分を責め始めようとしたその 時、彼女の足が玄関にたどり着いた。  玄関の受付には、無精ひげを伸ばしてどてらを羽織った三十男がいた。 「せ、先生!」 と、歩はその男に呼びかけた。 「あれ、春日ちゃん。早くに帰ったんやなかったか?」  いぶかる『先生』に、歩は手短に事情を話し、救急車を呼んでくれる様に頼んだ。  『先生』は、二つ返事でくわえタバコを灰皿に置き、黒電話に手を掛けたが、 「あ、『しっぽ』はんがおるわ」 と言い、黒電話から手を離して携帯電話を取り出した。 「…ああ、ワシや。滝野君っておるやろ、そう、一番隊の屯所のトイメンにおる一回生の 女の子な。そこへな、道具持ってこっそり来てもらえへんか…」  電話が終わると、『先生』は受付から出て、一緒にともの部屋に行こうと歩を促した。 歩の顔に、ほんの少し安堵の色が浮かんだ。  『先生』と言っても、大学の先生ではない。ここの寮生、すなわち学生だ。大学を二回 出た後どこかの高校の教員になり、同時にそのまま三度目の学生生活に入ったというもの 凄い経歴の主で、寮生活は十年とも十五年とも言われる。それゆえ『先生』という呼び名 は教職ゆえではなく、時代劇で用心棒を『先生』と呼ぶノリで付けられた様だ。  この『先生』と、いましがた先生が呼んだ『しっぽ』というエンジニア上がりの医学生、 それに自室でSEを開業しながら仏文科に在籍する真戸さんという大男の三人が、この寮 の「主」である。  「主」ともなれば、当然好かれ嫌われはある。とりわけ寮自治自体を面倒がり、大学に 管理してもらって各自の好きにしようなどと考える一部の者には目の上のたんこぶである。  だが、歩たちは、知っている事を親切に教えてくれ、先輩風などみじんも吹かさない彼 等に、自分たち寮生への愛情を見てきた。確かに、寮長でも自治委員でもないばかりか、 それぞれ実家や家庭があるというのに寮に残り、かつ救急車を呼ぶ騒ぎを避ける気遣いを 見せてくれる、という芸当は、アカの他人にはできないだろう。  さて、筆者が長々と寮の説明をしている間に、歩と先生とがともの部屋の前に到着した。 『しっぽ』さんが、その名の由来である結んだ長髪を掻きながら、聴診器がはみ出した鞄 を置いて待っていた。  しっぽがともの部屋から出てきたが、鞄は持たず、かわりに何かで満たされた洗面器を 持っている。彼は袖まくりして、額に汗が浮かんでいる。 「歩ちゃん、ともちゃんは大丈夫やから、ちょっと待っててくれるか」  いつもにこにこしていて、隠し事などしそうにない先輩が、眼鏡に手を添えながら深刻 な顔で歩にそう言うと、背を向けて元来た方へすたすた去っていく。歩はにわかに不安を 覚えた。後を追って話を聞きたかったが、背中がそれを拒否している様に見えた。  その頃、京都からずっと離れたとある山中で、あえぎながら山道を行くよみの姿が認め られた。  登山特有の見るからに重そうなリュックを背負って、毛のシャツにズボン、それに革の 登山靴。こしらえはしっかりしているが、若い女性の登山にしては無謀なことに、連れは なく、彼女一人であった。 「………」  もう何日も身繕いをしていないらしく、前髪はくせだらけで、服は泥だらけだ。顔がや つれ、目の焦点が時折定まらなくなる。食事もきちんと摂っていいるかどうか定かでない。  標高がそれほどでもないのか、雪はない。が、しばしば冷たい強風が吹き、急な傾斜も 見受けられる。そして、登山の経験はさほどないだろうよみの単独行。  ……あえてその情景を一言で言えば、自殺行そのものである。 「………」  それでも、彼女は無言で、枯れた下草の混じる山道を登っていく。山の落日はとりわけ 早く、もう一番星が見えている。 「睡眠薬自殺?!」 「……その可能性が一番高い、いう程度なんやけど」 受付で、先生としっぽとがひそひそ話をしている。  しっぽは医学生と言っても、とっくに医師免許を受けて大学院に在籍している。のみな らず、研究テーマがそういう種類のものらしく、救急患者を3年近く診ている。大事だか ら慎重に言っているだけで、彼の経験に基づくカンは睡眠薬自殺をはっきりと指しており、 それに間違いはないのだろう。 「せやから、命は大丈夫でも、むしろこの後が問題なんや…」 「そうやな…」  二人は茶渋まみれの湯呑みからコーヒーをすすった。しっぽは机で手を組んでうつむい たが、先生は吸いかけのタバコをくわえると、上を向いて腕組みし、大きく煙を吐いた。 天井を眺める目の色が、こころもち明るい。念のために考えているだけで、頭の中では結 論が出ている様だった。 「春日ちゃん、実は滝野君はな…」 「ちょっと先生!何考えてはるんですか!!」  先生は歩に声をかけるなり、しっぽの見立てを教えようとした。しっぽが先生の背中を 引っ張って止めに入ったのは、無理もない事だろう。 「何や」 「いくら友達でも、まずは保護者とかに…責任がどうとかやなくて、歩ちゃんが受け止め 切れへんかったらどないするんですかっ」 「遠くの親戚より近くの他人、言うやろ……逆にこの頃の親は受け止め切れへんかも知れ んで」 「……」  しっぽは何か言葉以上のものを先生から感じ取ったのか、それ以上引き止めるのをやめ た。先生は歩を向き直り、話を続けた。 「……というわけや。春日ちゃん、何か心当たりあるか」 「………あります」  泣きそうなほど沈痛な面持ちを作りながらも、思いのほか冷静に、歩は答えた。 「ワシらは、春日ちゃんに任すよりない事や思うのやけど、どやろ」 「はい…大丈夫です」  前の答えより間を置かず、前より力のこもった返事が返ってきた。 「そうか……ほな、頼むで」  先生はあっけにとられるしっぽを促して、玄関の方へ戻って行った。歩は二人の後ろ姿 にぺこりと一礼すると、ともの部屋のドアノブに手を掛けた。  陽は建物の影に入ってしまい、ともの部屋の明かりは蛍光灯に代わっている。寒々しい が、スチームを入れたので暖かいし、何より歩が持ってきた即席スープの匂いが部屋に充 満している。 「そうか〜、もういらんのやな〜」  歩の差し出した三杯目のスプーンにともがかぶりを振ると、歩はそう言ってあっさりと お椀を引っ込めた。それでいて、冷たい感じは全くしない。  それまで何時間も黙って、ひたすらともの枕元に座っていた事と合わせ、なかなかでき る事ではない。普通は無理に何か話しかけようとしてしまうものだが、取って付けた様な 話になり、いい結果はもたらさない。言葉は出ないがとにかくそばにいてあげたい、とい うのなら、それでいいのである。食事をどこまですすめるかも、同じ事だ。 「おつかれさん。ほな、また横になろか〜」  ともは食事を摂るために上体を壁に寄りかからせていたので、それを寝床に戻すのを手 伝うべく、歩が彼女の両肩に手を掛けた。  その時、いきなりともが、がばっ、と歩の胸にしがみついてきた。 「ど、どしたん?」  次いで、すすり泣きが漏れ、ほどなくそれは号泣に変わった。蒼白だったともの横顔が、 朱を差した様に赤くなっている。歩は一瞬の驚きから冷めると、ともを抱き返して、母親 が子どもをあやす様に彼女の背中をゆっくりと叩いていた。  そのまま、どれぐらい時間が過ぎただろうか。 「…お、大阪……」 「ん?」 「…ごめんね」 「別に、かまへんよ」 「…大阪や、先生やしっぽさんがこんなに心配してくれてるのに、私、全然元気になれな い……まだ、死にたいって思ってる…」  語尾が消え入る様な涙声に、歩はむしろ言葉を強めて返す。 「そらそうや、元気出してもらえんで、当たり前や」 「……?」 「………だって……私が、聞けてへんやろ…ともちゃんの、よみちゃんとの…話……」  歩の声も、途中から弱まる。覗き見する様に少しだけ顔を上げたともは、潤みかけた歩 の大きな目をそこに見た。  話は、夏休み明けにさかのぼる。  ともは、後期が始まってほどなく、いつだったかの学級委員長を決める時の様なノリで 軽はずみに手を挙げ、大学祭実行委員になった。  大学祭ともなれば実行委員会もそうとうな規模であるが、サークルやゼミの代表として 渋々やって来て、会議がなるべく早く終わるように、そして自分たちに割り振られる仕事 がなるべく少なくなるように、と考えながら座っているメンバーが大半を占める。  いきおい、学生自治会の役員をはじめとする中心メンバーが大学祭の準備にかかりきり となるわけだが、生来の目立ちたがり屋であるともは、その中心メンバーにわざわざ立候 補したのだった。  会議や準備に参加団体を集め、不満が出ない様に場所や仕事を割り振る。ともすれば場 所や物の貸し出しを渋り、口を挟もうとする大学と連日団体交渉。大学の近隣や他大学へ の宣伝、事故防止のための警備………多忙を極めたが、あちこち駆け回ってしゃべりまく る仕事に、ともはすっかりはまった。何より一緒に活動するメンバーは、利害抜きでそう したことを進んで引き受けるだけあって、個性豊かないい人達であり、彼等と苦労を共に した後に囲む宴席は格別だ。  ずっと帰宅部で通してきて、誰にもつかず離れずでやってきたともが、熱中する事や苦 労を分かち合える仲間、それにちょっとやそっとでない達成感を手にした事は、大きな成 長だった。  が、いかんせん仕事の量が半端でない上、夜間部も昼間部も合同なので、寝る時間以外 ほぼ張り付きになる。おのずとその分、遠く離れているよみに割く時間は減っていた。 「別に、話をしなくなったわけじゃないのよ……長くは話せなかったけど、こっちからも 電話したし…よみから電話がかかってくるのは、うれしかった…。けど、その頃よみが話 した事って、あんまり覚えてないんだ………きっと、私が一方的に、こっちの楽しかった 事とかグチとか、聞かせるばっかして……」 「…ふうん……」  ともは、ちょくちょく東京や京都でよみと逢瀬を楽しんでいたのだが、そんなこんなで 気がついて見ると、後期に入ってから一度も東京に帰っていなかった。  そこで、大学祭終了から約一月を経てようやく実行委員会が解散した日、東京に行く日 を打ち合わせるべく、その場から電話をかけたのだった。 「日を置いて何度かけても、出なくて…そのうちに『電波の届かないところ』になって… 留守電入れても、なしのつぶてで…」 「………」 「そしたら、よみのお母さんから電話がかかってきて、よみが何日も家に帰らない、って ……すごく思い詰めたみたいで、元気がなかった…って……」  あわてて東京に帰り、あてもなく心当たりをさまよった挙げ句、疲れ果てて京都に帰っ てきたのは、歩が寮を出た後だった。 「よみが、…いなくなっちゃった……私のせいで…」  ともは自室で、ろくに食事もとらずに、自責の念に押しつぶされる日を送った。  そんなある日、東京に行った折に、よみの母親に乞われるまま彼女の部屋で手がかりを 探した時に出てきた、薬の袋が目に止まった。神経科のゴム印が捺され、用法欄に「不眠 時」とあれば、ともにも何の薬なのか察しがついた。見つけたのをよみの母親に知らせず、 こっそり持って帰って来たのだった。 「よみはこれで、眠れない夜を紛らわせて…きっと、どっかの寒い空の下でこれを飲んで ………よみ、待っててね……」  という次第を、ともがつっかえながら語り終えた頃には、歩の頬にも涙が伝っていた。  歩の胸で止まらない涙に悶絶していたともが、いきなり叫び声を上げて歩を突き飛ばし、 立ち上がった。不意打ちを食って倒れた歩が、ともの移動した方を見上げると、机の引き 出しからハサミを取り出したところだった。  ともちゃん、自分を刺す気や!!  ともの憑かれた様な眼差しが、歩にそういう直感を走らせた。 「ともちゃん!!やめやーっ!!!」 歩があわてて立ち上がったが、間に合うかどうか?!  と、その時、ドアを蹴破って巨大な男が部屋に飛び込み、歩より早くともに飛びついた。  「真戸さん?!」  真戸と呼ばれたその大男は歩の呼びかけには答えず、横向きに抑え込んだともの手から ハサミを取り上にかかった。ともはとっさの出来事に放心していて、ハサミはあっさり大 男に取り上げられた。  「こんな危ないもんで、おいたしちゃあかんなあ。ガハハハハ」  真戸はともを放すと、そこで初めて歩の方を向いて笑った。腹をゆする様な豪傑笑いが、 先生、しっぽと並ぶこの寮の「主」の特長である。  すると、真戸の笑いにつられて歩の口元が緩んだ。つい今しがた、友人が死ぬかどうか という事態だった事はもちろん忘れてはいないのだが、真戸の豪傑笑いには、そういう作 用がある。  起きあがったともの顔も、笑いとは程遠いものの、別人の様に落ち着いていた。  真戸は後ろに流した洗い髪を差して、 「風呂がええ具合や。はよ入り」 と言って、鴨居をのれんの様にくぐり、巨体をゆすりながら出ていった。 「…ともちゃん、お風呂いこか」 「………」 「しばらく入ってへんのやろ。匂うでぇ」  歩の関西人らしい単刀直入な言葉に、ともはこくんとうなづいた。  それから一年。京の町に、再び年の暮れがやってきた。  大文字山の方へ落ちていく夕陽を、ともは今年も帰郷せず、独りうつろな目で・・・・  ではなく、その横にはよみが、同じ夕陽を浴びてたたずんでいた。  だが、この二人ならば掛け合いの一つもありそうなものだがその気配はなく、少し前に、 「・・・きれい、だな」 「・・・・・うん」 という会話を交わしたきり、二人とも黙っている。  あれから二人に何があったのか、読者のために少し振り返ってみたい。  去年のあの日、あれからの、どこかの山あい。  限られた登山者の間で「温泉小屋」と呼ばれている、初老の夫婦がひっそりと営む一軒宿。 5キロほど先の人里から、狭い急坂ながらも舗装された道が通じてはいるが、バスの便も送 迎もなく、呼び名通り「山小屋」だ。明日あたりから正月登山の客がやって来るそうだが、 今日の泊まり客は、すっかり日が落ちてから戸を叩いて宿の夫婦を驚かせた、よみ一人きり。 「お加減はいかが?」 小屋の奥さんが、ガラス戸越しに声をかける。やや遅れて、よみの沈んだ声。 「・・・あ、結構、です」 「それにしてもびっくりしたわ。こんな時期にフリのお客さんが来るなんて」 無茶な行動を言外にたしなめる調子も入っていたが、なぜか険悪な感じがしない。 「・・・すみません」 「いいえ、ごゆっくりね」 「ふぅ」  湯気の中で、よみは人心地ついたかの様に息をもらした。とはいえ、表情には相変わらず 色濃い曇りがあり、山歩きを終えて一息、などという雰囲気とはおよそかけ離れている。  地面に四角く穴を掘り、コンクリートを打っただけの湯船から天井を見上げると、湯気の 向こうに裸電球がぼんやりと灯っている。腰の高さほどのトタンの仕切りの先は地底の様な 闇で、曇が出てきたのかまたたく星もわずかだ。傾いた鉛管が浴槽に湯を注ぐ音だけが、時 が止まっているのではないことを知らせている。  どれぐらい時間が経っただろう。憔悴した眼鏡のない顔に迷いの表情を浮かべ、外の闇を 見るともなく見つめていたよみは、不意に、ざぶん、と音を立てて立ち上がった。  何か悲痛な決断に至ったのか、それとももっと前向きな判断をしたのかは分からないが、 表情に決意の様なものがみなぎっている。氷点に近い寒さが、闇に白く浮かぶ裸身を猛烈に 突いているはずだが、よみは身じろぎもしなかった。  去年のあの晩、あれからの、京都の片隅。  寮の浴室に、バッシャーンと、勢いよく水音が、二度三度と響く。  相変わらず抜け殻の様な表情で、髪からしずくをたらして洗い場に座るとも。彼女が眺め るともなく見ている鏡には、肩を落とした自分の裸の後ろに、石鹸をタオルにこすりつける 歩が写っている。 (よみちゃんごめんな〜、けど変なことはせえへんから・・・)  心の中で妙な謝罪をしながら、歩はともの背中を流し始めた。他に誰もいない銭湯の様な 広い浴室に、ゴシゴシゴシゴシ・・・と、タオルで体をこする小さな音が規則正しく響く。 「ともちゃん、寒ないか?」 浴槽から立ちこめる湯気が空気を風呂場らしくしつつあるが、先ほど真戸さんが沸かしたば かりで、しかもこの広さだから、まだ空気が冷たい。だが、ともは首を振った。 「ならええわ・・・けど・・・・・私、寒い」 『けど』のところで、我慢の限界と言わんばかりに歩の笑顔が崩れた。腕や肩はもとより、 胸元や腰回りにまで鳥肌が立っている。 「ふぅ・・・やっぱ風呂は風呂に入らな・・・」  湯船に入らなければ、と言っているのだろう。歩は背中を流すのを中断してともを連れて 浴槽に浸かり、 「そやろ?」 と、ともの肩に触れながら彼女の顔をのぞき込むと、ともは目を真っ赤に腫らして涙を流し ていた。  その時である。  ともが歩に抱きついてきた。 「・・と、ともちゃん?!・・・」  さっきより落ち着いて見えるのに相変わらず抱きついてくるのも妙だが、何より今度は裸 だ。歩は違和感たっぷりの感触をあわてて振りほどこうとしたが、きわどい所で「今それを やったら相手はどう感じるか」に思い至った。  歩はとりあえず、ともの頭に手を回し、片手でその頭を撫でた。 「大阪ぁ・・・ひくっ、つらいよ・・・」  ともは歩の肩のあたりで、嗚咽しながら、つらい、どうしよう、といった言葉を繰り返し た。歩はただ、「大丈夫、大丈夫や」と繰り返すしかなかった。  浴室はすっかり暖かくなり、湯気で向こう側がかすんでいる。歩は身も心もけだるくなっ てきた。違和感をこらえていたはずのともの体の感触が、やわらかい布団の様に思えてきた。 「・・・大阪ぁ」  ともも、泣きっ面だった上にのぼせてきた様で、顔が腫れぼったい。だが、いくぶん落ち 着いては来た様だ。 「・・・抱いて・・・」 「・・・・・!!」  歩にも同性にぽーっとする気持ちがないわけではないから、その場しのぎだが効果的な 「慰め」になるかもしれないその行為は知っている。のみならず、ともの片足の付け根を挟 む格好になっている両足に心持ち力が入り、頭を包んでいた両腕は肩を抱いている・・・。  ・・・・・けれども、歩は先ほど心の中でよみにした「約束」を大事にした。そして、先 ほどから言いたくて言えなかった、自分の「勘」をともに打ち明けた。 「・・・帰ってくる、きっと帰ってくるよみちゃんに・・・怒られるのいやや」  ともは、『しっぽ』が処方してくれた鎮静剤で眠りについた。そして歩は、受付の奥にあ る部屋で長い間、しっぽと『先生』とで話し込んだ。 「・・・・・・」 「なあ・・・力になりたいけど事情が分からんとどうしようもない・・・分かるやろ」 医学部に入る前は機械工だったというしっぽは、炬燵の台に散らばった何かの部品を組み立 てながら歩に話しかける。しかし片手間に話をしている感じはせず、お国なまりに由来する ボソボソした語り口はむしろ暖かく聞こえる。彼流の気の遣い方なのである。  差し向かっている歩にもそれは通じている様だが、それがかえって迷いを長引かせるのか、 「せやけどなあ・・・・・」 と、畳を人差し指で掻きながら下を向いたままだ。そして二人とも沈黙してしまう。 「ともちゃんの人間関係の事で、人によう言わん話をワシは知ってるんやが」  炬燵から出て、窓を開けて煙草をふかしていた先生が、少し大きな声で何度目かの沈黙を 破った。  歩はつとめて驚きを隠そうとしたがそんな芸当ができるはずもなく、思わず先生の方を見 た彼女は、ただでさえ大きい目を飛び出さんばかりに見開いていた。瞳に、驚愕に交じって 恐怖の色が現れている。  「と言うてもぜんぜん悪い事やなしに、世間のものの見方が狭いだけなんやけど。・・・そ の事が関係あるんちゃうか?」  先生は少し語調を和らげてそう続けると、歩の方を向き、ニヤッと笑った。がっちりした 体躯で、「背中に彫り物がある」などと噂される寮の主の「ニヤッ」はさらに恐いはずだが、 歩は目を丸くしつつも、その目から恐怖の色を消している。 「・・・でも、どうして、知ってるん・・・」 「何度か遊びに来てる『東京のお友達』やろ。見たら分かるがな、ワシら何年学生見て来て る思てんねん。で、女の子があそこまでになる悩み言うたら八割方は色恋に決まってるがな」 「・・・まあ、とりあえず今言えるのは・・・それを知った上で『何とかしたい』と思てる、 おせっかいな大人がここに二人いる、いう事やな」 いかにも関西風という早口で謎解きをする先生の話を、しっぽがボソボソと本題に戻した。  歩は、よみの失踪、そして大切な二人の友達の事を、余すことなく二人に話し、涙を流し て助力を願った。とは言え歩の語り口は例によって冗長な「嬢(いと)はん」調だから、す べて話し終えた頃には日付が変わっていた。 「・・・・・」  先生としっぽは、「失踪した人間を捜す」という課題の大きさに、揃って無言であらぬ方 向を眺めざるを得なかった。そして気を取り直して歩の方に向き直ると、彼女は炬燵の上に 肩から上を投げ出して熟睡していた。  ストーブの上の薬缶が、コトコト言いながら湯気を吹いている。  翌朝、つまり、大晦日。  ともは毛布にくるまって、座っていた。  相変わらずやせこけた元気のない顔だが、目はうつろではなく、焦点が前方に合っている。  そして、一人ではない。左隣に、寄り添う様にして歩がいて、やはり前方をじいっと見て いる。逆の隣では、先生、しっぽも、二人が見ているだろう場所を注視する。  さらに、ここはともの部屋でも、受付の横にある部屋でもない。何台ものパソコンの本体 やディスプレイ、その他いろいろな機器が三方を埋め尽くし、時折ハードディスクの回る音 や、キーボードを打つ音がかすかに聞こえる。その中央、両脇に書類が堆く積まれた機械に、 一人の大男が覆い被さる様に向き合っていて、4人の視線はその背中に注がれていた。  列車は小さな駅を出るとすぐ、高い鉄橋にさしかかった。  左手はるか下に海岸が見えた。よく晴れているせいか、鉛色であるはずの冬の海が、青い。 旅行客のグループが立ち上がって、空から見おろしているかの様な絶景をのぞき込む。  そのすぐ後ろのボックス席で、よみが窓枠に頬杖をついて座っていた。窓の外に顔を向け てはいるが、景色を楽しんでいる顔色ではない。ためらいというか、迷いというか。 「・・・・・・本当に、大丈夫か?・・・」  そのつぶやきを覆い隠す様に、やおら車内が轟音に包まれる。鉄橋を渡り終えるとすぐに トンネルだった。よみのためらいをよそに、列車は定められた通りにずんずん進んでいく。  列車はあらかじめ終着駅を決められているが、よみは一体どこへ行くのか。 「あの・・・・・ほんまに・・・大丈夫ですか?」  歩は大男に恐る恐る話しかけた。大男の作業を見守り始めてから、何時間も経っている。 疑っていなくても、そう尋ねたくもなろう。 「ガハハハ、大丈夫や。そのかわり、これを人捜しに使ったいうのは、ここだけの話にしと いてや」 「それは、もちろんや」  パソコンに向かい続けてさぞやカリカリしているかと思いきや、大男はのんびりと、かつ 豪快に返してきた。  大男の名は、真戸さんと言う。つまり、昨夜ともが刃物を振り回すのを止めに入った、三 人目の「主」である。  今朝になってから、一人でも大勢で考えた方がいいだろうと彼に事情を話したところ、 「その子、携帯電話持ってるやろ」 「・・・は、はい。でも出ないし・・・メールを打っても・・・」 「けど、毎回やなくても鳴るわけやな。で、会社はどこや」 「・・・・・確か、○○○、です」 「うーん、ほないけるかもしれんな」 「・・・え?!」 「実は携帯の会社から仕事もらっとって、ちょっとアテがあんねん。あのな・・・」 これに続く饒舌にして微に入り細に及ぶ説明は省くが、とにかく、携帯電話のシステムに入 って大まかな居場所をたどれる可能性がある、という。 「あんな、圏外やったり電源が切れとったりしたらしゃあない。その前にシステムをうまく 動かせるかわからへん。けど、ま、こういう時は何とかなるもんや、ガハハハ」  こうして、パソコンに向かう真戸さんを4人で見守る運びとなったのだった。  「・・・あ、すみません」  もう何回リュックを人にぶつけただろう。と言っても、背中にしょっているだけなのだか ら、半分は相手の不注意であるわけだが・・・。  よみは列車の旅をやめて、大晦日の街中をさまよい歩いていた。人が大勢通って行くが、 山行きの服装をしてリュックをしょっている人間は他にいない。師走の名にたがわず誰も彼 もが急ぎ足の中で、大荷物でもってひとり左右を見ながら狭い歩道をとぼとぼ歩いているの だから、時折ぶつかられるのも無理はない。  よみは、不意に足を止めた。そして、後ろの人が顔をしかめるのも構わず、目を細めて先 の方を見上げた。 「・・・これか?」  前方には、電車の駅が口を開けていた。そのさらに背後に見える、この街を囲む山々の方 へ行く様だ。ただし長旅をする列車ではなく、路面電車みたいな小さい電車が着いて、普段 着の人々を吐き出しているのが、駅の奥の方に見える。 「もうお昼やな・・・。分かったら知らせるから、下でお茶でも飲んでたらええがな」  真戸さんが、振り向きもせずに言ってよこした。開業しているというだけあって機械類の 量が半端でなく、この部屋には電気ストーブどころか電気ポットもないのだった。 「ああ、ほんなら頼むわ」 先生としっぽは、すぐに立って部屋を出た。長いつき合いの間柄に長いやりとりは無用だ。 「ほな、すんまへんけど、お言葉に甘えて・・・。ともちゃん、下で待とか」  歩は真戸さんに軽くおじぎすると、ともの顔をのぞき込んで肩に手をかけたが、ともは、 「私、ここにいる」 と、かぶりを振った。前を見つめる眼差しが、時間の経過とともに濃くなっていた。 「ともちゃん、そんなにじぃーと見られたらディスプレイに穴が開いてまうがな。それに、 ワシにもお昼持ってきてや・・・・・大丈夫、大丈夫や、ガハハハハハ」  真戸さんがこちらを振り返り、にっこり笑って見せた。  こころなしか、ともの口元が緩んだ様に見えた。  古き良き閑静な住宅地に面した駅で、よみは電車を降りた。木造家屋や板塀が並ぶ通りを、 時に立ち止まって電柱や曲がり角の左右を見ながら、よみが歩いていく。 「な、真戸さんもああ言うてるし・・・」  歩があらためてともを促しながら立とうとして、そこで初めて自分の足の痺れを強烈に感 じて床に転げたその時、 「来た、キターーーーーーーーーーーーーーーー!!(AA略)」  作業に戻っていた真戸さんが、のけぞらんばかりに叫び声を上げた。  刹那、ともの目に、あのいつもの、いたずらっぽそうな輝きが走ったかと思うと、彼女は 飛びかかる様に進み出て、真戸さんの巨体を左からねじ曲げる様にしてディスプレイをのぞ き込んだ。  黒い画面に、数字文字混じりの横書きが、ほの白く何十行も並んでいる。 「どれがそれなの?!ねえ!!」 ともの別人の様な語調に気圧されて、さすがの真戸さんも少しうろたえている。歩も足の痺 れに顔をしかめながら、這いつくばって真戸さんの右横にたどり着いた。 「えーと・・・・・これ、これやったがな・・・で、この基地はどこか言うと・・・」 真戸さんはポインタで指すと、その行の右端をクリックした。  カチッ、という音。画面が切り替わるための暗転が、一同にはものすごく長く感じられた。  切り替わった先には、一行の文字列があった。  京都市○○区○○○○通・・・・・・  真戸さん、歩が「え?!」という顔をするのと、ともが 「よみぃーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」 と叫んで駈け出して行くのとが、同時だった。  ドタドタドタドタッガタガタガタガタン!・・・トタトタトタトタ・・・  階段の途中で足を踏み外した様だが、ものともせずに走っていく、とも。 「そらびっくりやけど、近く言うても2キロ四方あんねんで・・・電話してみいや・・・」  真戸さんの伝言を伝えるべく、やや遅れて玄関まで出てきた歩の眼の前には、涙を流して 抱きしめ合う、ともと、よみの姿があった。 「・・・戻る時は、まずともに見てもらおうって思っててさ・・・もうそろそろいいかな、 って何度も思うんだけど、いざともに会うって考えると、自信がなくなって・・・」  その晩、寮の受付部屋。  鍋物の匂いが充満しているが、鍋はあらかた空き、二人以外はビールや酒の瓶の間に間に 雑魚寝を決め込んでしまっている。やかんの載った石油ストーブだけが頼りだ。 「でもさ、何度聞いても、電話にも出ないなんてひどいよ!」  ともは語気を強めるが、棘はなく、むしろ甘えている様にさえ聞こえる。もっとも、鍋の 始めの頃にみんなの前で聞いた時には本気でむくれていたが。 「出れば、会いたくなっちゃうから・・・そのくせ電源切れないんだよね。もっとも山歩き だから、中頃はほどんど圏外だったけどな」 「本当に、本当に心配したんだから!」 「・・・ごめん。でも、ともが柄にもなく学祭で頑張ってるから、私も・・・」  ともが大学祭実行委員として頑張っている事は歩から聞かされていたから、連絡を取り合 う事が減ってもよみに不安はなかった。むしろジャマしちゃダメだと思った。  しかし、行事といえばジャマしてばかりだった高校時代のともからすれば、そんな役目が ちゃんと勤まっているというのは驚くべき成長だ。一方で、よみは授業に出て、たまに京都 へ遊びに行く以外、これといって何か目標を持って活動している訳ではなかった。振り返る と、大学に入って以降、いろいろな点でだらしがなくなっている。 「ともがやっと、何かに熱中して成長する様になってくれたのだから、私も応えなきゃ」  そういう思いが、彼女にサークル活動を選ばせた。  お菓子研究会  メンバーはいい人ぞろいで、すぐに仲良くなった。また活動も熱心で、ただできればいい というのではなく、研究しながら同じ種類のケーキや大福を何回も作ったりしていた。よみ もたちまちお菓子づくりに日夜没頭する様になった。  しかしサークルの先輩たちには唯一、計画性だけがなかった。材料の仕入れが非常におお ざっぱで、毎回大量に余る。また、研究の一環として既製品を食べる事があるのだが、これ も人数に関係なく大量に買ってくる。そして、食べ残す。  言わずと知れた事だが、よみは甘い物に目がない。この様な状況に直面したら、どういう 事になるか。あえて結果は書かない。 「・・・・・絶っ対、ともには見せられない・・・」  自分の体が横に膨張していく事への嫌悪は彼女の精神を不安定にさせ、睡眠薬を処方して もらう様になった。それでいて残り物を食べることはやめられない。ついに初冬のある晩、 風呂上がりに姿見と向かい合うや、よみの心に悲壮な決意がこみ上げてきた。  そして思い立ったが吉日と、その晩のうちに誰にも告げずに旅立ち、減量をすべく山野を 彷徨したのだった。もっとも両親には携帯電話のメールで連絡を入れたつもりだったのだが、 圏外から発信して届いていない事を先ほど気づかされ、あわてて電話をかけた次第である。  どこかで、除夜の鐘を撞いている。とても小さい音なのに、なぜかやかんが鳴る音にも、 そして二人の話し声にもかき消されることがない。今年も、あとわずかだ。  角を挟んで斜めに向き合っていたともが、膝で歩いてよみの横に移ってきた。 「よみもバカだなー。だらしないとか太ったとか、そんなのでよみの事嫌いにならないって」 バカというのに反応したのか、よみが、キッ、とともの顔を見据えながら返す。 「いや、そういう問題だけじゃ・・・」 「じゃ、どういう問題?」 ともが興味津々の眼差しで、見つめ返す。間が開く。  鐘が静かに、ごおぉぉぉん、と鳴る。  「う・・・」という顔をしていたよみは視線を外すと、机の下でともの手を握りしめて、 ぼそりと言った。 「・・・そういう問題、だけだった」  その晩、二人はともの部屋で長い時間、愛し合った。  翌年も、やはりよみは秋頃から横に膨張して、山ごもりをしなければならなかった。ただ し今度は計画を立て、家族、そしてもちろんともに告げた上でだったが。  一方、今年のともは実行委員などせず、適当に講義をサボりつつ学生という身分を楽しむ という生活に戻った。この変化というか退行というかの理由は、特にない。気分だ。  そして今年の大晦日も、二人は京都にいる。こうして西の空を眺め出してから、もう小一 時間も経っただろうか。  黙っているのは、美しい夕陽を二人きりで見ている事を楽しんでいるせいももちろんある。 が、二人とも、言いたいことがあるのだが言い出しづらくて、という顔にも見える。  沈黙を破ったのは、よみの方だった。 「なあ」 「ん?」 「その・・・去年のあの時も訊かずじまいだったけど、その・・・、私、前に会った時より ・・・少しはスマートになったか?」  よみが立ち上がる。ともが振り返り、上目遣いでよみの体を見回す。  今年は、着替えを持ってきた。落ち着いたグレーのワンピースに淡い色のカーディガン。 全身に夕陽を受けながら、よみはそっぽを向いて、少し頬を赤らめている。 「・・・んーと、スマートになったよ。やせたね」 「本当か!・・・よかったぁ、またブニョブニョとか言われるかと思った」 よみは、真面目な顔でそう言ったともの方を向き直り、しゃがんで彼女の手を取った。 「でもね・・・」 「ん?」  よみが顔を近づけると、ともの顔が急にいたずらをする子どもの様な笑みを浮かべた。 「毎年毎年、進歩がないよなぁ〜、よみは」  よみは手を取ったまま、ガクッ、と、うなだれた。 「あ、ゴメンね・・・本当のこと言っちゃった」  ともが悪い冗談を重ねてから、さて本当のフォローをするか、と頭を垂れているよみを見 つめると、よみのその頭はわなわなと震えていた。 (やば・・・うなだれてるんじゃ・・・・・ない・・・)  よみの方から不意に両手が振りほどかれると、  「ダブルチョーップ!!」  あとは、部屋の中をぎゃーぎゃー言いながら、追い、追われる二人。  冬らしい料理の匂いがここまで届き、 「よみちゃーん、ともちゃーん、少し早いけど、そろそろやるで〜」 という歩の声がしているが、よみもともも、気づかない。                               【 完 】