行ったり来たり 〜か弱きは罪なれど〜




     T

 お母さんが身づくろいを終えたのと入れ替わりに、洗面台に行って、水道をひねる。
 水が、冷たそうな音を立てて流れてきた。
 いくら待ってもお湯にならない。当たり前だ。私が水の方をひねっているから。
 クリーム色の洗面台にたまった水をすくって、思い切って、ばしゃっ、と顔にかける。
 顔から髪から、しずくがぽたぽたと水面に落ちる。じーんとして、ひりひりするほど顔が冷たい。黒い影になって波にゆがむ私の顔。みじめな濡れネズミだ。
「私、何こんなことしてるの?」
とすら思うけど、かまわず続けて、今度はばしゃばしゃとかけるようにして、ごしごしと顔を洗う。顔がすんでから、髪の毛にもかけて行く。
 肌を突くような冷たさが、だんだん気持ちよくなってくる。栓を抜いて、地底に引きずられて行きそうな音を聞きながら、仕上げに蛇口の水でひと洗いする頃には、寝起きのはれぼったい感じがすっかり取れて、すっきりした気分になる。
 普通じゃないのは、分かっているけど。

 ひんやりすっきりを楽しみながらバスタオルで顔と髪とをふいて、そこで、はじめて鏡を見る。髪をセットするためだ。顔をしげしげとながめたりなんか、しない。
 ヘアスプレーの泡を手でなじませながら、前髪を分けて横に下ろして、後ろは肩までまっすぐになる様にブラシをかける。本当は毎朝毎朝面倒だし、ヘアスプレーなんか、つけたくない。クラスに、あまり話はしないけど、赤月さんという人がいて、黒い髪を、ばっさりと短く切っている。あれは楽そうだ。あれなら洗い髪のままでもよさそうだし、あの、耳の後ろやうしろ頭のうっとおしい感じも、ぜんぜんないだろう。
 でも、私が急にやったら、みんな引くだろうな。そうでなくとも、あの髪型がそうとう思い切ったものなのは、確かだ。変だって思われなさそうな髪型はどれも、短くても肩上まである。あとは、結ぶか。どうして短く切る髪型ははやらないんだろう。
 きっと、人を選ぶんだろうな。彼女のように細面で、目がぱちっとしてて、男の子みたい―――それでいてなぜか、教室でいちばん大人っぽくてきれい―――じゃないと・・・。
 私の、顔。
 誰にも言わないけど、瞳の、深い黒、それから大きさは、私は好きだ。でも、こんな色、はやりじゃないし、もう少し目も大きくないと、瞳だけ大きいのは眠たそうに見える。
 鼻は、低い。でも、それは気にならない。それよりも、鼻の穴が、目立つと思う。学校や街で人のを見ていると「私だけが特にそうだって訳でもないかなあ」って思う時もある。けれど、事あるごとにお母さんが言う、
「それはお父さんの鼻ね」
という言葉にお父さんを思い浮かべると、たしかにお父さんの顔は、ぽつ、ぽつと、鼻の穴が目立つ。そして、お母さんの鼻はもっとずっと下を向いてて、私の顔はお父さん似だ。お母さんの鼻だけはすごくうらやましい。私のも、もう少し下を向いてほしい。
 それよりなにより、―――これが赤月さんとの一番の違いで、そして短髪のネックだけど―――なんで私は、こんな丸顔なの。ほっぺたをそぎ落としてでも、細い顔にしたい。学校とか、女子がたくさんいるところで、このことは特に嫌になる。東京の最後の頃・・・・・学校に行けず、何も食べられなくなった時も、もちろん、他にもいろんなことがあったけど、顔の形をものすごく気にし出したのが、きっかけだった。
 ほっぺたと言えば、この、少し上の方の赤みも嫌だ。顔の形と合わせて、すごく幼稚に見える。実際、子どもに見られる。・・・・・あ、にきびがまた大きくなってる。左に五つ、右に四つか五つ。体のサイクルに応じて、消えそうだと思ったらまた大きくなって、もう一年ぐらい、ずっとある。・・・はぁ、これ絶対、跡が残るんだろうな。せめて、これ以上増えないでほしい。おでこにできたりしたら、やっと慣れてきた今の髪型を、考え直さなきゃいけない。

 結局鏡の向こうをしげしげ見つめて気落ちした後、クリームを塗って、歯を磨く。その他は後回しにして、トーストのにおいがただようリビングを通って、ベランダに出る。六階建ての細長いマンションの、五階。冷たい空気が、体じゅうをつっついてくる。ふるえがくるぐらい寒いのだけれど、それでいて、外に出ないわけにいかない。
 今日は、雲一つない晴れ。この町では、十日にいっぺんあるか、どうか。
 普通の家や小さいビルがごしゃごしゃと、だいぶ向こうまで続いていて、その終わり近く、Y駅のあたりだけ、少し背の高いビルがにょきにょきと盛り上がっている。田舎町だけど、けっこう広い。町の向こうは、雪が半分ぐらい乗った山が連なっている。
 向こうまでずっと見渡せるこの町も、広い空も、そばに山が見える景色も、好き。特に、冬晴れの朝は、たまらない。透き通るような寒さが体の中をきれいにしてくれる。ずうっと先まで、どの建物にも分け隔てなく金色の朝日が降りている。東京から引っ越す時、中学の先生が「またえらい田舎町に」って驚いて、目に同情する様な色を浮かべてたけど、こんな気分が味わえない東京の方がかわいそうだ。かすかに汽笛がひとつ、ぴぃっ、と響いた。
 東側の端っこにある、ひときわ高い有名な山だけが、すっぽり雲をかぶって、三角の綿のかたまりみたいになっている。ベランダから見るこの景色もすっかり当たり前になったけれど、あの山だけは、夏の一時期以外できれいに見えていると
「わあ・・・」
と思ってしまうぐらい、なかなか見られない。なんとか富士、って呼ばれてて、確かに富士山に似ている。遠くから登山やお参りに来る人がたくさんいるそうで、うちの高校の校長は、朝礼の話で何かというと
「○山のように気高く」
とか、雲がかかって見えてないのに
「今日は非常にいい天気で、○○富士の雄大な姿が」
とか言う。
 でも、なかなか見えないから驚きはするけど、そんなにきれいな山かなあ、と、私は思う。形がいびつで、中になにか丸いものが入ってるみたいに、不格好にふくらんでいる。東京にいた時、冬の朝に見えていた富士山はこれよりもずうっと小さかったけれど、もっとスマートで、きれいだった様な気がする。

 足音に振り返ると、お母さんがリビングに出てきた。もう、出かける格好をしている。
 またそんな格好で出て・・・、という顔をしているのを見て、リビングに引き上げる。ヒーターのあたたかさと、トーストやコーヒーの匂いとに、体のこわばりがみるみる解けていくのが分かる。
「このごろはいろいろ物騒なことがあるんだから」
「はいはい」
「返事は一つ」
「はあい」
 冷静に考えると五階や六階の建物など他にはなく、たとえ裸だったとしても、誰の目に入るわけもなければ、誰がやってくるわけもない。だから、一度目の「はいはい」は生返事。でも、お母さんの言い分も、なんとなく分かる。それで、言い直した「はあい」は、ちゃんと気持ちがこもってる。「返事は一つ」、誰が言いだしたのか知らないけど、よく当たっている。
 髪をドライヤーで乾かして、部屋に入り、布団をたたんで、着替える。
 制服は、朝のあまり時間がない時に今日着るものを考えたりしなくていい。便利だ。スカート自体も特に嫌いじゃない。そんなに動き回るわけじゃないから、ひざまであれば、めくれて気になるようなことはない。でも、制服のスカートは、夏は汗で、そして今の時期は静電気とかで、ときどきひどくまとわりついてきて、あまり好きじゃない。こういうことは、誰に言えばいいんだろう。先生に言っても「決まりだから」で終わってしまいそうだし、裾を上げて楽しそうにしてる人たちがたくさんいる、というか、私の友だちも何人かそうしているところで「スラックスの方がいいよね」とは言いづらい。
 そんなことを考えているうちに、後ろの生えぎわあたりの髪が気になってきた。蒸れるというか、ちくちくするというか。机の上から水色のゴムバンドを取ると、壁の鏡を見ながら後ろ髪をゆわいた。首のあたりに感じる気持ちのいい空気に、思わず鏡の向こうの私が、にっ、と笑った。めずらしく、いい顔だった。

 トーストが一枚、それに、ゆでたまご。小皿に、ミニトマトが乗ったサラダ。
 向かい側でお母さんが、トーストを食べている。白っぽいワンピースに濃紺のジャケットを重ねた、ちょっと派手めのイヤリングやネックレスも不自然じゃない、きりっとした色白の女の人。私にぜんぜん似ていない。「きれいなお母さんね」って言われる。私としては、まあ、きれいとまでは言えないけれど、よそのお母さんとちょっと違うのは分かる。・・・そのお母さんが、口のまわりにしわを浮かび上がらせて大口を開け、一度に四分の一ぐらいを、今、口に入れている。外ではそんなことしないし、夕ごはんのときもこんな食べ方じゃない。マンションの同じ階の人も、お母さんの会社の人も、そのほかお母さんを知っている人も、こんなお母さんは、絶対知らないはず。そう思うと、なんだか面白い。
「あら、結んだの?」
「うん、うっとおしいし」
 コーヒーを飲んでパンを飲み下したお母さんが、私の方を見る。子どもの頃、お母さんに髪を切ってもらうと、あまり短くしてくれず、いろんなヘアバンドやアクセサリをもらってはつけるように勧められた記憶がある。そしてお母さんは昔も今も、美容室で時間をかけてつけたウェーブを肩下までなびかせ、ふだんもよく手入れしてる。だから、私が髪をうっとおしがるのは面白くないだろうと、以前は、束ねる時はお母さんが出かけるまでがまんしていた。でも、ついこの間、うっかり束ねて出できたら、思いのほか何も言われず、顔も目の色も不満そうじゃなかった。それからは、束ねたい時は束ねて朝ごはんを食べる。
 上体をのばしてコーヒーメーカーを取り、コーヒーを注ぎながら、きいてみた。
「えっと・・・結ぶの、似合わない?」
「似合うとは思うけど・・・子どもっぽく見えない?丸顔だから」
いきなり一番気にしてることを言われた。しかも、こともなげに。
「もう少し、その・・・お化粧とか、しないの?・・・髪も、カットだけじゃなくて・・・・・・」
「・・・・・」
 私だって、もちろん、きれいになりたい、とは、思ってる。見せる相手は、今はいないけど、同性の中でも、このままじゃ恥ずかしい気がする。それに、雑誌なんかをながめていると、きれいになれば、何というか、世界がパッと明るくなって、運が開けてきそうな気が、本当にする。
 でも、どうしていいのか分からない。みんな―――みんなが全部同じなわけじゃないけど―――みたいに、顔を描いたり口紅を塗ったりブリーチをかけたりは、実はどれもちょっとやってみたのだけれど、なんか私には合わなかった。しばらくして落ち着いてみると、私の考えてる「きれい」のイメージとは違うか、気分が悪くなるかのどちらか。と言うより、しないと不安だという気持ちの方が強くてやっていたから、そう思うのはやる前に分かっていた。結局、スカートの丈を少しだけ詰めて、香水やマニキュアをつけるぐらい。香水は気に入っていて、なくなるとあちこち回って同じのを探したりするけど、あとは、私の思った通りとは、ちょっと違う。
 それと、今、私が食べ終えつつある、パン。三枚焼いて、お母さんが二枚、私が一枚食べるのだけれど、本当は、一枚だと、ちょっと物足りない。でも、服を脱いだ時にウエストの少し下を指で押すと、昔はこんなにやわらかくなかったように思えるし、普通の体型の人でそんな人はいないような気がする。体重は標準より軽いし、私の嫌いな丸顔は形で、これ以上やせても面長になるわけじゃないのも知っている。でも、パンを二枚食べて、それを堂々と言えるかというと、食い意地が張っているみたいで恥ずかしい。Y駅前のホテルにケーキの食べ放題をするお店があって、たまに友達のオキちゃんたちと「好きなだけ食べよう」って行く時があるけど、私がいちばんたくさん食べている様な気がする。もしかすると本当に嫌になるまで食べているのは私だけで、オキちゃんや、やっぱり友達の遥や望美はちゃんと我慢してるのかも知れない・・・。

「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 お母さんが出かけて行った。なんだか私と違うところがたくさんあって、ちょっと押しつけがましいところ―――さっきの身づくろいの話も、「結婚できないわよ」というオチをつけてしょっちゅう言ってくる―――もあるから、話すときはいつも少しおっかなびっくりだけど、私のためにがんばってくれているし、決して嫌いじゃない。だから、行ってらっしゃいは、洗い物しながらだけど、ちゃんと言う。
 そして、お父さんは、ゆうべも帰ってきていない。
 お父さんのことや、お母さんを見ながら自分について思うことは、今は、考えたくない。でも、今日も何かのついでに、嫌でも出てくると思う。
 洗い物が終わって、ストーブを消すと、私も出かける時間だ。
 玄関を開けると、ひゅう、と、冷たい風がコートをまくった。寒っ、という感覚と、暖房でぽーっとなっていたのが冷まされる気持ちよさと、「これから学校」という少し憂鬱な気持ちとが、次々にやってくる。でも、今日は学校は昼までだから、憂鬱はとても少ない。それに、快晴。エレベーターの方には行かず、外階段を、ぐるり、ぐるりと降りる。マンションのこちら側は、家が並ぶずっと向こうに海が見えて、それが見えたり消えたりする。
 地上に降りて、住宅地の中を歩いていくと、踏切が見えて、その脇が駅。建物も改札口もなくて、いきなり一本しかないホーム。仕事に行く大人や高校生が、手前に七、八人ぐらい、先の方に三、四人並んでいる。私は、Y行きの乗り口である、手前の列に並ぶ。
 携帯電話が震える音。メール。見ると、望美から。今日も、学校に行かない、という。しばらく前から遅刻してきたり、いつの間にかいなくなっていたりがしょっちゅうになってたけど、何日も全く来ないのは初めて。どうしたのだろう。一度電話をしてから、メールだけはくれるようになったけれど、毎朝「行けない」というばかり。理由をきいても返ってこない。また電話すればいいじゃないかと思うけど、なんだか恐くて、できていない。今日も何があったのか分からないまま、望美がいなくなるかも知れないという不安だけをエネルギーに、要領を得ない「励まし」を打つ。
 送信したところで、列車が近づいてくる音がしてきた。オレンジ色の一両きりの列車が、低い建物の間を走ってくる。白黒写真の中にそこだけ色がついてるみたいで、もう覚めてる目が、あらためて覚める思いがする。単純な色だけど、よく考えたなあ、と思う。
 これで中が蒸し風呂みたいじゃなくて、そして学校に行くのじゃなかったら。



     U

 列車が古い家の間をキイキイ言いながら曲がり、左から他の線路が合流してきて、ちょっとまっすぐ進んだかと思うと、スピードが落ちる。それからガタゴトッ、と左右に揺れて、少しして止まる。終点、Y駅。冷たい空気にありついた。他の人にまじってとぼとぼ歩きながら、ふう、と息をつく。水面に口を出してぱくぱくしてる、金魚みたいな気分。
 私の乗っている列車は出口とつながってるホームに着くのだけれど、「0番線」という、一番はじっこにしか線路がないところに止まってしまう。出口まで、百メートル以上ある。めんどくさい。出口めざして歩いていく。出口のあたりにぶら下がっている時計が目印だけど、半分ぐらいまで、その時計がなかなか近づいてこない。早歩きや駆け足の人が、次々に横をすり抜けていく。
 不意に、
「さくらっ!」
少しハスキーな声が私を呼んだかと思うと、背中にやわらかい感触がおおいかぶさってきて、細長いけど力のある両腕が、ぎゅっ、と私の首の下へからまってくる。うっすらと、お化粧の匂い。
 オキちゃんだ。私は斜め後ろを見上げ、一重だけどパチッとした彼女の目を見て、あいさつする。
「おはよう」
ほとんど同時にオキちゃんも、でも、たぶん私より少し元気よく、
「おはよう」
と言って、私の右側に並ぶ。そして、一緒に出口を目指す。朝、彼女とここで会うと、寸分たがわずこういう動きになる。
 でも、体に触られるのは、すごくいやだった。今もそうだ。あらかじめ分かっているものはまだいいのだけれど、不意に肩を叩かれたり、ましてや今のオキちゃんみたく抱きついたりされると、心臓が止まるぐらいにビクッとして、しばらく息苦しい。じわーっ、と、気分が悪くなってきて、そして相手が嫌になる。はじめてオキちゃんにここでこのあいさつをされた時も、しばらく普通にしゃべれないぐらい苦しくて、友達をやめようかと思った。でも、ようやく振り返った時に見えた、大きくてきれいな目を細めて笑う、彼女の子どもみたいな顔が、どうしても憎めなかった。その繰り返しをしているうちに、オキちゃんのこれは、わりかし平気になった。でも本当は、まだ一瞬ビクッとする。
「前にいたの?」
「うん、ちょっと出るの遅れたら、前しか席空いてなくってさあ」
 歩きながら、少し茶色い、襟足で揃えたまっすぐな髪に手櫛を入れて、オキちゃんはこともなげに言う。始発のS駅から乗ってくるオキちゃんは、座れないと一本見送る。遅刻寸前になってもお構いなし。
「立つのもかったるいじゃん?」
毎日ぎゅうぎゅう詰めの中を立ってる私は一体、って言おうといつも思うけど、「だって、さくらは近いじゃん」って言われるのは分かっているから、やめる。
 同じ列車から出てきた人たちはみんなホームから出てしまった。乗り場のところどころに二、三人ずつ人が並んでいるだけの長いホームを、丸い大きな時計めがけて二人で歩いていく。だみ声の放送と一緒に、特急列車が滑り込んできた。ふわっ、という風が、冬だというのに涼しかった。オキちゃんとのおしゃべりは楽しくて、彼女がいると、出口までの時間が短く思える。

 大通りを左に曲がって、太陽を背中に受けて歩くと、すぐにまわりが普通の住宅地に変わって、空が広がる。冬晴れの濃い青空は、やっぱりいい。暑がりなオキちゃんは、いい天気だとコートを着ないでやってくる。その上、ブラウスの第一ボタンを外して、ネクタイを思いっきり緩めている。去年の冬は恥ずかしかったけど、今はだいぶ慣れてきた。
 雑談が途切れると、私は前を見たまま、
「望美、今日も来ないって」
と、今朝もいつもと同じメールが来たことを、オキちゃんに話した。彼女はやや遅れて、
「そのことだけどさ・・・」
と言ったきり、次の言葉が出てこなかった。見ると、口をとがらせて深刻な眼差しをしている。私がたまらず、どうしたの、と言おうとした瞬間、オキちゃんが言葉を継いだ。
「噂なんだけど・・・・・望美、学校やめるかも知れない」
「・・・え・・・・・」
今度は、私が前を向き直って黙り込む番だった。まず、その言葉自体にびっくりした。そして、そんなこと信じられなかった。悪いことをするようになって中退する人はいるけど、望美は、学校に来たり来なくなったりしてからも、そういうタイプじゃなかった。何よりも、望美がいなくなるのが、毎日簡単に会えるはずの友達が一人減るのが、いやだった。
「な、なんで?」
私がふたたびオキちゃんの方を向いてそう言うと、彼女はすぐに小さく口を開いたが、声は出なかった。
 ややあって、ようやく彼女が何か言ったその時、
「沖、ネクタイ!」
ななめ前から、登校指導の先生の野太い声がオキちゃんをとがめた。私たちは、学校の前まで来ていた。オキちゃんは小さく舌打ちして、ボタンを外したままネクタイを締め直した。歩く人、自転車・・・。門と、昇降口へと続く坂道とがボトルネックになって、にわかにあたりが窮屈になる。
「さくら、後でね」
 ふたたびネクタイを緩めてチラッと左右を見ながら、オキちゃんが耳打ちする様に片手を立てて言った。私は、うなずくしかなかった。

 八割近くが女子のせいか、ホームルームや授業が始まる前のガヤガヤという声が、中学の時より一オクターブ高い。商業高校はどこもそうらしいのだけど、どうしてだろう。選んで入っておいてこう言うのもなんだけど、たとえば簿記なんて、絶対男子向きの科目だ。原価計算なんて、どう考えても理数系の世界だもの。もちろん、一回聴いただけですらすら解いちゃう人は、女子にもたくさんいるけど・・・・・となると、私ができないのの言い訳か。すみません。
 教室は、少し暑い。顔がほてってるのが分かる。ブレザーも、半分以上の人が脱いでるし、私も脱いだ。でも、足のへんだけは、鉄の棒みたいに冷たい。こんな暑い部屋に、朝のホームルームをはさんで三十分近くいるのに。
 朝は特に、空気が汚い気がする。ホコリっぽいのとは違う、顔がべたべたした膜で覆われるような、そんな汚さ。教室に入った瞬間から、これのせいでガクッと気分が悪くなり、眠いのに寝付けない時の様なうざったさを感じる。
「遥や宮津さんが集まってる机に行って、私もこれこれの話をしよう」
そう思って毎朝ドアを開けるけど、むわっという熱気と、同性のかん高い話し声―――私も話に入っていればその一人なのだけど―――と、そしてこのべたべたした空気とに、眠いというかけだるいというか、動く気分じゃなくなって、自分の机にうずくまっているしかなくなってしまう。
 さくらは低血圧だから、ということになっている。でも、起きた時はあんなにすっきりしているのだから、きっと違う。なんなのだろう、これ。卒業して、大学に行ったり、就職したりしても、ずっとこうなんだろうか・・・。

 一時間目は、その、簿記。
 「オッサン」って呼ばれてて、自分もそう言ってる先生は、五十前ぐらいのよくしゃべる先生。二枚目のプリントを配る時、
「はい、これは俺のプリント!」
というギャグをうれしそうに言う。「俺は二枚目」という意味らしい。笑ってる人もいるけど、私にはちっとも面白くない。嫌なことがあった時はむかついてくる。でも、話は聞き取りやすいし、その世界では有名な珠算の大先生だというのに全然えらそうじゃなくて、やさしい。あのつまらないギャグさえなければ、まあ、いい先生だ。だけど、二年になってからの簿記は、難しくて、丸覚えして何とかついて行ってるだけ。幸い、覚えなきゃいけないところになると、オッサンは、
「はい、これは一生使うよ!」
と言って急に目を見開いて、大きく黒板に書いてくれるから、そこを写して覚えてる。
 一回授業をして、その練習を次の一時間か二時間でやって、さらに次の時間で先に進む。今日は、練習の続きか次へ行くか、微妙なところ。オッサンの一言目が、
「前回は」
だったら、次に進むための難しい授業。後半には、分からないまま問題練習が始まる。
「今日も」
なら、二回目の練習で、さすがに二回目になると、練習問題はだいぶ楽になる。
 オッサンが教室に入ってきた。起立、礼、着席。えび茶色の背広を脱いで教壇の椅子にかけて、手塚治虫の漫画に出てきそうな丸くて少し大きい鼻をちょっと触ってから、オッサンが口を開いた。
「前回は、支店間の取引をそれぞれの支店で・・・・・」
 新しいところに、進んでしまった。
 最初のうちは、前の話の続きだから、分かる。でも、新しい言葉が出てきて、それがもう一回出てくるところで「それって何だったっけ」となって、それで分からなくなって、もう、何がなんだか・・・。
 たった今、その「もう、何が何だか」になった。話が分からなくてもそこにいなきゃいけないのは嫌だけど、授業中の教室そのものは好きだ。しーんとしてると、空気が少しきれいになった様な気がする。黒板を書く、カツカツという乾いた音は、なぜか好きだ。
 空が、青い。廊下寄りの席から、人の頭とか制服とかの黒っぽいものをはさんで見ているせいか、余計に明るく、真っ青に見える。空の下は、神社がある山の斜面。草地の真ん中に石の階段があって、女の人が犬を連れて登っていくところ。今、あの草地に寝そべったら、すごく気持ちいいだろうな・・・。家でも、中学校やよその高校でも、窓は天井近くまであるものだけど、この学校の建物は古くて、窓はそれより低く、小さい。でも、小さい窓から見るとかえって、外がとてもいいものに見える。
「早房さん」
 前の人が横顔のまま、私を呼んでいた。ワラ半紙が突き出されている。いつの間にか、プリントが回ってきていた。練習問題だった。しまった。「俺のプリント」は聞かずに済んだけど、そのかわり「一生使うよ」を聞き逃した。黒板に残っている仕訳や図をあわててノートに写すと、早くも一問目の解説が始まった。急いでプリントに目を移すけど、分かるわけがない。二問目は、野球部の、やたらに声が大きい男子が指名された。背筋がビクッとする大声が響く。不正解だったらしく、オッサンが突っ込み、教室の半分ぐらいがどっと笑う声。私には、どう面白いのか分からない。
 そういえば、「一生使う」っていう、オッサンの合図にはいつも助けられてるけど、私も他の人たちも、はたして一生使うのだろうか。数学や世界史にくらべたら役に立ちそうなことをしてる気はするけど、経理とか、そういう仕事をしたい、っていう人は私の周りにはいないし、私は好き嫌いの前に無理だ。何がしたいか、就職したいか進学したいかも分からない私にとって、この勉強はつらい。私の他にも、分からないとか、「就職」「大学」としか決めてないとか、そういう人はいっぱいいるけど、それなのに勉強してる。よくできるなあ、って思う。
 オッサンが「じゃあ、また次回」と言ったところで、チャイムが鳴った。机を片づけたり席を立ったりする音に、また空気が濁り出す。私はうずくまりたがる体を、えいっ、と起こして、廊下に出た。
 教室より少し涼しくて、いくらかすっきりした場所に出たところで、まず、ぷはっ、と一息。止まる人や歩く人をよけながら、廊下を歩き出す。ベストの一番下のボタンが取れかかってて、かすかに音がする。けど、今はそれどころじゃない。
 向かっているのは、オキちゃんのクラス。今朝の話の続き、望美のことを、一刻も早く知りたい。



     V

「・・・・・妊娠・・・?!」
「・・・っていう、話だよ」
 オキちゃんはいきなり結論を切り出したものの、言葉には勢いがなかった。
 薄暗くてひんやりした、屋上に上がる階段の踊り場。オキちゃんと二人きりで話する時は、どちらからともなくここへ来る。私は、思わずもたれていた壁から半分背中を浮かせ、肩をくっつけて並んでいるオキちゃんを見る。少し上に彼女の顔があるのはいつもと同じだけど、顔は険しくて、正面を向いたまま。休み時間のガヤガヤが、他人事の様に小さくこだましている。
「望美が、彼氏できたって、はしゃいでた・・・その相手、だって・・・」
 はしゃいでたけど、ほどなく望美は学校に来たり来なかったりになったのだった。
 その相手には一度、みんなでケーキを食べに行った時に、わざわざ望美が呼び出して、会ったことがある。背の高い、何というか、いかにも「かっこいい」という感じの男子。細い目の中で小さい瞳が眠そうに濁ってて、私たちと話すのがめんどくさそうで、あんまり好感が持てなかったのを覚えている。うちの生徒じゃないし、高校生かどうかも分からないから、それを聞こうと思ったけど、望美と二人で、さっさと行っちゃった。「はぁ?」という顔をする私と遥―――正直な話、私は望美に腹を立てていた―――を、オキちゃんが
「まあ、うれしくてしょうがない時期、なんだよ」
ってぎこちなくとりなして、その場はうやむやになったけど、これが望美と長い時間一緒にいた最後。
 ぼーっとしてて、無口で、日本人形みたいな地味でかわいい顔と、長い髪の、望美。子どもっぽくて恥ずかしいのに手放せない少女漫画を、私と貸し借りして共通の話題にしてくれていた。でも、欠席がちになってからの彼女は、漫画を借りてくれることもなくなって、他にも話題はあったけど、なんだか「近づきがたいオーラ」みたなのが出てて、話をしなくなった。
「・・・望美がどうするか知らないけど、学校には伝わってるっぽいんだって。ウチのクラスや望美のクラスでは噂になってるんだけど・・・そっちにはまだ行ってないんだ」
「うん・・・なってるかもしれないけど、そういう話するとこに、入ってないから・・・」
 誰かがくっついたとか離れたとか、私はそういう話題にあまりついて行っていない。本当はすごく興味があって、話に入りはするのだけれど、途中からふっと嫌になる。昔、男子や、それに男の子っぽい女子を相手にして勝手にはやし立てられた・・・いや、一度それが図星だったことがあって、噂になったのが元で近づけなくなっちゃったのが大きいのか、とにかく私はそういう話が苦手だ。もしかすると、遥や宮津さんは、本当は何か聞き込んでいるけど、私に気を遣っているのかもしれない。
「それで、オキちゃんは何か、望美から聞いたの?」
「ううん」
「確かめたり、してないの?・・・噂、っていうだけ?」
「確かめるって言ったって・・・もし本当だったら、その・・・・・さくらだって、確かめに行ったりしてないじゃん・・・」
 それは、そうだ。自分が冷静じゃなくなってるのが、分かる。

 ふたたび暑くて息の詰まりそうな教室に座っている。「ケツネ」という、顔のすべてが細長い国語の先生が、甲高い声を自慢するかの様に教科書を読んでいる。このぐらいの時間から、眠気が特に強まる。今日も、さっきから何度もあくびを我慢して、涙をぬぐいすぎて目の下がひりひりしてる。だけど、灰の中にまだ赤いものが見えるたき火みたいに、頭の一部だけが、ぐるぐると考えている。
 冷静に考えると、誰が何を確認したわけでもないのだけど、望美がもうたぶん学校には戻ってこない、という事が、私の中でどんどん大きくなってくる。いや、望美がこんな事になったのが、「彼女がこれで完全に私の知ってる望美じゃなくなった・・・変わっちゃった」、そんな風に思えて、それが私を取り乱させている。放課後の教室でしゃべって笑ってた望美を思い出そうとしても、あの男と―――なんであんなダラダラした感じの男と―――手取り合ってお店を出ていく彼女や、たまに会ってもあいまいに笑うだけになった彼女ばかり思い浮かぶ。遅い時間にY駅の前で、植え込みの縁に座ってべたべたしてるカップルがいるけど、望美もあんな事してたんだろうか・・・、なんでそんな事に・・・、想像したくない想像が、容赦なく襲ってくる。
 ひじをついて両方のこめかみをぎゅっと押さえているうちに、気持ちが悪くなってきた。
「あの・・・気分が、悪いんですけど・・・」
 ケツネは読むのをやめて、光線でも出しそうな眼差しで疑わしそうにこちらを見てから、
「あら本当に具合が悪そうね」
抑揚のない声でそう言うと、のろのろと歩いて教壇に戻った。そして自分の荷物から中抜けキップ―――保健室に出す紙を私たちはこう呼ぶ―――を出して、走り書きすると、やはりゆっくりと私の席に来て、立って出かける準備をしてる私に、キップを突き出した。
「まっすぐ行くのよ」
「はい、すみません」
呼び名通りの使われ方されてばかりなのが面白くないのだろうけど、疑ったりモタモタしたり、腹が立つ。教室中から注目されるのをこらえて、やっと手を挙げたのに・・・自分のつまらない授業のせいだって、思わないのだろうか・・・。でも、それどころじゃない。こみ上げる気持ち悪さ。それに、頭の中がずきずきと脈を打って、歩くたびに痛みでめまいがする。私はドアを閉めると、保健室までの辛抱だと思い切って、突き上げる頭痛と吐き気とをこらえながら、階段の方へ小走りに駆けた。
 とにかく、教室に座っている事から、少しでも遠くへ離れたかった。

 薄暗い静けさの中で、自分の荒い呼吸だけが耳に響いてる。まだ、肩の上下に合わせて視界が動いている。
 無茶がたたって、トイレで吐いた。身を絞る様な思いをした末に、水っぽいものが少しだけ。でも、それで吐き気はだいぶ楽になって、頭痛も和らいだ。抜け殻みたいになった体を便座に座らせると、はね上げた蓋に背中をまかせて、息がおさまるのを待った。
 呼吸が落ち着くと、額と、胸のあたりとが急に涼しくなってきた。脂汗でびっしょりだった。そこが冷えていくのに合わせて、憂鬱と眠気、そして不快な想像のぐるぐるが、また濃くなってきた。ふと思い出し、スカートを上げ、下着を引っ張って中をのぞく。そろそろだと思って今朝から着けてるけど、まだ、その兆しもない。でも、それを確かめた瞬間、自分が女だということへの嫌悪感が、わき水みたいにこみ上げてきた。
 男がいいという意味じゃなくて、男の人を好きになったり、男の人から好意を持たれたりして、愛し合う、その能力というか機能というかが自分にも備わってる、そのことが今、すごく嫌になった。私だって男の人を好きになったことはあるし、好意を持たれてるのが分かって悪い気分じゃなかったこともあるけど、今はそのことすら身をよじりたいほど不潔な記憶。・・・望美の相手のあの男だけじゃなくて、望美自体に対しても、いらだちやいやらしさを感じてしまう。そして、お父さんがどこかの女の人と浮気してることも思い出されて、想像の輪に入ってきた。・・・・・望美の事にしても、お父さんの事にしても、今、私に吐き気を感じさせてるそういった事の、その原因になる機能が、私にも、ある。

 二、三日に一度、私が部屋に入ってから帰ってきて、私が起きる前に出かけちゃう、お父さん。私は知ってる。大学が遠くて忙しいからだけじゃない。
 一年生の終わりぐらい。その頃も今も、私が郵便を取ってくる。お父さんはたくさんの自分宛の郵便を、いつも食堂のテーブルに何日も積んだままにしている。でも、たまに女文字の、同じ人からの手書きの手紙があって、その時だけはお父さんがすぐに持っていくことに、そのうち気がついてた・・・それで、それがなくなった頃から、お父さんは前より忙しくなった。
 部屋から気配をうかがってるだけだけど、お父さんはお母さんを待ってるみたいに、ずっと食堂に座ってる。お母さんは食堂へ寄りつかなくなって、そっちへ行っても、話し声はしない。なにより、お父さんが帰ってきた日の、お母さんの表情―――。夜中になって、お父さんの気配が消えるまで、私は心臓がばくばく言って、机に半分突っ伏す様にしてじっとしてる。いつ、お母さんとお父さんとの大きな怒鳴り声が聞こえて、いつ、私の家がバラバラになっちゃうのか、おかしくなりそうなぐらい、不安になる。音楽を聴いてもぜんぜんまぎれないし、横になっても眠れない。
 でも、今までは、お父さんに対する怒りは、「何でこんなに私を不安にさせるの?!」という意味だけだった。それが、今、お父さんがどこかの女の人と愛し合ってること自体に、鳥肌が立ちそうな気色悪さや腹立たしさを感じている。見たこともないその女もすごく汚らしく思えて、そしてそれと同じぐらい、自分が嫌・・・。
 気がつくと、私は両腕を抱えて震えていた。寒い。また、頭痛と吐き気。
「保健室、行かなきゃ・・・」
私は個室のドアを開けると、引きずるみたいにして歩いた。涙が、ぼろっ、とこぼれた。
 保健室のベッドに横になっても、私はほとんど休まらなかった。眠気のままに眠れるのを期待してたのに、ぼーっとしてしきりにあくびが出て、目が腫れるだけで、眠れなかった。まだ、べたべたした膜が目の前にかかっている。
 休み時間になると、人が立て続けに入ってきて、だるいとか疲れたとか、はたまた関係ないおしゃべりとかで、にぎやかになった。どう聞いても、病人じゃない。
 と、そういう声たちよりもずっと近くで、
「さくら、・・・大丈夫?」
という、少し高めの甘ったるい声がした。遥だ。
「うん」
「入るよ」
遥が入ってきて、私の顔をのぞき込んだ。眼鏡ごしに、眠り猫の様な細い目が心配そうに曲がっている。ありがとう、遥。
「教科書とノート、カバンにしまっといたけど・・・置き勉だった?」
そうた、机を片づけないで、出てきたんだ。
「カバンでいいよ。ありがと」
本当は国語は置き勉だけど、そんなこと言っちゃ、悪い。
「何か、飲む?」
「・・・・・」
私はちょうど、お茶かスポーツドリンクでも飲みたかったのだけれど、
「ううん、大丈夫」
と言った。それより、遥と話がしたかった。望美のことが聞きたい。
 そうは思ったものの、いざ、望美の話をしようと思って口を開こうとすると、すごくどきどきして、できなかった。もし遥が―――そんな感じはしないけど―――噂以上の事を知ってたら、私に受け止め切れるか、分からない。その前に、さっき考えてたことで疲れ切った上に、まだそれが頭の片隅にある。今、たとえ同じ内容の繰り返しでも、望美の話を聞いたら、一人になってから、吐き気がぶり返しそうだった。第一、いくらカーテンがあっても、こう周りに人がいたら・・・。
「さくら・・・」
 私が大丈夫と言ったっきり黙っているせいか、遥がふたたび心配そうな顔をした。私が「ごめん」と言いかけると、遥が急にニコッと笑って、私を眺めながら言った。
「・・・・・具合の悪いさくらって、目がくりくりしてて、かわいいね・・・」
「・・・そんな時だけかわいくっても、しょうがないって」
私もめいっぱい笑ってそう答えたけど、今、かわいいとか、きれいとか言われるのは、うれしくなかった。さっきの嫌悪感がまた頭をもたげはじめたその時、チャイムが鳴った。
「あ!・・・それじゃ、私、行くね・・・」
遥があわてて出ていった。私は急に心細くなり、思わず体を起こして、開いたままのカーテンの間から彼女の後ろ姿を見送った。小柄な遥がぱたぱた走る後ろで、茶色い三つ編みがはねている。彼女の優等生風の大人っぽい顔と、この子どもっぽい後ろ姿との差がちょっとおかしかったけど、ドアが閉まって、今度こそ遥の姿が見えなくなると、襲いかかる様に不安がやってきた。
 カーテンの囲みの中で、私は頭の隅にあるものをそれ以上考えない様に、頭まで布団をかぶって、胸を押さえていた。遥・・・ごめんね。心配して来てくれたのに、聞けない私が悪いのに、「遥も私の気がかりを解決してくれない」って・・・そんなことしか思えない、私がいる・・・・・



     W

 次の休み時間はオキちゃんも来て、その後で、ようやく寝たような寝ないような、ほんの少しうとうとして、それで午前中の授業は終わった。
「帰りなさい。・・・進路説明会は、後で資料をもらえばいいから」
 先生にそう言われて、私は保健室を出た。担任のお許し、それから、学食でオキちゃんや遥そのほかに声をかけて、門へ。門番の先生に早退証を渡す。
 ゆるやかな坂道を降りながら、あらためて空を見る。筋雲が少し出てきてる。でも、圧倒的に青い。疲れてて、まだいまいち力が入らないけど、学校にいる間、ずっと強くなったり弱くなったりしてた、あのはれぼったさやけだるさが、消えはしないものの、楽になる。今日はいい天気で、ちょっとだけ寒い空気もちょうど良くて、よけいに気持ちがいい。
 朝、「今日は午前中だけ」って自分に言ったとおり、進路説明会は、どのみち出るつもりはなかった。お母さんにも言ってない。こっちに来る直前まで、将来何がしたいなんて考えるどころじゃなくて、今も何にも決められてないのに、大学か専門学校か就職か決めてそこへ出なさい、っていうのが、どうしても無理だった。お母さんに話なんてしたら、
「大学のとこに出なさい」
って言って、自分も聞きに来るに決まってる。ここのことも、最初、商業高校って聞いたら顔色を変えて反対したもの。「推薦入試を取りつけて進学にも対応してる」って聞いて安心したのは、私よりもお母さんだった。
 ・・・私、お母さんのこと嫌いじゃないし、いい大学で英語の勉強して、急にこんな田舎へ来ても希望の仕事があって働けるのはかっこいいけど・・・お母さんの生き方が幸せだとは、思えない。気がついたら、娘はこんなだし、お父さんは・・・。かと言って、結婚退職して、家でお嫁さんみたいな生き方も、精神的に耐えられないと思う。・・・・・とにかく、まだ、時間がほしい。先のことを考える前に、私は今また、振り出しに戻っちゃいそうで・・・。

 言い訳してる間に、Y駅に着いた。
 広い駅前広場と、そびえ立つ高い駅ビルとを見ると、東京でも大きい駅に入ると思うのだけど、この駅ビルはデパートでも何でもない。一、二階の半分ぐらいに食堂やおみやげ屋さんがいくつかある他は何もなく、順番待ちしてるタクシーばかりが目立つ。Kという温泉町へ行くバス乗り場にだけ、平日だというのに、旅行客らしい一行が集まっていて、ちょうど着いたところらしいバスに乗り込んでいる。
 あのバスの途中、終点近くに、望美の住んでいる町がある。
 私が行けば、本当のことが、確かめられる。
 私は、歩き出していた。
 横断歩道を渡り、駅前広場の外側の歩道を少し歩いてから、止まっているバスを見た。その時、不意に後ろから引っぱられる様な感覚がして、足が止まった。
 引っ張ったのは、私自身だ。
 恐いのも、もちろんある。だけれどそれとは別に、あろうことか、面倒くさいという気持ちが首をもたげていた。
 そのあたりに家があるのを、望美の話で知っているだけで、家に行ったことはなかった。私たち四人は、みんなお互いにそうだ。だから、望美の家の人に初めて会って、私が誰で、望美に会いにきたって言わなきゃいけない。確かめたいことが本当だったら、嫌な顔をされるかもしれない。それに、望美が会ってくれるだろうか。今、起きてるかもしれないことは、彼女にとっても、見せたくない、話したくないことだろうと思うから。門前払いなんて、そんな嫌な思いはしたくない。
 ―――私は今、ものすごく薄情なこと考えてる。
 でも、今は、そんな気まずくてドキドキする場面に向かっていくよりも、ホッとしたい、それも事実だった。
 バスのエンジンが、かかる音。それがすごく大きく聞こえて、頭はまだぐるぐる考え続けていたけど、バネ仕掛けみたいに足が前に出た。吸い寄せられる様にとことこ歩いて、バスのすぐ前で、立ち止まった。
 そこで初めて、ドクッ、ドクッと、動悸がしはじめた。胸を押さえていると、バスの前扉が開いた。
「乗るんですかー?」
まさに、出るところだったらしい。見上げると、若い運転手さんが、困った顔で私を見ている。望美のことはぜんぜん考えないで、乗らなきゃ気まずいという思いで、ステップを上がる。ハッと、後ろから乗らなきゃいけなかったことに気づいたけど、始発だからか、何も言われずに、プシュウ、とドアが閉まった。バスがぐるーりと駅前広場を回りはじめてから、私は自分が行こうか行くまいか悩んでいたのを思い出した。

 結局、途中でバスを降りてしまった。
 私は、通学で使う列車が通る、小さな駅にいる。
 あれから、どうしようか考えながらバスに揺られているうちに、また眠気が強くなってきた。それでいて、後ろに乗っていたおじさんおばさんたちの関西弁の話し声が次第に耳を突く様になって、教室の、あの、ぼおっとしてしまう、眠気と嫌な空気との組み合わせが、またやってきたのだ。望美の家に行くのが、さらに重く、というより、こんな状態で彼女の家まで行って、さらにチャイムを押せるとは思えなかった。
 ひとりで、古びたホームのはじっこにしゃがんで、S方面の線路を見るともなく見ている。錆色の砂利と鈍い銀色のレールとが、まーっすぐに延びている。それを、さっきバスで通った陸橋が越えていて、その上を車が左右に走っていく他は、見るものすべて止まっている。望美の家のことは、後ろめたい気持ちと一緒にまだ頭の隅で回っていて、「そうだ、妹が二人いるって話してたっけ・・・兄弟ってどんななのかな」なんて、関係ないこともなぜか混ざってくる。今見ているS方向にもう二駅行くと、私の家の駅。でも、今から家に帰るつもりはない。家も、完全には落ち着ける場所じゃない。

 一時間に一本ぐらいしかない列車は、S行きが先にやってきた。カタン、カタンという線路のかすかな音に振り返ると、やはりまっすぐな線路の先に、逆光にいくらか顔を黒くしたオレンジ色の列車がいた。ゆらり、ゆらり、と左右に揺れながら、線路脇の雑草をなびかせて列車がやってくる風景は、ゆったりしていて、好き。しかも今日は、その後に学校も家も待ってるわけじゃない。
 冬晴れの陽が薄いキツネ色に照らす小さなホームで、一両きりの列車が、私ひとりのために静かに止まる。朝夕とは大違いで、席が半分埋まるぐらいしか人が乗ってなかった。とりあえず長椅子に座っていると、すぐに着いた次の駅でどやどや人が降りて、斜め前のボックス席が、まるっと一つ空いた。そこの窓側へ移って、カバンを横に置くと、思わず、ふう、と息が漏れて、いい意味で体の力が抜けた。
 その次の駅―――私が本来降りるべき駅に止まって、また人が降りて、動き出す。
 すると、まわりの住宅地が線路から離れ、まばらになりはじめた。列車はそれまで走っていたぐらいのスピードになっても、まだエンジンをうならせて加速している。不意に風に当たりたくなって、窓を少しだけ開けた。ひゅう、というかすかな音がして、冷たい風が胸元に当たる。最初はピリッとしたけど、受け続けてると、やわらかいというか、涼しくて気持ちがいい。横に垂らした前髪が耳に触れて、時々ちょっとくすぐったい。
 列車がようやく加速を止め、目の前が広い畑になって景色がぱあっと開けたその時、薄紙をばりっと破って向こうへ抜けた様な感じがした。そして、私をけだるい気持ちにしてきた膜みたいなものが、すうっ、と消えた。
 もっと、かぜ、風!
 がた、がたっ、と窓を全部開けると、浅く座り直して、向かい側の椅子の下まで足を伸ばす。髪は流れていく景色と同じ速さで真後ろへなびいて、もう耳には当たらない。風と、ガタン、ゴトン、という音とが、私のすべて。二列ぐらい前の席で、小さい子がはしゃいでいるはずだけど、ほとんど何も聞こえない。
 いくつかの駅を通りすぎて、すっかり平べったくなった景色の向こうに、背の高い松の林が見えはじめた。深い緑が、ずうっと並ぶ。そして、その向こうには、海があるはずだ。冬だから灰色の冷たそうな海かもしれないのに、なぜか真っ青な海が目の前に浮かんで、じわーっと、気持ちが高まってくる。頭に血が昇るような興奮じゃなくて、前からあこがれてた場所に来た時とかの、おなかの下の方で感じて、全身に伝わっていく様な、高まり。・・・悩んでたことを思い出しても、もう、迫ってきたりはしない・・・・・。
 屋根もない小さい駅でふらりと降りて、何も植わってない畑を両側に見ながら、松林へ向けて、ぐんぐん歩く。バイク、続いて車にすれ違う。運転してる人が一瞬だけ、不思議そうに私を見たのが分かったけど、ただ、それだけ。
 十分ほど歩いたところで、木陰になったのを感じてハッと顔を上げると、二階屋の何倍もある大きな松の木の下にいた。少し先に大きい道路が横切ってて、その先に松林のトンネルがあって、トンネルの向こうに、青い、水平線。・・・駆け足。飛び出して行きたい気持ちをおさえて道路の前で止まり、右、左・・・トラックがビュッと通り過ぎて、もう一度右。渡って、松林のトンネルへ飛び込み、下草に足を取られそうになりながら、近づいてくる真っ青な海に向かって、また駆け足。

「・・・わあ・・・・・」
 百八十度、筋雲が少し浮かんだ青空と、ブルーの海。岸に近づくほど、淡い。それが波打ち際で真っ白にくだけて、そして砂浜。視界のまん中の線で、青色が、ばん、と強くなって、あとは濃紺から白への、まぶしいグラデーション。横の方には、今朝雲をかぶっていた高い山が、よく見えている。めったに見えないからだけじゃなくて、白さと、なだらかに海へ落ちていく線とがきれいで、これにも感激した。・・・今朝、不格好だなんて言ってごめんなさい。あなたは、富士山よりもすてきです。
 胸のドキドキと、おなかの下の方がじーんとするのとがおさまるまで、バカみたいに、どれぐらいの間、砂浜に立ってただろう。ふと気づいてみると、スニーカーの中は砂だらけで、髪は斜めから吹いてくる潮風でバサバサになっていた。体もくたくただ。波打ち際に行ってみたいのをこらえて、カバンを投げ出してあった少し後ろの草地まで帰る。草地と言っても、背の低い雑草がまばらに生えてるだけで、半分ぐらいは少し固まった砂。ちょっとためらってから、思い切ってべたっと腰を下ろしたら、勢いあまって後ろに倒れてしまった。
 ―――背中一面に、思いのほかやわらかい感触。目には、雲一つない空と、輝く太陽。風は冷たいのに、陽が思いっきり当たっているから、差し引きで暑くも寒くもない。足の方から海風が吹いてきて、ざー・・・ざー・・・という規則的な波の音と一緒に、私の耳をくすぐる。眠気が戻ってきた。私は一度上体を起こして、コートを脱いでスカートの上にかけると、ごろん、と横になって、目を閉じた。
 また、風が吹き、波の音がする。ちょうどよい温度と、カラッとした乾燥と、それに眠気以外、何も感じない。不安も、悲しみもない。たとえ布団を三日干して横になっても、こんなに気持ちよくはないと思う。そして、初めての経験なのに、なぜかこの気分は、とってもなつかしい気がする。こんなところで一人で寝てるなんて、ちょっと変だろうか、とも思ったけど、思っただけで、他人事。・・・何年も寝てなかった様な、眠気。このまま眠って、気の済むまで、眠り続けて・・・・・。



     X

「早房さん?!」
 ハリウッドの女優みたいな低い声に、私は起こされた。寝たか寝ないかのところを起こされて不機嫌になったけれど、心配そうに見開かれた大きな目を見た瞬間、びっくりして不機嫌どころじゃなくなった。
 少しつり目の、男の子みたいで情熱的な目。ばっさりと切った短い髪。同じクラスの赤月さんだった。
「あ・・・」
 恥ずかしいというか、気まずいというか、そんな気持ちで急いで起きようとしたものの、あわてて体だけで起き上がろうとしたせいか、ふっと息が抜けて地面に戻ってしまった。すると、赤月さんが私の腕にかけていた手を背中に回し、もう片手も私の肩にかけて、私の体を抱えて起こしてくれた。彼女の制服の肩は、私が子どもの頃に「お日さまの匂い」って言ってた、干したての布団みたいな匂いがした。赤月さんは片手を私から離すと、残りの手で私の背中を支えながらあらためて顔をのぞき込み、
「水、飲む?」
と言った。心配そうに目つきを険しくしているその顔は、日焼けでもしてるのか、腫れた様な赤みを帯びている。
 彼女は、私がここで倒れたか何かだと思っているらしい。水がいるかどうかの前に、心配ないということを言わなきゃと思ったけど、それも何だか言いにくくて、すごく喉が渇いてもいたから、思わずこくんとうなずいてしまった。何も知らない赤月さんは、肩から提げていた銀色のスマートな水筒からキャップを取ると、とぽとぽ水を注いで、私の口にそっと当てた。
「傾けるよ」
向き合う赤月さんの瞳の色は、真剣そのものだ。横分けにした短い髪の下から、額に汗が流れている。自分で飲む、とは言い出しづらくて、それになぜだか言いたくもなくなって、背中にかけられている彼女の腕に少し甘えながら、注がれるままに水を飲んだ。本当にただの水で、ぬるかったけど、ものすごくおいしかった。
 その後、ようやく私は赤月さんにただ寝ていただけだったことを話し、そのまま海辺の草地に二人並んで座っていた。
「私だったからよかったけど・・・昼だからって、変な人がいないとは限らないよ」
「うん・・・」
波の音を打ち消す様に、私をたしなめる赤月さんの声は、強く、そしていっそう低くなった。でも、私がその声のきつさに頭の中でしょげた瞬間、急に元のトーンに戻って、
「けど、」
と柔らかく言って、正面にある海の方を向いた。横から後ろまで生え際で揃えた髪が、横顔だと余計にすがすがしく見える。
「こういうとこで何もかも忘れて横になりたい、って言うのは、・・・私も分かる」
 私は、意外な感じがした。赤月さんと言えば、勉強はできるし、異性も同性も認める美人だし・・・何もかも忘れる必要なんて、ありっこない。でも、私に合わせて言ってる風には聞こえないし、そう言われて見てみると、すらりとした赤月さんの横顔は―――逆光のせいもあるだろうけど―――心なしか疲れている様に見えた。
「赤月さんは、何をしてたの?」
 私も海を見て、ちょっと考えてから、聞きたくなったことを聞いた。赤月さんは、ちょっとだけ間を空けてから、ぽん、と答えを返してきた。
「私は、スケッチしに来てた」
 それは、納得できる答えだった。赤月さんが日本画を描くのは、学校中が知ってるはずだ。市の、主に大人が申し込むコンクールで、一番じゃないけど入賞して、新聞の切り抜きと一緒に、朝礼やホームルームで紹介されてたから。用事で市役所のホールを通った時に見たけど、普通の絵の具より濃い、油絵にしては平べったい絵の具で、赤月さんみたいにスマートな、あやめの花が描いてあった。絵と、隅の「彗星」っていう雅号とをじーっと眺めてたら、パッと彼女の姿が浮かんで、見たらやっぱり彼女の絵だったのを覚えてる。でも、彼女は美術部員でも何でもなくて、美術部員の遥の話だと、そのせいで美術部は大変だったらしい。活動日でもない日に招集がかかって、「オカマ」って呼ばれてる、鼻ヒゲを生やしたひょろ長い先生が渋い顔で、
「部員でもなく、誰にもついていない者が、これだけのものを描いている・・・・・」
陰湿な説教があって、それからしばらく毎日、顧問の監視下でスケッチをさせられたとか。遥は、
「オカマの奴、こないだ中途入部した一年に『心を豊かにするためだから、のびのびと自由にね』って言ったばっかのくせに・・・」
って、カンカンだったっけ。
 それは置いといて、何してたのか聞いたのは、そういう意味だけじゃない。私が午前中いっぱいで学校を出てから、まだ二時間経つか、どうか。赤月さんが、今ここにいるってことは、彼女も進路説明会を、少なくとも途中からサボったことになる。赤月さんは、見るからに授業や行事をサボる様なタイプじゃないから、ちょっと信じがたい。
「赤月、さん・・・」
「?」
彼女は、私の方を向いた。目を見ると、返事のかわりなのがよく伝わってくる。
「進路説明会、は?」
「最初から出なかった。早房さんと同じよ」
「・・・何だか、信じられない」
「私も、早房さんが仮病使ってサボるなんて、まだ信じられない」
赤月さんは、さっきより間を空けずに、ぽんぽんと返事をしてくる。私は仮病を使ったわけじゃないけど、それはどうでもよかった。赤月さんの「理由」が知りたかった。
 筋雲が少し増えて、風が少し強くなってきたけど、波頭は相変わらず真っ白に光って、規則正しく静かな音を立てている。

「就職したいんだけど、まさか進路説明会で親の説得の仕方なんて教えてくれるわけないじゃない」
 赤月さんは、さも当然みたいに、さらっと言った。私は、耳を疑った。でも、波の音はそんなに大きくないし、それに、赤月さんの言葉は、聞き間違える余地がないほどはっきりしてた。
「赤月さんなら、大学に、行けるんじゃ・・・」
 表情は変えなかったけど、目の色で、赤月さんがムッとしたのが分かった。あなたも、そういうこと言うの、って、目で言ってる。私はビクッとしたけど、彼女は元の調子で、ゆっくりと問い返してきた。
「行けるから行くって、変だと思わない?」
それは、その通りだ。だけど、何だか腑に落ちない。
「でも・・・、絵の勉強は、しないの?」
「勉強は、今も私、そうだけど、大学に行かなくたって、一日を全部使わなくたって、できるよ。それよりも、私、本当に、一生絵を描いてたいんだ」
「・・・?」
「ごめん、分かりにくいね。美大出たからって、画家になれるわけじゃないでしょ。で、美大出たの活かして就職できるとこって、めちゃくちゃ忙しい会社ばっかりらしいんだ。だから、大学出て就職したら絵を描く時間はなくなるし、時間が惜しくて就職しないで頑張ってたら、私、頑張りきれなくて、楽な生活したくて、絵を描くのやめちゃうと思う」
 強くなった風が、赤月さんの前髪をかき上げている。真剣に話して眉間にしわを寄せてるだけなのに、それが風に耐えているみたいに思える。「赤月さんならがんばれるよ」って、のどまで出かかったけど、その言葉は結局、私がいい顔をしようとするためだけの言葉だって、ギリギリで気がついた。
「プロに、なれればなれた方がいいけど、それより、ずっと絵を描いて行けることの方が私は優先。だったら自分を高く売り込めそうな今のうちに、休暇とかもちゃんとしてる手堅いところに就職して、絵の具代や絵の教室の代金を確保した方が、確実に絵を描いていけるじゃない」
彼女の「じゃない」は、私の周りのほかの人と違って、語尾が上がらない。赤月さんの持ってる希望やしっかりした考え方、それに自信は、高い山の頂上みたいで、私には手が届かない、うらやましいものだった。
 今度は、赤月さんが聞いてきた。
「早房さん、不安そうだけど、説明会ってどんなだと思ってたの?」
そう言われると、出なきゃいけない、って、強く思ってたけど、中身は分からない。
「就職だと、OBと、あとどっかの会社の人事の人が、こうして受かったとか、こういう人材が求められますとか、参考書や雑誌に出てること話すだけだよ。本当に必要な手続とかは、その時になれば教えてくれる。絵の具代ほしさに就職する人なんかには、特にムダな話」
赤月さんは、ニッと笑った。私も、半分はつられて、でも残りの半分は、本当におかしいと思ったから、ニッと笑い返した。
「でも、私、なるべくちゃっかりと絵の具代もらうけど、絵を描いてくことで、その分を世の中全体に戻していくから、いいんだ・・・って、自己満足だね。・・・そうだ、進学組なんて、もっとひどいよ。専門組は専門学校が、大学なんて田舎の小さい大学や短大が売り込みに来てて、予備校まで来るんだから」
 言われてみて、確かに学校が用意することなんてそんなものだろうって、初めて思い当たった。だけど、赤月さんは何で分かってたんだろう。
「お兄ちゃんが二人いてさ、二人ともウチの高校出て就職してるんだ。で、『あの学校はずっとああだよ』って。・・・親は私のこと、いい大学にって期待してるけど、私はお兄ちゃんたちと同じにするんだって、はじめから思ってた」
 赤月さんが、勉強ができるだけじゃなくて、しっかりしてて、夢もある、っていうのは想像がついてたけど、こんなに、その、割り切ってるというか、さばさばしてるなんて、想像もつかなかった。彼女がこんなにくだけた言葉で話すのも、意外だった。でも、それで別に赤月さんの印象が前より悪くなったりはしていない。むしろ、普通に、いや、普通の人よりしっかり話をしてくれる人で、よかった。



     Y

 いつの間にか、トンビが飛んできていて、波打ち際の上あたりの青い空を、行ったり来たりしている。時々、ピィ・・・ホロロロロロロ・・・という悲しそうな鳴き声が聞こえてくる。そのあたりに降りたいのだけれど、波が恐くて降りられない、それで悲しく鳴いてる。そんな風に見える。
 昨日まで見ようとも思ってなかった景色の中で、昨日まで雑談なんかしたこともなかった人と、もう三十分近く、座ってしゃべっている。でも、赤月さんはどうだろう。本当はそろそろスケッチの続きをしなきゃ、って、思ってるんじゃないのかな。
 しばらく沈黙が続いて、私がそう思った時、赤月さんがじっと私を見て、口を開いた。
「早房さん、話を聞いてくれて、ありがとね。実は私、最近ちょっと自信がなくて、落ち込んでたんだけど、少し楽になったよ」
「え・・・、そ、そんな・・・」
私は、本心で恐縮してしまった。たった今、しっかりした考えや一途な夢のことを聞いて、先輩か先生みたいに思えてる人が、・・・私に話を聞いてもらって、楽になって、ありがとうだなんて・・・。
「こんな話、なかなかできる相手がいなくて・・・」
いつの間にか赤月さんは、こころもち下を向いていた。はきはきと話す彼女も初めてだったけど、逆に、こんなうつむき加減な顔の彼女も、見たことがなかった。勉強ができて絵の上手な、美人で、そつなく人と話す、羨望の的。みんな、そんな赤月さんしか知らない。私もそうだった。
「話す人って・・・そうだ、美術部には、どうして入ってないの?」
 私は思い出したことを、素直に聞いた。
「・・・人は、私をだらしなくするから、あんまり話したくない」
赤月さんは、ぼつっ、と言った。そして目を上げて、黒い瞳で私をじいっ見ると、また目を伏せて、少しあわてた様に言葉を継いだ。
「ウソ。・・・ホントは、私が、だらしがないんだ・・・」
そんなの、ウソだ。
「たとえば、絵をほめられるでしょ。ほめられると話をしなきゃって思って、話してるうちに、『絵がうまい人』って立場で周りの人とおしゃべりしてる方が、楽しくなっちゃって・・・絵を描くのがいいかげんになっちゃうんだ・・・」
・・・・・私がその立場だったら、確かに、そうなるかもしれない。
「それで、悩んでること相談しても、嫌味みたいに響いちゃう。前も、それがキッカケで仲間はずれだった。・・・ちやほやされて、ねたまれる。中学でそれが分かったから、高校で美術部なんて考えられなかった。・・・・・絵画展の時も、まさかあんな結果になって・・・騒がれて、あの頃、学校にいるのがが苦しかった。話してなかった人から話しかけられて、私の答えが気に障ったらどうしよう、って、ビクビクしてあいまいにうなずいてた」
 私は、じゃあクラスの人とかは、って聞こうと思っていたけど、それで十分だった。
「でもね、美術部とか、それから教室でも、人が輪になって話をしてるのは、やっぱりうらやましい。昔からの友達や、お兄ちゃんたちもいるけど、ゆっくり話する時間は、なかなかできないから・・・」
「・・・・・」
 トンビは、まだ高い空を行ったり来たりしている。海風は、ちょっと肌寒くもなってきた。気がつくと、赤月さんの肩が、私の肩に寄りかかっていた。人の体が触れたりすれば、私はビクッとして飛びのくはずなのに、気がつくと、だった。彼女の肩の感触は思いのほかやわらかくて、そしてやっぱり「お日さまの匂い」がしていた。
 ものすごくおこがましいことだけれど、何だか赤月さんが、私とどこか似ている様に思えた。でも、それでいて、相変わらず私には、とうてい手が届かない人でもある。

 結局、寒くて座ってられなくなるまで、赤月さんと話をしていた。帰るために並んで砂浜を歩き出した頃には、雲がさらに増えて、日が陰ってきていた。
 あれから、「早房さんが説明会を休んだ理由も聞きたい」って赤月さんに言われて、何をしたらいいのかぜんぜん分からない、って思ってる話をした。中学校の途中まで、人の目がすごく気になって、それで不登校になってたことも、高校になってから、初めて人にしゃべった。赤月さんは、
「無理に決めなくてもいいんじゃない。考えて決めて進学や就職をしてく人がいっぱいいるけど、どうやってそんな風にしてるのか、私にも分からないし。・・・でもね、収入をしっかり確保しとくのは、大事だよ」
って言った。それから、望美の話をしようかと思ったけど、できなかった。赤月さんの話を聞いた後だと、気まずくて確かめられないなんて、すっごくぜいたくな悩みに思えたし、なんだか悪くて、話せなかった。
 すぐ後ろの松林を通って、来た道を戻るのが私の近道。けれど、立ち上がった時にまだ私の話が続いていて、それになんだか離れがたくて、少し先で道に出てバスに乗るという赤月さんについて、砂浜を歩いている。薄雲の向こうの太陽は、もうすぐ夕方、という位置で、そういう色あいをしている。海も砂浜も色がさっきより濃くなって、あたりはこの土地の冬に戻りだした。また憂鬱になりそうな気配だったけど、彼女に話を聞いてもらって少し楽になっていて、まだ平気だった。
 赤月さんの足が、松林の方に向きはじめた。私は、最後までひっかかっていたことを、聞いてみた。
「赤月さん」
「ん?」
「・・・なんで、あんまり人に話せないことを、私に話してくれたの?」
赤月さんは歩いてる方向を見たまま、少し考えてから、口を開いた。
「早房さん、絵画展に、絵、見にきてくれたでしょ?・・・私、気になって、時々市役所に行ってて、それで、見たんだ」
「うん・・・」
騒がれるのは、嫌いなはずじゃ・・・。
「いろんな人が私をほめてくれたけど、絵を見てきれいだって言ってくれる人はいるのかな、って、ふと思って。でも、見に来る人は、ほとんどいなかった。来ても何人かで連れだって、絵を見るっていうよりも、絵を肴にして、たぶん私のことを、しゃべってた」
風は、潮の匂いとともにだんだん強くなってきている。横に垂らした自分の前髪が、時々視界に入る。薄日が照らす赤月さんの顔が、とてもさびしそうに見えた。
「でも、早房さんは、一人で来て、じいーっと、私の絵を、見てたよね。それも、順番に作品を見ながら私の絵のところに来て、最初は私の絵だって気づかないで、じっと見つめてたでしょ。・・・それが、何だか、早房さんと話ができてるみたいで、うれしかった」
冷たい風は時折、びゅうっ、と、さらに強く吹きつける。すぐ横で話す赤月さんの声が、そのたびに小さくなる。途中で気づいたのを言い当てられてびっくりしたけど、それよりも、ほめられたくもないのにホールにじっと立っていた彼女の気持ちが、よく伝わってきた。
 松林に入ると、ようやく風がおさまった。
「・・・だって、きれいな絵だったから・・・絵を見るのは、ちょっと好きだし・・・」
「ありがとう。そういう見られ方が、一番うれしい。・・・でも、あんな風に・・・あんなとこで、スカートが半分めくれてるのも気づかないでグーグー寝てるなんて、さすが私が見込んだ人だけあるよね」
「そ、その話はやめてっ」
 赤月さんの話し方が急に冗談っぽくなって、パチッとした目を見開いてこっちを向いたと思ったら、やっぱりその話だった。私が恥ずかしくて、必死に話を塞ぎにかかるのを見ると、本当に楽しそうに目を細くして笑って、
「次はあの早房さんを描いて、何かに出そうかな」
なんて言う。恥ずかしくて、自分の顔が赤くなってるのが分かる。
「・・・でも、先に私が寝てて、早房さんが起こしてたかもしれない。スケッチに来たけど、実はなんかやる気が出なくて、風に当たりながらウロウロしてただけだったから・・・・・ここで早房さんに会えて、本当によかった」
「・・・・・」
 ちょうどそこで、大きな道に出た。でも、股下ぐらいのワイヤの柵が、道と林を仕切っている。
「このへん、ちょうどいい出口がなくて・・・」
赤月さんが足を上げて、ひょい、と、柵を越える。彼女の背中の、スケッチブックの角の形が見えてるズタ袋はちょっと格好悪いけど、足がスラリとしてて、きれいだ。
「・・・あ、早房さん、大丈夫?」
「うん」
よいしょ、と、彼女よりずっと不器用に、私も柵を越えた。
 やっぱり、私とはぜんぜん違う人なのか。逆になってたかもしれない、って赤月さんは言うけど、私が見つけてたら、さすがに置き去りにはしないだろうけど、声なんかかけられなかったと思う。
 トンビの、鳴き声がした。



     Z

 少し元気になって、私は友達を大事にしなきゃ、って思って、望美のところに行こうとしたけど、赤月さんと別れてしばらくすると、やっぱり気まずさや怖さの方が先に立ってしまって、結局今日は、望美のところに行けなかった。
 いや、前から学校に来ないのを心配してたんだから、今日も行けなかった、だ。

 リビングで、時計の針が七時すぎを指している。
 お母さんと向き合って、いつもの時間、いつもの様に晩ごはんを食べている。私のななめ後ろでテレビがついてて、アナウンサーがなにかしゃべっている。お母さんも見ていない。私はそういう風にテレビがついてるのは嫌なのだけれど、お母さんがリビングや食堂にいる間、ずっとテレビがついてるのを思うと、そうは言いづらかった。
「そうだ、進路説明会とか、そういうのって、ないの?」
 麦茶を一口飲んで、お母さんが言った。私の、魚の骨をよける手が、ビクッと止まった。麦茶を取って、一口、二口と飲む。全部飲んだあたりで、言葉が思いついた。
「ないよ・・・えっと、面談とかがあるから、じゃないかな」
「・・・そうね。でも、そろそろ、予備校や塾を選ばなきゃね」
今度はあわてる必要はなかったけれど、もっと返事が難しかった。私が本当に考えてることなんて、とても言えなかった。でも、そんなところに通って勉強したら息が詰まって、また悪い状態になりそうだし、通いたくないなら、いつかは言わなきゃならない。
「私・・・、まだ、通いたくない・・・」
「またそんなこと言って・・・・・こないだも言ったけど、さくら、これで食べていけるとか、何かそういう特技があるの?ないでしょ。何をしたいか分からないなら、とりあえず入れる大学に行って、それで見つければいいじゃない。お母さんは別に、こういう仕事じゃなきゃダメなんて、言ってないわよ」
 お母さんの表情が、だいぶ険しい。「とりあえず就職したっていいじゃない」って言おうとしたけど、ここでまだ何か言うと、格段に話が長びいて、ほじくり返してほしくない昔のことをいろいろ言われる。
「・・・・・じゃあ、今度、お母さんと、見に行く」
 すると、お母さんの表情が緩んだ。次の土日は、不本意な過ごし方をしなきゃいけない。
 目の前には、煮魚や、ふかしておいしい味付けをしたお芋や、野菜の煮物や、そのほか、手間のかかるものが並んでる。仕事で忙しいのに、こんなごはんを、しかも毎日違うものを作ってくれるのはお母さんだけれど、大学にこだわって、行く気を見せないと怒るのも、お母さん。私のことを大事にしてくれているのか、自分の希望が優先なのか、分からなくなってくる。大学に行ってくれるかもしれないから私を大事にしてるのか、って思ってしまう。大事だったら、私が思ってることを話せる、すき間を、作ってほしい。
 お母さんが入れてくれた麦茶を、飲む。人が何人も死んだというニュースを淡々と読むアナウンサーの声が、なぜか、お母さんのお説教の記憶とだぶって、耳についた。

 部屋に戻って、カバンからMDプレーヤーを出すと、イヤホンを耳に入れて、机に座る。
 まだ勉強は、する気になれない。一度読んだ、遊びに行く場所の雑誌を取って、ページをめくる。ちょっと読むけど、集中できなくて、頭に入らない。それでまためくって、これ、もう一度読みたいな、っていう場所を見つけて目を走らせるけど、やっぱり頭に入らない。お父さんが帰ってくるかどうかでどきどきしてるからだけれど、それを考えるのは嫌だから、ページをめくる。
 結局、最初の方に大きく出てて、もう何度も見た、花のテーマパークみたいな場所の紹介記事を、またながめた。夜もライトアップしてて、それがきれいで見に行きたいのだけど、山の中で、おまけに遥の家が夜の外出にうるさくて、なかなか行けない。そうだ、赤月さんの絵の、あやめの花。帰り、そのことをちょっと考えて、Yの町であやめが咲いてる場所が思い当たらなかったけど、もしかすると、ここにあやめが咲いてて、彼女はそれを見に行ったのかもしれない。
 九時半。さすがに、そろそろ勉強しなきゃ。雑誌を横に置いて、音楽を止める。
 カバンの教科書やノート、問題集を取り出して、授業であわてて写した図と仕訳とを、もう一度書き直す。そうしてみると、今日の話は、すぐ理解できる部分が多いけど、ノートを閉じて問題集を開くと、たった今やったことを全部忘れてる。いくつか候補は出るけど、その先がぜんぜん分からない。そのうち頭の中でさっきからの不安が大きくなって、胸の鼓動が気持ち悪いぐらい大きくなる。たまらず、ノートを見る。見れば、分かる。
 その繰り返しで宿題は終わったけど、覚えられなかった。でも、それ以上やってみようという気力は、残ってない。前もその前も、結局覚えられていない。来月の終わりには検定試験があって、今年の簿記の勉強を全部試される。ずっと前のもまだ覚えてるかどうか。試したいけど、恐くて問題集を開けない。もちろん、今日も開く気はない。

 お母さんが洗面所の部屋から出て、廊下を歩く音がした。ばたん、と、お母さんの部屋のドアが閉まる。時計は、十時半を回っている。よし、今日はもう、帰ってこない。下着の替えと、新しいパジャマとを取り出して、洗面所の部屋へ行く。浴室の前でセーターを脱ぐと、空気が一気に寒くなった。お母さん、お風呂出てから、長いから。でも、お風呂に入る前は、少し寒いぐらいの方がいい。
 声は出さないけど、湯船に入ると、「あ、あー・・・」っていう息がもれてしまい、それが浴室に響く。嫌なのだけれど、思わず出る。冷えた体がふわっ、と、あたたかいものに包まれて、体が軽くなっていって、胸の片隅に一日のほとんどの間宿ってる、憂鬱の種みたいなものが、氷が溶けるみたいになくなっていく。こういうのは「おやじくさいよね」って言われてるし、私も言ってるけど、他の人もおんなじことを感じて、声が出そうになってる、はずだ。
 肩までつかるのを優先したり、肩を出して脚を伸ばしたりしながら、入浴剤の入ったぬるいお湯に、時間をかけてゆっくりつかる。ちょっとのぼせてきた。上がって椅子に腰掛けて、髪をゆわいてたゴムバンドを取ると、ばさっ、と髪が降りてきて、ふたたび後ろがうっとおしくなる。うしろ髪が肩にべたついて、前髪も濡れた手で触るとべたべたする。潮風で塩だらけだった。赤月さんと海辺で話してたことが、ぼーっと思い浮かんだ。赤月さんの話は、分かりやすくてウソっぽいところもなかったから、疑問は浮かんでこない。なのに、絵のためにあえて就職するっていう話や、悲しそうな顔や、砂浜を歩きながら話してたことが、気になって何度も思い浮かんだ。
 シャンプーしながら、正面の細長い鏡を見ている。子どもの時はシャンプーが目に入るから目なんて開けられなかったのに、いつしか普通に前を見ている。
 そのおかげで見られる様になった、お風呂場のほんのり曇った鏡は、好き。上下に長すぎて、股のあたりまで映し出されてしまうのがちょっと嫌だけど、タイルが光ってるのや、ドアのすりガラスの灯りが、余分にきらきらして、すごく明るい。私の顔色を鮮やかにしてくれて、その上、都合の悪いところはぼやかしてくれる。この鏡に映る自分の顔は、そんなに嫌いじゃない。目が眠そうなのもそうじゃなく見えるし、鼻の穴はぼやけてるし、ほっぺたにあるにきびなんて、見えない。それになぜか、顔が丸いのもそれほどじゃなくて、首や鎖骨のへんも、むだ毛が見えなくて、きれいだ。・・・でも、その下・・・、頭を洗う腕に合わせてぶにぶに動いてるバストは、気になる。これぐらいが一番何だとも言われないから、人目は気にならない。でも、自分が嫌だ。面倒くさい時も下をTシャツで済ませられない。あと、Tシャツ一枚とか、薄着をした自分を見ると、なんだか不自然で、いやらしい感じがして、好きになれない。
 なんでこんな不自然な形が、女らしくてきれいだ、ってことになるんだろ。
 結局、シャンプーが目に入らなくても、私は目をつぶる。人目が要求するものは、私には手が届かなくて、人目にうらやましがられるものが私に備わってても、私自身がそれになじめない。どうして、こう、うまく行かないんだろうか。

 お風呂から上がって着替えると、丸椅子を出してきて、リビングの窓の前に座る。そして窓を開けると、冷たい風が、すうっ、と入ってくる。湯上がりの体には、この時期の風ぐらいが気持ちいい。それに、ドライヤーは髪が傷みそうで、嫌。
 あれから雲はさらに増えて、一面の曇り空。冬はどんなに晴れてても、夕方から雲が増えてくるから、月がくっきり浮かぶ姿は、よっぽど運がいい日以外、見られない。
 東京では当たり前に見られた、雲一つない澄んだ冬の夜空が、見たい。特に、月が出てる晩の、静かな場所。雪よりも白い、そして透き通った光に、家も止まってる車も道路も、そして私も、全部が青白く染められた、あの風景。他のいろんな物と一緒に、自分の体も、中からきれいになって行くような気がして、悩んでいることも忘れてしまう。学校に行ってなかった頃に通ってた施設で見た、「ボイス・オブ・ムーン」っていう、外国の映画。話はよく分からなかったけど、主人公のさえないおじさんが、丘の上で、おっきな月に照らされてぼーっとしてる場面があって、そのおじさんの気持ちは、その時もすごく伝わってきたし、今も、分かる。ベランダでいいから、月が出ているよく晴れた夜に、青白い光を受けてみたい。
 やっぱり、東京の空が、うらやましい。
 網戸ごしに空しく曇り空を見つめていたら、やっぱり寒くなってきた。髪はまだ乾いてないけど、窓を閉めて、引き上げる。通りがかりにふと流し台を見ると、鍋や米びつが漬けてあった。私は、親指の付け根まであるパジャマのそでをまくってから、スポンジに洗剤を取る。鍋を水切りカゴに置いて、そでを戻しながら、何気なく流し台を見回すと、コンロの横あたりに、ぽつ、ぽつ、と、茶色の煮汁が落ちてた。眠かったけど、そでまくりをし直して、台ふきんをゆすいでしぼって、それをふいて、ちょっとだけ迷ってから、ついでに流し台を全部ふくと、ふきんをまたゆすいで、元に戻した。
 お母さん、ありがとう、でも、ごめんなさい。―――何気なくやり出したはずなのに、途中から、たかだかこんなことを、罪ほろぼしにしなるかなって、ちょっとだけ思った自分が、嫌だった。

 底冷えし始めた真っ暗な部屋で、布団に入って、自分が眠るのを待つ。
 疲れてて、眠気は十分。でも、眠れない。教室や昼間のバスとは違って何も聞こえないのに、眠いのにあくびと涙が出るばかりで眠れない、あの不愉快な状態が、昼間ほどではないけど、今夜も私をおおう。
 望美のことを、また思い出す。やっぱり、仲良く話をしていた時の思い出よりも、薄暗い部屋で膝を抱えている望美の想像ばかり。そのうち、お父さんが帰ってこないことや、勝手に想像した相手の女も頭に浮かんでくる。それで、また、自分が女だってことへの寒気がぶり返して、布団の中でエビみたいになる。一生懸命、海を見てすごくきれいだったことを思い出していると、目を開けて間近にあった赤月さんのぱちっとした目に、想像が移ってくれた。彼女の話を思い出していく。すべてが私にとって意外で、新鮮で、元気が出る。これはいいことなのになぜかどきどきして、やっぱり眠気が遠ざかる。
 ふと、本棚がある方を見る。闇に慣れた目の色がない世界で、本棚の中段に、銀色のカメラがあった。デジカメだと見たままにきれいな写真が撮れるのを人から教わって、一時期はまってた。景色をきれいだって思うことが、それから増えた。カメラはもう長いこと使ってないけど、カメラが増やしてくれた、見たものをきれいだって思う気持ちは、今日、海を見て気持ちが晴れた時みたいに、気が滅入りがちな私を助けてくれている。・・・久しぶりに持って出かけようか、って思ったけど、いつもそんなことを考えては、結局やらない。
 そこに本棚があるのが、本当なのかウソなのか、あいまいになってきた。
 向き直ると、明日の天気はどうだろう、って、考えた。明日も朝、水で顔を洗ってすっきりするけど、それは何時まで続いてくれるか。オキちゃんは、いつもの列車に乗ってるだろうか。それと、乗ったらすぐ会うか、Y駅のホームで会ってあのあいさつを受けるか。望美は、明日も同じメールをくれる。明日は、会いに行けるだろうか。・・・あ、赤月さんは、明日、どんな風に、声をかけてくれるだろう・・・。明日の簿記は練習問題の回、そろそろ、指されるかな・・・まだかな。・・・・・明日は、お母さんは、私にとって・・・どんなお母さんだろう。そして、お父さんは、帰ってくるだろうか・・・帰ってくるのも嫌だけど、でも、なんていうか・・・私のお父さん、だから・・・二度と帰ってきてほしくない、とは思えない・・・・・。
 ひとつだけ、分かってること。・・・明日もあさっても、迷ってばかりで、長くて、今日とおんなじ日。どんな風に生きたいか、ってのも、見つかりっこない。・・・でも、それでも・・・次の日は、きてほしい。・・・静かな時間を、なるべく多く確保しながら、生きていたい。・・・・・自分のことばっかり考えてる、薄情な、私。・・・他にも、そういう人がいることを、言い訳にはしない。でも、私は・・・・・自分がそうだって知ってて、毎日迷って、悩んでる・・・。それは、いいことなのか、それとも、余計に不幸なだけなのかは、分からない。・・・けど、それだけが、今の私の、精一杯の・・・・・。
 ・・・・・あの、よく晴れた気持ちいい海辺で、・・・眠れるだけ、眠りたい・・・・・。


   (了)


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