雨が止んだら―――――昔もらったある手紙から



 七月上旬の雨が、アパートの前の紫陽花を濡らしている。
 机を挟んで、私の目の前に、二人の少女…いや、教え子が座っている。
 二人とも私服姿。思い詰めた表情をしていて、一人の脇にはスポーツバッグ、もう一人の横にはリュックサックが、どちらも不器用にふくらんだ状態で置かれている。
「だから……あなたたちの年じゃ、よその土地に出て行くなんて無理よ」
 私は、思い出した様にぐっと二人に顔を近づけて、さっきから続けてきた説得の結論を繰り返した。
 二人のうち少し前へ出ている方の生徒が、眼の色に一瞬身じろぎを見せてから、しかし決然と口を開く。
「でも、ここにいても、いいことないし…っていうか、いられないじゃない!」
 こちらも何度となく繰り返された答えだが、後半が、これまでになく大声になった。切れ長のつり目が険しく見開かれている。とっさに私も軽くにらみ返す。
 と、もう一人の、やや後ろに引いている生徒が泣きそうに顔を曇らせ、
「しおり………」
つぶやきながら連れの白いパーカーの裾をつまんだ。「しおり」はハッとして見開いた目を伏せ、うなだれる様に斜めを向いた。
「すみません、大きな声出して」
「ううん、気にしないで」

 二年の女子生徒二人が家にやってきて、駆け落ちするからと私に助言を求めたのは、もう二時間近く前になる。そんな事を教師に頼みに来るなんて無茶な話だが、彼女たちが私にそれを求めるについては、心当たりがある。そして彼女たちが私を選んだのは半分正解で、私には「立場上これを阻止せねば」なんて思いはさらさらない。それどころか二人の気持ちは痛いほど分かる。
 とはいえ、未成年がひとりで職や住まいを求めるなんて、無理な話だ。都会にはそういう身柄を引き取る闇の世界があるけれど、それが彼女たちを幸せにするわけがない。
 それで、もう二時間近くの間、こうして押し問答をしている。
「……でも、志織の気持ちは分かったけど、秋穂もまだ、ホントに同じ気持ち?」
 さっきから私の話に応戦するのは、ほとんど「しおり」こと志織の方で、少し後ろに引いている方―――秋穂は、時々志織のセリフを小声でなぞる以外、彼女に寄り添って事の成り行きを見守っているばかりだった。普段の二人の行動そのままだ。
 弱そうな方に話を振って、まとめて動揺させようという戦術。教師の汚い策。
「私も、ここにいたくない!」
 しかし秋穂は反射の様な間合いで、今まで聞いたことのない大声を張り上げた。
 日本人形みたいな色白の顔を真っ赤にして、膝の上で拳をぶるぶる震わせている。あわてて口を挟もうとしていた志織が、驚きの目でじっと彼女を見ていた。
 策は、あっさり破れた。きづなは思っていたより深く、秋穂は私の認識より強かった。
 雨足が、二人が来た頃よりも強まっている。



 志織や秋穂と出会ったのは、私が今の学校にやってきてから半月ほど経った、四月の中頃のことだ。
 九州にあるその県で、一番歴史を持つ商業高校。この地域の女子の進学先としては、かつて女学校だった伝統校に次ぐ二番手だ。女の園、とまではいかないが、生徒の八割近くは女子。保守的な土地柄もあって服装や礼儀作法などには厳しく、少なくとも表面上は、このごろの都会のお嬢様学校よりもおしとやかな雰囲気がある。
 放課後の私は、書類仕事や授業の準備を持ち込んで図書室で過ごしていた。
 出産や病気で休職する教員の代替として、あっちの学校に半年、こっちの学校に一年、雇われてはまた次を探すという身分を、何となしにかれこれ四年続けてきた。「都落ち」という意識を引きずり、大学に入るためだけに来たはずのこの土地も、すっかり私の「地元」になった。
 四年も人相手の仕事をしておいて何だが、もともと人と長時間接しているのは苦手な口だ。それは同僚についても同じで、だから一人でできる仕事は一人になれる所でやろうと、行く先々で図書室を放課後の居場所に選んできた。図書室には司書さんがいるが、なぜかこの職には私と同じ人種が多く、ここの三十前後の地味な顔だちの女性も、私や図書委員の生徒が声をかければ話になるけれど、あとはガラス窓で仕切られた司書室で机に向かっている。
 四月の図書室は、特に落ち着く。新入生に図書室を居場所にする余裕ができるのは、連休明けから。在校生も忙しくて、四月いっぱいは利用者が半分になっている。だから、春の日差しが適度に入ってくる広い部屋に私ひとり、なんていうこともあって、いきおい時間が経つのを忘れて仕事や読書にふけることになる。

 その日も、図書室の静けさを楽しみつつ授業の下調べを終え、そのまま読書に突入していた。
 読書灯代わりにしていた日差しが弱まったのに気づき、ハッと時計を見ると、もう帰る時間。月末になれば、部活や同好会の顧問を頼まれたりして、そうなると帰る時間だなどと言っていられなくなる。だから今の時期ぐらいは少しでも早く帰りたい。
 ただ、本はヤマ場にさしかかっていたから、借り出すことにした。教員のへ貸出は、司書さんが扱う。出口へ向かいながら司書室のガラス窓をのぞくと、司書さんは席を外していて、溜まって話をしていた図書委員の生徒たちも、もういない。
「さて、どうしよう……」
 そう思って柱の角を曲がると、カウンターに一人の女子生徒がちょこんと座っていた。まるで人の気配がなかったので驚いたが、助かった。
「貸出、お願いね」
「……あ、あの………」
 顔を上げた生徒の顔が、みるみる曇っていく。困り顔で左右をキョロキョロ見ながら、肩まであるつやつやした髪をいじり始めた。
「先生の貸出、やったことない?」
私が言うと、彼女は消え入る様にうつむいて、
「…私、図書委員じゃ、ないんです……」
と、蚊の鳴く様な声を出す。司書室から新しい教員用の貸出カードを探すように言ったりしたら、泣き出すんじゃないか…そんな気がしてきた。
「あ………でも」
 あきらめようかと思った瞬間、彼女はサッと顔を上げ、はじめよりはいくらか明るい声で、
「…もうすぐ、委員が、来ます」
と私に告げ、それから、ちょっと間を置いて、
「その人は、きっと、頼りになりますよ」
ほんの少しだけ誇らしげに、そう言った。最初の彼女は顔も声も、曇り空みたいに陰気な印象だったが、ここであらためて見ると、地味な顔立ちながらかわいらしく、けなげな感じだった。声も、鈴の様にコロコロして愛嬌がある。
 この女子生徒が、秋穂だ。
「じゃ、その頼りになる委員さんとやらを、待ちますか」
 あまりの変化に驚いたが、それは顔に出さずに、私はカウンターの横にあった丸椅子にかけた。
「そうだ。図書委員じゃないあなたが、どうしてここに?」
 私もその口だったから分かるが、どの学校でも図書委員会というのは漫画や小説が好きな子の部活みたいになっていて、委員でない子も当番を引き受けたり、司書室で作業していたりする。彼女もそれかと思ったが、そういう子は普通、少なくとも表面上は人当たりがよくて話好きなのが普通だから、ちょっと不思議に思った。
「その子……友達で、先生に用事があるって、出かけてって………待ってるんです」
 秋穂が途切れ途切れにそう言い終えたところで、バタバタと廊下を走る音が聞こえてきた。と思うやカウンターの向かいにある引き戸が手と片脚で勢いよく開けられ、バン!という図書室らしからぬ爆音。
「遅くなってゴメン!さんざん人に探させといて、山崎のヤツもう帰っちゃってたよ。ったく帰るんなら誰かに言えよな!あのハゲ……」
 スカートをはためかせて景気よく現れた女子生徒―――これが志織だ―――は、まくし立てながら切れ長の目を秋穂に向け、続いて私の存在に気づいた。
「げっ!」
驚きで見開かれる志織の両目。サーッ、という、血の気の引く音が聞こえる気がした。さっき書いたが、この学校は礼儀作法のたぐいにうるさい。廊下の駆け足、乱暴なドアの開け閉め、暴言…担任説諭、いや生徒部まで行くだろうか。とにかくここでは、この程度のことが立派に特別指導の理由になる。
「大丈夫よ、気にしないで」
 が、かねてこの学校の、というか教師集団のそんな空気をバカらしいと思っていた私は、笑顔とOKのジェスチャーとを作って本心からそう答えた。
「え……………?」
 茶色の瞳を点にしたまま、しばし呆然とする志織だったが、やがて事態を理解するや顔がパーッと活気を取り戻す。
「せ、先生!話せ……ますね」
とはいえ、口調にまだ少し警戒が残る。
「まあね………でも、ここだけの話よ」
「大丈夫大丈夫。それより、貸出でしょ?」
「ええ、お願い」
 志織は私から本を受け取ると、まるで司書さんの様に司書室へ向かって行く。
「えーと、先生は…?」
「桜木…桜木真紀。四月に来たばっかり。貸出は今日が初めてよ」
「あ!思い出した…私、副委員長で、二年の内田志織です。カード、すぐ作りますね」
 彼女は元の口調を取り戻したが、失礼でも何でもない。むしろ、生徒の中でもかなり気を利かせられる子で、軽快な話し方こそよく似合う。
「……あの」
 志織が司書室の机に向かっている間、秋穂が私に声をかけてきた。少し笑っていた。頬の上の方が、ほんのり紅い。声に張りが出ていて、血色まで良くなった様に見える。
 私は目で「どうしたの?」と言う。
「頼りに、なるでしょう?」
「ええ、あなたの言うとおりね」
 秋穂の笑顔はどこか、宝物を自慢する子どもみたいに得意げだった。私の答えを聞くと彼女は振り返って、司書室の机にいる志織の方を見たが、あわてた様に向き直ると、
「あ、私………二年の、永原秋穂です。よろしくお願いします………委員じゃ、ないですけど」
「桜木よ。よろしくね」
 これはこれで、たどたどしさの中に精一杯の誠意が感じられて、心地よい。

「どうもありがとう。じゃ、気をつけてね」
「どういたしまして!カード作りましたから、また来てくださいね」
 階段の前で、昇降口へ向かう二人と別れた。ふと彼女たちの後ろ姿を振り返ると、なつかしいものを見た様な気分がして、しばらくそれを見送った。左手に通学カバンを持った、長い髪の、少し子どもっぽい後ろ姿が、秋穂。その右隣、異様に近いすぐ右に、彼女よりも少しだけ背の高い志織。肩で揃えた髪をかすかに揺らして、カバンは右手。廊下に並ぶ窓から斜めに入る西日が、寄り添う様に歩いていく二人を照らす。
 似合いの、二人。
 そういう恋愛もあるのを、以前に、見て知っているせいか、一瞬だけ、大真面目にそういう言葉が思い浮かんだ。けれども最近の女子生徒は、ぴったり寄り添うどころか、友達とでも簡単に手をつないだり、しなだれかかったりする。だからその時は、
「まさかね」
としか思えなかった。



 アパートの窓の外では、上から下へとまっすぐに雨が降っている。相変わらず…ううん、さっきよりも強くなったかもしれない。時計はまだ午後五時を回ったところだが、外はだいぶ薄暗くなってきていた。
「ちょっと、ゆっくり考えてみない?」
 ついさっき私は二人にそう言って、ダイニングに引き上げたところだ。テーブルに頬杖を突いて、少し開けたキッチンの窓から雨をながめている。火にかけたポットのカタカタという音が、やけに耳につく。
 うっとおしい雨の日にあてどもない議論をして、私もくたびれてきたが、彼女たちも疲れただろう。お互い、少し頭を冷やさなきゃ。



 四月のうちに、やはり部活の顧問をすることになり、他にも持ってこられない仕事が増えてきて、毎日図書室というわけにはいかなくなった。
 それに、ぐっと騒がしくなる。生徒のほとんどが女子なので、閲覧席やカウンターにできている人の輪から時々上がる嬌声はひときわ甲高く、余計に耳を突く。
 そんなわけで私の図書室通いは、週に一、二度、放課後の始まりから少し遅れて、生徒がある程度減ったのを確かめてから…という感じになった。
 志織や秋穂は、他の図書委員や委員もどきに混じって、いつ行っても図書室にいた。
 あの時で「店番」には懲りたらしく、秋穂は司書室にこもったまま、時々ブックカバー貼りなどを手伝っている。一方、志織は性格らしくカウンターの仕事が好きで、合間に他の委員とおしゃべりしたり、指示を出したりしている。そして人が減ってくると、読みかけのライトノベルやアニメ雑誌などを持って司書室に入り、文庫の詩集や小説を読んでいる秋穂の隣に座る。あとは、肩を近づけておしゃべりを始めるのが、早いか遅いか。
 もしかして一年中、一日と違わずこういう放課後なのか…まあ、私も「図書室常連組」だったから気持ちは分かるが。
「部活とか、やってないの?」
 司書室で二人とおしゃべりしていた時、志織に尋ねたことがある。
「ボクも秋穂も文芸部。秋穂、短い詩、上手だよ」
 志織は、親しくなった相手には、ボク、と言う。
「そ、そんなことないです」
横で秋穂が恥ずかしそうにかぶりを振る。けれど、文芸部だと活動場所はやはり図書室で、顧問は司書さん。書くのが加わる以外、やっていることは図書室の常連と変わらない。
「運動部とかは?…私もあんまり好きじゃないけど、志織は、そんな感じに見えるから」
「中学はテニスだったし、今も好きだけど………部活は、こういう時間が、なくなっちゃうから。昔の友達や、たまに秋穂も入れて、地区センターに行ってるんだ」
 言われてみると確かに私も、全く同じ理由で、中学でやっていたバレーボールを高校では選ばなかった。帰宅部一筋らしい秋穂はさておき、志織の気持ちはよく分かる。
 …ともあれそんな風に、いつしか私は、たまに司書室へ行って志織や秋穂と話をするようになっていた。特に、志織とは色々な事を話した。というより秋穂は無口なので、向こうから話しかけてくる志織の相手をより多くしただけなのだが、似通った自分史を持っているせいか、より気が合ったのも確かだ。でももちろん、内気であることに甘えず、顔を紅潮させながら懸命に話す秋穂も大好きだった。
 それに、この二人を見ていると、自分の昔を見ているような懐かしい気分になる。私も志織と同じようにして図書室に入り浸っていたからだ、と最初は思ったけれど、その種の生徒なら以前にも何度か出会ってきた。そして、その気分を感じるのは、二人それぞれの姿に対してではなく、この二人が一緒にいる姿に対してだった…。

 六月のある日。梅雨を前にして急に暑くなり、生徒の半分ぐらいだった夏服姿が、一挙に全員になった。
 伝統校そのままの古い校舎ゆえ、生徒の居場所に冷房は一切ない。授業が終わると、部活動や補習のない生徒はクーラーのある自宅へと、蜘蛛の子を散らす様に下校していった。
 私にとっては、約二週間ぶりに、部活も大きな仕事もない放課後だった。今日は図書室も空いているだろうとは思ったものの、先日ある全集を書庫で見つけて、とりあえず二冊ほど借り出してきたのを、まだ少しだけ読み残していた。
 司書室と書庫には冷房があるから、そこで読んで、すぐ次を借りてもいいのだけれど…。
 最近、秋穂が意味不明に不機嫌なことが多い。私と志織とで話していて、相槌を求めようと二人で秋穂の方を見ると、彼女が無言でものすごいしかめっ面をしていて、志織が大あわてで取りなすこともあった。
「何かささいな事をため込んで、一人でぐるぐる考えて大きくしちゃってるんだろうな…おとなしい子には、よくあるんだよね…」
そう見当はつくのだが、このところオーバーワーク気味だった私には、秋穂と向き合って気持ちを吐き出させるどころか、一緒にいることすら厳しく思われた。
 そこで、やはり冷房のある職員室でハードカバーを開いたのだけれど、数少ないクーラーのある部屋ということで、普段は教科の準備室を居場所にしている同僚まで集まっていて、とても騒がしい。空気も濁ってきて、生あくびがしきりに出て、ぼーっとしてくる。一時間ぐらいで、いくら読もうとしても頭に入らなくなった。
 そして、それと入れ替わりに、
「教師のくせに、対応が必要な生徒を避けている」
という後ろめたさが、柄にもなく、ふつふつと私の頭の中で大きくなってくる…。
「たとえ一、二度無視されても、今日は秋穂と話してみよう」
 本を持った私の足は、図書室に向かって歩き出した。
 階段を下りたところで、司書さんと出くわした。近隣の高校まで出かけてくるという。
「てことは、閉館ですか?」
「ううん、遅くなるけど戻るし、副委員長がいるから………あ、行くんだったら、あの子たちが帰るまでいてもらっていい?…今日はもう、誰も来ないと思うけど」
「いいですよ」
 志織たちだけなら、ちょうどいい。
 古い建築なので、校舎は低いかわりにやたらと細長い。鉄枠の窓越しに烈しい西日を見ながら、長い廊下を端まで歩く。角を右に、続いて左に曲がって、やっと図書室。
「……………」
 入ると、中は少しひんやりとしていた。言われたとおり人影は一つもなく、傾いてなお夏らしい日差しが、はためくカーテンに時折遮られつつテーブルを照らしている。建物の配置の都合で、ここは風通しがいいのを思い出した。
 カウンターの奥、司書室のガラス窓を見る。期待した志織たちの姿は見えない。
 扉を開けて、中に入る。クーラーはついたまま。司書席の後ろにある長テーブルに、伏せた本が二冊、それにノートが散らばっていて、そのあたりの椅子が二つ、席を立ったそのままになっている。
「トイレ?…それにしても、あの二人らしくない散らかし方…」
志織がたまにこういうことをするけれど、そういう時は、必ず秋穂が片付けているのに…そこで、自分の手が本を持っていることを思い出した。二冊のうち読み終えた方を返して、次の巻を持ってきてしまおう。私は書庫の入口へ向かい、重い鉄の扉をゆっくりと開けた。
 扉の先に、志織と秋穂が、いた。
「…………!!」
 友達同士が軽いノリでする抱擁なんかじゃないことは、見た瞬間に分かった。互いの体を固く縛る腕。触れた先を愛撫する手。背を向けた志織が頭を秋穂の首筋へ埋め、秋穂のうっとりとした顔は幸せそうに紅く染まっている…。
 次の瞬間、志織がものすごい形相で私を振り向き、私はとっさにドアの取っ手から手を離した。
 重い扉は自然に戻り、バタン、と閉じた。
「……………………」
 息苦しさに耐えかね、私は目をつぶった。扉に遮られる刹那、秋穂が、濡れた唇を光らせながら細く目を開いた…それが瞼の裏に焼き付いている。瞳が私に向いていた。気のせいかもしれないが、初めて会った日に、志織のことを誇らしげに紹介した時の目に似ている…。
「…最近、不機嫌にしてたのは、志織が私に取られる、って思ってたのか……」
 それで秋穂が取り乱して、とりあえず書庫に駆け込んで…ならば、机の散らかりようも納得が行く。
 厚い扉があって何も聞こえないが、とにかく、二人は今、凍りつき、あわてふためいているはずだ。
「ご、ごめんなさい!……大丈夫、大丈夫よ……私、人に言ったりしないから」
 周囲を気にしつつ、できるだけ大声で扉に向かって言うと、私は早足に司書室を出て、図書室を後にした。二人に呼びかけた言葉は、本心だった。二人がそういう仲だということには驚いたけれど、異常だとは思わない。むしろ守ってあげようと本気で思った。なぜって、それは………夕陽が斜めに射す廊下を小走りに戻りながら、私は彼女たちに感じてきた「懐かしい」という気持ちの原因を、この時、はっきりと知った…。



 隣の部屋から、時々、志織が秋穂にぼそぼそと話すのが聞こえる。言葉の中身までは分からないが、そのトーンからすると、少しは「駆け落ち」の勝算のなさを冷静に見られてきたのだろうか。
「……………」
 だが今度は私の方が、しだいに落ち着きを失っていた。
「本当に、これでいいの?」
 彼女たちの身の安全を考えれば、今はこうするしかないはずだ。でも、もう一人の私が、しつこくそう問いかけてくる。そして、こうも聞いてくる。
「あなたが考えてるのは、『彼女たちの』身の安全?」
 遠くの方で、獣の唸り声の様な雷が鳴った。



 そういう恋愛もあるのを、以前に、見て知っている、と書いた。
 より正直に書く。見て知っているのは、当事者だったからだ。ついさっきまでただの思い出だった、昔の恋。でも人に知られることだけは絶対に避けなければならなかった、昔の悲しい恋。
 ちょうど彼女たちと同じぐらいのころ、図書室常連組の割に活発な子だった私は、内気でもの静かな同級生を、好きになった。優美という、長い髪と丸眼鏡の似合う、詩人。
「私…おかしいんじゃない?」
 自分の気持ちに気づいてから、もちろん私はそう悩んだ。でも、どうにかしてそれを振り払えた時、恋愛といえばいつも待っているだけだった自分が、初めて積極的に動けた。そして優美も、悩みの壁を乗り越えて私の気持ちを受け入れてくれた。幸せだった。たとえば通学や遊びに行く時の電車の中で、ちょっと周りを気にしてから、きゅっ、と、どちらからともなく手を握る瞬間、彼女を好きになれてよかったと感じた。
 しかしほどなく、二人のことが噂になり始めた。後で考えれば、女ばかりの学校ゆえ、その手の根も葉もない噂は年中飛び交っていたのだが、世間から色眼鏡で見られる少数者はいつの世も神経質だ。夜も眠れないほど動転した私は、人目や世渡りの方を取ることを考える。
「とりあえず、学校では他人のふり」
 という約束をして過ごすうちに、好意を寄せてきたバイト先の男と、恋人の様なそうでない様なつきあいが何となく始まった。優美や顔見知りには内緒にする必要はあるけれど、異性とつきあうこと自体は変でも何でもない。勝手なもので、男と手をつなぎ、その肩にしなだれかかり、向こう持ちで楽しく遊びや食事をすることを覚えるにつれ、優美を恋人にしていることが面倒で、割に合わないことに思えてきた。
 噂は、私に大学生の彼氏がいる、というものに変わった。
 それまでもそれからも、優美はけなげに私に連絡を取ってきて、私もずるずると出かけたりしていたのだが、いつまでも続くわけがない。
「真紀……ウソでしょう?……ウソって言って!」
「…………ごめん」
 一週間ぐらいだったか、それから優美が学校を休み、腰まであった髪を肩まで切って出てきたその日から、二人は他人に戻った。
 入れ違いに私は、言われるままにその男に抱かれた。やがてその男とも別れたけれど、私は
「待つだけの女」に戻っていた。その後も何度か異性を好きになったものの、言い寄られるのを待ってつきあって、相手がたぶん他の誰かを好きになって別れて…というパターンが繰り返されるばかりで、大学を出る頃にはすっかり嫌になっていた。今でも、誰かを好きになることはある。淋しくて仕方がない時だって、ある。けれども、それをまた繰り返す怖さと虚しさが、その先に踏み出す気持ちを打ち消してしまう。
「私もあの時、人の目なんかに負けなければ…」
 志織と秋穂の仲を知った時、それを思った。私にも昔、一人だけ、本当に好きだと言える相手がいた。あの時、あんなに世間に怯えなければ、あるいは今でも…。
 そして、二人がうらやましかった。
 彼女たちには、お互いを愛してることを、ずっと大切にしてほしくなった。私の失敗をなぞってほしくないし、私が優美に感じさせた悲しみを相手に与えてほしくない。
 二人になら、昔のことを打ち明けてもよかった。
「だから私は、あなたたちの味方だよ」

 でも結局、昔の話をすることはできなかった。気まずいのか私が来ると、志織は申し訳なさそうに顔をそむけ、離れた場所に座るようになっていた。なお近づこうとすると、秋穂を引きつれて出て行ってしまう。秋穂は逆に、細い目の奥から何か言いたげな瞳をこちらへ向けるのだが、やはり志織には逆らえないらしい。
「捕まえてでも、話をしなきゃ」
 そう思いながら図書室へ行きそびれているうちに、二週間ほどが過ぎた。
 志織と秋穂に、本当の悲劇がやってきた。
 噂が立ったとかいう生やさしいものではなく、どこでだか分からないが、教師と何人かの生徒に、この間の様な現場を見られたそうだ。
 どこでどうつながっているのか、話は様々に形を変えて学校中に広まっていた。
 それが私の耳にも届いたその日、臨時の職員会議が開かれ、生徒部から
「不純異性交遊」という妙な件名で二人の無期停学処分が提案された。報告された事実関係を書き出すのは控えるが、前に私が見たよりも、もう少し時間が経過した場面を押さえられてしまったらしい。
 とはいえ、いまどきこの種の案件で無期停学、事実上の退学勧告というのは重すぎる。そして提案の中には、どういう考えや基準で無期停学なのかという説明がない。
 この学校のことだから、同性異性に関係なく、それが基準なのかもしれない。
 でも、そんな………。
「よろしいでしょうか」
 提案と言っても、司会のその声に誰も何も言わず、それで終わるのがならわしだ。そこで意見するなんて考えられなかったが、肩を寄せておびえている志織と秋穂の姿が頭に浮かんだかと思うと、私は手を挙げていた。周囲の視線が矢の様に集まり、いぶかしげな顔で司会の老教諭が私を指名する。
「その、どういったお考えで、無期停学なんでしょうか…そ、それをうかがわないと………だって………」
 あんた何考えてるんだ?!という、目、目、目……。心臓が喉のあたりにせり上がってきて、それに塞がれる様にして言葉が途切れた。
「あの、桜木先生は……二人のお話をよく聞いて下さってて……ですから、ショックなんです」
司書さんが立ち上がって叫ぶ様に言うと、場の空気は若干和らいだが、なお嫌悪や好奇の視線が私に注がれている。
「こんなことになっちゃ、この二人だって居づらいでしょう。二人のためなんだよ」
すぐ近くから吐き捨てる様に、そんな小声が聞こえた。カチンと来た。
「それは違うと思います。私が、私が二人を…だって私は……」
そう言おうと思うのに、恐くて言葉が続かない。他の教師の視線は私だけでなく、かばってくれた司書さんの顔をも突き刺しているらしい。私を心配する司書さんの顔が、助けを乞うような表情になってきた…。
「………すみません」
 息苦しさに耐えかねてそう言うと、崩れ落ちる様に私は座った。涙がこぼれた。
「ごめんなさい…」

 後の事は、言うまでもない。
 地域の中の人間関係、つまり噂の広まり方やささやかれ方は、都会の人間の想像を超えた濃さがある。志織も秋穂も、きわめて常識的な親によって、自宅で軟禁同然になった。転校先が決まり、ほとぼりが覚めるのを待つ手があるかと思いきや、志織の家では彼女を寮のある遠くの学校に移す話が進みつつあった。
 その用事で両親が家を空けた今日、志織は身支度の上で家を飛び出して、一か八かで秋穂の家の前に立ち、大声で彼女を呼んだ。果たして―――やはり神様というのはいるのだろうか、二階の窓が開き、飛び出さんばかりにして秋穂が顔を見せた。その日、秋穂の家も、彼女一人だった。
 夢中でいったん街の玄関口にあたる駅まで行ったものの、そこで落ち着くアテがないことに二人で気づいた時、桜木先生に賭けてみようか、と先に言い出したのは、秋穂だったそうだ。
「志織に引っ張られながら私に向けていた、あの、何か言いたげな眼…」
 志織にはない勘働きと、それに賭けてみる勇気…私はいかにもか弱げな彼女を、仰ぎ見る思いで見つめた。



 夕闇の雨の中、私は車を走らせている。ライトが照らし出す道はしぶきで白くなり、ワイパーを目一杯回していても時々視界が危うかった。左の上空に青白い稲光。
「豪雨になったり、しないといいけど…」
 七月、九州の梅雨はときに大荒れになる。豪雨という言葉が風物詩として日常用語になっているぐらいだ。
 バックミラーに、後部座席でちぢこまる二人が映っている。志織が時々、左右の窓の外をうかがう。つり眼の奥の茶色い瞳が、鋭く周囲の景色を確かめていた…駆け落ちに手を貸すと言って車に乗せたのだが、信用できなくて当たり前だ。
「特急と新幹線を使ってとりあえず東京か大阪へ、って考えてたんでしょう?」
 志織が下を向いたままうなずき、秋穂が細い目を精一杯丸くした。驚かずとも、大都市に出るのは家出の定石だ。そしてそのターミナルにはもれなく、家出少年を見つけるべく私服警官が日夜巡回している。それを免れたとしても、未成年が二人、どうやって食べていくのか…それこそ体でも売るしかない。
 でも、私が向かおうとしているのは、もちろん彼女たちの家ではない。
 かといって、二人がさっき旅立とうとした、市の中心駅へと送り届けるわけでもない。
 人家が尽きて、道が登り坂になる。車は、隣の市に入ったことを示す標識を通り過ぎた。

 …ああなる前に、他の仕事なんか放り出して、志織と話をすればよかった。せめて秋穂だけにでも話せばよかったんだ………ううん。私は本当に、必死に、味方になりたいって思ってたのか。ならあの職員会議で、なんであそこで私は口ごもったのか………私は、会議でも、二人の前でも、ぜんぜん必死なんかじゃなかった。昔、優美に対してした冷たい仕打ちを、二人を相手にまた繰り返しただけだった。
 でも、それでも彼女たちは、けなげに私を慕って、そしてすべてを賭けて、ここまでやってきた。
 たとえそれが無茶な賭けであっても、今、この二人に応えられなかったら、私は、一生……………。
「出かけよっか。とりあえずだけど、遠い遠い安全なとこへ」
 まるで最初からそのつもりだった様に、私は隣の部屋でそわそわしていた二人にカラリと告げて、車を出したのだった。

「ここまで来れば、関係者に見られることはないでしょ」
 出かけてから一時間ほどで、少しくたびれた市街地に入った。わが街の中心駅の、半分もない駅前広場。平屋建ての駅舎から少し離れた位置に車を停める。私はまだ不安そうな二人をバックミラー越しに見ると、
「ちょっと、待ってて」
と声をかけて、叩きつける様な大雨の中に出た。入口で、待合室の中に勤め先の制服姿がいないのを一応確かめてから駅舎に入る。時刻表を繰って、手帳に走り書きをしてから窓口へ。平常運転なのを確かめ、二時間ちょっと後に出る夜行列車の切符を二枚。それから売店でパンと飲み物を適当に買って、車に戻った。
 家を飛び出してから何も食べていない、という二人が夢中でパンをかじるのを横目に、私は手帳の走り書きに付け足しをする。そしてそのページをちぎり、切符と一緒に彼女たちの前に突き出した。
「食べながらでいいわ………この列車に乗って、この、姫路っていう駅で降りて。ちょっと朝早いから、寝坊しないでね。で、こう、こう、と、乗り継いで………これが、宿の電話よ。大学の後輩がしばらく行くって電話しておくから、ここを読んでおいて、そう言うのよ」
 そこは、日本海に面した田舎町の外れにある温泉宿だ。望めばありあわせの食事でもって安く泊めてくれるので、大阪にいる気のおけない幼なじみと、もう五年以上、毎年一度はうさ晴らしに四、五泊しに行っている。すっかり顔なじみだから、私がそう言えば、しばらくは疑われないだろう。
「一週間ぐらいのうちに、その…なんとかできるから、そしたら連絡するわ」
 私の差し出したプランに目を丸くしていた二人だが、まず志織、そして秋穂の瞳が不安の色を濃くした。無理もない。いかにプランが完璧そうでも、さっきまで自分たちの逃避行を無茶だの何だのと言っていた人間が一転、急にてきぱきと協力し始めたのだ。信じるどころか、逆に何かあると思って当然だ。
 私は携帯電話のアラームをセットすると、彼女たちにできるだけ顔を近づけて、ゆっくりと言った。
「今は、うまく言えないけど…今、あなたたち二人をなんとかする事に…私、これまでと、これからの人生の全部を賭けてるわよ………出発まで時間があるから、信じられるかどうか、二人で考えて。信じ切れなかったら黙って車を降りて、東京や大阪に出るなり何なり、自由にしていいわ」
 そして座席に浅く座り直し、目をつぶった。二人がどうするか気が気じゃなかったけれど、彼女たちが家に来て以来の疲れで、ほどなく私は眠っていた。

 アラームが鳴る前に、私は目を覚ました。
 雨粒がフロントガラスを打つ音に状況を思い出し、ハッと後ろを振り返る。
 薄暗い後部座席に、二人はまだいた。眠ってしまった志織に寄りかかられながら、秋穂が燃える様な鋭い眼差しで、じいっ、とこちらを見ていた。
 それが、返事だった。
 目頭が熱くなるのをごまかしながら、私は笑顔を作って言う。
「まあ……しばらく、なんにも考えないで楽しんでてちょうだい」
「はい」
 間を置かずに返ってきた張りのある声に、私も、この二人の強さを信じ切ることができた。
 夜行列車の改札が始まったのに合わせて、二人を送り出す。少なくなった車が照らす雨の中を、志織が秋穂の手を取って走っていく。秋穂がよろけそうになると、志織が立ち止まり、秋穂が横に並ぶのを待って、また駈ける。列の一番後ろの客が改札を受けているところに追いついた。志織が大あわてでズボンのポケットを探り出すと、秋穂がゆっくりとかがんで、志織のカバンからひょいと切符を出した。そこでバスが通って私の視界を遮り、次の瞬間、二人は改札の中に消えていた。

「……………」
 雨に霞む夜行列車の明かりを見送りながら、私はもたれかかる様に運転席に座っている。
 考えてはみるけど、誰かに何とかしてもらえるアテなんて、たぶんない。稼げる時間も限られている。きっと私がこの仕事とおさらばして、行って引き取って、さて、それからどうするか………。
 …でも、何の展望もない上に、いきなり職を放り出す事態になったのにもかかわらず、私は一仕事終えた様な心地よさを感じていた。
 次に志織と秋穂に会ったら、私が何であなたたちに手を貸したのか、昔のことを含めて、じっくり話をしよう。それで、今度こそ死にもの狂いで、あなたたちを守る。なんとかなるって。あなたたち二人は、あの頃の私と違って強いもの………え?私の仕事?どのみち教師は向いてなかったし、貯金、けっこうあるのよ。その後は…うーん、他に取り柄なんかないから、いざとなったら、生きるために割り切って、また頑張るしかないのかな………でもさ、あなたたち二人がずっと相手を大事にしてくれてたら、どうでもいいよ、そんなこと。
 雨は、弱まる気配がない。明かりがなくても太い雨筋が見える。ラジオをつけると、注意報が警報に変わったとアナウンサーが言っていた。二人の列車はギリギリセーフだった。梅雨明け前に、この土地には必ず豪雨が襲ってくる。川をあふれさせ道路や田畑を洗い流し、一昼夜ほどの間、さんざん荒れ狂う。
 でも、それが通り過ぎると梅雨が明けて、そして、まぶしい夏がやってくるのだ。


   (完)


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